2015年11月30日

文法家列伝:時枝誠記編(補論)(2/3)

(2)時枝は言語を過程として捉えるために視点を上昇させた

 前回は、本編の内容を簡単に振り返りました。端的には、本編の結論として、「時枝は言語を表現主体に取り戻した」と説いたこと、これは時枝誠記の直接の批判対象であった比較言語学・歴史言語学やソシュールの言語理論に対して、時枝言語学の優位性はどこにあるのかという視点で説いたものであることを述べました。しかし、古代ギリシャから17世紀までの言語研究の歴史も視野に入れて考えた場合、時枝言語学はそれまでの言語論と比べていかなる発展があったといえるのかという観点からすれば、本編の結論は大きく補わなければならないのだということでした。それは簡単には、17世紀の言語論においても、対象と言語との間に人間の認識が存在することが把握されてきていたのであって、これはとりもなおさず、言語と表現主体とのつながりを意識していたということではないか、そうであれば17世紀の言語論と時枝言語学とは何がどのように異なるというのか、という問題を明らかにした上で、時枝言語学の歴史的な位置づけを行う必要があるのではないか、ということでした。

 さて今回は、その肝心の問題について突っ込んで検討していくことにしましょう。

 まず検討するのは、17世紀の言語論と時枝言語学とは何がどのように異なるというのか、という問題についてです。このことに関わっては、第1に、何のために言語を研究したのか、言語のどのような側面を研究したのかという、言語研究の目的、対象が異なること、第2に、言語を捉えようとする視点がどこにあったのかが異なること、の2点について、順に説明してきたいと思います。

 第1に、言語研究の目的、対象の違いについてです。『ポール・ロワイヤル文法』においては、言語研究の目的は言語教育にありました。すなわち、カトリックの教義を正しく理解し、それを他国にも布教できるためにこそ、ラテン語やその他の西欧諸語の研究がなされたのでした。そのため、現代の外国語教育と同様、文法的な側面を中心にして言語研究がなされるということになりました。ラテン語の名詞の格にはこういう種類のものがあって、動詞は主語によってこういうふうに変化しますよ、などなどです。また、ロックの言語論においては、神や信仰や道徳という問題を解決するために、そもそも人間の知性(観念)とはどういうものかというのが根本的な問いとしてあり、その観念に密接に結びつく言語も合わせて研究されたということでした。そのため、具体的な言葉が取り上げられて言及されるというより、観念とのつながりにおいて言語にはどういう種類があるのかが考察されたのでした。そしてロックは、言語を「心の中の観念の名前である語」と「心が観念や命題に与える関係を表す語」とに二大別したのでした。こうした17世紀の言語論の目的、対象をまとめると、これら17世紀の言語論においては、それらの目的に規定されて、非常に一般的・抽象的な言語の側面が研究されたのだということです(これは古代ギリシャ以降、言語の問題が論理学に結びつけて考察されてきたということも深く関係しているでしょう)。

 これに対して時枝は、どのような目的、対象を持っていたのでしょうか。時枝は、「言語本質観の完成こそは、言語研究の究極の目的であ」(『国語学原論(上)』p.12)るとして、そのためには「言語の具体的事実の省察」(同上)が必要不可欠だと説いていました。具体的には、『国語学原論 続篇』において、言語研究では「話手」の存在を正面に据えて、「聞手」の存在も重視しつつ、その「伝達」を問題にしなければならないことを説いています。このように時枝は、言語をどのようなものだと捉えるのかという本質的な見方を確立するために、個別的・具体的な言語のあり方をしっかりと考察する必要があるというのです(これは本編の結論である「時枝は言語を表現主体に取り戻した」ということの中身を表したものだといえるでしょう)。

 以上のように、言語研究の目的に関しては、17世紀の言語論におけるような教育や観念のための言語研究という目的から、時枝言語学におけるような言語そのものを本質的に捉えるための言語研究という目的へと、大きな発展があったということです(*)。また、言語研究の対象についても、この目的に規定される形で、言語の一般的・抽象的な側面の研究から、言語の個別的・具体的な側面の研究へと進んでいったのでした(これは言語規範を研究対象としていた段階から個々の具体的な言葉を研究対象とする段階へと進んだという意味で、「既にあるもの」として言語を研究していた視点から、「創出するもの」として言語を研究する視点への発展ということもできるかと思います)。そしてこの対象の違いが、第2の問題である言語を捉える視点の違いということにつながってくるのです。

 17世紀の言語論においては、それまでの言語と対象とを直結する考え方から、言語と対象との間には認識が介在するのだという把握へと大きく変化してきていたのでした。それは、『ポール・ロワイヤル文法』の「思考の対象を表す語」「思考の形態と様式を表す語」という分類や、ロックによる「心の中の観念の名前である言葉」「心が観念や命題に与える相互の結び付きを表す言葉」という語の二大別に現れています。しかし、こうした17世紀の言語論における語の二大別は、一般的・抽象的に言語と認識とのつながりを捉えていただけで、いわば近視眼的に、認識の中にだけ着目した視点で言語を捉えているに過ぎないものでした。

 一方の時枝は、言語研究の対象は個別的・具体的な言語だと考えていましたから、言語と認識とのつながりといった場合でも、個々の言語が話される具体的な場面を想定して、それがどのような過程で生み出されるのかということを見て取れる視点に立って、言語のあり方を捉えていったのでした。つまり、ヨリ高い視点から認識に着目することで、認識を認識として「点」で捉えるのではなくて、認識を言語過程の1つの段階として、「過程」として捉えることができたのでした。逆にいえば、時枝は、言語を過程として把握しようとする問題意識から、言語を捉える視点をヨリ高い位置に持っていったのだということもいえるでしょう。

 このように、言語を捉える視点に関しては、17世紀の言語論において、言語と認識とが関係あるものとして把握されたことは、従来の言語研究の枠を超えるものとして大きく評価できるものの、その把握が一般的・抽象的であり(言語は認識のあり方を基準に二大別できるのだというレベルであり)、17世紀の言語論は認識の中にだけ焦点を当てて言語を捉えたに過ぎなかったのですが、時枝は言語行為を過程として把握しようとしたために、個々の言語が話される具体的な場面を俯瞰するような形で、対象から認識へ、表現へという過程の全体を見渡せる位置に上って言語を捉えることができたのです。

(*)言語研究の目的が、何らかの社会的な問題を具体的に解決するための段階から、純粋に言語を学問的に説く段階へと進んでいったことは、問題の焦点が明確になり、究明すべきポイントがハッキリしてきたという意味で、また、本質的な問いが提起されたという意味で、大きな進歩であるといえるわけですが、これは同時に視野が狭められ、他の問題から言語の問題を切り離して論じてしまう可能性が生じてきたという意味では、後退していると捉えることも可能でしょう。哲学から個別科学が分離していく過程において、また、道徳哲学から経済学が独立していく過程において、全体の中に部分を位置付けるという広い視野が失われていったことと、論理的に共通する側面があるのではないか、ということです。但し、現時点では、時枝言語学のどのような面が、こうした広い視野を失っていったといえるのか、という点に関しては、明確に解答することができませんので、今後の研究課題としたいと思います。
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2015年11月29日

文法家列伝:時枝誠記編(補論)(1/3)

〈目次〉

(1)「文法家列伝:時枝誠記編」に欠けたるものとは
(2)時枝は言語を過程として捉えるために視点を上昇させた
(3)時枝言語学を言語研究の歴史に位置づける


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(1)「文法家列伝:時枝誠記編」に欠けたるものとは

 本稿は、今年5月15日から5回にわたって本ブログに掲載した「文法家列伝:時枝誠記編」(以下、「本編」という)の内容を大きく補っていくものです。

 本編では、時枝言語学の歴史的意義を明らかにしました。端的にいえば、時枝言語学は「言語を表現主体に取り戻した」といえるのだ、ということでした。これは一体どういうことだったのでしょうか(以下、本編の内容を概観しますが、詳しくは本編自体を参照してください)。

 17世紀までの言語論は、大きくまとめるならば、言語と対象とのつながりの間に表現主体の認識の存在を認めていった過程でした。つまり、対象と言語を直接結び付けていた従来の考え方から、対象と言語との間に認識が介在することを把握していった言語論へ、という大きな流れがあったのです。しかし、18世紀以降、比較言語学・歴史言語学が言語学の主流となっていきます。比較言語学・歴史言語学というのは、簡単には、親縁関係にある諸言語を比較することで、どのような音韻変化が起きたのか、共通する祖語はどういうものであったのかを明かにしようとするものです。これらの言語学においては、言語は人間から独立した有機体として、それ自体が生成、発展、消滅するものとして捉えられていたのでした。その結果、言語学を音韻変化の法則に関する学問にまで矮小化してしまうこととなったのでした。ここにソシュールが出て、音韻という言語の物理的側面を通時的に見るのではなくて、言語の社会的側面を共時的に把握する「ラング」の言語学を提唱したのでした。ソシュールは、言語を個人とは別に存在し、個人に対して拘束力を持つ社会的事実だと捉えたのでした。つまり、18世紀以降の言語学においては、言語を表現主体(個人)から切り離されたものとして研究していたということです。

 20世紀の日本において登場した時枝は、こうした言語と表現主体との断絶を否定し、両者を結びつける役割を担っていたのでした。時枝は、「言語は、思想内容を音声或は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体である」(『国語学原論(上)』p.13)と規定し、具体的な言語が話される(書かれる)過程、聞かれる(読まれる)過程をこそ問題にしたのでした。具体的な言語を問題にするということは、とりもなおさず、その言語を発した表現主体とその言語とのつながりを大きく意識することになります。時枝は、音声や文字として表出されるまでの過程として、「具体的事物(表象)」から「概念」へ、「聴覚映像」へという表現主体の認識の流れを図で示し、言語とは概念と聴覚映像とが結合した「精神的実体」だ(概念と聴覚映像とはもともと結合しているのだ!)と捉えるソシュールの「構成主義的言語本質観」を批判し、ソシュールが多様であり混質的だとして究明を放棄した「言語主体がその心的内容を外部に表現する過程」(『国語学原論(上)』p.9)こそ、言語学の対象だとしたのでした。

 このように時枝は、具体的に言葉を話したり書いたりする表現主体(個人)の考察を抜きにして、言語を音韻変化の法則として、あるいは社会的事実として、捉える方法は間違っているのであって、言語は何よりも表現主体が辿る過程として捉える必要があるのだということを強調したのでした。これを本編では端的に、「時枝は言語を表現主体に取り戻した」と述べておいたのでした。

 その後、我々京都弁証法認識論研究会の例会の場で議論したり、言語研究史の大きな流れを考察したりする流れの中で、この本編の結論を大きく補っておく必要があることが分かってきたのでした。それは一体、どういうことでしょうか。

 端的にいえば、17世紀に登場した『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論と時枝言語学とは、同じなのか違うのか、ということです。17世紀までの言語学においては、対象と言語とのつながりの中に、認識というものが存在しているのではないかということが徐々に明らかになってきたのですが、その成果が結実したのが『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論でした。ですから、「時枝は言語を表現主体に取り戻した」などという以前に、『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論において既に、言語を表現主体(の認識)とのつながりにおいて捉えていたのではないかということです。そうだとすると、『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論と時枝言語学とは同じことを主張している、つまり時枝は17世紀に既にヨーロッパにおいて到達されていた段階に、20世紀になってやっと日本で達したに過ぎないのではないか、ということになるわけです。

 しかし結論をいえば、そうではないのです。すなわち、『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論と時枝言語学とは違う内実を含むものなのです。それではどこがどのように違うのでしょうか。それはなぜなのでしょうか。本編での結論である「時枝は言語を表現主体に取り戻した」ということとどのように関わってくるのでしょうか。こうした問題について、突っ込んだ検討を行うことが本稿の目的となります。

 本編においては、時枝言語学の直接の批判対象であった比較言語学・歴史言語学やソシュールの言語理論に対して、時枝言語学の優位性はどこにあるのかという視点で論を展開することが中心的な課題でした。そういう意味では、「時枝は言語を表現主体に取り戻した」という本編の結論的な論理は正しいといえます。つまり、比較言語学・歴史言語学やソシュールの言語理論においては、言語を表現主体というものから全く切り離して、それ自体の物理的な音韻変化の法則を論じたり、社会的事実としての「ラング」(私の言葉でいえば、言語に関する社会的な約束事=言語規範)を問題としたりという形で言語を捉えていたところに、いやそうではないのだ、具体的な個人が具体的に語る言葉をこそ対象にして言語学を構築していく必要があるのだ、と主張したのが時枝だったということです。

 しかし、言語研究の歴史をもっと広い視野で眺めてみるならば、比較言語学・歴史言語学やソシュールの言語理論以前の言語論、すなわち古代ギリシャから発展してきた言語に関する人類の認識の発展を踏まえて、17世紀に登場した『ポール・ロワイヤル文法』やロックの言語論をも射程に入れて、時枝言語学の位置づけを行う必要があるということになります。古代ギリシャから17世紀にかけては、大きくいえば、言語は対象と関わるだけでなく、直接の基盤としての認識にも大きく関係していることが徐々に明らかになってきた過程として捉えることができるでしょう。それでは、時枝言語学は17世紀の言語論と比較して、どのような発展があったといえるのでしょうか。このことについて次回、詳しく見ていきたいと思います。
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2015年11月28日

ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想(5/5)

(5)千差万別性への働きかけを看護から学ぶ

 本稿は、神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(1)』(現代社)を、どのように心理臨床に活かしていけばいいのかという観点から読み解いていく試みであった。ここで、これまでの流れをふり返っておきたい。

 連載第1回では、はじめになぜ南郷学派の先生方の著作の感想文をブログに認めているのか、その目的意識を確認した。それは、主体的に学ぶためであり、より具体的にいうならば、感想文を書くために読めばより深く読めるし、感想文執筆のプロセスでも認識が発展していくからであった。次に、『初学者のための『看護覚え書』』シリーズをとりあげるのは、看護と心理臨床の近接性があるが故であると説いたうえで、『初学者のための『看護覚え書』(1)』の推薦文から、神庭先生が「弁証法の達人」とまで評価されていることに触れた。

 連載第2回では、本書で、なぜ看護に弁証法・認識論・一般教養の実力が必要とされているのかをまず確認して、心理士にとっても必要であることを説いた。まず弁証法とはそもそも、自然・社会・精神を貫く一般的な運動の法則に関する科学であった。看護の対象である人間も、当然に弁証法性が貫かれているため、過程性や変化を見てとる弁証法の実力が必要とされていることを見た。看護にとって認識論の実力が必要なのは、これまた看護の対象が人間だからであり、人間はその認識によって生活を創っていくからであった。ナイチンゲールが、看護ほど「自分自身がけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力」を必要とする仕事はほかにないと、認識論の実力の必要性を説いていることも確認した。一般教養については、個性としての認識(感情)に近づく看護を行うために必要とされていた。すなわち、人間の認識は時代の社会構造に規定されているため、その時々の人間社会を理解する必要があるが、そのためには人間社会の原点から、さらに人間に至る生命発展の原点から、しっかり理解しておく必要があるのであり、このような学びが看護に求められる一般教養である、ということであった。このようにみてくると、結局、看護の対象が人間であるから、弁証法・認識論・一般教養の実力が必要となる、というわけであり、そうであるならば、同じ人間を対象に心理的な介入を行う心理士も、同様の論理でそれらの実力が必要となる、ということであった。そこで、心理士はどのようにしてそれらの実力を養成すればいいのかを考察した。弁証法については、「変化」(の過程)を創り出してみること、具体的には、クライエントに量質転化を起こさせることが、実力向上に資すると説いた。新しい外界を反映させることをくり返すことによって、治療的な方向へとクライエントの認識を量質転化させること、そのような目的意識を持つことが大切だとしておいた。認識論の実力向上のためには、唯一直接見ることができる自分の認識=像を見つめる訓練を行うことが必要だと説いた。自分の感情が揺さぶられた時に、どのような像を描いているのかと問いかけ、自分の頭や心の中を見つめる訓練をしていくと、言葉を発する相手の認識=像も理解できていくようになるとしておいた。一般教養の実力をつけるためには、クライエントの話をよく聞いて、その対話から、自分では理解しえない背景を持っておられて、それがこの人の認識を創りあげているのだということをしっかり学んでいくことが大切であった。その方の置かれた社会関係をしっかり学び、それと認識の創られ方をつなげていく学習が大切であるということであった。

 連載第3回では、ナイチンゲールが説く病気の一般論を、心理臨床にどのように活かしていけるのかを考察した。まず、ナイチンゲールが説く病気の一般論を確認した。ナイチンゲールは病気とは何かの一般論を『看護覚え書』の冒頭で説いていた。それは、病気は回復過程であるということであった。別の個所では、病気とは、私たちが招いたしまった困った状態に対する、自然の思いやりのこもったはたらきかけであり、困った状態であることを教えてくれるものだ、とされていた。だから看護とは、自然の警告(サイン)に耳を傾けて、自然がそのような警告を発しなくてもいいような状態へと、生活過程を整えることであり、症状をとること自体を目的とするものではない、と考察した。症状という部分に着目するのではなく、それを含む生活全体を見渡して、それを整えていくことが大切であるとしておいた。続いて、このような病気の捉え方を、心理臨床にどのように活かしていけばいいのかの考察に移った。ナイチンゲールの病気の捉え方は、システムズアプローチ(システム論的家族療法)と呼ばれる心理的介入法の問題の捉え方と共通性があることを指摘した。システムズアプローチとは、物事は相互作用している全体(システム)であるという観点に立って、問題とされている個人(IPと呼ばれる)をターゲットにするのではなく、家族メンバー間の相互作用(家族システム)をターゲットとして、システム全体の変化を通してIPの問題を解消しようとするものであった。システムズアプローチが説かれた本には、問題はよい変化に向けたプロセス(変化の途上)であり、家族システムの不調を知らせるSOSであるから、問題となるIP自体に介入するのではなく、家族システムに介入してそのよい変化を促せば、自然と問題も解消する、と説かれていた。これはナイチンゲールの説く病気の捉え方と非常に似ている。発熱と不登校という問題で具体的に考えてみるならば、発熱は回復過程であり、その人が困った状態にあることを知らせてくれるものであるから、発熱を抑えるのではなく、発熱しなくてもいい状態に生活過程を整える必要があるのと同様に、不登校はその家族が良い変化に向けた途上にあることを意味し、家族システムが困った状態にあることを知らせてくれるものであるから、登校を促すのではなく、不登校にならなくてもいいような状態に家族システムを変化させることが必要であると説いた。システムズアプローチが心理的介入方法としてかなりの有効性を発揮しているのは、このような、ナイチンゲールの病気の捉え方と共通する問題の捉え方が大きな要因ではないか、そうだとするならば、心理的介入において、問題をこのように捉えてより広い文脈に目を向けることが大切なのではないかとしておいた。

 前回は、本書で説かれている事例をもとにして、心理的介入に活かせることを具体的に考えた。初めにとりあげたのは、2年ほど前に脳梗塞で倒れ、半年間の入院、リハビリを経て、右片麻痺、重度の失語症が残る中、在宅療養を続けている60代後半の妻を介護している夫から、妻の食欲がなくなって困っているという相談を受けた事例であった。この事例では、長く京都の手工芸の講師をされていたことを知ったナースが、部屋に飾られている作品に目を向けるように声かけをしたところ、表情が明るくなったということであった。このような変化の過程を創りだす介入は、自分のつらい気持ちと向き合い続けて、その状態で認識が膠着していることが多いクライエントを相手にする心理士にとっても大切であると説いた。すなわち、快の感情像を呼び起こすような新しい外界をしっかり反映するように援助することは、認識の膠着状態を脱して、治療的な方向へと認識を変化させることにつながると説いておいた。また、来談されるクライエントは、相談するだけで新しい環境を反映することになり、変化の過程が創られ始めているのであるから、それを促進する働きかけが心理士には求められるとしておいた。次に取り上げたのは、1歳8カ月の子どもを持つ母親が、子どもがまだ哺乳瓶でミルクを飲むことについて相談されたケースであった。この事例に対して、人間の一般性を踏まえたうえで尋ねていくという介入がなされた結果、母親自身が「自分自身が安心するためにミルクをあげていた」ということに気がついたということであった。心理臨床においても、クライエントに答えを与えるのではなく、その人が自分で答えを探し出せるように、答えに至るプロセスを自分で辿れるように、導いていく対話が重要である。古代ギリシャのソクラテスが行ったように質問によって相手を導いていく、というだけではなく、一般性から筋を通して考えていくことを相手に辿らせ、そのような頭の使い方を学習させていくことが大切だと説いておいた。最後に、別のところで取り上げられていた最初と同じケースの問題を取り上げた。意欲、特に食欲がなくなってきて、このままでは胃ろうにするしかないといわれて、夫が相談されてきたので、訪問した事例であった。ここで、食べ物を目で見て、においを感じて、唇から取り入れて、咀嚼して飲み込むという、一連のステップを丁寧に一緒に辿って、食べさせるという介入がなされた。また、夫がよくなったら一緒に旅行に行こうと声をかけたことに対して、目標を持てたことはリハビリへの意欲に大きく関わってくると神庭先生は評価されていた。ここから、一つに見える行動も、複数のステップから成り立っているので、その行動を習得させたければ、ステップに分けて、一つずつ辿らせることが大切だという点、目標設定が意欲につながるという点、の2つを学んだ。

 以上、神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(1)』を読んで、心理臨床に活かせる点を考察してきた。再度、ごく簡単にまとめてみよう。われわれ心理士は、弁証法・認識論・一般教養の実力をしっかり磨いて、問題をよい方向へ変化している途上にある状態である捉え、全体的な文脈の中で問題を見ていくという視点も必要である。そして心理的介入にあたっては、認識の変化の過程を創りだすことを心がけ、質問・対話を通して、相手に一般性から考えられるような頭の働かせ方を導いていき、課題をスモールステップに分割して、目標を明確にしながら意欲を持って取り組めるように働きかけていくことが効果的であるといえるだろう。

 千差万別な人間の認識に働きかけて、その変化を促す心理士は、同じく千差万別な人間に働きかけて、その生活過程を整える看護師から多くのことを学べると思う。この千差万別性ということは非常に重要である。ナイチンゲールも、「病気とは、私たちのあらゆる経験が明らかにしているように、状態を指す言葉(形容詞)であって、実体を指す言葉(名詞)ではない」と説いているが、同じ「うつ病」と診断されている患者さんでも、その認識のあり方は、それこそ千差万別であって、うつ病を固定された実体と見なしてはいけないわけである。これはとりもなおさず、診断名に引きずられて、安直な見立てや介入をしてはいけないということを意味する。

 今回学んだ点はどれも、個別性を持つクライエントの認識にしっかりと迫って、そして、それに合わせた介入をするためにはどうすればいいのかの方法を教えてくれるものであったように思う。すなわち、対象の弁証法性=変化性をしっかり見てとるために弁証法の実力が必要なのであるし、人間の千差万別なあり方は認識によって規定されているのであるから、その認識をしっかりと理解するためにこそ、認識論を学ぶ必要がある。また、認識は認識としていきなり誕生するのではなく、外界の反映として成立するのであるから、人間にとっての大きな外界である社会的外界をしっかりと分かるために、一般教養の実力も必要である。社会的外界のさまざまなあり方に規定されて、認識も千差万別になっていくのである。このようなつながりを学ぶことも一般教養の大きな目的であろう。また、システムズアプローチの問題の捉え方のように、問題は全体としての大きな相互作用の中で、千差万別な現象を呈するのであるから、大きな全体としての文脈と、小さな部分としての問題の相互作用にも目を向ける必要があろう。このような千差万別のクライエントに介入していくためには、連載第4回で説いたようないろいろな工夫が求められると思う。逆にいうと、もし仮にクライエントがすべて同じようなあり方であったなら、このような介入の工夫は必要なく、まったく同じ介入の仕方で事足りるといえるだろう。

 このような千差万別の人間に対する介入としては、心理臨床は看護の後輩になると思う。看護の分野は、ナイチンゲールによって一つの専門領域として確立され、薄井坦子先生によって学問的に体系化されている。看護の分野は、明らかに心理臨床の先を行っているのであるから、しっかりと見習い、学んでいく必要があろう。これからもしっかりと『初学者のための『看護覚え書』』シリーズに学んで、専門家としての実力を高めていくとともに、自らや家族の生活をしっかり整えていきたいと思う。

(了)
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2015年11月27日

ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想(4/5)

(4)心理的介入へのヒント

 前回は、ナイチンゲールの説く病気の一般論と、それについての神庭先生の解説を確認し、それをどのように心理臨床に活かしていくのかを考えた。ナイチンゲールは、病気は回復過程であり、自らが招いた困った状態に対する自然の思いやりのこもったはたらきであるとしていた。このように、問題をよい変化のプロセスととらえ、問題をターゲットとして介入するのではなく、問題を含む全体の文脈を捉えて、それを変えるような心理的介入が効果をあげているとして、システムズアプローチ(システム論的家族療法)の考え方を紹介した。ナイチンゲールと共通する問題の捉え方が、効果をあげている要因ではないかと考察しておいた。

 今回は、本書で説かれている事例をもとにして、具体的に心理的な介入に活かせそう内容を考えていきたい。

 まずは、連載第2回でも触れた、変化の過程を創りだすことの重要性に関わる事例である。2年ほど前に脳梗塞で倒れ、半年間の入院、リハビリを経て、右片麻痺、重度の失語症が残る中、在宅療養を続けている60代後半の妻を介護している夫から、妻の食欲がなくなって困っているという相談を受けた事例である。この女性は長く京都の手工芸の講師をしていて、その作品が部屋に飾られているのを見て、言葉をかけてその作品の方に目を向けるように促したところ、とたんに明るい表情になったという。これについて、「辛い自分の気持ちだけと向きあっていると予想される状態から、その作品にまつわる思いを呼び起こすような視点の転換が、こうした言葉によってなされたということができる」(p.50)と説かれている。

 このような、変化の過程を創りだす介入は、心理士にとっても大切であると思う。うつ病の方なども、この事例の女性と同じく、つらい自分の気持ちと向きあってばかりいて、その状態で膠着している、変化しないようになっている。そこで、快の感情像を呼び覚ますような対象をしっかり反映させるという介入を行うことによって、こうした認識の膠着状態に変化を起こすことが可能となる。場合によっては、「何か良かったこととかできたことを日記に書いてきてください」という教示を与えるだけで、自然と快の感情をもたらすものを探すようになり、それによって認識に変化が起き、うつ状態から脱するということさえある。過去のその方の生活をしっかり聞き取り、その方が何に価値を置き、どのようなことに喜びや達成感を感じてこられたのかを見立てておくことは、このような介入を行う際の前提となるだろう。

 また、クライエントによっては、相談に来られたということ自体が、一つの大きな変化であるということがある。今まで人に相談などできず、人に弱みをみせまいと頑張ってきたことが問題の維持要因であった場合、心理士に相談に来られて、その相談行動が強化されるだけで、相談行動が家族や友人、職場の同僚や上司にまで般化して(広がって)、問題の維持要因が消失してしまい、問題解決に至る、ということもある。多かれ少なかれ、相談に来られるというのは、クライエントにとっての変化である。心理士は、クライエントにとっては新しい外界として機能するのであるから、その反映によるクライエントの認識の変化を、いい方向へと導いていくことが、われわれ心理士の役割の大きな柱といえよう。

 次のケースは、1歳8カ月の子どもを持つ母親である。子どもがまだ哺乳瓶を使ってミルクを飲んでいることに対して、どうすればいいのかという相談である。これに対して、相談の中で語られた不安を受け止めたうえで、人間の一般性を踏まえて尋ねていくという介入がなされた結果、母親が「自分自身が安心するためにミルクをあげていた」ということに気がついたということである。この後、神庭先生は、次のように説かれている。

「このような本当にささいな、相談ともいえないようなものであっても、ここから、単に直接的な相談者の疑問だけに答えるのではなく、そこから、例えばミルクを飲ませるということはどういうことなのか、子どもの成長発達の段階とこれまでの成長発達のあり方、母親との関わりのあり方、それによる育ち方、子どもの育ちを支える生活を整えるあり方、という観点から、母親自身が考えていくことができるように関わっていくことが大切な視点であるといえます。

 すなわち、相談者との対話を通して、その人が答えを自分で探し出すことができるように導いていくことができるように応じていくことが重要なのです。」(p.98)


 ここでは、相談者に答えを与えるのではなく、答えに至るプロセスを自分で辿って、自分で答えを探し出せるように導く対話が重要である、と説かれている。

 心理臨床においても、こちらが答えを与えるのではなく、相手に考えていただいて、自分で答えを見つけてもらう、という関わりが重要となる。本ブログ掲載の論文「認知療法における問いの意義を問う」で説いたように、ソクラテス式質問という方法を用いて、相手を発見へと誘導することが、認知療法という介入法の基本原則とされている。古代ギリシャのソクラテスが行ったとされているような、こちらが無知の自覚をしつつ、相手に問いかけていくことによって対話を重ねていくことが、認識の変化・発展に貢献するのである。この事例ではさらに、単に質問によって相手に気づかせていくというだけではなくて、一般性から筋を通して考えていくという頭の働かせ方に導いている点が重要だと感じた。一般性から筋を通して考えていくということを自らの頭を使って行った結果、そのような頭の働かせ方を学習して、次に別の問題に遭遇した時も、同様な頭の使い方で自ら解決できる可能性が高まるからである。どのような認識の変化・発展を導いていけばいいのかという点も、今後とも考え続けていきたい。

 さて最後のケースは、最初に紹介したケースと同じようである。意欲、特に食欲がなくなってきて、このままでは胃ろう(腹壁を切開して胃内に管を通し、食物や水分や医薬品を流入させ投与するための処置)にするしかないといわれて、夫が相談されてきたので、訪問したということである。そこでは、「食事をするということの段階を丁寧に一緒に辿ってみる」(p.138)という介入がなされる。具体的には、食べ物を目で見て、においを感じて、唇から取り入れて、「もぐもぐ」と咀嚼して、飲み込むというプロセスである。「できています。それでいいです」などと声をかけながら介入がなされた。しっかり飲み込むことができることが分かると、夫も驚きと喜びの表情で「もう少しよくなったら、故郷へ二人で旅行に行こう」と声をかけて、本人の笑顔を引き出していたという。ここに関して神庭先生は、「夫婦で小さなことでも、ともかく目標を持てたことは、その後のリハビリへの意欲に大きく関わってくること」であると指摘されている。

 この事例では、心理的介入へのヒントは二つあると思う。一つは、一つの過程に思われるものも、実は複数の過程からなっていることをしっかりと見てとり、相手に合わせて一つずつ辿っていく必要がある、という点である。もう少しいうと、技化された行動は、できる人にとってみれば単に「一つ」の行動であるが、実はいくつものステップが積み重なったものであるから、できない人にはそのステップを一つずつ辿ってもらうことができるようになるための近道である、ということである。今回の事例では、「食べる」という行動がターゲットになっているが、「食べる」という一つに見える行動でも、見てにおいをかぎ、口の中に運んで、咀嚼して、そして飲み込むという、複数のプロセスからできあがっているわけである。「食べる」という行動ができないとしても、一つずつ辿って行けば、できるようになる可能性は高い。われわれ心理士の領域では、たとえばSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)といって、対人場面で必要なスキル(技)を練習するやり方がある。たとえば、あいさつをするとか、雑談をするとか、頼むとか断るとか、そういったスキルを練習するものである。こういったものも、できる人にしてみれば、単に一つの過程にしか見えないものであるが、できない人にはその一つの過程がいきなりは辿れないものである。そこで、細かくステップに分割して、順に練習するということを試みる必要がある。自閉症児に対する療育でも、同様の工夫がなされていることが多いと思う。いずれにせよ、できないことをできるようにしていくためには、このように課題を細かいステップに分けて取り組むというのは、一つの基本方針として使えそうである。

 この事例から学べるもう一つのヒントは、目標設定が意欲につながるということである。この事例では「故郷に旅行に行く」という目標設定がなされた結果、リハビリへの意欲が増したということである。「これに取り組めば、○○できるようになる」とか、「○○するために、今これに取り組む」とかいったような目標を明確にすることは、意欲を高めるために、ぜひとも必要な作業であろう。人間は認識的存在であり、必ず行動の前に目的像を描いたうえで、行動するからである。したがって、目的を明確にすればするほど、行動へと駆り立てられるものなのである。われわれ心理士は、特に医療分野で働いている心理士は、症状の除去自体を暗黙の目標として考えがちである。しかしそうではなく、症状がなくなったら何をしたいか、そこをしっかり確認して、意欲を高めることは、心理的介入の前提となるように思う。最近筆者が関わった強迫性障害の方にも、症状がなくなったら何をしたいかを、できるだけたくさん紙に書きだしていただいた。その結果、かなり負荷が強い治療法であったにもかかわらず、積極的に取り組んでこられたことであった。目標は意欲を引き出す、このような論理として捉えて、目的意識的に使っていきたいと思う。
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2015年11月26日

ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想(3/5)

(3)病気の一般論から学ぶ「問題」の捉え方

 前回は、看護師と同様、心理士にとっても、弁証法の実力、認識論の実力、一般教養の実力が必要であることを説いた。それは端的には、看護も心理臨床も、その対象が人間であるからであった。世界の一部であり、自然・生命・社会の発展の中で生まれ発展してきた人間には、当然に弁証法性が貫かれており、また人間は高度に発展した脳細胞の機能としての認識によって統括されている存在であるし、その認識は社会関係によって大きく規定されているのであるから、弁証法・認識論・一般教養の実力が求められるのであった。さらに、それぞれの実力向上の方法についても考察した。相手にくり返し量質転化を起こさせること、自分の認識=像を見つめる訓練を行うこと、一般教養の学びとしてクライエントさんの話を聞くことが、心理士としての実力向上に資すると説いておいた。

 さて今回は、ナイチンゲールが説く病気の一般論と、それについての神庭先生の解説をしっかり理解して、それがどのように心理臨床に活かせるのかを考えていきたい。

 まず、『看護覚え書』の序章の冒頭で示される「病気とは何か」の一般論と、それについての神庭先生の解説を引用する。

「「まずはじめに、病気とは何かについての見方をはっきりさせよう。――すべての病気は、その経過のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程〔reparative process〕であって、必ずしも苦痛をともなうものではないのである。つまり病気とは、毒されたり〔poisoning〕衰えたり〔decay〕する過程を癒そうとする自然の努力の現われであり、それは何週間も何カ月も、ときには何年も以前から気づかれずに始まっていて、このように進んできた以前からの過程の、そのときどきの結果として現われたのが病気という現象なのである――。これを病気についての一般論としよう。」

 つまり、病気というものは、病気という固定したものとしてあるものではなくて、人間が自然との相互浸透の中で毒されたり、日々の創りかえが十分になされないために衰えたりする状況におかれた時に、人間には自然に備わった力として癒そうとする力があり、それがある症状として、その現象として現れてくるものである、ととらえているということができます。」(p.126)


 また、別の個所では、次のようにも説かれている。

「病気とは何か、ということは第六章でもふれましたが、ナイチンゲールは次のようにもいっています。

「今われわれは、病気というものを、犬や猫と同じように、存在していて《当然な》個別の存在と見なしているが、これは長い間続けてきた誤りではないだろうか。そうではなくて、病気というものを、不潔な状態とか清潔な状態と同じように、私たち自身の手でコントロールできる状態と見なせないであろうか。言い換えれば、病気とは、私たちが自ら招いてしまったある状態に対する、自然の思いやりのこもったはたらきであると考えられないであろうか。」(『看護覚え書』前出)

(中略)

 つまり、病気は、私たちが招いてしまった困った状態を自然がはっきりと思いをこめて教えてくれているのだと考えた方が良い、つまり、それを教えてくれているということ(病的変化)を分かることが大切なのである。だから、その変化するという(自然の思いやりのこもったはたらきという)視点にしっかりと着目することによって、そこに看護としての関わりを見出そうとすることになるということです。」(pp.140-141)


 ここで説かれていることを筆者なりにまとめ直すと、まず病気とは毒されたり衰えたりする状況を癒そうとする回復過程であり、決して悪いものではないということ、さらに、自分たちが招いてしまった困った状態に対する、自然の警告(サイン)であるということ、といえるかと思う。

 だから、自然の警告(サイン)に耳を傾けて、自然がそのような警告を発しなくても健康的な状態に戻れるように、生活過程を整えることが看護である、ということになるのだろう。そしてそのように生活過程を整え続けていれば、わざわざ自然が病気としてわれわれに警告を発する必要性がなくなる。この意味で、病気からの回復のための看護と、健康を守る看護は同一であるということが説かれているのだと思う。

 もう少し敷衍するならば、看護にとっては、症状をとること自体が目的なのではない、ということである。症状というのは、単に困った状態になっているということを思いやりをもって知らせてくれるサインであるのだから、そのサインを除去すること自体を目的としてはいけない。そうではなくて、生活全体を見渡して、適切に整えることによって、サインを発する必要がなくなるようにすることが、あるべき看護である、ということだろう。

 このようなナイチンゲールの病気の捉え方は、システムズアプローチ(システム論的家族療法)と呼ばれる心理的介入法の問題の捉え方と非常に似ていると思う。システムズアプローチは近年、非常に有効な介入法として注目されており、実際に優れた実践が数多く報告されている。では,システムズアプローチにはどのような特色があるのか。それは、物事は相互作用している全体(システム)であるという観点に立って、問題とされている個人(IPと呼ばれる)をターゲットにするのではなく、家族メンバー間の相互作用(家族システム)をターゲットとして、それの変化を通してIPの問題を解消しようとする点にある。たとえば、不登校の中学生の男の子がいる場合、通常は、この男の子と個人面接をして、彼の意欲を引き出したり、彼の困っている点を解消すべく働きかけたりする。ところがシステムズアプローチでは、たとえば両親と面接して、「父親の出番」(今まで子育てにあまり関わってこなかった父親に,母親と協力して不登校という問題に対処するように働きかける際に,このような言葉を使う)を演出したりすることによって、家族メンバー間の相互作用(家族システム)に変化を起こし、そのことを通して問題の解消を図るのである。

 システムズアプローチが専門の東豊氏の『リフレーミングの秘訣』(日本評論社)という本から引用して、もう少し詳しくシステムズアプローチの考え方を紹介する。

「家族にいかなる問題が発生しても、どのような症状が現れても、時間縦断的にみるならばそれはよい変化に向けたプロセスであり、むしろそのことを契機に、家族はいっそうの成長を遂げようとしている。」(p.165)


「面接を受けにきた家族は、必ず何らかの変化・成長のプロセスの途上にある」(p.167)


「「問題が家族のよい変化を促進している」と考え、その変化の方向性を仮設し、セラピストがさらなる変化の触媒として活動する。それが家族療法です。

 治療とは何かといえば、家族のよい変化をしっかりと根づかせ、「問題」がなくなってもその変化が持続するような状態を作ること。そうすることで、結果的に「問題」は不要物となり、姿を消すのです。」(p.169)


「IPの「問題」は家族の機能不全の象徴であり、家族システムのSOS信号であると、こう表現されることもある。

 家族療法はこのような観点に立っているので、IP個人を治療の対象にする必要はないと主張する。治療対象は家族システムなのだから、原則的にはIPの精神病理の如何によらず、家族システムを変化させるような介入を実践すればよいということである。」(p.212)


「そもそも「問題」の存在というのは、「何か不調和なことが生じている」ことの象徴」(p.232)


 すなわち、問題はよい変化に向けたプロセスであり、家族システムの不調を知らせるSOSであるから、問題となるIP自体に介入するのではなく、家族システムに介入してそのよい変化を促せばよい、ということである。

 これは、病気は回復過程であり、「私たちが招いてしまった困った状態を自然がはっきりと思いをこめて教えてくれている」というナイチンゲールの病気の一般論と、非常に似ていることが一目瞭然であろう。

 たとえば、発熱という症状と、息子の不登校という問題で具体的に考えてみよう。発熱という症状は、回復過程である。それに、現在はその人の生活全体が困った状態にあるということを自然が教えてくれるものである。だから必要な看護としては、発熱を抑えることではなくて、発熱しなくてもいいような状態に生活過程を整えることである。

 同様に息子の不登校を考えてみると、息子の不登校とは、家族のよい変化に向けた過程である。それに、家族システムが困った状態にあるということを教えてくれるSOSサインである。だから必要な心理的介入としては、不登校の息子に何とか働きかけて登校を促すことではなく、不登校にならなくてもいいような状態へと家族システムを変化させることである。

 問題自体はよい側面も有しており、介入は直接的に問題となっている部分に働きかけるのではなく、その部分を含むところの全体をしっかり見てとって、全体を変えることによって部分の問題を解消するよう試みる、という点が、ナイチンゲールの病気の一般論と、システムズアプローチの問題の捉え方の共通点といえるだろう。

 システムズアプローチは、明らかに観念論的な世界観に立っており、そのこと自体は非常に問題であると思われる(※)が、このようなナイチンゲールと共通する問題の捉え方は学ぶべきものが多いと感じる。システムズアプローチの有効性はこのような問題の把握の仕方によるものが大きいのではないかと考えさせられたことである。そうだとするならば、心理的な介入にあたっても、問題を問題として、単独で取り上げるのではなく、大きな文脈の中でその問題がどのように機能しているのかを見極めて、直接問題に介入するのではなく、大きな文脈全体を変化するように促す方法も、非常に有効なのではないだろうか。今後の心理臨床の実践においては、このような観点からも問題を捉え返して、クライエントの支援を行っていきたい。



※システムズアプローチは,社会構成主義という思潮を基礎に置いている。これは,ごく単純化していえば,現実とは,コミュニケーション(相互作用)を介して社会的・心理的に構成(構築)されたものにすぎないとし,客観的な現実などというものは認めないという立場である。だからシステムズアプローチでは,システム内のコミュニケーション(相互作用)の変容を通じて,現実の問題とされるものも変わっていく(問題ではなくなる)と捉えるわけである。このような立場は,根本的にいえば,認識が現実を創り出すとしている点で観念論的な立場であるといえる。唯物論の立場に立てば,これは問いかけ的反映の問題であり,問いかけ方次第で,反映する現実の側面が異なってくるというだけのことであって,現実が客観的に存在しない,ということを意味しない。システムズアプローチについては,その批判的な検討も含めて,近々,論考をブログに掲載する予定である。
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2015年11月25日

ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想(2/5)

(2)心理士における弁証法・認識論・一般教養の必要性

 本稿は、神庭純子『初学者のための『看護覚え書』(1)』を取りあげ、主としてどのようなことが心理臨床に活かせるかという観点から学んだことを認めていく論考である。

 今回は、心理士にも弁証法・認識論・一般教養の実力が必須であることを説いていく。このことは、これまでの一連の感想文の中でもくり返し説いてきたことである。たとえば、『医学教育 概論』シリーズの中で、医師には一般教養の実力や認識論の実力が必須であると説かれていたのを取りあげて、心理士も同様であると説いたこともある。したがって、今回説く内容は、以前に説いたことのくり返しであり、重複であるといえる。しかし、このことはいくら強調してもしすぎるということはないと考えている。筆者自身が、弁証法や認識論の必要性をくり返し確認すること自体が、常に原点に戻ってそこから辿り返すという意味で大切であると考えている。また、弁証法や認識論、それに一般教養の重要性をこれ程強調している人は、南郷学派の先生以外にいないといってよい。したがって、弁証法や認識論の実力は、南郷学派に学んでいるわれわれの強みである。この強みをしっかりとした実力にするためにも、くり返しくり返し、弁証法や認識論について説いていくことが必要であろう。そういった意味で、今回も導入として、弁証法や認識論、それに一般教養の必要性を説いていくことになる。

 まず、本書の流れに沿って、ごく簡単になぜ看護に弁証法・認識論・一般教養の実力が必要とされているのかを確認したい。

 弁証法からである。そもそも弁証法とは、自然・社会・精神の一般的な運動の法則に関する科学であり、この世界のすべてのものを一般的に運動しているものとして捉えることから始まるものである。そして、看護の対象は人間であり、その人間は自然の発展の中で誕生した生命体の発展形態として、人間社会の中で、精神的存在としていきて生活しているのであるから、当然に弁証法性が貫かれているため、過程性や変化をみてとることのできる弁証法の実力がなければきちんとした看護ができない、ということである。

 次に認識論について見ていきたい。看護にとって認識論が必要なのは、これまた看護の対象が人間であるからである。すなわち、人間の生活は、その人が生まれてから現在までに育ててきた、その人なりの認識に規定され、その認識が創り出しているものであるから、生命力の消耗を最小にするよう、生活過程を整えるためには、相手の認識をみてとる認識論の実力が必要なのである。ナイチンゲールも、看護ほど「自分自身がけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力」を必要とする仕事はほかにないと、観念的二重化の能力の必須性を力説しているのである。

 最後に一般教養である。一般教養は、個性としての認識(感情)に近づく看護を行うために必要である。というのは、人間の認識はその時代時代の社会構造のあり方によって創られるため、その時々の人間社会を分かっておかねばならないからであり、その人間社会の時代時代について理解するためには、人間が社会を形成するに至った原点、さらに人間にまで至る生命体発展の原点からしっかり理解しておく必要があるからである。このように生命の歴史をしっかり学び、人間社会の歴史をしっかり学び、そういった背景をもつものとして現在の人間の認識をみてとれるようになるための学びが一般教養の学びである。

 このように見てくると、弁証法の実力が必要なのも、認識論の実力が必要なのも、さらに一般教養の実力が必要なのも、すべて看護の対象が人間だから、ということに尽きる。人間はそもそも自然の発展の流れの中で生命が誕生し、その生命の発展の流れの中で誕生してきたものであるから、弁証法性に貫かれているわけであり、また、高度に発達した脳細胞の機能である認識によって統括され、生活が規定されている存在であり、さらにその認識は、現在の社会関係を反映して創られていくものであるからして、人間を対象とした実践においては必ず、弁証法・認識論・一般教養の実力が必要となってくる、ということである。

 そうだとするならば、同じ人間を対象とする心理臨床を行う心理士においても、全く同様の論理構造でもって、弁証法・認識論・一般教養の実力が必要である、ということができるはずである。心理士は、もっとも弁証法性の高い人間の認識を対象とする仕事を行うのであるから、弁証法や認識論の実力が必要なのは、看護師以上に明らかであろう。また、人間の認識というものは、特に社会関係の中で歪んでいくものであるから、社会の理解ということが看護師以上に求められよう。そういう意味では、一般教養の実力も高度なものが要求される。

 では、どのようにして心理士は、弁証法・認識論・一般教養の実力を向上させていけばよいのか。本書の内容をヒントに、この問題を考えてみたい。

 まず弁証法については、ナイチンゲールも説くように、「変化」(の過程)を創りだすことを試みることが重要であると思われる。端的には、相手に量質転化を起こさせる実験として、心理臨床に取り組むことが、弁証法の実力向上につながると思う。たとえば、うつ病の方に楽しめる活動を行うように促し、その活動をくり返してもらう中で「快」の感情を味わえるような、そしてその感情を伴う活動をしてみたいと思えるような認識へと、量質転化を起こさせるのである。あるいは、パニック発作が起こることが不安で電車に乗れない方に対しては、少しずつの距離から、また負荷のかからない方法(心理士が同乗するなど)からはじめて、徐々に電車に乗っても大丈夫だという体験をくり返してもらう。そうすることによって認識が量質転化して、不必要な不安を感じなくなる。このように相手に量質転化を起こしていくことによって、心理士の量質転化の像が幅広く厚くなっていき、あらゆる変化を量質転化として捉えられるように、すなわち、運動の一般的なあり方として捉え返せるようになっていき、ひいては意図通りに量質転化を起こす実力が養われていくのである。患者さんは大抵、悪循環のパターンにはまりこんで変化できない状態におられるので、変化の過程を創りだそうとする介入そのものが、治療的になる。そういう意味でも、変化の過程を創りだそうとする目的意識は、心理士にとって非常に大切だと考えられるのである。

 認識論の実力向上については、以下の記述が参考になる。

「そして、認識とは何か、ということが分かるようになるまで、みなさん自身の生活の中で、「今の私の認識は? その時描かれている像は?」と自分の頭の中、心の中を見つめる訓練をしてほしいと思います。そうすると友人との会話もとても意味あることに思えてくるようになるはずです。

 本当は会話をするということが、相手の心を理解するということが、言葉という文字や発音で分かるのではなく、その言葉を発する大本の相手の像で理解できてこそ、本物の相手のココロなのだと分かることが大切です。」(pp.62-63)


 すなわち、常日頃から自分の認識=像を見つめる訓練を行い、会話の際も相手の像を理解するよう努力することが大切だ、ということである。

 心理士としては、自分自身がストレスを感じた時、たとえば子どもが泣き止まずにイライラしたり、同僚や家族との会話で落ち込んだり、ふとしたきっかけで不安に感じたりした時、その時の自分の認識を見つめ、どのような像が描かれているのかをしっかり見てとろうとする目的意識を常に持っておくことが、まずは認識論の実力を向上させるための訓練として、大切だと思う。直接見てとれるのは自分の認識だけである。したがって、上記のようなストレスフルな状況での自分の認識を見つめることは、同じような状況下でのクライエント認識を推測する際の大きな材料となるはずである。いわば、自分の体験を、一種のクライエント体験として客観的に眺めることができれば、クライエント理解の実力もついてくるということである。どのような対象を反映して、どのような認識=像を描き、どのような表現(言動)を行ったのかということを、まずは自分の体験でしっかり見つめていくことこそが、心理士としての認識論の実力向上の訓練となると思う。そのうえで、日常生活の些細な会話も、相手の認識=像を読み取る練習素材だと捉えて、相手の発する表現(言葉)だけにとらわれるのではなく、常にその背後にあったはずの認識=像を読み取ろうとしていくことが求められるだろう。こうしたことをくり返してこそ、実際の心理臨床の場面で「自分自身はけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力」が鍛えられていくのであろう。

 最後に一般教養の実力向上のために何をすればいいのかという問題である。心理士も看護師と同じようにさまざまな人の人間像、生活像を創りあげていくことが一般教養の目的となるだろう。そのためには本書で説かれていたように、「それぞれの時代の中で生きた人をその生活の中での心を描いた小説」や「病気の体験、看護や介護の体験をした人の本」を読み、毎日の新聞を読むことも必要である。さらに重要なこととして、神庭先生は次のように説かれている。

「もちろん、このような小説などからの学びだけではありません。何より病む人との対話から学ばされることはたくさんあるはずです。相手の認識は、自分では理解しえないだけの背景を持つものであるだけに、それを少しでも分かるために、会話を通して、その人に認識に近づく努力を積み重ねる、という視点を持っているだけでも大きく違ってくるものです。そうでなければ、分かったつもりで自分の認識(感情)を押しつけるということになりかねませんので……。」(p.88)


 ここでは、その人の認識に近づこうという目的意識を持って病む人と対話を重ねることが大切だと説かれている。確かに、筆者個人の経験でも、カウンセリングでクライエントと対話を重ねることによって、今までは理解できていなかった相手の認識の背景を学ばされるということが多かった。幼いころに両親が亡くなって親戚のもとで育てられた方、母親から虐待を受けて育ち、現在でも母親との仲が悪い中で生活している方、長時間労働の上に上司からパワハラまがいの圧力を受けてうつ病を発症された方、こういった方々のお話を聞くこと自体が、人間の認識はさまざまであり、それぞれの育ってきた社会関係によって大きく規定されているということを学ぶ機会である。

 このように説くと,これは認識論の学びそのものであって,いまいち,一般教養の学びという感じがしない,という疑問があるかもしれない。確かに,認識論の学びと一般教養の学びを,厳密に区別することはできないし,またする必要もないであろう。しかし,あえて両者を区別して,ここで説きたいことを明確にするとすれば,認識論の学びとは,認識そのものを対象にして,認識そのものを見て取れるようになることに重点があるのに対して,ここで説く一般教養の学びとは,認識の大本たる外界(自然的外界と社会的外界)をしっかり学ぶということになると思う。あるいは,認識の大本たる(特に社会的)外界と,その中で創られる認識とのつながりを学ぶのが一般教養の学びである,といえるだろう。たとえば,フロイトの患者と現在筆者が担当しているクライエントとでは,時代も国も異なっている。すなわち,社会構造が違っている。そのため,それを反映して創られる人間の認識も異なっており,認識の歪みたる精神疾患のあり方も違う。したがって,治療法も異なるはずである。ではどう異なるのか,ということを,社会構造の違いという観点から説けることこそが,一般教養の実力といっていいだろう。また,同じ現代日本であっても,第二次世界大戦直後の社会構造と,高度経済成長期の社会構造と,バブル崩壊後の社会構造とでは,大きく異なっており,当然に,それを反映して創られる認識も違ったものになる。したがって,それぞれの時代を描いた小説などに学びながら,目の前のクライエントの育ってきた時代背景を,その語りから,他の時代との比較においてしっかり具体的に描けるようになることが,一般教養の学びといってよいであろう。

 育ってきた背景が違えば認識も異なってくる。このことを自覚しないで、自分の自分化しかできないようでは、「分かったつもりで自分の認識(感情)を押しつける」結果となり、心理士として失格である。したがって、カウンセリングで聴くお話自体が、一般教養の学びであるという目的意識・視点をもって、日々クライエントさんに接していくことが大切だと感じている。

 以上、心理士にとっても弁証法・認識論・一般教養の実力が必要であるゆえんと、その実力向上の具体的方法について考察した。
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2015年11月24日

ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想(1/5)

目次

(1)心理臨床にどのように活かせるか
(2)心理士における弁証法・認識論・一般教養の必要性
(3)病気の一般論から学ぶ「問題」の捉え方
(4)心理的介入へのヒント
(5)千差万別性への働きかけを看護から学ぶ

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(1)心理臨床にどのように活かせるか

 本稿は、神庭純子先生の『初学者のための『看護覚え書』(1)』(現代社)に学んで、その感想を認めていく論考である。これまでも本ブログには、瀬江千史先生の『育児の生理学』や海保静子先生の『育児の認識学』、それに瀬江千史先生・本田克也先生・小田康友先生らによる『医学教育 概論』シリーズ等の感想を掲載してきた。本稿は、この一連の感想文シリーズの一つである。

 そもそも、筆者はなぜ、このような著作の感想文をブログに掲載しようと決めたのか。それは、端的にいうと、南郷学派の先生方の著作を主体的に学ぶためである。感想文を書くというつもりで著作を読み込むと、より深く理解できるし、実際に感想文を書いていくプロセスにおいても、理解が曖昧なところが明らかになってしっかり読み返したり、具体例で考えようとして必死に頭脳活動をしたりすることによって、認識が発展していくことを期待してのことであった。実際、南郷学派の先生方の著作というものは、単に読むだけではモノにならず、その精神に生きるというか、実践して実地に確かめてみるというか、そういうことをしていかないと、再措定できないものである。そこで、たとえば日々の生活に、毎日の育児に、そして専門たる心理臨床に、ひいては自分の認識学の構築に、実際に活かしていくという観点をもって、学んでいきたいと考えたのである。そのための一手段として、感想文を書いていくということを実践したのであった。

 『医学教育 概論』シリーズは、最新刊の第5巻までの感想を認めたので、今度は、現在第4巻まで発刊されている神庭純子先生の『初学者のための『看護覚え書』』シリーズを取り上げたい。これは『綜合看護』誌上に連載されていたものであり、連載当時にこの論文の感想を認めたこともあるが、改めて単行本の形で一巻ずつ取り上げていくつもりである。くり返し学ぶ価値のある論文であるし、さらに、筆者の心理臨床の経験も積み重なっているので、心理臨床に活かせる点という意味でも、新たな発見がある可能性が高いからである。何よりも、病んだ人に働きかけるという意味で、看護と心理臨床は、かなりの近接性があると考えられる。心理臨床を専門とする筆者には、直接的に学べることも多いと感じている。

 『初学者のための『看護覚え書』(1)』には、南郷継正先生と瀬江千史先生による推薦文が載せられている。そこで南郷先生は、『看護覚え書』は人生の土台となるべき書物であると説かれている。その人生の土台とは、まともに生活すること、すなわち健康的に生活できることであり、それなしにはいくら理想を高く掲げてもその実現は不可能であるということである。また瀬江先生は、本書はナイチンゲールの『看護覚え書』を、弁証法と認識論という“論理の光”を当てて読み解いていくものであると説かれている。さらに興味深いのは、両先生ともに、神庭先生の弁証法の実力を非常に高く評価されている点である。南郷先生に至っては「弁証法の達人」という言葉を使っておられる。南郷先生をしてここまで言わしめる実力は、おそるべきものであろう。

 本稿では、ナイチンゲール看護論を説かれる神庭純子先生に学んで、主として心理臨床に活かせる点はどのようなものかという観点から、学んだことを認めていくことにする。また、健康的な生活ができるために、どのように生活過程を整えていったらいいのか、自分に不足している点はどのようなことか、自分の育児実践に活かせる点は何か、という観点も念頭に置きながら考察していきたいと思う。

 次回以降で説いてく概要をここで提示しておきたい。次回は、看護師だけではなく、心理士においても弁証法・認識論・一般教養の実力が必須であることを説いていく。連載第3回では、ナイチンゲールの説く病気の一般論から、心理臨床における「問題」のあるべき捉え方を学びたい。第4回では、本書で説かれている看護の事例から、われわれ心理士が行う心理的介入に活かせそうな具体的なヒントを掴み取りたい。最終回では、全体をまとめて、今後の展望を述べる予定である。

 では第1回の最後に、『初学者のための『看護覚え書』(1)』の目次を掲載しておく。


初学者のための『看護覚え書』 (1)

■第1章 『看護覚え書』 に学ぶということ

  第1節 見事な看護師になるための実力とは
  第2節 初学者にとって 『看護覚え書』 に学ぶことが必要である理由
  第3節 『看護覚え書』 を読めるための実力とは
  第4節 生活の 「過程性」 を見ていたナイチンゲールの実力

■第2章 看護のために必要な弁証法の実力

  第1節 「看護とは何か」 を問う実力をつけるために
  第2節 病むにいたる過程性は生活の中にある
  第3節 弁証法とはどういうものか
  第4節 見事な看護の実力をつけるためになぜ弁証法の学びが必要なのか
  第5節 看護にとって 「変化」(の過程) をつくりだすことが重要である
  第6節 『看護覚え書』 を読み取る初学者の目的意識

■第3章 看護のために必要な認識論の実力

  第1節 見事な看護の実力をつけるためになぜ認識についての学びが必要なのか
  第2節 看護のために必要な 「認識とは何か」
  第3節 認識とは 「像」 であることを理解するための一事例
  第4節 看護のために必要な 「認識論とは何か」 をイメージ像から理解する
  第5節 ナイチンゲールの説く 「認識論」 の実力の重要性

■第4章 看護のために必要な一般教養の実力

  第1節 病む人の心に寄り添うことができる看護の実力を身につけるために
  第2節 個性としての認識(感情)に近づく看護を
  第3節 人類としての認識の発展過程を学ぶためには 「いのちの歴史」 の学びを
  第4節 見事な看護の実力をつけるためになぜ一般教養が必要なのか
  第5節 看護者になるためには人間の生活の一般像を学ぶ必要がある

■第5章 ナイチンゲールの説く 「健康の法則=看護の法則」 とは

  第1節 看護者に求められる一般教養の学び
  第2節 ナイチンゲールの説く 「健康の法則=看護の法則」 を理解するための一事例
  第3節 育児相談での看護者の認識の過程的構造
  第4節 ナイチンゲールの説く 「健康を守る看護」
  第5節 生命の法則、健康の法則を学ぶことを重要視しているナイチンゲール
  第6節 健康の法則についての体系的な指導が現代こそ求められている

■第6章 看護教育に必要な学びの体系性を問う

  第1節 小児救急医療・看護における現代の課題
  第2節 ナイチンゲールの時代の小児医療・看護の課題と誤った解決策
  第3節 課題の解決策の導き方の誤りは現代でも論理的には同じである
  第4節 体系的とはどういうことか
  第5節 看護教育における体系の必要性
  第6節 『看護覚え書』 の全体像を体系的に読み取る

■第7章 看護のために必要な一般論の学びの過程

  第1節 看護の体系性と教育の体系性
  第2節 『看護覚え書』 の体系性を一事例から具体的に理解する
  第3節 事例での関わりにおける看護者の認識の過程的構造
  第4節 ナイチンゲールの 「病気の一般論」 から事例を説く
  第5節 人間一般論を指針として事例を説く

■補 章  ナイチンゲールの学問(看護学)形成の内実を青春時代に見る
     ―その青春時代はギリシャ哲学の風に導かれて

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2015年11月23日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、ヘーゲル『哲学史』のプラトン弁証法、自然哲学、精神の哲学が論じられている部分を扱った我が研究会の2015年10月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 10月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回11月例会は、アリストテレスの形而上学、自然哲学が論じられている部分を扱います。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回の例会では、プラトン哲学の内実として、その弁証法、自然哲学、精神の哲学を扱った。非常に難解な範囲であり、例会1週間前に提出することになっている論点への見解では、全く不十分な見解しか書けなかった。しかし、その後の1週間で、該当範囲を読み返し、他のメンバーの見解やチューターがまとめてくれた内容を読んでいくうちに、そして当日の議論を通じて、ヘーゲルがどういう像を描いていたのかがおぼろげながら分かったきたことであった。

 それはどういうことかというと、ヘーゲルによれば、哲学史の発展は絶対精神の発展であって、絶対精神は一度自然に外化したものの、そこから再び精神へと復帰するのであるが、この精神に復帰した絶対精神は、当初、自分が絶対精神であって全世界の本質であることが分からない状態であった。しかし、おぼろげながらも世界の本質というものが、感性的な現象的世界とは別のものであるという直観は持っていたのであった。この段階がアナクサゴラスのヌースである。ここから、現象界とは異なった世界の原理というものは、実は人間の中にあるのだということに気づき始めたのがソクラテスであって、その後のソクラテス派は、その世界の原理(主観的意識)から諸々の外的世界の現象を何とか説明しようとしていったのであった。こうした過程を経て、プラトンにおいては、外的世界にはその本質としてのイデア、さらにイデアのイデアとしての善のイデア(神)というものがあるのではないか、という理解にまで達したのもの、その神こそ絶対精神としての自分自身であるとの理解に達することが出来ず、そのため、その神と外的現象的世界を媒介させることが充分にできなかった、ということではないかと思われる。すなわち、世界の原理たる主観的意識から現実の現象的世界を何とか説明しようという過程において、表象レベルの神にまで達したものの、それが最後まで曲げ返されず、ヘーゲルのいう環が閉じなかった、精神→自然→表象的な神までは円環が進んだものの、精神→自然→表象的な神=精神として円環が閉じられることはプラトン段階においてはなかったのだ、これがヘーゲルが描いていた像ではないかということである。

 いずれにしても、もっと徹底的に『哲学史』を読み込み、それをどのように把握するのかを考察する時間を十分に持つ必要がある。これなしでは、自らの学問が創出できないのだという覚悟を持って臨んでいきたいと思った。

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 今回の例会では、論点への見解の作成にかなり苦労したが、その中でも『弁証法はどういう科学か』を導きの糸として、自分なりの見解を出せた点はよかったと思う。これは論点2に関わるものである。そこでは、「具体的なあり方からすれば、神は一つの推論であって、この推論は自己自身との区別を通じて自己自身と一緒になるという形で、媒介の揚棄を通じて自己を復興する直接性なのである」とはどういうことかが問題となったが、ここで媒介と直接性という言葉をもとにして、絶対精神が対象となる客観的な世界を見つめることにより、自らが絶対精神であることに気づくということなのではないかという見解を提出した。これまで「実体の世界」と「学問の世界」という対立の構図が提起されてきていたわけであるが、それとの整合性もあるだろうと判断してこのような見解を提出した。また、「自己の曲げ返し」というキーワードともつながりそうであると考えたわけであるが、やはり三浦さんや吉本さん、南郷先生の論を導きの糸としてヘーゲルの論の展開を1つ1つ読み解いていくということが非常に重要なのだということを感じた。

 また、研究会での討議を通して、自分自身が十分に把握できなかったプラトンの国家論とヘーゲルの国家論について理解を深めることができたこともよかったと感じている。プラトンは国家の実体というべき社会的労働に着目し、ヘーゲルは国家意志と個人意志との調和という構造を取り上げているということであったが、これは現象論レベルの国家論から構造論レベルの国家論へと深化したのだということができるようにも思った。(「現象論」「構造論」という概念も、南郷学派の論理である。)

 次回はいよいよアリストテレスとなるが、三浦さんや南郷学派の概念でもってしっかりと捉え返していくことを意識して、読み込んでいきたいと思う。

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 今回の例会で大きなポイントだと思ったのは,プラトンの弁証法をヘーゲルがどのように捉えているかという点であった。端的には,絶対的なイデアが諸々の対立する規定を含みこんで自己を具体的なものとしていくという必然的な自己運動を,ヘーゲルはプラトンの弁証法であると捉えているということであった。またこれをヘーゲルは「滅ぼし合う対立物の統一」と呼んでいるのであった。プラトン自身は明確に説ききれていないようであるが,この弁証法的なイデアの自己規定によって,自然も社会もできあがっていったと説いたのが,プラトンだったように思われる。絶対精神の自己運動としてのプラトン的段階としては,絶対精神が自然を眺めて研究し,その本質がイデアであることを見抜き,そのイデアなるものは実は自分自身であるということに気付きはじめたというレベルだということができると思う。吉本隆明の言葉を使って言うと,実体の世界と学問の世界が明確に区別された上で,両者が一致する方向へと歩み出したのがプラトンの段階であった,とも言えそうである。

 1つ疑問に思ったのは,プラトンの弁証法が,端的にいうと「対立物の統一」であるとするならば,カントの弁証法やレーニンが説く弁証法と,どのような違いがあるのだろうかという点である。おそらくカントも,二律背反として,世界は対立物の統一であると説いたのであろうし,レーニンも弁証法を端的には対立物の統一に関する学問であると規定している。そうであるならば,これはプラトンの弁証法と同じということにならないだろうか。おそらく,ごく素朴な形で対立物の統一が説かれるようになったのがプラトンの段階であり,プラトン自身は明確に「対立物の統一」という論理的把握にまでは達していないが,それがカントの段階で,それまでの自然科学の発展を踏まえて世界を二律背反であるとまで規定できた,レーニンはこういった弁証法の発展の歴史を踏まえて端的に規定した,ということなのであろう。プラトンとアリストテレスがセットであり,カントとヘーゲルがセットであるとどこかで南郷継正先生が説かれていたように思うので,今の解釈は保留しつつも念頭に置いておき,ヘーゲル『哲学史』のアリストテレスやカントの部分を読んでいきたいと思う。

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 今回の例会には、チューターとして、扱う範囲の要約、各自から提起された論点の整理、各メンバーから提出された見解へのコメントの作成といった作業を行った上で、例会に臨んだ。率直にいって、今回の範囲はかなり難解(とりわけ、弁証法、自然哲学の部分は)であり、要約には非常に苦労したのだが、何が何でも要約を作成しなければならないのだという責任感があったからこそ何とか読みとることができたと思うし、逆からいえば、要約作業を実際に進めていくことによってこそ内容をそれなりに読みとることができたのだ、といえるように思う。

 論点に対する自身の見解の作成については、この難解極まりない範囲においてきちんとチューターとしての役割を果たさなければならない! という決意のもと、相当に気合を入れて取り組んだと自負している。論点の提起の段階ではまだまだ漠然としていたものが、論点への見解の執筆を通じてだんだんと明瞭になっていった。プラトン弁証法やプラトンの神概念についてのヘーゲルの把握を理解する上では、「本当の学問の成立」(吉本隆明)は直接に「本当の宗教(神概念)の成立」でもあるのだというヘーゲル観念論体系の特質をしっかりと押さえておくことが決定的に大切であると明瞭にすることができたのは、非常に大きな収穫であった。また、プラトンの時間・空間論についても、論点への見解の作成を通じて、それなりの把握(時間は諸天体の運動の枠組み、空間は地上の諸物体の運動の枠組みとして登場させられるもので、永遠のもの(絶対的に不動のもの)が、変化してやまない感性的世界として登場するために具えなければならない二大側面として位置づけられている)が明瞭になったのもよかった。

 さらに、各メンバーから提出された見解へのコメント作成については、自身の見解を基準にしつつ、議論をどのように収斂させていくか、それなりの見通しをもってまとめることができたと思う。コメント作成の過程で、解釈の困難な個所について、ドイツ語原文、真下信一訳、長谷川宏訳の三者を比較するという作業もやってみたのだが、これは非常に面白くてためになった。

 例会当日の議論については、限られた時間において論点を消化しきれるか不安があったのだが、何とかこなすことができてよかった。例会当日の議論の運営においては、チューターはチューターとして議論の展開についての見通しをもちつつも、あまり出しゃばりすぎてはいけない、あえて発言を控えて他のメンバーに自由に討論してもらうという場面をつくらなければならない、というようなことも意識したのだが、そういう議論の展開によっては、チューターが意図していたのとは微妙に異なる方向に進んでしまうこともあるのであって、そうした事態に対してもチューターとしては余裕をもって対処していかなければならないのだ、ということを痛感させられた。ここはなかなか難しいところであるが、次にチューターを担う際には、そういうことも含めて、より的確に議論の展開を支配できるように、努力を重ねていきたい。

 例会での議論を通じては、絶対精神の自己意識という問題について明瞭になったのがよかった。絶対精神は自然から分離して自分が精神であることを自覚し始めて……といった形で漠然と語られていたのであるが、その絶対精神の自己意識とは何なのか、という問題である。これは端的には、個々の人間としての意識(ソクラテスとしての自己意識、プラトンとしての自己意識)でしかありえないのである。あるいは、共同体から分離した個人という意識が不明瞭であれば、アテナイ市民としての意識とか、エジプト人としての意識、ということになるであろう。絶対精神の自己意識とは現実にはそういうものとしてあるのだということを明確に押さえた上で、絶対精神が自己が何者であるかを明瞭にしていく過程として、ヘーゲルの説く哲学史なり哲学的世界歴史なりを理解していかなければならないのだ、ということを考えさせられた。
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2015年11月22日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(9/10)

(9)論点3:プラトンの精神の哲学とはどういうものか

 前回は、プラトンの自然哲学とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容を紹介しました。そこでは、ヘーゲルのいわゆる神とは、自らが生みだした世界を見つめて自己が何者であるかを自覚した(吉本隆明による整理を踏まえていえば「実体の世界」=「学問の世界」という直接性を明瞭に自覚した)ものであり、プラトンはそうした神の本質についての予感を示したのであること、プラトンはイデア界(永遠不変の世界)の2つの模像として、天体の世界(規則的な運動が支配する世界)と地上の物質の世界(不規則的な運動が支配する世界)とを位置付けたのであって、前者の枠組みが時間であり後者の枠組みが空間であると位置づけたのだということ、が確認されたのでした。

 さて、今回は、第三の論点、すなわち、プラトンの自然哲学とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容を紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、プラトンの国家論が、主体的自由の原理を徹底的に排除するものであることを強調しているが、このことをどのように評価しているのだろうか。ヘーゲル自身は、国家における普遍的なものと個体的なものとの関係はどのようにあるべきだと考えていたのか。こうしたプラトンおよびヘーゲルの国家論について、唯物論の立場からはどのように評価することができるだろうか。


 ヘーゲルはプラトンの国家論が主体的自由の原理を排するものであることについてどのように評価しているか、という問題については、プラトンの国家論は当時のギリシャの国家的生活を理想的なものとして『国家』を書いたのであり、ペロポネソス戦争以降に入ってきた主体的自由の原理はギリシャ国家の滅びの要因となったものである以上、排除されるしかなかったのだ、という線で、全員がほぼ一致した見解を示しました。また、ヘーゲルが考えるあるべき国家像についても、普遍的なもの(理性的意志)と個体的なもの(主観的意志)との分離を前提に、個人意志の側が国家意志(国家の法律)からの規定を受けとりつつ自己の良心において如何なることが正しいのか主体的に反省していくという形で両者が調和させられるべき、ということで、概ね意見の一致をみました。

 一方で、プラトンやヘーゲルの国家論を唯物論の立場から評価するとどうなるかという問題についての見解は、かなりバラつくことになりました。「プラトンが社会的労働の問題を指摘したことは唯物論の立場から評価に値するのではないか」「ヘーゲルは、絶対精神の自己運動のひとつのあり方としての理性的意志とその時々の国家指導者層の意志である主観的意志との統一として国家を捉えたが、理性的意志とはそれまでの社会的労働の流れの到達点ともいえるのだから、これは唯物論の立場からも非常に優れたものだと評価しうるのではないか」「社会的労働の存在に着目したのがプラトンで、その社会的労働を統括する文化に着目しようとするのがヘーゲルだといえるのではないか」「ヘーゲルが、普遍的な意志と個体的な意志との統一という構造を指摘したことこそが何よりも重要ではないか」等々、諸々の見解が出されました。

 そうしたなかでチューターは、唯物論の立場からの国家の把握について、端的に「世界歴史の主体たる社会的労働が自立的に存在し続けるためにとる形態が国家である」と纏めた上で、プラトンの国家論が国家の実体というべき社会的労働に着目したものであることを(素朴な段階であったから可能だったこととして)指摘するとともに、ヘーゲルの国家論については、国家意志と個人意志との調和という構造(唯物論の立場からも問題にすべき構造)を取り上げていることを評価しつつ、その展開の仕方が唯物論とは全く異なっている(社会的労働の結果と説くか、絶対精神の自己運動の結果と説くか)ことを指摘しました。

 ここでチューターから、あるメンバーによってなされた「ヘーゲルは、絶対精神の自己運動のひとつのあり方としての理性的意志とその時々の国家指導者層の意志である主観的意志との統一として国家を捉えた」という指摘に関連して、確かに『学城』第2号の加納論文では「主観的意志というのは……どこにでもいる一個人の意志ではなく、国家指導者レベルの意志あるいは国家全体に関わるレベルの意志、という意味内容で使われている」(『学城』第2号、p.35)と書かれているが、『哲学史』におけるプラトン国家論についての議論を読む限り(個々人が集まって国家をつくったという社会契約説への批判が含まれていることなどからしても)、主観的意志というのはごく普通の諸個人のことを指すようにも思われるが、どのように考えるか、という問題が提起されました。

 この問題をめぐっては、『学城』第2号の加納論文で検討されているのは『歴史哲学』であり、国家の歴史的発展に影響を与えるのは、どこにでもいる一個人ではなく国家指導者レベルの意志だ、という意味合いではないか、という意見が出されました。国家のあるべき姿を考える場合と国家の歴史的発展を考える場合とでは、主観的意志の指す内容が微妙に異なってくるのではないか(前者の場合は、ごく普通のどこにでもいる一個人の意志も含まれるが、後者の場合は、国家指導者レベルの意志に限定されるのだ)、という意見です。古代ギリシャの国家的生活を主体的自由(主観的自由)が揺るがしたといった場合、これはどこにでもいる一個人の意志のことだと考えた方がしっくりくるということも、その根拠とされました。

 しかし、古代ギリシャの国家的生活を揺るがした主体的自由(主観的自由)については、ペロポネソス戦争以降のデマゴークの台頭などを想起するならば、これもまたあくまでも国家指導者レベルの意志の問題として考えた方が筋が通るのではないか、という反論が出されました。極端にいえば、アテナイ市民は全員が国家指導者のようなものであったわけで、この場合「どこにでもいる一個人」というのは奴隷や在留外人に相当すると考えるのが妥当なのではないか、という意見です。さらに、加納論文で「国家指導者レベルの意志あるいは国家全体に関わるレベルの意志」とあることに着目すれば、社会契約説というのも「国家全体に関わるレベルの意志」を考察するものとして筋が通るのではないか、と指摘されました。最終的には、世界歴史の大きな流れのなかで「国家全体に関わるレベルの意志」をもつ人々の層が次第に拡大していったのではないか、その最終的な到達点(ヘーゲルの描くあるべき国家像)では、全ての国民が「国家全体に関わるレベルの意志」を持つようになっている、ということができるのではないか、ということになりました。

 チューターは、以上のような議論を振り返りつつ、「唯物論の立場からは……」と問題設定された個所でメンバー間の見解が大きくバラついてしまったことについて、世界観レベルの問題を国家論という具体的な領域にいきなり適用しようとするのは無理がある(鶏を割くのに牛刀を用いるようなことになってしまいかねない)のであって、単に「唯物論の立場からは……」などという漠然とした問題設定にするのではなく、もう少し具体的なレベルで明瞭な問題設定をするべきであったとの反省の弁を述べ、次回以降のチューターの教訓として欲しいという期待を述べました。以上で、論点3をめぐる議論は終了となりました。
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2015年11月21日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(8/10)

(8)論点2:プラトンの自然哲学とはどういうものか

 前回は、ヘーゲルはプラトンの弁証法をどのようなものとして捉えていたのか、という問題をめぐってなされた議論の内容を紹介しました。ヘーゲルによれば、プラトン弁証法とは、イデアが自己規定していく必然的な運動のことにほかならず、諸々の対立し合う諸見解が相互に滅ぼし合った結果として成立する対立物の統一(それもAがBを背負うというような直接的な統一)なのであって、絶対精神の発展段階としていえば、諸々の事物の本質が自分自身と同一のものなのではないかということにおぼろげながら気づき始めた段階に相当するのだ、ということでした。

 さて今回は、第二の論点、すなわち、プラトンの自然哲学とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容を紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、『ティマイオス』におけるプラトン流の三位一体説を極めて高く評価し、思弁的推論による神の本性把握がなされていると述べているが、「具体的なあり方からすれば、神は一つの推論であって、この推論は自己自身との区別を通じて自己自身と一緒になるという形で、媒介の揚棄を通じて自己を復興する直接性なのである」(p.273)とは、そもそもどういうことなのか。ヘーゲルのいわゆる神とプラトンのいわゆる神はどこが同じでどこが違うのか。また、ヘーゲルは、プラトンが永遠なもの(イデア)の2つの模像として時間と空間を位置付けていると説いているが、それはどういうことなのか。これを唯物論の立場からの時間論、空間論と比較するとどのようなことがいえるだろうか。


 「具体的なあり方からすれば、神は一つの推論であって、この推論は自己自身との区別を通じて自己自身と一緒になるという形で、媒介の揚棄を通じて自己を復興する直接性なのである」という文章の理解をめぐっては、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)において「対立物の相互浸透」の構造を成り立たせる契機として解説されている「媒介」および「直接性」という文言に着目しつつ、「自らが生みだした世界を媒介として(鏡として)自分自身が何者であるかに気づく存在が神であるということではないか」という見解が示されました。

 チューターは、この見解を基本的に肯定しつつ、吉本隆明のいわゆる「学問の世界」と「実体の世界」という構図を重ねる形で、以下のように解説しました。すなわち、「実体の世界」(客観的な自然、あるいは感性的な世界)と「学問の世界」(真実在〔イデア〕の世界)とが(意識の上で)明瞭に区別された上で、「実体の世界」の諸々の性質が明らかにされていき、それらの性質はほかならぬ自分自身の性質でもあるのだという捉え返し(「自己の内への曲げ返し」)がなされていくことにより、「学問の世界」から一端は区別された「実体の世界」が再び「学問の世界」と一緒になるという形で絶対精神が自己を復興していく、その結果としての直接性(「学問の世界」=「実体の世界」という明瞭な自覚の成立)こそが神の本性にほかならない、ということです。チューターは、このように解説した上で、ここでは論点1においても示されたように、ヘーゲルにおいては「本当の学問の成立」は同時に「本当の宗教の成立」でもあるのだ、という把握が大前提となることを強調しました。

 プラトンのいわゆる神とヘーゲルのいわゆる神はどこが同じでどこが違うのかという問題については、「自己の内への曲げ返し」がプラトンにおいては不十分で、最初の神(世界に心を与えた神)と後の神(世界心によって真の絶対的存在者となった世界)とが区別されてしまっている、と指摘されているところがヒントになるのではないか、という意見が出されました。この意見を踏まえつつ、チューターは、プラトンのいわゆる神はヘーゲルのいわゆる神のいわば設計図のようなものであり、神の本質(自らが生みだした世界を見つめて自己が何者であるかを自覚する)についての予感がプラトンにおいて示され、それを最後まで徹底して遂行したのがヘーゲルだという関係になるのではないか、との見解を示しました。

 プラトンの時間・空間論をめぐっては、非常に難解なこともあって、チューター以外から、積極的な見解の提示はありませんでした。そもそも、時間と空間とがイデア界の2つの模像として位置づけられていることを読みとること自体が困難であった、との感想も出されました。この感想に関わって、チューターは、ポイントとなる個所のドイツ語原文、真下信一訳、長谷川宏訳を以下のように示しつつ、時間と空間とがイデア界の2つの模像として位置づけられていることを確認するように求めました。

【原文】Die ewige Welt hat ein Abbild an der Welt, die der Zeit angehört; aber dieser gegenüber ist eine zweite Welt, der die Veränderlichkeit wesentlich innewohnt.

【真下信一訳】永遠な世界は時間に属するところの世界を模像としてもっているが、しかしこの世界にたいして、変るという性質を本質的に内具する第二の世界が存在する。

【長谷川宏訳】永遠の世界は時間に属する世界のうちに反映するとともに、それと対立する第二の世界――変化を本質とする世界――にも反映します。

【原文】In dieser Welt der Veränderlichkeit ist nun die Form die räumliche Figur. Wie in der Welt, welche unmittelbares Abbild des Ewigen ist, die Zeit das absolute Prinzip ist, so ist hier das absolute ideelle Prinzip oder die reine Materie als solche das Bestehen des Raums.

【真下信一訳】この変化恒なき世界においては形式とは空間的形状のことである。永遠なものの直接的模像である世界においては時間が絶対的原理であるように、ここでは絶対的観念的原理は純粋な、物質としての物質、換言すれば空間の存立にほかならぬ。

【長谷川宏訳】変化する地上世界では形は空間的な形態をとります。永遠なるものの直接の模像たる天体運動において時間が絶対的な原理をなしたとすれば、地上においては空間の存立が絶対の観念的原理であり、純粋な基盤そのものです。


 以上の引用を踏まえつつ、チューターは、プラトンの時間・空間論について、時間は諸天体の運動の枠組み、空間は地上の諸物体の運動の枠組みとして登場させられるものであり、永遠のもの(絶対的に不動のもの)が変化してやまない感性的世界として登場するために具えなければならない二大側面として位置づけられているのではないか、との見解を示しました。チューターはさらに、こうしたプラトン的な時間・空間論に対して、唯物論の立場からの時間・空間論は、変化してやまない物質から出発して、その物質(*)の二大側面として時間と空間を位置付ける――時間とはある一定の物質の運動の具体化の一般性、空間とはある一定の物質の静止の具体化の一般性――ものであること(要するに、論理展開の方向が全く逆になること)を指摘しました。

 時間・空間論については、アリストテレスの自然学でもさらに展開されるであろうことを展望し、唯物論の立場から時間および空間をどのように把握するのか、各自がしっかりと考察を深めておく必要があることを確認して、この論点2をめぐる議論を終えました。

(*)ここでいう唯物論的な物質は、プラトンのいわゆる物質とは全くレベルの異なる概念です。後者は、地上界における変化してやまない感性的事物といった程度の把握であって、例えば、諸天体はそういった意味での物質とは異なる存在として把握されています。この世界の全存在が精神と物質に二大別されるのは、(我々が昨年シュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを通じて確認したように)ようやく17世紀のデカルトにおいてであったことを想起しなければなりません。
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2015年11月20日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(7/10)

(7)論点1:プラトンの弁証法とはどういうものか

 前回まで、ヘーゲル『哲学史』のうち、プラトンの弁証法、自然哲学、精神の哲学について論じられている部分の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、ヘーゲルはプラトンの弁証法をどのようなものとして捉えていたのか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 ヘーゲルは、プラトンの弁証法の真髄が存在と非存在、一と多、等々の違ったものを一つにまとめることにある、と説く(p.262)。これは、プラトンが批判の対象とした「二様の考え方」(p.256)――「普通の意味での普遍的弁証法」(p.256)および「エレア派の弁証法」(p.259)――との対比でいわれていることであるが、これらとプラトンの弁証法とはどこがどう異なると捉えられているのだろうか。そもそもヘーゲルは、絶対精神の自己運動という観点から、プラトンの弁証法をどのようなレベルにあるものとして評価しているのだろうか。その評価に「自己の内への曲げ返し」(p.254)というキーワードはどのように絡んでくるのだろうか。


 まず、プラトン弁証法は「普通の意味での普遍的弁証法」および「エレア派の弁証法」とどう異なるかという問題について検討しました。この問題をめぐっては、「普通の意味での普遍的弁証法」は、ある同一のものについて異なる観点から対立する規定を与えているだけで本当の意味で対立物を統一したものとはいえず、「エレア派の弁証法」は、非存在は存在しないとされることにより感性的に捉えられたものが全て肯定されて真偽の区別がなくなってしまう(あらゆる犯罪や悪行は存在しないことになってしまう)ものであること、これらに対してプラトン弁証法は、あるものについて同一の観点から対立する規定を与え存在と非存在とを統一するものであること、そのような統一は、無数の対話の繰り返しの過程で諸々の見解が滅ぼされていった結果としてようやくにして達成されるものであること、などが指摘されました。

 これらの見解に対してチューターは、ヘーゲルの考えるプラトン弁証法の真髄は、端的には、イデア(絶対的なもの)が自己を規定していく(諸々の対立する規定を含みこんで自己を具体的なものとしていく)必然的な運動を把握していることである、と指摘した上で、プラトン弁証法と「普通の意味での普遍的弁証法」および「エレア派の弁証法」との相違は、対立物の直接的な統一(AがBを背負うという矛盾)を把握するレベルに到達しえたか否か、という点にこそ見出されるべきである、と指摘しました。また、プラトン弁証法において、相互に対立する主張が肯定される(「AでもあるしBでもある」)ようになるのは、単純に「Aである」とか単純に「Aではない」といった主張が相互に滅ぼし合った結果にほかならないのではないか、との見解を述べました。

 次いで、ヘーゲルはプラトン弁証法を如何なるレベルのものと捉えていたのか、「自己の内への曲げ返し」というキーワードはそこにどう絡んでくるのか、という問題に議論を進めました。ヘーゲルがプラトン弁証法を絶対精神の発展段階のなかでどのように位置づけたかという問題については、絶対精神が自分自身が何者であるかおぼろげながら気づきはじめた段階ではないか、という意見がほぼ共通して出されました。しかし、「自己の内への曲げ返し」という文言の解釈をめぐっては、対立する2つの意見が出されました。第一は、それまで自分の外側にある世界として考察していたイデア界なるものが実は自分自身であったと気づくことではないか、という見解であり、第二は、目の前の自然(客観的な世界)が自分自身なのではないかと考えるようになったということではないか、という見解です。これらの見解はいずれも、9月例会における議論で明らかになった「実体の世界(客観的な世界)」と「学問の世界(真実在〔イデア〕の世界)」との対立という構図を前提にしたものであり、両者とも(絶対精神が)他者として見ていたものが実は自分自身であることに気づき始めることだ、と指摘する点では共通しているのですが、その他者とは何であると考えるかが異なります。ヘーゲルは、自己の内への曲げ返しとは、事物の本質が実は神的存在者と同じものであることが明らかになることだ、と説明しているわけですが、この「事物の本質」なるものをイデア界に属するものと捉えるのが前者の見解(「事物の〈本質〉」ということに着目)であり、客観的な世界に属するものと捉えるが後者の見解(「〈事物〉の本質」ということに着目)だといえます。

 これらの見解に対して、ヘーゲルの「表象的な神」という表現にこそ注目すべきではないか、という意見も出されました。ヘーゲルの立場からすれば、世界の本質は絶対精神であり、これは精神からまず自然に外化し、そこから再び精神へと戻ってくるべきものであるが、プラトンにあっては、世界とは切り離された表象的な神にまでしか曲げ返されておらず、神は実は人間自身の精神と同じなのだという把握にまでは至っていないのではないか、という意見です。

 議論は錯綜しましたが、最終的にチューターは以下のように纏めました。

 9月の例会での議論を踏まえていえば、ソクラテスにおいて、感性的な世界(この世)と真実の世界(あの世)とが明瞭に分けられ、ソクラテスの後継者たちによって、後者に属する真・善・美といった基準から感性的な世界に筋を通していく過程がスタートしたことになります。ヘーゲルの見方によれば、「実体の世界」なるもの(要するに自然)はもともと「学問の世界」に属する絶対精神が転化したものであって、自然から分離した絶対精神は自己が本来は「学問の世界」の住人であることを自覚した上で(意識であることを意識した上で)、そこから「実体の世界」(自然)を把握していかなければなりません。換言すれば、「実体の世界」なるもの(自然)は絶対精神たる自己自身の仮の姿に過ぎないものであり、「実体の世界」も「学問の世界」も本質的には全く同じものであることを理解していかなければならないわけです。吉本隆明は、「ヘーゲルは、学問の世界と実体の世界とを二つ描いて、両方の図式の対がいわば重なり合うレベルで一致した時に、本当の学問の成立であるとしたのだ」と述べたとされる(『学城』第8号、p.216)わけですが、これはヘーゲルの立場からすれば、同時に「本当の宗教の成立である」ともいうことができます(序論で説かれていた通り、ヘーゲルにあっては、哲学も宗教もこの世界の本質を把握することを目的としたものとして同列に並べて把握されるのです)。そのためには、真なり善なり美なりを基準に「実体の世界」(変化してやまない感性的世界)の諸々の事物・事象に問いかけていった意識は、その結果として把握した諸々の事物・事象の諸々の性質(ヘーゲルのいわゆる「事物の本質」)について、それらは単なる事物・事象の性質ではなくて、他ならぬ自己自身の性質でもあるのだ、と捉え返していかなければなりません。このことこそヘーゲルのいわゆる「自己の内への曲げ返し」ということではないか、と考えられます。

 チューターは、概略以上のような説明を行った上で、先ほどの見解の対立――「事物の本質」はイデア界に属するのか感性界に属するのか――について、第一の見解のように、最初から「事物の〈本質〉」だからイデア界のものだ、とスッキリ割り切った見解に到達できていたのではなくて、最初は感性界のものだと思っていたところから、どうやらイデア界のものなのかもしれないぞ、ということが段々と分かり始めていく過程があったのであって、その過程こそが「自己の内への曲げ返し」なのではないか、と指摘しました。このような纏めに他のメンバーも基本的に納得したところで、この論点1をめぐる議論は一応の終了としました。
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2015年11月19日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』のうち、プラトンの弁証法、自然哲学、精神の哲学について論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 まず、プラトンの弁証法についてです。ヘーゲルは、真の弁証法とは純粋な諸概念(イデア)の必然的運動を示すものであり、その運動の結果として諸概念が統一されるのだとした上で、プラトンには弁証法の本性について完全な意識はみられないものの、事実上そうした概念の運動を展開してはいる、と評価していました。この概念の運動によって、イデアは対立する諸契機を取り込み、自己を規定して具体的なものとなっていくのだ、とヘーゲルは説明します。このことについてヘーゲルは「相互に滅ぼし合った対立物の統一」とも表現していました。その上でヘーゲルは、プラトン弁証法の代表的な3つの著作である『パルメニデス』『ソフィステス』『ピレボス』を取り上げて、プラトンが「普通の意味での普遍的弁証法」やエレア派の弁証法に反対しながら、対立物の同一性こそが真理だと主張するに至ったことを説きます。しかしながら、こうして解明された事物の本質が、実は神的存在者と同じものであるということについて、プラトンはハッキリとはいっていない、とヘーゲルを指摘します。「自己の内への曲げ返し」は、プラトンの思弁の内に現存するが、この自己の内へ曲げ返されている状態は、表象の様式にしがって考えられた神として、何か世界とは切り離されたものにとどまっている、というのがヘーゲルの評価でした。

 次いで、プラトンの自然哲学についてです。ヘーゲルは、『ティマイオス』の流れに沿って、プラトンの世界創造論を解説していました。プラトンは、善としての神が、自身の似姿としてこの世界をつくったのだ、と説明します。プラトンは、火なしでは何ものもみられず、地なしでは何もの触れることができないのだから、神は始めに火と地を造った、といいます。そして、両者を媒介するきずなは、主体的、個体的なものであって、他のものを侵して他のものと自己とを同一にする力である、というのです。ヘーゲルは、これは概念を含んだ純粋な表現であると評価していました。ヘーゲルによれば、神はひとつの推論であり、この推論は自己自身との区別を通じて自己自身と一緒になるという形で、媒介の揚棄を通じて自己を復興する直接性にほかなりません。ヘーゲルは、このように最高のものがプラトン哲学の内には含まれているのだ、とみなしたわけです。

 次は、プラトンの精神の哲学についてです。ヘーゲルは、プラトンの学説のうち、精神の側面に属するもので注目すべきは人間の道徳的本性に関する思想であり、これは『国家』で明らかにされている、とします。通説的には『国家』は実現不可能な理想的状態を描いたものと解されるのですが、ヘーゲルは『国家』は当時のギリシャ的な国家生活のあり方を描いたものに過ぎない、と断じていました。プラトンは、道徳的有機体としての国家を現実に成り立たせるためには、立法の機能、防衛の機能、必需のための配慮の機能がなくてはならず、これによって国家の諸身分――治者(学者)、戦士、耕作者と手工業者――の区別が成立するのだと論じ、それぞれの身分に対応する徳として、知、勇気、抑制を挙げた上で、各人が自身の性質に生まれながらもっともよく適した公事に励むことによって、これら3つの徳が調和することこそが正義に他ならぬ、と論じていたのでした。このように、『国家』では主体的自由の原理が徹底して排除されているわけですが、これはまさにペロポネソス戦争以降のギリシャ的な国家生活の衰退をもたらした契機が主体的自由の権利にほかならなかったからであり、古き良きギリシャ的国家生活のあり方を理想化して描くためには、こうした契機は意図的に無視されるしかなかったのだ、ということになるわけです。

 2015年10月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、プラトンの弁証法とはどういうものか
 ヘーゲルは、プラトンの弁証法の真髄が存在と非存在、一と多、等々の違ったものを一つにまとめることにある、と説く(p.262)。これは、プラトンが批判の対象とした「二様の考え方」(p.256)――「普通の意味での普遍的弁証法」(p.256)および「エレア派の弁証法」(p.259)――との対比でいわれていることであるが、これらとプラトンの弁証法とはどこがどう異なると捉えられているのだろうか。そもそもヘーゲルは、絶対精神の自己運動という観点から、プラトンの弁証法をどのようなレベルにあるものとして評価しているのだろうか。その評価に「自己の内への曲げ返し」(p.254)というキーワードはどのように絡んでくるのだろうか。

2、プラトンの自然哲学とはどういうものか
 ヘーゲルは、『ティマイオス』におけるプラトン流の三位一体説を極めて高く評価し、思弁的推論による神の本性把握がなされていると述べているが、「具体的なあり方からすれば、神は一つの推論であって、この推論は自己自身との区別を通じて自己自身と一緒になるという形で、媒介の揚棄を通じて自己を復興する直接性なのである」(p.273)とは、そもそもどういうことなのか。ヘーゲルのいわゆる神とプラトンのいわゆる神はどこが同じでどこが違うのか。また、ヘーゲルは、プラトンが永遠なもの(イデア)の2つの模像として時間と空間を位置付けていると説いているが、それはどういうことなのか。これを唯物論の立場からの時間論、空間論と比較するとどのようなことがいえるだろうか。

3、プラトンの精神の哲学とはどういうものか
 ヘーゲルは、プラトンの国家論が、主体的自由の原理を徹底的に排除するものであることを強調しているが、このことをどのように評価しているのだろうか。ヘーゲル自身は、国家における普遍的なものと個体的なものとの関係はどのようにあるべきだと考えていたのか。こうしたプラトンおよびヘーゲルの国家論について、唯物論の立場からはどのように評価することができるだろうか。

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2015年11月18日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(5/10)

(5)ヘーゲル『哲学史』プラトン 精神の哲学 要約

 前回は、プラトンの自然哲学について論じられた部分の要約を紹介しました。そこでは、善としての神が自らの似姿としてこの世界を創り上げていったのだ、というプラトンの自然哲学が解説されていました。

 さて、今回は、プラトンの精神の哲学について論じられた部分の要約を紹介することにしましょう。ここでは『国家』を検討対象にして、プラトンの国家論において主体的自由の原理が否定されていることをどのように評価すべきなのか、論じられています。

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3、精神の哲学

〔正義の実存形態としての国家の把握〕

 プラトンには、現実化される以前の精神の思弁的本質および認識の種類に関する諸区別はあっても、理論的精神の組織に関する完成された意識は全く見出されない。精神の側面に属するもので我々の関心を惹くのは、人間の道徳的本性に関するプラトンの思想であるが、これはプラトンにおいて特に素晴らしいところでもある。プラトンは、これを『国家』で明らかにしている。プラトンは、道徳的本性(理性的なあり方での自由な意志)はただ真の国民のなかでのみ現実的になりうることをみてとった。

 『国家』の最初の主題は正義とは何かであり、この問題をあれこれ論じた末、正義は個人だけでなく国家にもあり、国家は個人より大きいのだから、正義は国家の場合一層大きな形で表現されていて一層見てとりやすいはずだとして、国家の正義として存在するところをむしろ考察したい、とされる。これは勝手なものに見えて、大きな勘が古人を真理へ導いたのだともいえる。実在的な、本当の姿としては、正義はもっぱら国家においてのみ存在するからである。

 よくいわれる自然状態なるものはひとつの道徳的ナンセンスであり、この即自的な正義は精神の絶対的不正(ホッブスのいわゆる万人の万人に対する闘争)という形でのみ現われる。これは精神によって揚棄されるべきものである。常識的な考えにおいては、個人の自由な意志、およびこの意志に基づく他者との関係が出発地点であり、社会と国家の状態を根本目的たる個人にとっての単なる手段とされてしまう。これに対してプラトンは、逆に実体的なもの、普遍的なものを根底に置き、しかも個人としての個人はこの普遍的なものこそその目的とし、そして人間は国家のために欲し、行為し、生活し、楽しみ、したがって、国家は彼の第二の本性、習慣、習俗であるとした。


〔ギリシャ的国家生活の真諦の描出〕
 しかし『国家』は、初めに絶対的イデア(道徳的実体)を掲げて、ついでそのイデアの現実化の必然性と現実化そのものを示す、というような形にはなっていない。ここから、『国家』は地上にあるごとき人間では実現不可能な理想を掲げたものだ、という見解が生じた。しかし、プラトンの理想がこの意味に解されるべきでないことは明らかである。プラトンの自然哲学においては、それ自身で満ち足りた神としての永遠な世界は現実であり、どこか彼岸にあるのではなかった。それはその真の在り方において眺められた(感官に入るのではない)現在の世界である。このようにプラトン的イデアの内容を考察してみると、プラトンが実はギリシャ道徳をその実体的なあり方において描いたのであることが分かる。ギリシャ的国家生活がプラトン的国家の真の内容を成す。その主要思想は、習俗的なものにはおよそ実体的な意味合いが含まれており、したがってそれは神聖なものとして固執されるという思想である。諸個人の、習俗に対するこの実体的な関係に対立する規定は、諸個人の主体的自由裁量、モラル(国家の定めた諸々のきまりへの尊敬や畏怖に基づいて行為するのではなく、自身の主体的道徳的考慮にしたがって意志決定し振る舞うこと)である。この主体的自由の原理は、当世の原理であるが、これがギリシャ世界へ、ギリシャ的国家生活の滅びの原理として入ってきていたのである。プラトンは、彼の世界の真の精神を認識し把握することで、この新しい原理を彼の国家のなかで不可能なものにしようとしたのである。


 a〔プラトン的国家の主要な諸契機〕

 プラトン的国家では、個人が普遍性に対立するということがない。プラトンは正義を立ち入って論じるなかで、実体的精神のこの現実性がどういうものであるか示すために、道徳的共同体の器官を剖いて、道徳的有機体を生かす契機を3つの形態で考察する。

 α〔諸身分〕 国家のなかでは、まず普遍的なもの(国事と国家生活)と個的なもの(個人的なもののための生活と労働)との対立が現われ、それぞれ別の身分に振り分けられるが、さらに詳しくプラトンは、道徳的なものの現実的在り方の3つの形式を挙げる。立法の機能、防衛の機能、必需のための配慮の機能。これがまたそれぞれ違った組織に振り当てられ、国家の諸身分――治者(学者)、戦士、耕作者と手工業者――の別をなすことになる。

 β〔諸徳〕 次いでプラトンは、これら身分の内に実現されている諸契機を、諸個人の内に存在し彼らの本質性をなすところの道徳的諸属性として描いている。彼はそのような徳を4つ区別し、人はそれらを基本的な徳と呼んだ。知と学知が第一の徳(治者の身分にある)、勇気が第二の徳(戦士の身分にある)、抑制が第三の徳(あらゆる身分にある)である。第四の徳が正義であり、国家においては各人が彼の性質に生まれながらもっともよく適した公事に励むところに見出される。この正義の概念は全体の土台(イデア)であり、それ自身の内で有機的に分割されて、各部分(知、勇気、抑制)が全体の内なる契機となる。

 γ〔個人主体における諸契機〕 主体にはまず諸々の欲望(耕作者と手工業者の身分の使命に応える)が現われるが、この欲望の挑発に打ち克つ理性的なもの(治者の身分に対応する)もある。さらに第三に怒り(戦士の身分に対応する)がある。これは欲望に近いところもあれば、しかしまた欲望に抗って理性の見方をしもする。ここには、普遍性と個体性の間で、対象的なものに向けられた、自立的な怒りが中間項をなす推論がある。


 b〔プラトン的国家を維持するための方策〕

 次いでプラトンは国家を維持するための方策を挙げる。問題は、各人の使命である仕事が各人の特有な在り方となり、個人の習俗的行為および意志として現存するようになるかというところにある。プラトンはこの習俗をじかに諸個人の内に生み出そうとする。とりわけ、治者の人間形成は哲学(普遍的なもの、真実在の知識)によって行われるべきだとして、宗教、芸術、学問といった個々の教養手段を逐次吟味している。


 c〔主体的自由の原理の排除〕

 主体的自由の原理を排する立場こそ、プラトン的国家の主要な特徴である。個体性のあらゆる側面が普遍的なものの内に解消されること、全ての人がただ普遍的人間としてのみ意味をもつことに、プラトン的国家の精神が本質的に存する。

 α〔職業選択の自由の否定〕 第一にプラトンは、個々人が自分の身分を選ぶことを許さない。各人は諸個人を教育させる国家の治者(第一身分の最長老たち)によって吟味され、天性の才能と素質に応じて、特定の仕事につかせられる。

 β〔私的所有の原理の廃止〕 さらにプラトンは、彼の国家のなかで私的所有の原理を全く廃止した。この原理においては、私がこの特定の個人として絶対的な意味で価値をもってしまうからである。

 γ〔婚姻の廃止〕 同じ理由からプラトンは婚姻をも廃止する。そのような結合においては、ある性の私的人間が他の性の私的人間に対して、相互に恒常的に、単なる自然的関係の域を外れてまで、所属するからである。
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2015年11月17日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(4/10)

(4)ヘーゲル『哲学史』プラトン 自然哲学 要約

 前回は、ヘーゲルがプラトン弁証法について論じた部分の後半の要約を紹介することにしました。そこでは、プラトン弁証法の代表的な3つの著作(『パルメニデス』『ソフィステス』『ピレボス』)が取り上げられ、プラトンが「普通の意味での普遍的弁証法」やエレア派の弁証法に反対しながら、対立物の同一性こそが真理だと主張するに至ったことが説かれていました。

 さて、今回は、プラトンの自然哲学について論じられた部分の要約を紹介することにしましょう。ここでは、『ティマイオス』の展開に添う形で、プラトンの自然哲学においては、善としての神がこの世界をどのようにして創造していったと考えられたのか、説明されています。

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2、自然哲学

 プラトンにおいて哲学は、一層特殊なものを認識するために努力を重ね始め、認識の一般的素材は一層分化し始めた。『ティマイオス』においてイデアが具体的な被規定性として出て来ることで、プラトンの自然哲学は我々に世界のこの本質を一層詳しく知らせてくれる。


〔神(=善)の似姿としての世界〕

 プラトンは、自然の本質または世界の生成の叙述を「神は善である」と始める。この善はプラトンの諸々のイデアの頂点に位する。プラトンは、神(=善)は決してどのような僻みも内に蔵することなく、それゆえ神は世界を自らに最もよく似たものにしようと欲した、という。神は目に見えるものが静止しておらず、偶然的に無秩序に動いているのを見て、(無秩序より秩序をすぐれたものとみなしたので)その無秩序に代えるに秩序をもってした、とプラトンは続ける。さらに、神は目に見えるもののうち、理性的なものは分別を欠くものより美わしく、理性には心をもたぬ何ものもあずかりえないと考え、理性を心のうちへ、心を体の内へ置き入れて結び合わせたので、世界は心と理性を具えたひとつの生き物になった、という。


〔プラトン流の三位一体説――思弁的推論による神の本性把握〕

 ここでプラトンは、物体的存在のイデアの規定へ進んでいく。世界は体を具えたもの、見ることと触れることができるものでなければならず、火なしでは何ものもみられず、地(固形)なしでは何もの触れることができないのだから、神は始めに火と地を造った、という。このプラトンのやり方は子どもじみたものだが、両者を結ぶきずなについての言及は、概念を含んだ純粋な表現である。きずなは主体的、個体的なものであって、他のものを侵してそれと自己を同一にする力である。プラトンは、3者のうち、中間にあるものが最初のものに対するのと同じ釣り合いを最後のものに対してもつし、また逆に、最後のものが中間のものに対するのと同じ釣り合いが中間のものと最初のものとの間にある(a:b=b:c)、という。これは論理学で周知の推論であり、ここには、イデアの理性的性格が、少なくとも外面的に、すっかり含まれている。分けられたものは両端であり、中間のものはそれらを最高度に一つにする同一性である。プラトン哲学では、思弁的なものが推論の本来の本当の形式を構成し、両端はお互いに対しても中間のものに対しても独立したままではない。その思弁的内容の主眼点は、相互に結合する両端の同一性であって、換言すれば、中間のものにおいて表わされた主語は、何か他のものとではなく、かえって自己ならぬ他のものを通じまたこの他のもののなかで自己自身と一緒になるような何らかの内容であるということである。これが言葉を換えれば神の本性なのである。神が主語にされるということは、神がその息子として世界を創り出すということであるが、しかし神は他者として現われるこの実在において同時に自己自身と同一であり続け、背理を無にし、他者のなかでただ自己自身とのみ一緒になる。それでこそ神は精神なのである。具体的なあり方からすれば、神はひとつの推論であって、この推論は自己自身との区別を通じて自己自身と一緒になるという形で、媒介の揚棄を通じて自己を復興する直接性なのである。このように最高のものがプラトン哲学の内には含まれている。

 プラトンはさらに続ける。固定したものは幅とともに奥行きを有するがゆえに2つの中間物を必要とするので、神は火と地の間に空気と水を置き入れた(火:空気=空気:水=水:地であるように)。したがって、空間には4つの形づけがあることになる。この割られた中間物というのは論理的に深い意味をもつ。理性的推論では3つにすぎないものが自然において4つになるのは、思想において直接にひとつであるものが自然においては分かれるからである。自然において対立が対立として現存するためには、対立そのものが何か二重のものでなければならず、数えれば4つということになる。この表象を世界に当てはめてみると、中間のものとして自然があり、自然の還帰の道として現存する精神、そして還帰した状態は絶対精神ということになる。この活きた過程、換言すれば、区別されたもののこの区別と同一化が活きた神なのである。

 さらにプラトンは、神は世界に心を与え、自己自身に知られなじんだ存在者を成立せしめ、世界を至福至幸なる神として生んだ、という。世界心によってひとつの全体性となる世界にこそ、イデアの認識が存するのであり、中間者および同一性としてのこの創られた神にしてはじめて真の絶対的存在者といえる。これに反して、単に善であったに過ぎない初めの神のごときは、単なる前提であり、規定されてもいなければ自己自身を規定するものでもない。プラトンは、分割されておらず常に自同的である存在物、諸物体に具わるところの分割された存在物、この両者から神は、それらの中間のものとして、自同性と他性を具えた第三の存在物(=心)を作った、という。

 プラトンは、自同的なものと他者(物質)を第三の契機である本質(心)と混ぜ合わせてこれら3つのすべてをひとつにしながら、神はこの全体を今度は適当なだけの数の部分に分けた、という。心のこの実体は、見える世界の実体と同じものである以上、この全体こそ一と多の恒久的かつ不可分な一体性として、今や体系化されるに至った実体であり、真の物質であり、内に区分を含む絶対的質量なのであって、ほかにどんな存在物も不要なはずである。この主体性の区分の仕方は有名なプラトン的数を含んでいるが、それは疑いもなくもとはピュタゴラス派のものである。


〔永遠なもの(イデア)の2つの模像――時間と空間〕

 これに続いてさらにプラトンは、この神的世界をまた範型とも呼ぶ。このものはもっぱら思想の内に存在し、常に自同的とされるのだが、しかしこの全体はまたそれ自身に対置されることになって、ここにあの第一のもの(永遠な生きたもの)の模像として、第二のものが存在することになる。これは、生起して目に見えるところの世界(天界的運動の体系)である。第二のもの(生起し生成するもの)を第一のもの(永遠のイデア)に完全に等しからしめるのは不可能だが、永遠なものを統一的にあらわす運動の像とはなりうるのであって、数で表されるような運動をするこの永遠な像こそ、我々が時間と呼ぶところのものである。

 しかし、この永遠なものは、これとはまた違った在り方として、変わり移ろう原理のイデアを場にもっている。この原理の一般的なものが物質なのである。永遠な世界は、時間のうちへ置き入れられると、自同的な形式、および他なるもの(移ろうもの)の形式という2つの形式をもつことになる。この最後の領域において現われる3つの契機は、生み出された単純な存在物(規定された物質)、それが生み出される場所、生まれたものの原像である。かくてここに、空間を個的生産と普遍的なものとの中間項とする推論があることになる。

 プラトンは、これら感性的事物の特定の本質性(単純な被規定性)を説明する。永遠なものの直接的模造である世界において時間が絶対的原理であるように、この変化恒なき世界においては絶対的観念的原理は、純粋な、物質としての物質、換言すれば空間の存立にほかならぬ。空間はこの現象する世界の観念的本質であり、肯定性と否定性を統一する中間物であり、それの諸々の被規定性が様々の形状なのである。


〔プラトンの物理学と生理学〕
 ここからまたプラトンは物理学および生理学ともいうべき領域へ入っていく。それは感性的現象をその多様性において把握しようとする最初の幼い試みと見るべきであるが、その試みはまだ皮相で混乱している。
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2015年11月16日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(3/10)


(3)ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法(続) 要約

 前回は、ヘーゲルがプラトン弁証法についてどのように論じた部分の前半の要約を紹介しました。ヘーゲルは、真の弁証法とは純粋な諸概念の必然的運動を示すものであり、その運動の結果として諸概念が統一されるのだとした上で、プラトンには弁証法の本性についてのそうした完全な意識はみられないものの、事実上そうした概念の運動を展開してはいる、と評価していたのでした。
 さて、今回は、ヘーゲルがプラトン弁証法について論じた部分の後半の要約を紹介することにしましょう。ここでは、プラトン弁証法の代表的な3つの著作、すなわち、『パルメニデス』『ソフィステス』『ピレボス』について、ヘーゲルが論じています。

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 a〔『パルメニデス』の弁証法〕

 『パルメニデス』はプラトン弁証法の最も有名な傑作であり、完成された本当の弁証法が含まれている。ここでは、パルメニデスとゼノンがアテナイでソクラテスと会うという形で登場させられるが、主な問題は彼らが語る弁証法である。パルメニデスは、普遍的規定から始める場合、そのような前提から出てくるものを考察せねばならないのみならず、もしそのような規定の逆が前提されたとすれば、そこから何が出てくるかをもさらに付け加えなければならない(例えば、多が存在するという前提から何が出てくるか考察するのみならず、多が存在しないという前提から何が出てくるかをも付け加えなければならない)のであり、このような考察に完全に習熟すれば、本質的な真理を認識することができるのだ、と説く。プラトンは弁証法的考察にそれほど大きな価値を置いたのである。『パルメニデス』における探究の成果は、終わりのところで次のようにまとめられている。「存在するにせよ、存在しないにせよ、一つのものは、それだけとしても相互の関係においても、そのもの自体であるとともに多くのものでもあり、――一切はどの点からしても存在するとともに存在せず、現われるし、現われない。」一つのもの、存在、非存在、現われること、静、動、等々の全く抽象的な諸規定をプラトンはイデアとみなしているのであって、したがってこの対話篇は本来の意味においてプラトンの純粋なイデア論である。

 新プラトン派の人々、殊にプロクロスは、『パルメニデス』におけるこの詳論こそ真の神学、つまり神的存在者のあらゆる秘密の本当の開示だとみなした。これを妄想にすぎぬということはできない。事物の本質が対立物の一体性だといわれる場合、直接に対象的な事物の直接的本質のみが規定されているように見え、神の認識(神学)とは違ったもののように見えるのは、我々が神的存在者に不可欠と考える契機――自己自身の内への曲げ返し――が欠けているからである。しかし、我々が認識と知との本性を知るならば、まさに概念こそは、単に直接的なものでも、単に自己を自己の内へ曲げ返すもの(意識のもの)でもなく、自己の内へ立ち戻ったものであるとともに、またそれ自体としても存在するものである(対象的存在者であり、一切の実在性である)ことが分かるはずである。ところがプラトンは、概念の本性に関するこの見方をそれほど明確には述べておらず、事物のこの本質が実は神的存在者と同じものであることもはっきりはいっていない。自己の内への曲げ返しは、プラトンの思弁の内に現存するが、この自己の内へ曲げ返されている状態は、表象の様式にしがって考えられた神として、何か世界とは切り離されたものにとどまっているのである。


 b〔『ソフィステス』の弁証法〕

 『ソフィステス』においてプラトンは、パルメニデスに反対して、非存在が存在すること、また自同的なものが同時に別のものであり、一が多でもあることを証明する。かくてプラトンは、真に普遍的なものを、例えば一と多、あるいは存在と非存在の一体性として規定した。存在と非存在とは2つながらあらゆる事物に具わっている。なぜなら、諸事物はそれぞれ違ったものであり、ひとつの事物はそれ以外のものとは違ったものである以上、否定的なものの規定もまたそこにあるわけだからである。

 この弁証法は、主として二様の考え方に対してたたかう。第一の相手は普通の意味での普遍的弁証法である。これは例えば、どんな事物についても、それが一であるとともにまた多でもあること――なぜならそれには多くの部分と性質があるのだから――を指摘するといったやり方である。この場合、或る物はそれが多であるのとは全く違った観点において一であるといわねばならないのだから、考えが一つにまとめられるのではなく、ある物を思い浮かべてそれについて語るかと思うと次には他のものを思い浮かべてそれについて語るというふうに往ったり来たりするだけである。これは対立物を本当に統一することのない空虚な弁証法である。あらゆるものをバラバラに分けるのではなく、或る物に対して一方のことが生じたのと同じ観点、同じ側面において逆の規定も指摘することにより、諸々のイデアを統一することこそ、本当の弁証法の仕事なのである。

 次にプラトンの俎上にのぼるのはエレア派の弁証法とその命題である。これはそれなりにソフィスト派の命題でもあり、すなわち、在るのはただ存在のみであって、非存在は全く存在しないという命題である。プラトンはソフィストたちがこのような主張によって真偽の区別を外したと非難する。私が感じたり表象したりするものは肯定的内容であり、したがって真であるとともに正しいということになれば、どんな悪行もどんな犯罪等々もなくなってしまう。プラトン弁証法はこの種の弁証法とは本質的に違う。

 プラトンは、絶対的な意味において普遍的なもの、善、真、美はそれだけで独立に存在するものと解されねばならないと考える。善い行為とか美しい人間などを考察すべきではなく、善とか美とかをそれだけ独立に解すべきであって、これが絶対的な意味での本当のものであるということである。神的な、永遠な、美しいもののイデアが真の実在であるという考えは、精神的なものの内への意識の高まりの発端であり、普遍的なものが本当のものであるという高い意識へ入っていく糸口である。思惟する認識は、この永遠な、神的なものの規定を問う。この規定は、どんなことがあっても普遍性を阻まないような自由な規定でしかない。自由はただ自己の内への逆戻りのうちにのみあり、うちに区別をもたぬものは命なきものである。それゆえ、能動的な、活き活きとした、具体的な普遍者は、自己を自己の内で割りながらそこでどこまでも自由であり続けるようなものである。このような在り方は、区別をもったもったものの内で自己と同一であるところにのみ成り立つ。これがプラトン哲学といわれるものの唯一の真諦である。


 c〔『ピレボス』の弁証法〕

 『ピレボス』においてプラトンは、快楽の本性を探究し、ここではさらに特に無限なものと有限なもの、あるいは無限定なものと限定するものとの対立が問題にされる。プラトンが快楽と知恵を対立させて論じる場合、それは有限なものと無限なものとの対立なのである。快楽といえば直接的に個的なもの、感性的なものに関わるが、それは火とか水とかのように単に元素的なものであって、自己自身を規定するものではないという点において無規定なものである。ただイデアのみが自己規定であり、自己との同一性である。プラトンは、感性的快楽を自己を規定することのない無限定なものとし、ただ理性のみが能動的な規定の働きだとするのである。しかし無限なものはそれ自体において有限なものに移行する。したがって完全な善は、プラトンによれば快楽と理性の混ざり合った生活である。

 このように真理は対立した物の同一性であることについてプラトンは、さらに考察を進める。例えば、冷と暖、乾と湿の統一によって健康が成立し、高音と低音、速いテンポと遅いテンポの統一によって音楽のハルモニーが成立するように、一切の美しく完全なものはそのような諸対立物の結合によって成立する。プラトンは、こうして造り出される第三のものを造るところの原因を前提し、これは働いてあの第三のものを生ぜしめるところのものよりもすぐれているという。かくてプラトンは4つの規定をもつことになる。第一は無限定(無規定)なもの、第二は限定されたもの(知恵はこれに属する)、第三は両者の混ざったもの(単に生じたもの)、第四は原因である。このものこそはそれ自体、区別されたものの一体性であり、主体性であり、対立物に対する支配力であり、自己の内なる対立に堪え得る強力なものである。この原因とは世界を司るところの神的理性のことにほかならない。
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2015年11月15日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(2/10)

(2)ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法 要約

 前回は、京都弁証法認識論研究会の10月例会において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそれに対して他メンバーからなされたコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、ヘーゲル『哲学史』の要約を紹介していくことにします。

 今回は、プラトン弁証法について論じられた部分の前半の要約です。ここではヘーゲルが考える真の弁証法とはどういうものなのか、その真の弁証法を基準として見た場合、プラトンの弁証法がいかほどのレベルにあるものなのであるか、論じられています。

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1、弁証法

〔プラトン弁証法の研究の困難〕

 真の弁証法は、純粋な諸概念の必然的運動を示すものであり、諸概念を無に解消させるものではない。この運動こそ純粋な概念であり、対立した諸概念の統一こそ普遍的なものなのである。弁証法の本性に関する完全な意識はプラトンには見られないが、しかし弁証法そのものがそこにはある。絶対的存在は、純粋な概念において認識されているし、これら概念の運動の叙述もある。プラトン弁証法の研究が困難なのは、普遍的なものが表象から展開され提示されるからである。このことは認識を容易にするかに見えて、かえって困難を増大させる。発端となる表象の場では、理性におけるのと全く違ったものが通用しているのだから、純粋な諸概念のなかだけで進行と運動が行われたほうが、概念は一層大きな真理性を獲得するからである。しかし、思弁的なものが唯一の真理性としてあらわれるのは感性的臆見の思惟への転化によるのだから、両者がそこで一緒になることが必要ではある。我々の意識のうちには、感性的に実在的なもの(直接に個的なもの)も存在すれば、何か究極的なものとみなされる知性規定も存在するが、後者のほうがもっと実在的であり唯一の真の実在であるというのが、プラトンの洞察なのである。


〔プラトン弁証法の3つの側面〕

 プラトン弁証法は、第一に、特殊的なもののうちに現存する否定を示すことによって特殊的なものを混乱させる効き目をもつ。プラトン弁証法の狙いは、人間の有限的表象を混乱させ分解させて、学知への要求、つまり存在するものへの思考を彼らの意識のなかで生み出すことにある。この存在するもの(感性的個物のうちにある普遍的なもの)をプラトンはイデアと呼んだ。

 弁証法の第二の側面は、人間のうちなる普遍的なもののみを意識にもたらすという側面である。我々なら雑作もなく持つような普遍的表象(真、美、善)を意識にもたらすのがプラトンの対話篇の多くの狙いであるだけに、我々はその冗漫さにしばしばうんざりさせられるのである。

 特殊なものを混乱させて普遍的なものを生み出すという最初の2つの側面は、まだ本当の形態における弁証法ではない。第三に、この普遍的なものを内容的にさらに規定していくのが、プラトンの目指す主要な側面なのである。この規定のはたらきは、思想における弁証法的運動が普遍的なものに対してもつところの関係である。なぜならこの運動によってイデアは有限なものの対立物を内に含むような思想へ達するからである。この場合、自己自身を規定するものとして、イデアはこれら区別されたものの一体性であり、そのようにしてそれは規定されたイデアである。普遍的なものは、諸矛盾を自己のうちで解消したものとして、内面的に具体的なものとして規定されている。したがって、矛盾のこの揚棄は肯定的なものである。このような一段と高い規定における弁証法が本来のプラトンの弁証法なのである。それは思弁的であるから、否定的な成果を持って終わることなく、かえってそれは相互に滅ぼし合った対立物の統一を示す。しかし方法の形式がプラトンにおいてはまだ純粋に仕上げられていないために、彼の弁証法自身はしばしば単に推論的で、個々の見地から出発して何の成果もなく終わっている。他面、プラトン自身は単に推論的なだけの弁証法に反対しているのである。その区別をはっきりつけるのがプラトンにとって容易でなかったことがうかがわれる。プラトンに始まるこの思弁的弁証法は、彼の著作のなかで最も興味深いものであるが、しかしまた最も難しいものである。


〔プラトンの思弁的偉大さと欠陥〕

 哲学史においてのみならず、世界史一般においてプラトンをして画期的な人物たらしめている彼の真に思弁的な偉大さは、イデアをさらに立ち入って規定したところにある。プラトンはまず絶対的なものをパルメニデスの存在としてつかんだが、それは類として目的であるような普遍者(特殊な、多様なものを支配し貫徹し生産するような普遍者)である。プラトンは、この存在を諸原理の統合として明確に規定し、ピュタゴラス的数規定の三幅対に含まれるような区別にまでもっていって、これを思想において言い表した。要するに、絶対的なものを、ヘラクレイトスの言うような生成における存在と非存在、一と多、等々の一体性と解したのである。さらに進んで彼は、エレア的弁証法(矛盾を指摘する主観の外面的働き)をヘラクレイトスの客観的弁証法へ採り入れた。そのため、物の外的変化性に、物自体(イデア)の、それ自身からまたそれ自身による内的移行がとってかわった。最後にプラトンは、ソクラテスがもっぱら主観の道徳的反省のためにのみ働かせていたその思惟を客観的なものとし、普遍的思想でも存在するものでもあるところのイデアとして定立した。かくて以前の諸哲学はプラトンによって論破されているからといって消え去るわけではなく、かえって彼のうちにあるのである。

 しかし、プラトンの欠陥は、この被規定性と普遍性(正、美、善、真)とが別のものとされていることである。弁証法的運動を成果に帰着させることによって、規定されたイデアを手に入れるというのは、認識における主要な一面である。しかし、プラトンが正、美、善、真について語る場合、これらのものの成り立ちは示されない。それらは成果として現れるのではなく、直接に受け入れられた前提として現れるのである。

 こうした純粋な思想を取り扱う最も難しい対話篇として『ソフィステス』『ピレボス』『パルメニデス』がある。
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2015年11月14日

2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学(1/10)

目次

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法 要約
(3)ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法(続) 要約
(4)ヘーゲル『哲学史』プラトン 自然哲学 要約
(5)ヘーゲル『哲学史』プラトン 精神の哲学 要約
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:プラトンの弁証法とはどういうものか
(8)論点2:プラトンの自然哲学とはどういうものか
(9)論点3:プラトンの精神の哲学とはどういうものか
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間の予定で、ヘーゲル『哲学史』(岩波全集版)に取り組んでいます。一昨年のヘーゲル『歴史哲学』、昨年のシュヴェーグラー『西洋哲学史』の学びを踏まえて、この『哲学史』を通読することで、ヘーゲルが描く哲学史の流れを理解することはもちろんのこと、それを唯物論的に捉え返すことで唯物論哲学の創出に向けた第一歩を確実に歩んでいくことを課題としているわけです。

 10月例会では、プラトンの弁証法、自然哲学、精神の哲学について論じられている部分を扱いました。今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介したあと、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、ついで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を紹介します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにしましょう。

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京都弁証法認識論研究会  2015年10月例会
ヘーゲル『哲学史』 プラトン 弁証法〜精神の哲学

【1】弁証法
 ヘーゲルは、真の弁証法は純粋な概念の必然的運動を示すものであり、対立した概念の統一こそがプラトンに見られるとしている。また、プラトンの弁証法には、特殊なものを混乱させ、普遍的なものを生み出すというほかに、この普遍的なものを内容的にさらに規定するという側面もあると説く。このようなプラトンの弁証法は、思弁的であるから、否定的な成果をもって終わることなく、かえって、相互に滅ぼし合う対立物の統一を示すという。
 ヘーゲルは『パルメニデス』はプラトン弁証法のもっとも有名な傑作であり、その根本主題は一と多の対立の解決であると説いている。ヘーゲルによると、神的存在者には自己自身の内への曲げ返しという契機が不可欠であるが、概念こそは、自己の内に立ちもどったものであるとともに、またそれ自身としても存在するものである。だがプラトンは、事物のこの本質が実は神的存在者と同じであることをはっきり説いていないと、ヘーゲルはいう。
 『ソフィステス』では、存在と非存在の対立の解決が主題であるが、この解説部分で、ヘーゲルは、諸々のイデアを統一することこそが、本当の弁証法の仕事であると説き、プラトン弁証法は、普通の意味での普遍的弁証法、およびエレア派の弁証法に対して戦うと述べている。
さらにヘーゲルは、『ピレボス』において、快楽の本性が探究され、特に無限なものと有限なもの対立が問題にされるとしている。プラトンがもつとされる4つの規定、すなわち、無限定なもの、規定されたもの、両者の混ざったもの、原因のうち、ヘーゲルは原因こそが区別されたものの一体性であり、主体性であり、対立物に対する支配力であるし、世界を司るところの神的理性であるとしている。

〔報告者コメント〕
 ヘーゲルは、プラトン弁証法は「相互に滅ぼし合う対立物の統一」であるという。これは、何か安直に結論できるような対立物の統一ではなくて、ヘーゲル流にいえば、「純粋な概念の必然的運動」の結果(果てに)、ようやくにして実現するような真の対立物の統一である、ということではないだろうか。プラトンはその対話篇の中で、パルメニデスやヘラクレイトスなど、プラトン以前の哲学者の説を登場させ、それらを踏まえた対話によって、それらの説を否定しきるのではなく、止揚することによって自らのイデア論を打ち立てている。これは、ヘーゲル流にいえば「純粋な概念の必然的運動」であろうが、唯物論の立場からすれば、無数の討論の結果、ようやく諸々の対立する見解を統一するような高次な見解が出てくる、ということを意味していると考えられる。要するに、対話に次ぐ対話、討論に次ぐ討論によって、諸々の見解が止揚されていって、一つの統一した見解が生まれるということこそが、プラトンのいう弁証法だと考えられる。このような弁証法を、ヘーゲルは高く評価しているのであろう。


【2】自然哲学
 ヘーゲルは、『ティマイオス』において、イデアが具体的な被規定性として出てくると説いている。プラトンは、世界は神的なイデア界の似姿であり、神的理性の芸術作品であるとしている。
 プラトンは、火なしでは何ものもみられず、地なしでは何もの触れることができないのだから、神は始めに火と地を造った、という。そして、両者をつなぐきずなは主体的、個体的なものであって、他のものを侵してそれと自己を同一にする力であるとされる。これをヘーゲルは概念を含んだ純粋な表現であると評価している。ヘーゲルは、思弁的内容の主眼点は、相互に結合する両端の同一性であって、換言すれば、中間のものにおいて表わされた主語は、何か他のものとではなく、かえって自己ならぬ他のものを通じまたこの他のもののなかで自己自身と一緒になるような何らかの内容であり、これが言葉を換えれば神の本性なのであると説いている。
 さらにプラトンは、神は火と地の間に空気と水を置き入れ、世界に心を与え、自己自身に知られなじんだ存在者を成立せしめ、世界を至福至幸なる神として生んだ、という。ヘーゲルはここに関して、世界心によってひとつの全体性となる世界にこそ、イデアの認識が存するのであり、中間者および同一性としてのこの創られた神にしてはじめて真の絶対的存在者といえると評価している。
 ヘーゲルはプラトンのいう時間にも触れている。プラトンは、永遠なものの模像として、天体の運動がある第二のものが存在し、数で表されるような運動をするこの永遠な像こそ、我々が時間と呼ぶところのものであるとしている。

〔報告者コメント〕
 非常に難解で、ヘーゲルが何を言おうとしているのかは、なかなか理解できない。しかし、ここは前節の「弁証法」の具体化として理解しなければならないのではないか、という気がする。火と地という対立物が、空気と水という媒介物と三位一体となって、止揚され、統一されて、この神的な世界は成立してきたのだ、プラトンの自然哲学を、ヘーゲルなりにとらえたのではないだろうか。ヘーゲルの捉えたプラトンの「神」概念も、他者になった後に、それを踏まえて自己に復帰するような自己運動する概念として捉えられているのだろう。


【3】精神の哲学
 ヘーゲルは、プラトンの学説中、精神の側面に属するもので我々の関心を惹くのは、人間の道徳的本性に関するプラトンの思想であり、これは『国家』で明らかにされているという。『国家』の最初の主題は正義とは何かであり、社会契約説を批判ながら、正義は国家においてのみ存在するとヘーゲルは説く。
 プラトンの『国家』は、何か理想を説いたように解釈されるが、ヘーゲルはそうではなく、ギリシャ道徳をその実体的なあり方において描いたのであり、ギリシャ的国家生活がプラトン的国家の真の内容を成すと断言する。そして、プラトン的国家では、個人が普遍性に対立するということがないという。プラトンは正義を立ち入って論じるなかで、道徳的共同体の器官を剖いて、道徳的有機体を生かす契機を3つの形態で考察している。身分としては治者(学者)、戦士、耕作者と手工業者であり、対応する徳としては、知、勇気、抑制であり、それらの土台として正義があるという。
 プラトンは、国家を維持するためには、各人の使命である仕事が各人の特有な在り方となり、個人の習俗的行為および意志として現存するようにしなければならないと説く。とりわけ、治者の人間形成は哲学によって行われるべきだとしているとヘーゲルは紹介している。
 最後にヘーゲルは、主体的自由の原理を排する立場こそ、プラトン的国家の主要な特徴であり、個体性のあらゆる側面が普遍的なものの内に解消されること、全ての人がただ普遍的人間としてのみ意味をもつことに、プラトン的国家の精神が本質的に存する、と主張している。

〔報告者コメント〕
 この部分は、プラトンの国家論として有名な箇所であろうが、単にプラトンの国家論の内容を理解するだけではなく、それをヘーゲルはどうとらえて、どう評価したのかを理解することが肝要であろう。ここでも、「弁証法」の箇所とつなげて理解することが大切だと思われる。
 ヘーゲルは、プラトンの国家を、いくつかの対立する徳の統一として把握しているのではないか。人間においてもいくつかの器官が調和的に統一して一人の人間となっているように、国家においてもいくつかの徳を備えた器官が調和的に統一することによって、有機体として存在できるのだ、ということを説いているのではないだろうか。
 また、国家を全体として捉え、その中に社会的労働が存在すると捉えている点も、評価に値するといえよう。社会契約説のように個々の人間がまずいて、それが集まって社会(国家)をつくるというのではなく、国家がなければ(社会的)労働も存在し得ないと考えているのである。プラトンの国家論が主体的自由の原理を排除している点をヘーゲルは否定的に見ているようであるが、ヘーゲル自身が説くように、哲学は時代の哲学なのであるから、しかたのないことであったのだろう。

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 以上の報告に対しては、ヘーゲルの言葉(翻訳された文章)そのままを使うのではなく、報告者なりの言葉に置き換えて分かりやすく説きなおす努力がみられ、それなりにポイントを押さえて流れは分かるように纏められているのではないか、という感想が出されました。報告者からは、難解な範囲であったこともあり、特に自然哲学の部分は表面をなぞったようなものにしかならなかった、という反省の弁も出されましたが、ともかく報告の形式として、自分なりの言葉に置き換えて説く努力を重ねていくことが大切だろう、という指摘もありました。
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2015年11月13日

夏目漱石を読むD――道草、明暗(2/2)

(2)『明暗』――社会的環境に規定された認識の絡み合いを客観的に描く

 漱石読書会の第12回(一応の最終回)に取り上げたのは未完の大作『明暗』(1916〔大正5〕年、「朝日新聞」に5月26日から12月14日まで連載され、作者病没のため188回までで中断、1917〔大正6〕年に岩波書店から刊行)です。

 読書会の場では、まず「物語が佳境を迎えようとするところで突然中断させられてしまうのは非常に残念だが、それまでの部分で十分に堪能できる。やはり漱石の他の作品とは別格の見事な小説であると思った」との感想が出されました。「物語世界がきちんと構造化されて、しっかりと伏線が張り巡らされているし、諸々の登場人物の造形も見事である。主人公は津田由雄(30歳)およびその新妻・お延(23歳)であるが、いわば「公平な観察者」の視点で両者を扱っており、お延の内面にぐっと入り込んで、お延が主人公のように進行していく個所が多々あるのは、これはそれまでの漱石作品にはなかったものだろう」とのことでした。

 このことに関連しては、この『明暗』では、人間の認識というのは社会的環境に規定されてつくられていくということが実に見事に描かれているといえるのではないか、という指摘もなされました。このことは、裕福で余裕のある吉川夫人、不安定な中間階層たる津田、貧困で自棄になっている小林の三者を並べてみただけでもよく分かるのであって、社会的格差の問題を根底に据えて実に見事に登場人物が造形されているといえるのではないか、とのことでした。

 ここからさらに踏み込んで、この『明暗』では、物語世界の構造化において社会的な格差の問題が下敷きとなっており、人間と人間との関係がカネとカネとの関係として現われてしまうことが重要な要素となっていることが注目される、という指摘もなされました。もう少し詳しくいえば、津田夫婦を真ん中において、カネの力で人間を支配しよう(意のままに動かそう)という上層の世界(津田の上司の妻である吉川夫人によって代表される)と、カネがないために諸々の社会的な関係からの疎外感を痛切に味わっている下層の世界(津田の友人で、食い詰めて朝鮮に渡ろうとしている小林によって不気味に代表される)が広がっています。津田は上層の世界に対して従順であろうとするわけですが、津田に絶対に愛されたいなどというお延は上層の世界の秩序を乱しかねない(上層の世界からみれば)危険な存在にほかなりません。いささか乱暴に単純化していえば、津田には主体性がなく(露骨にいえば、吉川夫人の意図通りに動くのが自分の社会的地位を確かなものにするのだと割り切っている)、お延には強烈な主体性があります。とはいえ、結局のところお延も、上層の世界に視点を向けて、自らをよく見せたい(夫から深く愛され、夫を意のままにする悧巧な妻として見られたい)という虚栄心に縛られているだけだという点には注意が必要だろう、という指摘もなされました。

 このほか、漱石の描く会話の緊迫感の見事さには感動した、という感想も出されました。とりわけ、お延とお秀の対決の場面、会話による戦争とでもいうべき場面の見事さは特筆すべきものがあるのではないか、ということでした。ここでは、お延が諸々の像を描きつつ、それをひとつの言語に収斂していく過程が、非常に分析的に描かれています。他愛もないといえば他愛もない会話ですが、それをここまで手に汗握る展開に仕立て上げた漱石の筆力はやはり素晴らしいものがあるだろう、ということでした。

 さて、この作品は未完ですから、漱石がどのような結末を想定していたのか、具体的に知ることはできません。津田はいざというときに自身のあり方を改めて主体性ある人間になれるのかなれないのか。お延は(ともすればカネで人間を自由に動かそうとする)上層世界の価値観から自由になれるのかなれないのか。こうした問題に、自分には世の中がなく人間がないといいカネをぞんざいに扱って見せる小林(これはあらゆる社会的なしがらみから自由であるという強みでもある)がどのように絡んでくるのか。津田が読んでいた「経済学の独逸書」(マルクス『資本論』のことだとされます)は物語の結末に向けた展開に何らかの役割を果たすのか果たさないのか。物語の結末に向けて、様々な疑問が提起されました。

 あるメンバーからは、認識論の高いレベルの実力があれば、晩年の漱石に二重化して『明暗』を見事に書き継ぐことができるのではないか、『明暗』の結末について明瞭に語れるかどうかということこそが、漱石の思想のレベルをしっかりとつかむことができたかどうかの試金石になるのではないか、という提起がありました。こうした提起を受けて、他のメンバーから、実際に『明暗』を書き継いだ試みとして、水村美苗『続明暗』(ちくま文庫)、田中文子『夏目漱石『明暗』蛇尾の章』(東方出版)、粂川光樹『明暗 ある終章』(論創社)という3作品が存在することが紹介され、一応全てに目を通してみたもののいずれも決定打に欠ける感は否めなかった(例えば、『続明暗』は漱石的文体の模倣が上手くなかなか読み応えはあったが、小林の扱いに物足りなさ〔違和感〕が残る)、という感想が述べられました。その他、多くの作家や評論家による『明暗』の結末をめぐる発言についても、同様にいずれも決定打に欠ける印象があることが語られました。

 読書会に参加していたメンバーからは、『明暗』の結末について、「津田が清子と再婚するような展開になるのではないか。これまでの作品でも略奪愛的なものが色々あったが、それらは『門』の宗助にしろ『こころ』の先生にしろ略奪した側が主人公だったので、『明暗』では略奪された側が取り返すという新境地が開かれることになるのではないか」「優柔不断な津田が危機に直面したからといって主体的な人間に早変わりできるとは到底思えず、結局津田は破滅するほかないのではないか。物語世界で複雑に絡み合った諸問題を片付けるためには、強い意志を持ったお延とあらゆる社会的なしがらみから自由な小林が何らかの形で結びつくことが必要となるのではないか」といった予想が語られました。

 この問題については引き続き議論していくことを確認して、読書会は一応の終了となりました。

(了)
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2015年11月12日

夏目漱石を読むD――道草、明暗(1/2)

目次
(1)『道草』――「公平な観察者」的な視点の獲得
(2)『明暗』――社会的環境に規定された認識の絡み合いを客観的に描く

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 京都弁証法認識論研究会では、昨年の6月より、月に1冊のペースで、夏目漱石の中・長編小説を読んで感想を交流しあう場を設けてきました(これは、漱石が描く小説中の諸人物の心に着目すると同時に、それらを書いている漱石自身の心〔認識の発展〕にも着目していく、という二重の観点から、認識論の学びを深めていくためのものでした)。

 本稿では、その第14回目、第15回目の議論の様子を紹介することにします。作品としては最後の2つ、『道草』『明暗』が対象となります(漱石読書会はこれで一応の終了です)。

(1)『道草』――「公平な観察者」的な視点の獲得

 漱石読書会の第11回目に取り上げた作品は、『道草』(1915年〔大正4年〕、「朝日新聞」に6月3日から9月14日にかけて連載)です。これは漱石の自伝的作品であり、『吾輩は猫である』執筆の頃の生活の様子がもとになっているとされています。大学教員として忙しい日々を送る主人公・健三のもとに、かつて縁を切ったはずの養父・島田が思いがけなく現われ、金銭を要求します。健三は何とか工面して一応の区切りをつけるものの、これでようやく片が付いた、と喜ぶ妻に対して「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」と苦々しく吐き出すのです。

 読書会のなかではまず、あるメンバーから「漱石の思想を研究するという問題意識からすれば、この『道草』は非常に興味深い作品であるが、冷静に純粋にひとつの小説としてみた場合、果たしてこんな話が面白いのだろうか、と思わざるを得ない面もある。私自身は漱石の思想的発展への興味が強く、この作品も何度も読み込んでいるので、そのあたり何とも判断しがたくなってしまっているのだが、今回初めて読んでみた方がいれば、率直な感想が聞いてみたい」という提起がありました。

 これに対しては、初めて読んだというメンバーから「ひとつの物語としてみれば、確かに尻切れトンボというか『えっ、カネを渡してそれでおしまい!?』といった戸惑いはなくはなかったが、そうした結末に至る過程についていえば、健三やお住(健三の妻)の認識の動きがなかなか見事に描かれていて、それなりに楽しめるものではあった」という感想が出されました。

 この感想に関連して、健三とその妻の認識のすれ違い見事に描いた個所として、家計の困窮を知った健三が、仕事を増やして受け取った報酬を封筒のまま畳に放り出して妻に渡すシーンが指摘されました。

「その時細君は別に嬉しい顔もしなかった。然し若し夫が優しい言葉に添えて、それを渡して呉れたなら、屹度嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三は又若し細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。」


 ここでは、互いが相手の責任のみを強調し、自分の非には一切気付かないでいることが暴かれているわけです。

 このことに関連して、健三(他ならぬ漱石自身をモデルに造形された人物)の言動・思想を非常に高い視点から批判するような個所が少なからずみられることこそが、『道草』の最も重要な特徴なのではないか、という見解が示されました。「先生」が自らの死と引き換えに自らの暗い過去を明かした『こころ』の後に、こうした漱石自身の過去に鋭い分析のメスを入れるような作品が書かれたということを、重く受け止めるべきではないか、『こころ』の「先生」に徹底して自身の暗い過去を暴かせたことによってはじめて、漱石は他ならぬ自分自身の過去を徹底的に掘り下げていく決意を固めることができた(そのような問題意識を抱くに至った)、いうことではないだろうか、という見解です。

 そこからさらに踏み込んで、この『道草』の趣意は、自分自身を周囲の人間よりも立派だと信じて疑わない健三の思い上がりを批判するところにあったといえるのではないか、という見解も示されました。物語中、健三自身、このことには薄々気づき始めている節があります(例えば、第67章において姉について「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ」という反省を強いられるところは印象的)が、より高い視点からの批判が折々に挟まれることによって、健三が(より高い視点から)批判されているという印象は強められています。作家生活のスタート地点で『野分』の白井道也を理想的な高邁な人物として描いたところから、『こころ』の「先生」を自殺させてしまったところにまで至って、漱石は徹底した自己批判(健三批判という形を借りての媒介的なものですが)を試みなければ、それ以上作家として前に進むことができなくなっていた、ということなのかもしれない、ということでした。

 同時に、かといって健三が細君や姉などと同レベルの存在として片づけられてしまっているわけでもないことが指摘されました。『道草』の最後の部分では、ただ形式的にのみ片がつけばそれでよしとする周囲の人物(細君の御住を筆頭に)との対比で、健三がそういう上っ面に騙されず、片付かないという本質をしっかりと掴んだ上で、なおそれを片付けなければならない意志を示しているのです。この点で、健三は周囲の人物よりも間違いないなく優位にあるといえます。ここに、これ以降の漱石の作家としての方向性が示されているということができるかもしれない、という指摘もなされました。

 このほか、漱石の諸々の作品を形作る要素は、他ならぬ漱石自身の現実の生活のなかにあったのだな、ということを強く感じさせられる作品であるところが興味深い、という感想も出されました。このことに関連しては、健三と御住の夫婦関係は、『行人』の一郎と御直の夫婦関係を彷彿とさせる、という指摘がなされました。健三は我儘に育てられた結果、世間と調和できなくなっているのであり、細君など自分の思い通りになって当然だと考えています。一方、御住は御住で、どうとでもしろ! と開き直ったような強さを持っています。これはまさに『行人』の一郎・御直の夫婦関係についての謎解きとして読めるのではないだろうか、ということでした(『行人』については「夏目漱石を読むC」を参照のこと)。

 ただし、『道草』の夫婦関係の場合、『行人』の夫婦関係のように暗さ一辺倒で(悪い方向へとどんどん深刻化していくように)描かれるわけではなく、緩和剤としての細君の病気(歇斯的里)の効果もあって、微かな明るさというか救いのようなものも感じられるのが興味深い、という感想も出されました。これは、『道草』が、健三も御住をも平等に見渡すような、いわば「公平な観察者」の視点で、それぞれの言い分をある程度までは認めつつも、しかも批判すべきところは批判する、というような視点で描かれていることによるのかもしれない、ということでした。一種の客観性というか、余裕のようなものが感じられる、というわけです。

 このことに関わっては、『行人』の場合、御直の内面に分け入っての記述はない(あくまでも一郎や二郎あるいは母親など、周囲の人物から見ての彼女の姿が描かれるだけであった)のに対して、『道草』の場合、御住の内面に分け入っての記述がかなりあることが指摘されました。漱石が女性の内面をまともに描けるようになったのはようやく『明暗』においてである、という評価もあるわけですが、そうした飛躍の準備は、この『道草』においてしっかりとなされていたのだ、ということになるのではないか、ということでした。

 このほか、『道草』に描かれた漱石の実生活と漱石の作品世界との連関ということについて、過去がどこまでも追いかけてくるというモチーフ(『道草』においては島田や御常という具体的人物の形をとって登場する)は『虞美人草』『それから』『門』などに共通しているし、社会全体から見捨てられたという疎外感(第91章「健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた」)は『猫』において滑稽な衣をまとって表現され、続く『明暗』の小林という姿をとっていくことにもなるのではないか、という指摘もなされました。
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2015年11月11日

フロイト『精神分析入門』を読む(下)(5/5)

(5)フロイトは異常な認識の論理化を試みた

 本稿は,「フロイト『精神分析入門』を読む(上)」の続編として,『精神分析入門』の神経症論の部分を読み解いていく試みでした。ここまでの流れをふり返っておきたいと思います。

 初めにフロイトは,神経症の諸症状には,錯誤行為と同じように意味があるということを論じていました。ある強迫神経症を患う婦人の症例では,夫の性的能力を疑いそうな女中に対して,「いいえ,それは真実ではありません。夫は女中に対して恥をかくことはなかったのです。夫はインポテンツではありません」というメッセージを発しているのだ,これこそが彼女の強迫症状の意味なのだ,ということでした。これは10年前の結婚当初の体験に由来し,当時満たされなかった願望を代理的に充足させる目的を帯びた症状なのでした。このように神経症患者は,過去のある時点,それもかなり早期の段階に縛りつけられています。このことをフロイトは「固着」と呼んだのでした。神経症の症状は,その時点での外傷体験に由来し,当時満たされなかった願望を代理的に充足する目的があるのだと説かれていました。しかし症状に悩んでいる患者は,この症状の意味(由来と目的)を意識はしていません。意識すれば,症状よりも強い不快な感情が想起されるので,治療者がこれを意識させようとしても,患者は必ず「抵抗」します。意識すれば不快に感じる心的内容を,無意識の領域に抑圧しようとするわけです。ここでフロイトは,新たに「前意識」という,無意識と意識を媒介する概念を導入しました。大きな無意識の部屋と隣接する小さな部屋(=前意識)には意識が腰をすえていますが,両部屋の敷居のところには,夢の作業のところで登場した検閲者が番人として控えており,番人が許さなければ前意識の部屋には入れませんし,その部屋に入っても,意識の視界に入らなければ意識にのぼることはない,という比喩でフロイトは説明していました。この後,フロイトは人間の性生活について説きました。性生活には,性の対象や目標が変わっている倒錯も含めること,そうすれば幼児期から性生活が始まっていることが分かること,性的な欲動を発現させる力を「リビドー」と名づけること,などが説かれていました。

 続いてフロイトは,リビドーの発達やそれに関わる症状形成の経路について説いていきました。フロイトは,性的な欲動=リビドーは,子どもの成長にともなって,口から肛門,そして異性の親へ(さらに潜伏期を経て性器へ)と,次々とその向けられる対象が変わっていくと論じていました。そして,異性の親に愛情を感じ,同性の親に敵対心をいだく時期をエディプス期,その状態をエディプスコンプレクスと呼び,フロイトは神経症にとって大きな意義があると説いていました。それは,エディプスコンプレクスを適切に解決できず,抑圧してしまったのが神経症患者であり,エディプス的な葛藤が形を変えて現れたのが神経症の症状である,ということでした。このエディプスコンプレクスは,倒錯的で近親姦的な願望や身近な人間に対する強い敵意として,夢を形成する願望としてもしばしば登場することにも触れられていました。続いてフロイトは,神経症の病因を検討していきました。それは,リビドーの満足をえられないという外的な拒否,固着した段階までの退行,および,退行した段階でのリビドーと自我欲動との葛藤の3つでした。さらに,症状は退行した時点での性的欲求の充足を求めるものであり,その欲求は,夢の場合と同じく検閲によって自我が許容できるものに歪められているのであり,それでも自我にとっては苦痛であるに違いない,そのような意味で症状は,リビドーと自我の妥協の産物なのである,ということが説かれていきました。また興味深い指摘しとして,フロイトの「神経症の世界では心的現実性が決定的なものである」という説を紹介しました。すなわち,フロイトが神経症の発症の要因としている幼児期の体験は,必ずしも真実なのではなく,本人が歪めて記憶している内容であることも多いということでした。

 次に,フロイトが説く不安論について見ていきました。フロイトによると,不安には,現実不安と神経症的不安があるということでした。前者は,外界からの危険を認知した時の反応であり,逃避反射と結びついているということでした。これに対して神経症的不安は,抑圧されたリビドーが転換されたものだと説かれていました。どのような感情が抑圧されても,それは不安に置き換えられるのであるから,不安は広く通用する貨幣のようなものであるとフロイトは説いていました。さらに,一般に症状は,不安の発生を免れるために形成されるとも説かれていました。要するに,現実的不安は外界からの危険に対する反応であるのに対して,神経症的不安はリビドーに関連する内的な危険に対する反応である,ということであり,さらに神経症的不安に対する防御方策として症状が形成されるのである,ということでした。恐怖症の強い不安も,抑圧された恐怖心などが形を変えたものだということでした。『精神分析入門』の最後の2講を使って,フロイトは治療論を展開していました。治療の目標は,無意識の意識化であり,抑圧の解消であるが,その過程で必ず感情転移という抵抗を患者が示すとしていました。これは,もともと親など身近な人に向けていた感情が,治療者に向けられるようになるという現象でした。これは昔の葛藤の再現であり,新しく作られた症状であるから,これを対象に治療を進めていき,抑圧とは別の結末に導くことが治療であると説かれていました。リビドー論的にいうと,リビドーを抑圧した状態では,抑圧するためにもかなりのエネルギーを使ってしまうために,楽しみを味わったり仕事をしたりすることができなくなるので,抑圧を解除してリビドーを自我が自由に使えるようにすることこそが治療である,ということでした。そしてそのためには,リビドーの代償満足を与える症状の発生したところまでさかのぼって,症状を発生させた葛藤を治療者との関係の間に再現させ,この葛藤を抑圧以外の適切な処理の方法へともっていく必要がある,と説かれていたのでした。最後の部分でフロイトは,神経症患者の夢も正常な人間の夢も本質的には同じであり,また健康人もある程度抑圧を行っているのだから,潜在的な神経症患者ということもできる,両者の違いは量的な差異でしかないと論じられていたのでした。

 さて,以上のようなフロイトの神経症論は,認識論の発展上,どのような意義があったといえるのでしょうか。最後にこの問題を考えてみたいと思います。

 端的にいうと,神経症という異常な認識についても,真正面からこれと取り組み,一定の論理化を果たしたという点こそ,フロイトの神経症論の歴史的な意義であると考えられます。南郷継正先生も説かれているように,まともな認識論を構築したければ,正常な認識だけではなく,異常な認識もしっかりと扱えなければなりません。異常な認識について,「それは例外だ」とか,「複雑怪奇で謎だらけなので扱えない」といっているようでは,認識の論理を説いたことにはならず,認識の理論化など夢のまた夢となるでしょう。その点,フロイトは異常な認識から逃げずに,むしろこれに積極的に取り組み,それなりに一貫した論理を導き出せたというのは見事であると評価できると思います。

 フロイトがこのように異常な認識に関わるそれなりの論理を導き出せたのは,やはり臨床家として数多くの患者の治療にあたったというのが大きいと思われます。フロイトは,リビドーというような生得的な心的エネルギーを想定したり,認識を空間的に(延長のあるものとして),あるいはのちにエス・自我・超自我というような実体的なものとして捉えたりしている点では,観念論的だということができるでしょう。しかし,彼の観念論は,まったくアタマの中だけで思索して導き出したような屁理屈ではなくて,無数の臨床実践の事実を基に引き出されたものであったといえます。ただ彼には,学問的な訓練,学的論理能力を養成するような過程が不足していたために,最終的な理論化にあって観念論とならざるをえなかった,というだけではないかと思われます。

 正常な認識と異常な認識とのつながりについて,フロイトが説いている箇所があります。フロイトは,前意識という概念を導入するに当たり,無意識という大きな部屋と,それに隣接する,意識が腰をすえる前意識という小さなサロンの喩えを出した後,次のように説いています。

「そこで,もしみなさんが,神経症の症状を説明するために私がここで仮定したような心的装置のこのような構造は,一般にも広く当てはまるものであるから,心の正常な機能をも説明してくれるにちがいないと言って下さるならば,それは私にはたいへんありがたいことなのです。むろんみなさんのこのお考えは間違ってはおりません。われわれは今この推論に従って考えを進めて行くことはできませんが,しかし病的な事情を研究することによって,正常な心的現象という,しっかりと覆い隠されているものを解き明かす見通しがつくとするならば,症状形成の心理学に対するわれわれの関心は,異常に高められざるをえないのです。」(『精神分析入門(上)』,新潮文庫,pp.415-416)


 すなわち,異常な認識を対象として導き出した意識・前意識・無意識という構造は,正常な認識の機能を解明するうえでも役に立つということです。これは,異常な認識に取り組む中で,これまで明らかにされていなかった認識一般の構造が明確になってきた,ということでしょう。フロイトは異常な認識を対象として論理を導き出し,それなりの一貫した原理で人間の認識を説くことができました。だからこそ,錯誤行為や夢と神経症の繋がりも論じることができたのですし,後にフロイト理論は文化論にも適用されていくこととなったのでしょう。

 その他,フロイトの神経症論で評価できる点としては,正しいか否かは別にして,神経症の病因論をしっかりと説いたという点も挙げられます。病気になる原因が明らかになれば,自ずと治療論も浮かびあがってくるわけで,フロイトの論の展開は,まさしくそのようになっていました。なぜこのようなことをあえて指摘するのかといえば,現代の精神医学においては,病因は問題にされないことが多いからです。現象形態ばかり,症状ばかりに目を向けて,それで客観的な診断だと誇っているのが,現状なのです。本当の治療を目指すのであれば,当然になぜ病気になったのかの原因を明らかにしていかなければなりません。このような病因をしっかり特定しようとした姿勢も,フロイトに見習うべきだといえるでしょう。

 他にも,本論でもいくつかの箇所で触れたように,問いかけ的反映のあり方をそれなりに掴んだ点や,幼児期の体験の重要性=過去像の影響力の大きさを指摘した点,認識=像は身体にも影響を与えるほど威力をもっていることをそれなりに見抜いた点,認識の発達段階をそれなりに論理化した点なども,評価できる点だといえるでしょう。

 しかしフロイトは,しっかりと認識の本質論に統括された学問体系を構築し得たわけではありません。唯物論の立場を堅持して,異常な認識をも含めて,認識の論理構造を一貫して説ききることは,われわれに残された課題であるといってもいいと思います。筆者はフロイトの遺産をしっかりと受け継ぎ,フロイトと同じように日々臨床実践を行うとともに,論理能力養成のための研鑽も継続して,しっかり唯物論の立場に立った科学的認識論を構築することを約束して,本稿を終えたいと思います。

(了)
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 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
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 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
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 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
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 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
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 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2