2015年09月30日

学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想(2/5)

(2)唯物論を自らの頭脳の内に創り出していく

 本稿は,「自らの頭脳を学問化可能なものとしていくための実践とはどういうものか」,すなわち,「学問上達論とはいかなるものかを明らかにする目的で,『哲学・論理学研究(1)』を読み解いていく試みである。

 今回は,「第1編 学的世界観から成る哲学の構築を目指して」「第1章 学的世界観について」に関わる内容を確認したい。すなわち,学的世界観とは何か,唯物論を把持し続けるとはどういうことかを明らかにしたい。

 三浦つとむさんや南郷継正先生に学んでいるわれわれとしては,唯物論の立場に立つということを,何か当たり前のように捉えてしまっているきらいがある。そして分かったつもりになってしまっている。しかし,ここは何度も何度も確認して,しっかりと理解しておく必要があると思う。このことは本書でも厳しく説かれている。

「ここですべての会員に厳しく求められるのは,学的世界観としての唯物論を把持する,ということである。この世界観としての唯物論の把持ということについては,研究会創設以来,つとに教育してきていることなのだが,とりわけ初学者にはこの重要事がなかなかぴんとこないようである。世界は物質的に統一されているということを知識的に覚えておしまい,となるものが少なくない。しかしながら,唯物論を把持し続けるということはそうそう生易しいものではないのである。自分の専門領域全体を徹頭徹尾,世界は物(一般)そのものから成立しているとして,物から物への生成発展を体系性として事実的のみならず,加えて論理性・構造性としても説ききることであり,敢えてとけば自分の独力で,自己の新頭脳を創り出していくにも等しいことなのであるから。」(pp.20-21)


 ここでは唯物論を把持し続けるということは知識的に覚えておしまいというような生易しいものではなく,自分の独力で,自己の新頭脳を創り出していくにも等しい難行であることが説かれている。

 そして,「世界観としての唯物論を自分で自らの頭脳の内に創り出していくこと,それが学問的な頭脳の創り方の第一歩である」とした上で,会員からの「唯物論を自分で創ってみるとはどういうことなのか?」という質問に答えていく。

 ここまでの流れをまとめてみると,学的世界観としての唯物論を把持し続けるということは,自己の新頭脳を創り出していくことにも等しいことなのであり,具体的には唯物論を自分で頭脳の内に創り出していくことであるということである。そしてこれが,学問的な頭脳の創り方の第一歩である,すなわち,学問上達論である,ということになるであろう。「唯物論を自分で創り出す」というのは,非常に新鮮な言語表現であるが,考えてみれば唯物論も認識の1つのあり方であるから,これは初めから存在するものではなく,頭脳の中に創り出していくものであることは当たり前であり,そうであれば,その創り出し方が問われるということになるのである。

 では,唯物論を自分で創ってみるとはどういうことなのか。筆者なりに理解した限りでは以下である。すなわち,自分たちの専門分野で使っている数式などを一つ一つ具体的に挙げてみて,それをどういう対象にどのように用いているのかをも踏まえて,それは観念論なのか,唯物論なのかとあれこれ考えてレポートに書いていくということである。そうやって自分の扱っている問題で一つ一つ思索を重ねていくことが,唯物論を自分で創り出していくことにつながっていくとされている。

 本書では「1+1=2」という,非常にシンプルな数式が例として挙げられており,その例で説かれている。このような数式も,どういう状況で,どういう認識で用いていくのかによって,唯物論にも観念論にもなりうるとされている。もう少し具体的にいうと,リンゴのように足し合わせてもその実体が変化しないような対象に対して,そういう限られた特殊な条件のもとで共通性を取り出したものであるということをしっかり認識しながら用いるのであれば,それは物が観念に先行しているのだから唯物論的といえるのである。しかし,この数式をすべての物の関係性において成り立つと思って,無条件に世界全体に押し付けてしまったら,それは観念を物よりも先行させているのだから,観念論的な考え方となってしまう,と説かれている。

 このように,自分たちの専門領域で正しいとされている数式なり法則なり原理なりを,それが導き出された条件・過程をしっかりと確認して,今適用しようとしている対象はその条件に当てはまっているのかを,しっかりと思索していく必要があるのであり,これこそが唯物論を自分で創り出していく,ということになるのであろう。

 ここでもう一つ,考えてみたい問題がある。それは,本書の第一編のタイトルに関してである。「学的世界観から成る哲学の構築を目指して」とある。これを素直に読めば,哲学は学的世界観から成ると説かれていることが分かる。これはどういうことであろうか。

 「〜は…から成る」という言語表現には,いくつかの解釈が可能であろうが,哲学というものは,学的世界観が生成発展していった結果である,という解釈も成り立つのではないか。人間で喩えてみれば,学的世界観というものが赤ん坊であり,哲学が成人という理解である。「成人は赤ん坊から成る」といっても,それほど間違いではないであろう。

 この問題を考える上でヒントとなりそうな箇所がある。それは,同じ第一編の「第4節  アリストテレスは学的世界観をふまえてどのように説くべきか」の部分である。ここでは,ヘーゲルが取り上げているアリストテレス『形而上学』Λ巻は,「アリストテレスの哲学体系ないしはその世界観の大要がうかがわれる」という出隆の言葉が引用されており,この『形而上学』Λ巻の少なくともアウトラインは,アリストテレスの若き日には既にできあがっていたと推定されるとした上で,以下のように説かれている。

「となるとここで思い浮かんだのが,南郷継正の「武道哲学講義[Z]第二部――学問とはいわば世界地図を描くことである」(『学城』第八号所収)で説かれていること,すなわち,学の出立時にはまず世界地図(学問の全体像)を把持して出立しなければならない! ということである。

 アリストテレスがそれなりに世界全体を説けたのも,当時なりの自らの創出になる世界地図を持っての出立であったがゆえ,ということだと思う。では彼にとっての世界地図とは何かを説けば,神なる存在が全宇宙を秩序正しく動かしている様であろう。その神とは,秩序正しく筋を通して考えられる存在である。物事を秩序正しく動かせるようにするためには,それだけの能力がなければならない,至高の存在であると言える。」(pp.31-32)


 すなわち,アリストテレスは,若かりし学の出立時に,神なる存在が全宇宙を秩序正しく動かしているという世界地図(学問の全体像)を持っていたがゆえに,それなりに世界全体を説けるようになったのだ,ということである。

 ここで説かれている世界地図(学問の全体像)というのは,おおよそ学的世界観のことだといってもいいのではないだろうか。このような世界地図=学的世界観を把持し続けながら,あらゆるものの究明へと向かい,その世界地図を詳細にしていくというのが学的作業であり,ついに世界地図が完成した暁には,それを「哲学」と称してよいということなのではないだろうか。

 もちろん,神から世界を説明するのであるから,アリストテレスの世界観は観念論である。しかし,観念論といえども,そういう世界観を学的出立時から把持し続けていたからこそ,アリストテレスは,当時のレベルで世界全体を説くことが可能となったのであろう。

 われわれは唯物論の立場に立たんとするものである。したがって,われわれは,「世界は物質的に統一されている」ということを知識的に覚えたら,その後,上記で確認したような「唯物論を自分で創ってみる」ための学的作業をレベルアップさせながら実践していき,徹頭徹尾,物からの生成発展として論理的,構造的,体系的に世界を説きろうとする目的意識が求められる。そうしてこそ,当初から把持し続けている学的世界観たる唯物論が,唯物論哲学として完成する,ということではないかと思う。「学的世界観から成る哲学の構築を目指して」という第一編のタイトルから,以上のようなことを考えてみたが,これにはまだまだ検討の余地があろう。今後も,継続的にこの問題を考え続けていきたいと思う。
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2015年09月29日

学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想(1/5)

目次

(1)頭脳を学問化可能なものとしていくための実践とは
(2)唯物論を自らの頭脳の内に創り出していく
(3)原点に遡ってそこから考える
(4)古代ギリシャの社会的認識の流れを辿る
(5)唯物論を把持しつつ学問の原点から辿り返す

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(1)頭脳を学問化可能なものとしていくための実践とは

 『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第11巻』で予告されていた悠季真理(ゆうき・まこと)先生の待望の哲学書が8月に発刊になった。タイトルは『哲学・論理学研究(第一巻)』であり,副題に「学的論文確立の過程的構造」とある。

 本書は,『学城』所収の論文が基になっているが,大きく加筆・修正されている。それも,一貫した主題のもとに再構成されているため,通して読んでみると,『学城』で読んだ時とは,全く違った印象を受ける。その一貫した主題とは,ズバリ,「学問上達論」である。ここに関して,「まえがき」の冒頭で次のように説かれている。

「本書は,学問としての哲学の構築を志して以来,二十余年に亘る日本弁証法論理学研究会での筆者の研鑽の歩みを振り返って総括し,学問構築のための基礎づくりとはどうあるべきかを説いた書である。端的には,学問を志す初学者用の,学問上達論[基礎編]と言ってもよいと思われるものに仕立ててある。」(p.3)


 すなわち,本書は,悠季先生の研鑽の過程を総括し,学問構築のための基礎づくりとはどうあるべきかという学問上達論を説いたものである,ということである。「学問上達論」という言葉は,聞いただけでわくわくするような響きがある。武道やスポーツ,それに楽器などと同様に,「学問」も上達可能なものであり,むしろ,偶然に左右されるような「素質」に頼るのではなく,正しく必然性のある上達プロセスを辿ことによってこそ,学問ができるようになっていくのである,ということが,この「学問上達論」という言葉からは伺える。

 また「まえがき」の続く箇所では,「本来の哲学研究とは,全学問分野を対象としつつ,それらを統括するべく,まさに自分自身の頭脳を哲学ができる頭脳として創出していけるような研鑽を積んでいくことである」とした上で,「本書は,……自らの頭脳を学問化可能なものとしていくための実践とはどういうものかを説いてくことになろう」(p.4)と説かれている。われわれの頭脳は,自然成長性に任せていれば学問化が不可能なのであるが,それを可能とするための目的意識的な実践方法が説かれていく,ということであろう。

 このような学問上達論の観点から,これまでの『学城』掲載論文が再編集されているのである。これまでの悠季先生の論文とは,『学城』第一号から連載されていた「古代ギリシャの学問とは何か」や「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」,それに,『学城』第十号から掲載されている「哲学・論理学研究余滴」のことである。前二者は,古代ギリシャ哲学史に関する論文であり,最後のものは研究ノート的なものであると,簡単に考えていた。ところが,それは全くの誤解だったのである。これらは全て,「学問上達論」を説いていたのであり,本書によってそのことが明確な形で浮き彫りにされているといえよう。

 本書は大きく二部構成となっている。「第一編は『学的世界観から成る哲学の構築を目指して』として,ここでは学問を志す上での重要事に関する論考を収めてある」(p.6)とのことであり,「また第二編は,『古代ギリシャ哲学,その学び方への招待』として,第一編をよりよく理解するための学び編となっている」と説かれている。通読してみると,第一編は,悠季先生の大いなる志や指導者としての責任感がひしひしと伝わってくるところもあり,感動的ですらある。弟子たちの学問的な実力を何としてでもつけてやりたいという責任感が強烈に感じられる。この責任感の背景には,「日本弁証法論理学研究会が学問を構築していかなければ,世界の学問が100年は停滞してしまう!」との危機感があるものと思われる。われわれも同じ危機感を共有して,ただ単に「悠季真理先生はすごい!」などと感心して終わるのではなく,むしろ悠季先生をわれわれのライバルとして設定し,「負けてなるものか!」という意気込みをもって互いに叱咤しながら,各自専門家としての責任感をしっかり果たしていかなければならないと痛感させられた。

 第二編は,古代ギリシャの哲学の生成・発展の歴史が,当時の社会的状況との統一で見事に解明されている。本第一巻で論じられているのはソクラテスまでであるが,これはちょうど,われわれ京都弁証法認識論研究会がヘーゲル『哲学史』の古代ギリシャの部分を読み進めている時期であるだけに,われわれに対する大いなるプレゼントであると受け止めた次第である。

 さて本稿では,以上のような内実を持つ『哲学・論理学研究(1)』を主体的に,われわれの実践に引きつけて読み込んでいきながら,本書の主題である学問上達論をしっかり理解することを目的として執筆していきたい。「まえがき」にあったように,「自らの頭脳を学問化可能なものとしていくための実践とはどういうものか」という問題意識をもって,この問題意識で問いかけながら学んだ内容をしっかりと自分のものとしていきたいと考えている。

 そこでまず,学問構築の前提とされる「学的世界観」とは何なのかということを考察したい。次に,原点から考えていくということについて,本書で説かれていることをしっかりと押さえ,われわれの実践にどう活かしていくのかを考えたい。最後に,現在われわれがヘーゲル『哲学史』の古代ギリシャの部分を読み進めていることを踏まえて,本書で説かれている古代ギリシャ哲学の発展の歴史を自分なりにまとめておきたいと思う。

 では最後に,本書の目次を掲載しておく。『学城』の熱心な読者であれば,ざっと見渡しただけで,『学城』論文では明らかに説かれていなかった内容が含まれていることが分かっていただけるはずである。



哲学・論理学研究 (第1巻)

■第1編 学的世界観から成る哲学の構築を目指して

第1章 学的世界観について

 第1節  学的世界観としての 「唯物論を自ら創り出せる」 とはいかなることか
 第2節  物の実体と機能との区別をつけることの大事性
 第3節  学的世界観から説く世界歴史とは
 第4節  アリストテレスは学的世界観をふまえてどのように説くべきか
 第5節  金属とは何かを分かるためには,地球の歴史を知らなければならない
 第6節  研究会で説かれる学的世界観とは

第2章 学問体系を創っていくとは

 第1節  体系とは何か,ヘーゲルの System との学的論理の違いについて考える
 第2節  シェリング,ヘーゲルについて思うこと
 第3節  概論化への労苦ということの意味・意義を考える
 第4節  『新・頭脳の科学』 について,現代の哲学の停滞について
 第5節  学問化とは事実の像から論理の像への発展である
       ――事実の像と論理の像の相違

第3章 学の体系化への出発点に立つために ――古代ギリシャ考

 第1節  滅ぼし合う対立物の統一とは,「過程の体系性」 の統一である
 第2節  学的レベルで思弁するとはどういうことか
 第3節  究明の方法そのものを問うていくアリストテレス
       ――問いかけ的認識の深まり
 第4節  「形而上学」 のそもそもの語源について
 第5節  『形而上学』 Α巻を読み直しての気づき
 第6節  時代性をふまえてアリストテレスを位置づける
 第7節  古代ギリシャでは自然の究明が主であったということの意義を説く
 第8節  アリストテレスの説く 「自然」 とヘーゲルの説く 「自然」 について
 第9節  アリストテレスのウーシアを実体と解することの誤謬

■第2編 古代ギリシャ哲学,その学び方への招待 〔前編〕

第1章 古代ギリシャのフィロソフィアとは

 第1節  日本語での 「哲学」 の意味と元の原語の意味
 第2節  これまでギリシャの学問はどのように把握されていたのか
 第3節  古代ギリシャという時代性の理解
       ――スコレー (閑暇) が生まれることによる認識の発展
 第4節  フィロソフィア (知を愛する) とはどういうことか (プラトン対話編より)
 第5節  フィロソフィアへ至る原初的段階 ――ヘラクレイトス

第2章 学問化への原点たるパルメニデス,ゼノンを説く

 第1節  ヘーゲルはパルメニデス,ゼノンをどのように評価しているか
 第2節  パルメニデスの生きた時代と社会について
 第3節  エレアの大政治家パルメニデスとその高弟ゼノン
 第4節  アリストテレスによるパルメニデスの記述
 第5節  パルメニデスの学問的実力とは
 第6節  パルメニデスの実力養成の過程とは (プラトン 『法律』 より)
 第7節  ゼノンのパラドクスの出てくる所以とその意味するもの

第3章 古代ギリシャにおける対話の始まりとその実態

 第1節  ギリシャ哲学を生み出したポリス社会とは
 第2節  古代ギリシャにおける対話とはいかなるものであったか
  (1) ソクラテスとニコマキデスとの対話 (クセノフォン 『回想録』 より)
  (2) ソクラテスとペリクレスの息子との対話 (クセノフォン 『回想録』 より)
  (3) ソクラテスとエウテュフロンとの対話 (プラトン 『エウテュフロン』 より)

第4章 ソクラテスの対話から視てとれる,ソクラテスの認識のレベルとは

 第1節  従来の哲学界でのソクラテスの評価
 第2節  ソクラテスまでの時代とソクラテスの生涯
  (1) ディモクラティア (いわゆる民主制) とは?
  (2) 民の統治の術としての弁論の発達
  (3) ソクラテスの生涯
 第3節  ソクラテスの対話の実態
  (1) ソフィスト批判
  (2) 物事の共通性に着目できるようになる過程とは
  (3) 論理もどき (?) 像形成への過程

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2015年09月28日

アダム・スミス『法学講義』を読む(13/13)

(13)国家学体系の一部として経済学を確立しなければならない

 前回は、『法学講義』の全体像の概観を目的とした本稿でこれまで説いてきた流れを改めて簡単に振り返った上で、『国富論』が決して単なる経済学の本として構想されたものではなく、あくまでも国家(法と統治)の全体像(社会の始原からの発展過程をも視野に入れての!)を描き出す壮大な構想の一部であったことを確認しました。端的には、正義(身体・財産の安全保障)という枠組みのなかで展開する実質的な中身として生活行政(分業による生活資料の安価と豊富の実現)が位置づけられ、そこから再び公収入および軍備という国家の枠組みに戻っていく、という構想があったわけでした。

 スミスは、こうした構想の下に『法と統治の一般的諸原理と歴史』(仮称)という大著に挑み続けていたわけですが、結局それは完成させられることはなく、このうちの後半部分(『法学講義』第2部の生活行政論、公収入論、軍備論)のみが、『国富論(諸国民の富の本質と原因にかんする研究)』というタイトルで先行して刊行されることになったのです(『法と統治の一般的諸原理と歴史』全体の構想が放棄されてしまったわけではないことは、晩年の言明から明らかです)。

 それでは、何故にスミスは、『法学講義』の後半部分のみを『国富論』として独立させて先行的に完成させることになったのでしょうか。この問題について、我々は、2013年9月に本ブログに掲載した「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う」において、以下のように論じました。

「端的には、スミスが、法学の一般的諸原理を説くべき前半部分において、「公平な観察者」による共感の歴史的な積み重ねという論立てでは正義(所有権)の絶対性を論証できない、という難問にぶちあたってしまい、この難問解決への糸口を何とか見いだそうと苦闘したあげく、正義(所有権)の絶対的な確立というゴールの姿を明確にすることこそがそのゴールに到達するまでの歴史的過程の構造を究明する上でのヒントになりそうだ、という考えに至ったからではないか、ということでした。それだからこそスミスは、法学体系の後半に相当する『国富論』を先行して執筆・出版するという決断をしたのではないか、と考えられるわけです。『国富論』は、学問の歴史の流れのなかに客観的に位置づけてみてみるならば、経済学の歴史が流れ出す起点としての意義をもつことになるのですが、スミス自身の認識においては、あくまでも法学体系の後半部分に相当するものにほかならなかったのです。」(「アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う(10/13)」)


 要するに、『法学講義』は、正義(所有権)確立の歴史を説く第1部、正義が確立した下で(商業社会で)展開される生活資料の安価と豊富(および公収入と軍備)を論じる第2部、という形で構成されていたのであって、『国富論』を先行させたのは、まずはゴールを明確にしておかねばそこに至る過程が明確に見えてこない、という問題意識があったからだろう、ということでした。ここに我々は、法的規範(国家意志)の問題を究明する上でのスミスの方法論(他者への共感、「公平な観察者」の視点に依拠する、という方法論)上の弱点をみることも可能なのですが(*)、ここで強調したいのは、『国富論』を『法学講義』から独立させたことには、当時の社会情勢に規定された一定の歴史的正当性はあったのだ、ということです。

 その歴史的正当性というのは、18世紀のイギリスにおいては、国家権力の保護から脱した経済の自立的かつ自律的な発展が始まりつつあるという歴史的条件があり、国家(国民)の富の本質と原因は何なのかという問題が、国家の維持発展にとっての大きな課題として浮上していた、という事情に関わります。この課題に正面から応えるべく、それまで富にかかわる諸問題をめぐってなされてきた諸々の議論(重商主義や重農主義)を批判的に継承しつつ、スミスの見解を纏め上げたのが『国富論』だったわけです。それは、端的には、国家(国民)の富は金銀ではなく生活資料の安価と豊富さにあるという問題意識から、社会的総労働の分割(配分)過程に対する国家権力の恣意的な介入に反対し、それを市場の自然で自由な動きに任せるように主張したものでした。

 後世からみるならば、この『国富論』は、富の性質と原因を究明する独自の学問として経済学という学問が確立されなければならないことを宣言した著作であった、と評価することも可能です。

 しかし、ここで決定的に重要なのは、本稿の連載第2回でも確認した通り、社会的総労働の分割(配分)過程に対する国家権力の恣意的介入に反対したスミスは、決して国家を経済学の考察対象から除外しようとはしていなかったのだ、ということです。成立の経緯からも確認した通り、『国富論』には、『法学講義』の生活行政論のみならず、公収入論、軍備論に相当する内容も含まれているのです。より具体的には、『国富論』の第5篇においてスミスは、重商主義的な諸政策が廃されたとしても国家(政府)がなすべき仕事はなお存在するとして、治安維持、司法、公共事業の3つを挙げています。これらは、国民全体に普遍的な利益をもたらしますが、個別的な利益にはならない(儲からない)ために、市場では提供されません。このため、国家(政府)がこの仕事を引き受けなければならないとスミスは主張するのです。

 つまり、『国富論』は、単に社会的総労働の配分過程に対する政府の介入を排するよう主張するだけでなく、全ての国民にとって利益になる仕事をなす主体として、政府を位置づけなおしているのです。スミスは、国家のなすべき仕事について(経費論)、また、国家の仕事に必要な財源の調達について(租税論+公債論)、市場の自然で自由な動きとの関連において、論じています。このようにスミスは、市場論と国家論とを統一したものとして『国富論』を構成していたわけです。まさに「政治経済学(political economy)」です。

「政治経済学は、およそ政治家あるいは立法者たるものの行なうべき学の一部門としてみると、はっきり異なった二つの目的をもっている。その第一は、国民に豊かな収入もしくは生活資料を供給することである。つまり、もっとはっきり言えば、国民にそうした収入や生活資料を自分で調達できるようにさせることである。第二は、国家すなわち公共社会にたいして、公務の遂行に十分な収入を供することである。だから経済学は、国民と主権者の双方をともに富ませることをめざしている。」(アダム・スミス、大河内一男監訳『国富論 U』中公文庫、p.75)


 このようにスミスは、政治経済学について、国民と国家の双方を富ませるための学問であると定義しました。国民を富ませるために市場の自然で自由な働きを確立(国家の恣意的介入の排除)し、こうして実現される国民の富の形成を大前提に、それをできるかぎり阻害しないように配慮しつつ、国家(政府)の富の形成(財源の調達)がはかられるべきだ――このような形で、市場論と国家論が統一されていたわけです。

 ところが、スミス以後の経済学は、考察の対象を次第に市場のみに限定していくようになっていきます。市場における社会的総労働の配分は、「少しでも大きな儲けを上げたい」「少しでも安いモノが欲しい」といった市場参加者の動機に規定されて、効率性を唯一の基準として行われます。こうした場面に考察の対象が限定されていくことによって、経済学は市場における効率的な資源配分を研究する学問であるとみなされるようになっていったのでした。現代の主流派経済学(一般均衡論)の直接の祖といえるレオン・ワルラスは「純粋経済学」を標榜し、ライオネル・ロビンズは「経済学とは、代替的用途をもつ稀少な諸手段と諸目的との間の関係として人間行動を研究する学問である」(『経済学の本質と意義』1932年)と定義しました。こうして経済学は「政治経済学(political economy)」から単なる「経済学(economics)」へと変質を遂げてしまったのです。アダム・スミスにおいて、法学体系から相対的に独立させられた政治経済学が、政治(国家)と経済(市場)とが絶対的な独立の関係にあるかのような幻想と結びつくことで、「純粋経済学」なるものを生み出してしまったのです。

 しかし、私たちは、市場における効率的な資源配分のみに研究対象を限定してしまったことこそが、現今における経済学の行き詰まりを引き起こした元凶であると考えなければなりません。そもそも社会的総労働の配分過程は決して市場だけで完結しているものではなく(政府による公共事業や社会保障が不可欠)、たとえ社会的総労働の配分過程を全体としてみたとしても、それは国家という枠組みをもった社会のほんの一部分を占めるにすぎないからです。にもかかわらず、「経済学(economics)」は、社会という有機的な全体のなかから、貨幣を媒介にした効率的な資源配分の場としての市場のみを実体的に切り離して究明の対象としようとしてきたわけです。これは、生きた人体から心臓や肝臓だけを実体的に切り離してきて研究し、それで立派に生きた心臓や肝臓を研究しているかのように思い込むのと大差ない錯誤といわねばなりません。

 しかし、社会のなかからようやくにして経済という領域がハッキリとした姿を現わしつつあった時代のアダム・スミスにとっては、経済が社会の一部にすぎないこと、したがってまた経済はあくまでも社会の一部分として究明していかなければならないことなど、議論の余地なく明白なことでした。我々は、このことを決して忘れてはなりません。現代の感覚から『国富論』を単なる経済学(economics)の本として読んでしまってはならないのです。少なくともそれは、市場論と国家(政府)論を統一した政治経済学(political economy)の本として読まれなければならないのであり、さらにいえば、『国富論』があくまでも国家(法と統治)の全体像(社会の始原からの発展過程をも視野に入れての!)を描き出す壮大な構想の一部でしかなかったことを、しっかりと意識した上で読まれなければならないものなのです。

 「市場」が「国家」と無関係に自立したシステムを作りうるとみなす幻想によって、市場における巨大企業の利潤追求活動、巨額の金融投機(マネーゲーム)を野放しにすることが正当化されてしまったことが、現在の世界的な経済危機の根源にあります。こうした事態に、市場における効率的な資源配分のみに研究対象を限定することで形成されてきた主流派経済学の理論では対処できません。もともとの核心的理論が歪んでいるので、そこにいくら補足的な観点を接木しようとしてもダメなのです。「投機経済の終焉」、あるいは、資本主義経済の「終わりの始まり」(「東京新聞」2015年8月31日社説)が囁かれるようになった昨今、我々はアダム・スミスの政治経済学、あるいは法学体系の壮大な構想にまで立ち返り、その精神に学びながら、国家学体系の一部としての経済学を確立していかねばならないのです。

(*)スミスは、社会契約論を批判していることにも示されている通り、個々人が集まって国家(社会)をつくる、という発想には飽き足らないものを感じつつも、結局のところ、個々人の意志から独立した国家の意志がどのような過程で成立するのか、国家意志(社会的認識、吉本隆明流にいえば共同幻想)とはそもそもどういうものなのか、よく分からなかったものと思われます。個々人の意志から出発点したスミスは、結局のところ、他者への共感の積み重ねによって各人の胸中に「公平な観察者」が形成される、というところにまでしか到達できなかったのです(この対極にあるのが絶対精神から出発するヘーゲルの観念論であり、そこでは絶対精神の現われとしてまず国家の意志が登場し、そこから個々人の意志が分離していく、という過程を辿ります)。しかし、こうしたスミスの限界は、人類史の究極の始原(サルの群れから人間の社会への過程)がまだ不明瞭であったという歴史的制約に規定されたものとして、やむを得ないものともいえます。我々としては、スミスが可能な限り対象の歴史的起源を突き止めようとした姿勢の見事さを高く評価すべきでしょう。

(了)
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2015年09月27日

アダム・スミス『法学講義』を読む(12/13)

(12)スミスにおいては経済が国家の実質的中身として位置づけられた

 本稿は、経済(市場)は政治(国家)から自立したシステムであるべきで政治は経済に介入すべきでない、という「自由主義経済学」の教義の妥当性が根本から問い直されなければならない情況になってきていることを踏まえ、「自由主義経済学」の源流とされてきたアダム・スミス『国富論』がスミス自身の『法学講義』から派生してきたものであることに着目し、この『法学講義』の全体像を概観していくことによって、『国富論』を「源流」として「自由主義経済学」が形成されていく過程において、見失われてしまったものは何なのか、明らかにすることを目的にしたものでした。ここで、本稿でこれまで解いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 スミスは『法学講義』全体の序論において、「法学は、法と統治の一般諸原理の理論である」と確認し、「法の四大目的」として、正義(justice)、生活行政(police)、公収入、軍備を挙げていました。

 このうち正義論では、まず、正義とは侵害からの安全保障である、と定義された上で、人間としての安全保障を論じる私法論、家族の一員として安全保障を論じる家族法論、国家の一員としての安全保障を論じる公法論の3つの領域に分かれることが説明されていました。論の展開の順序に関連してスミスは、そもそも所有権を守るためにこそ国内統治が成立したのであるし、所有権の状態は国内統治の形態とともに歴史的に変化してきたのだ、として、公法論から(家族法論を媒介して)私法論へ、という流れを予告していたのでした。

 スミスは、主権者(統治者)と臣民(被治者)のそれぞれの権利を論ずる公法論の前提として、人類社会の歴史を〈狩猟→牧畜→農耕→商業〉の4つの段階に分け、正規の統治は、牛や羊といった私有財産が成立した牧畜段階において、これらの財産を防衛するためにこそ発生したことを確認し、そこから、古代ギリシャにおける共和制の成立、古代ローマにおける軍事的君主制の成立と崩壊、ゲルマン人侵入による混乱と封建制の成立、国王の権力の専制化、議会の権限強化による自由の回復、という歴史的発展の流れを概説していました。また、私法論においては、「観察者」や想像上の立場の交換という『道徳感情論』で詳しく展開された論理を絡めつつ、人類の認識の歴史的発展という観点から、所有権の歴史的な拡大の過程が辿られていたのでした。

 スミスが論じた国内統治(市民社会)の歴史の到達点は、国民の自由(国王の権力に束縛されないこと)が確立されたところであり、同じくスミスが論じた所有権拡大の歴史の到達点は、土地の売買の自由(何世代も前の故人の遺志に縛られないこと)が切実な課題として浮上してきているところでした。こうした議論の到達点に立って、生活行政(生活資料の安価と豊富を実現する国家の機能)についての議論が展開されていくことになります。

 スミスの生活行政論について、本稿では、大きく、分業論、価格論と貨幣論、一国の富裕の進行が遅れてしまう原因についての考察、という3つの部分に分けて紹介してきました。分業論においては、分業(労働の分割)こそが生活資料の安価と豊富をもたらすものであること、分業の根拠は説得の本能を基礎とする交易性向にあること、この交易性向の具体的な発現は「私の欲しいものを私にくれれば、あなたはあなたの欲しいものを手にするだろう」と相手の仁愛ではなく利己心に働きかけるものであること、などが論じられていました。価格論と貨幣論においては、商品の市場価格の変動は自然価格によって規制される(商品の価格は、その商品の生産のために投入される労働に適正な報酬が支払われるところに落ち着く)こと、諸商品の自然価格を通じて産業の自然的均衡が達成される(どの労働にどれくらいの労働が投入されるべきかという問題が解決される)こと、商品取引の発展に伴って価値尺度および流通手段として金貨・銀貨が鋳造されるようになったこと、流通手段としての銀行券(紙幣)を発行することで、節約された金銀を国外に送って生活に必要な商品を輸入することは、一国の富裕に資するものであること、などを論じていました。さらにスミスは、一国の富裕は貨幣にある、という当時支配的であった考え方を誤りと断じ、個々人の財産の安全保障という国内統治の枠組みを確立した下で、生産的な労働に従事する人々の労働意欲を削ぐ諸々の観念(商工業への軽蔑など)や制度・政策(穀物の輸出禁止や特権的大商人の優遇など)を排するならば、富裕の進行が実現していくであろうことを主張していたのでした。スミスが、貨幣こそが富であるという謬見を排して、人々の労働によって生活必需品がきちんと継続的に生産されていくことこそ国家にとって死活的に重要であることを見抜いた点、また産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきであることを鋭く指摘した点は、現代にも通じる卓見として、高く評価するに値するものであることを確認しておきました。

 続いて、スミスの公収入(租税+公債)論、および、商業の発展が国民のマナー(風習、習慣)に与える影響についての議論を紹介しました(公収入は、序論においては「法の四大目的」のひとつとして、生活行政と並んで挙げられていますが、実際の議論の展開のなかでは、公収入論は生活行政論の一部として取り込まれているのでした)。ここでは、統治のための費用を得る上での財産税や消費税などの優劣が論じられ、公債が成立した歴史的経緯や公債価格の変動の要因について、考察されていました。さらに、スミスは、商業の発展が(商人として成功するために、という利己心に導かれて)誠実と几帳面という徳を涵養したこと、一方で、下層民衆の知的鋭敏さの欠如、国民の尚武の精神の衰退といった弊害をもたらしてしまったことを指摘して、生活行政論の締め括りとしていたのでした。

 次に、「法の四大目的」の最後に来る軍備論について紹介しました。ここでスミスは、狩猟段階→牧畜段階→農業段階→商業段階という社会発展の歴史を念頭に置きつつ軍備の歴史を概観し、常備軍導入の歴史的必然性(分業=社会的総労働の分割の一環としての必然性)を説く一方、それが国王専制の道具として使われてしまう危険性(また、その点での民兵制の優位)をしっかり直視した上で、その組織のあり方には慎重な配慮が必要だと主張していたのでした。一般論としては、政府が責任を持って募集し、軍人として雇った人たちに対して給与を支払う近代的な常備軍(この対極にあるのが、古代ローマの軍閥です)は、国民の自由に対して脅威となる危険性は少ない、というのがスミスの主張でした。

 ここまでで、スミスが「法の四大目的」とした4つの項目、すなわち、正義、生活行政、公収入、軍備についての考察を一通り概観したことになるわけですが、スミスは法学の最後に(それまでの議論が国家内の関係を対象にしていたのに対して)国家間の関係を律する国際法についての議論が必要になる、と述べて、戦争と平和に関わる国家間のルールについて、@何が戦争の正当な原因か、Aある国家が戦時に他の国家に対して合法的に何をなし得るか、B交戦諸国は中立諸国家に対して何をなすべきか、C諸国家間における外交使節の諸権利は何か、という4つの問題が考察されていたのでした。

 このように、スミスの『法学講義』は、身体と財産の安全保障のために成立した国内統治の歴史的発展過程を辿った公法論に始まり、所有権の歴史的な確立過程を論じた私法論を経て、産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきことを論じた生活行政論に至り、そこからさらに、政府の活動に必要な財源を確保するための公収入論(租税論+公債論)、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備論が展開され(ここまでひとつの国家の内部に視野を向けた議論)、最後に、諸国家間の関係を律する国際法についての考察によって、全体が締め括られることになるのです。

 以上、本稿でこれまで説いてきた流れを、後の『国富論』の核心的部分の原型といえる生活行政論にやや重点を置く形で、振り返ってきました。ここで、本稿の連載第2回目で紹介した、『道徳感情論』第6版の序文におけるスミスの言葉を再録しておくことにしましょう。


「この著作の初版の最終パラグラフで私は、別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明するよう努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(justice)に関する事柄にとどまらず、生活行政(police)や公収入、および軍備に関わる事柄、さらには法の対象となる他の全ての事柄も含めて、説明に努めるつもりである、と述べておいた。『諸国民の富の本質と原因に関する研究』において、私はこの約束を部分的に、少なくとも生活行政、公収入、軍備に関する限り、実行することができた。」(『道徳感情論』第6版への序文。筆者訳)


 『法学講義』の全体像を概観した上でこのスミスの言葉を改めて読み直してみるならば、『国富論』が決して単なる経済学の本として構想されたものではなく、あくまでも国家(法と統治)の全体像(社会の始原からの発展過程をも視野に入れての!)を描き出す壮大な構想の一部であったことが、深く納得してもらえるのではないでしょうか。端的には、正義(身体・財産の安全保障)という枠組みのなかで展開する実質的な中身として生活行政(分業による生活資料の安価と豊富の実現)が位置づけられていたのであり、そこを踏まえて再び公収入および軍備という国家の枠組みに戻っていく、という構想があったわけです。換言すれば、スミスにおいては、経済(社会的総労働の適正な分割)が国家の実質的な中身として位置づけられ、そこを土台に公収入論や軍備論といった国家の枠組みについても説き及んだのが『国富論』であった、ということができるでしょう。
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2015年09月26日

アダム・スミス『法学講義』を読む(11/13)

(11)戦争における合法性とは何か

 前回は、スミスの軍備論を紹介しました。スミスは、狩猟段階→牧畜段階→農業段階→商業段階という社会発展の歴史を念頭に置きつつ軍備の歴史を概観した上で、常備軍導入の歴史的必然性(分業=社会的総労働の分割の一環としての必然性)を説きつつ、それが国王専制の道具として使われてしまう危険性(また、その点での民兵制の優位)をしっかり直視した上で、その組織のあり方には慎重な配慮が必要だと主張していたのでした。

 前回までで、スミスが「法の四大目的」とした4つの項目、すなわち、正義、生活行政、公収入、軍備についての考察を一通り概観してきたことになるわけですが、スミスは法学の最後に、国際法の考察が必要となることを述べていたのでした。今回は、その国際法論について紹介することにしましょう。

 スミスは、諸国家が相互に守るべき諸々のルールについては、国内法たる私法や公法のように正確に取り扱うことはできない、とします。なぜならば、国家間の争いについて裁定するような裁判官は存在し得ないのであり、したがって、国家間の争いを決着させる上での確実性とか規則性とかは期待することができないからです。スミスはまず、そのような限界があることを確認した上で、国際法についての議論をスタートさせているわけです。

 スミスは、国際法について、平和または戦争に関係する法だとして、ここでは戦時における規則を、@何が戦争の正当な原因か、Aある国家が戦時に他の国家に対して合法的に何をなし得るか、B交戦諸国は、中立諸国家に対して何をなすべきか、C諸国家間における外交使節の諸権利は何か、という順序で考察していく、としています(いうまでもないことですが、これらはあくまでも18世紀の当時における考え方であって、20世紀の2つの世界大戦を経て戦争違法化の流れが大きく進んだ現代の国際法とは少なからず相違点があります。その点を踏まえて、以下の解説をお読みください)。

 第一の問題は、開戦の正当性(どういう場合に戦争することが許されるか)です。スミスは、一般に、裁判所において適切な訴訟の根拠とされるようなものは、何でも戦争の正当な理由になりうる、とします。スミスの説明によれば、そもそも訴訟の根拠となるのは、何らかの権利の侵害を強制的に排除することが認められるもの、ということです。こうした侵害の排除は、文明化されていない社会においては私的な暴力によって遂行され、近代においては為政者の決定にもとづいて遂行されます。近代社会においては、各人がそれぞれ正義を主張することによって社会が混乱させられることがないようにされているわけです。では、具体的にはどのようなものが訴訟の根拠、したがって正当な開戦理由となり得るのでしょうか。

 例えば、ある国家が他の国家の所有を侵犯するか、あるいは他国の国民を殺害または投獄したにもかかわらず、裁判による紛争解決を拒否するのであれば、統治者はその相手国に対して、犯行の償いを要求しなければなりません。なぜならば、それぞれの成員を外敵から保護する点にこそ政府(統治)のそもそもの目的があるのであって、そうした補償が拒否されるならば、それは立派な開戦の根拠になるのだ、とスミスは説くわけです。同じように、ある国家が他の国家に対して負債を負っているのにもかかわらずその支払いを拒否する、といった場合にも、こうした契約の破棄は正当な戦争の理由となり得るのだ、と説明されています。

 第二の問題は、戦争における合法性(ある国家が戦時に他の国家に対して合法的になし得ることは何か)です。スミスは、ある国家が他国家からの侵害に対する報復をどこまで進めていいのかということは、容易に決められることではない、と説きます。ある国家の国民が他国家の国民から侵害された場合、その侵害者は当然に報復の対象となりますし、もしその侵害者の属する国家の政府が彼を保護しようとするならば、その政府も報復の対象となります。しかし、その国家の国民の大半は、こうした犯罪行為については何も知らず、全く何の罪もありません。侵害者を処罰するために他国に戦争を仕掛けるとすれば、これら罪のない多くの国民を傷つけてしまうことは避けられないのです。それでは、我々はどのような正義の原理にもとづいて他国民を苦しめるのか、とスミスは問うわけです(現代世界の状況に即していえば、「テロ」によって自国民に大きな被害を与えた容疑者をかくまう相手国に対して、どこまでの報復が許されるのか、という問いを想定することができるでしょう)。この問いに対してスミスは、これは決して厳密に正義と呼ばれ得るものにもとづいているのではなく、必要にもとづいているのであって、この場合はそれが正義の一部だされるのだ、という答えを与えます。

 この場合、相手国の国民全体が憤慨の正当な対象と考えられてしまうのは、我々が遠くにいる人々に対して、近くにいる人々に対するほどには親しみを感じないからだ、とスミスは説明しています(現代の問題にひきつけていえば、アメリカ合衆国が9・11テロの報復としてイラクに戦争を仕掛けることを正当化できたのは、アメリカの人々がイラクの人々にそれほどの親しみを感じていなかったからだ、ということになります)。こうした説明を補強するために、イングランドの国内法においては、1人の罪のない者が苦しむよりも10人の罪のある者が免れることが選択されることを、スミスは指摘しています。同胞に対しては強い親しみの感情があるために、いくら犯罪者を懲らしめるために必要だとしても、罪のない市民が巻き添えを食らってしまうような措置は、なかなか認められないのです。これはさすがに『道徳感情論』の著者らしい、非常に鋭く興味深い指摘だといえるでしょう。

 スミスは、相手国の国民全体が憤激の正当な対象と考えられてしまうことのもうひとつの理由として、侵害者や相手国の統治者から償いを得ることが非常に困難だという事情を指摘しています。侵害者が相手国の中心部にいて充分に安全を保障されているならば、我々は彼らに近づくことはできず、報復することができません。したがって、一般市民を巻き添えにせず、彼らのみを報復の対象とすることは困難です。これは最大の不正義であるが、戦争においてそれは避けられない、とスミスは説くのです。

 次いでスミスは、捕虜の扱いについて、古代と近代の慣行には大きな違いがあることを指摘します。端的には、古代においては奴隷化されたけれども、近代においてはそういうことはない、というわけです。こうした人道性(humanity)は、法王支配の時代に、全キリスト教徒は異端の徒と同じように扱われるべきではない、ということで導入されたものだ、ということです(裏を返せば、非キリスト教徒の捕虜は奴隷的な扱いを免れない、ということなのですが)。

 続いてスミスは、被占領地の動産の扱いについて、人道性というよりも生活行政上の動機にもとづいてその安全保障がなされるようになったのだ、と述べます。民衆が抵抗して蜂起することは占領のコストを高めるのであって、平穏に支配することこそが占領者にとっての利益だからです。

 スミスは、近代における洗練としてもうひとつ、敵対諸国家の間でも一種の礼儀のようなもの(というよりもむしろ任侠)が成立することを指摘します。敵国の王や将軍に対してそれなりに敬意をもって接するようになり、彼らを殺害することが以前のように合法的とは考えられなくなった、というわけです。

 スミスは、戦争における合法性に関する考察の最後に、我々をあまり戦争に行きたがらないようにしたのと同じ要因(産業の発展)が、敵国に完全に征服されてしまうことへの抵抗感を弱めたことを指摘しています。征服された国は、いわば主人を変えるだけであって、新しい税金や諸規則を課せられるとしても、古代のように根こそぎ土地から追われて奴隷化されることはなくなりました。征服者は、被征服者に対して旧来の信仰と法律の存続を許すのであって、これは古代に比べて遥かに優れた慣行である、とスミスはいいます。

 第三の問題は、中立国の権利(中立的な諸国家が交戦諸国からどのように取り扱われるべきか)です。スミスは、基本的な原則として、中立国はどちらの側も侵犯しなかったのだから侵害を受けるべきではない、ということを確認します。その上で、交戦諸国の中立国に対する態度には、陸戦と海戦とでは大きな相違があることを指摘します。退却する被征服国の軍隊を、征服国が中立国内まで追跡し、その中立国が両者を阻止する力がないならば、中立国内は戦場となりますが、損害に対する償いはほとんど与えられません。しかし海戦では、どんなに弱小の中立国であっても、奪われた船を常に返還してもらうことができます。これは普通、船を奪うことは商業に対する最大の侵害だからだ、と説明されますが、本当のところは、陸戦では小国が中立性を主張するのは難しいが、海戦ではそれが容易だからだ、とスミスはいいます。

 第四の問題は外交使節の権利です。古代においては、様々な国家の間の交易がほとんどなかったので、駐在外交使節の必要はありませんでした。しかし、交易が発達してくると、業者間にはほとんど毎日、調整すべき何らかの問題が生じることになります。このため、彼らの間の紛争のきっかけを防止するために、重みと権威があって宮廷への通路を持つ人物がいることが必要なのだ、といいます。スミスは、外交使節の身柄は不可侵でなければならないし、彼が常駐する国のどの法定にも服すべきではない、と確認しています。

 以上が、スミスの国際法論です。身体と財産の安全保障を確立するために成立した国内統治の歴史的発展を辿った公法論から始まり、所有権の歴史的な確立過程を論じた私法論を経て、産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきことを論じた生活行政論に至り、そこからさらに、政府の活動に必要な財源を確保するための公収入論(租税論+公債論)、他国家による侵略から国家を防衛するための軍備論が展開され、最後には、諸国家間の関係を律する国際法が展開されて、スミスの『法学講義』は閉じられるわけです。
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2015年09月25日

アダム・スミス『法学講義』を読む(10/13)

(10)民兵と常備軍はどちらがよいのか

 前回は、スミスの公収入(租税+公債)論、および、商業の発展が国民のマナー(風習、習慣)に与える影響についての議論を紹介しました。統治のための費用を得る上での財産税や消費税などの優劣を論じ、公債が成立した歴史的経緯や公債価格の変動の要因について、考察していました。さらに、スミスは、商業の発展が(商人として成功するために、という利己心に導かれて)誠実と几帳面という徳を涵養したこと、一方で、下層民衆の知的鋭敏さの欠如、国民の尚武の精神の衰退といった弊害をもたらすことを指摘していました。

 この最後の指摘、すなわち、国民の尚武の精神の衰退という問題は、法学の最後の部門たる軍備論を予告するものともいえるのでしたが、今回は、この軍備論について紹介していくことにしましょう。

 ここでもスミスは、歴史的な経緯の検討から議論をスタートさせています(検討対象となるテーマのそれぞれについて、歴史的な起源および歴史的な発展過程を究明するところから議論をスタートさせようとするのは、スミスの思考方法の重要な特徴として指摘することができるでしょう)。スミスは、社会の初期においては、国家の防衛のために、民衆の全体が自ずから立ち上がったので、防衛のために何らかの特別な配慮が必要になることはなかった、といいます。ところが、分業が行われるようになって以降は、ある部分の人々が国内に残って、農業やその他の手工業に従事し、残りの人々が出征するということが必要になってきました。では、その振り分けはどのように行われたのでしょうか。スミスは、土地の私有と身分の分化がある程度導入されて以降は、土地の耕作は自然に最低身分の負担となる一方で、骨折りは少ないが名誉は大きい軍役の仕事は、最高階層によって要求されるのが常であった、と説明します。古代から中世にかけて、騎士義務と呼ばれるものを保持した人々だけが国家の防衛に加わり、奴隷や農奴は兵力とはみなされなかったのです。スミスは、このように、名誉を重んじる人々によって国家が防衛され、彼らがその義務を名誉の原理によって行うのが常であったときには、軍事的規律は必要がなかった、といいます。

 しかし、諸々の技芸や手工業が発展して社会的に有益なものとみなされるようになっていき、人々がそれらに従事することで社会的地位を高め得ると考えるようになっていくと、こうした状態は揺らいでいきます。以前は、貪欲な下層身分の人間のやることだとして軽蔑されてきた諸々の技芸や手工業が、上層身分の高貴な人々にとっても何ら恥ずかしいものではないと見なされるようになっていくことで、国防という任務は当然のことながら、下層身分の人々に押し付けられていくようになったのです(富者は、自分が好むこと以外のことを何ら強制され得ないのだ、とスミスは述べています)。狩猟段階、牧畜段階の国民は、あるいはまた農業段階にまで進んだ国民でさえ、戦争には全体が一丸となって対処しました。手工業が発展し始めると国民全体が参戦することはできなくなるのですが、手工業は当初は骨が折れる割には儲からないものでしたから、手工業には卑賤な身分の人々が従事し、高貴な身分の人々が戦争に参加するようになりました。手工業が大きな利益を上げるようになると、今度は逆に、国防には卑賤な身分の人々が従事し、高貴な身分の人々が手工業に従事するようになっていったのです。

 卑賤な身分の人々が国防に従事するようになるという事態は、軍事的規律の確立を切実な課題として浮上させるものに他なりませんでした。身分の分化がそれほど進んでおらず、国家の防衛のために民衆の全体が一丸となって出征していた段階では、軍事的規律の必要がことさらに意識されることはありませんでした。なぜならば、民衆の全体がほぼ同一の水準にあって、何が防衛されるべきかといった大義は共通してよく理解されていたからです。自然成長的な規律だけで充分であった、ということもできるでしょう。さらに、最高階層の人々が出征するようになった場合には、こうした規律が名誉の原理にとって代られたのだ、とスミスは説明します。自身の名誉を得るために、そしてまたその名誉を傷つけないために、といった個々人の動機が、出征した人々の行動を律したのであって、これと別個にことさらに軍事的規律を確立することが問題になることはなかったわけです。しかし、国家の防衛という職務が最低階層の人々に押し付けられるようになると、彼らを一致結束して行動させるために、最も過酷で厳密な規律が必要とされるようになり、こうした軍事的規律があらゆる常備軍に導入されるようになります。こうした軍事的規律は、一般的にいって、出征した最低階層の人々が、将軍や将校たちは敵よりも恐ろしいものだと思うように仕向けることにっよって、確立されるのです。スミスは、国家の防衛という職務に従事する最低階層の人々の良好な態度の主な原因は、自分たちの将校と厳密な処罰と軍法とに対する恐怖なのであって、我々は彼らの勇猛果敢な戦いぶりについて、こうした原理のおかげを受けているのだ、と述べています。

 以上のような経緯で常備軍が成立させられていくことを確認したスミスは、常備軍は国家に害を与えることができるだけ少ないように組織されなければならない、と指摘しています。これは一体どういうことでしょうか。スミスは、常備軍に対する非難がどれだけ大きかったとしても、それは社会の歴史的な発展の一定の時期に導入されるに違いない、と指摘する一方、地主貴族(ジェントリ)によって統率される民兵は、特定の人物のためにその国家の自由を犠牲にすることは決してあり得ず、他国の常備軍に対する最良の安全保障なのだ、とも述べています。要するに、常備軍導入の歴史的必然性は(分業=社会的総労働の分割の一環として)認めるものの、それが国王専制の道具として使われてしまう危険性(また、その点での民兵制の優位)をしっかり直視した上で、その組織のあり方には慎重な配慮が必要だ、というのが、スミスの主張だということができるでしょう。

 こうしたスミスの論の背景には、18世紀においては、常備軍の存在がまだ当たり前のものとしてはみなされていなかった、という事情があることを指摘しなければなりません(常備軍はいわゆる近代国民国家の形成とともに成立させられてくるもので、中世封建制の社会には常備軍は存在しませんでした)。こうしたなかで、名誉革命後のイングランドでは、いわゆる常備軍論争が激しく展開されています。ウィリアム3世(名誉革命によって即位した王)は、大同盟戦争(膨張政策をとるフランスのルイ14世に対抗して他のヨーロッパ諸国が同盟して戦ったもの)の終結後もフランスと対抗できるだけの規模の常備軍を維持しようと計画し、これが強い反対(常備軍は国王専制の手段になる恐れがある!)を呼び起こしたのです。さらに、1750年代から1760年代にかけて、スコットランドでいわゆる民兵論争が展開されたことも重要です。1756年〜1763年の英仏七年戦争(北米植民地の支配権の争奪が焦点)で正規軍(常備軍)が海外に派遣されると、本土防衛のための民兵制度が導入されたのですが、ジャコバイトの反乱(名誉革命によって追放されたジェームズ家を復位させようと、スコットランドを最大の支持基盤として展開された反革命運動)の記憶が薄れないイングランドの議員たちは、スコットランド人に武器を持たせることに反対し、スコットランドは民兵制度から除外されてしまったのです。スコットランドでは、民兵制度の導入を求める運動が大きく盛り上がりました。これ自体は、常備軍の存在を前提とした上で、それを補完するものとしての民兵制度の導入を要求するものではありましたが、運動が進展していく過程で、そもそも常備軍がよいのか民兵がよいのか、といったテーマも争点となっていたのです。スミスの常備軍論については、以上のような時代的雰囲気を背景にしたものとして、読んでいく必要があります。このことを確認して、スミスの常備軍論に戻ることにしましょう。

 スミスは、常備軍には2つの種類がある、と指摘します。第一は、政府が募集し、軍人として雇った人たちに対して給与を支払う場合です。これが、18世紀当時のイギリスに存在していたような常備軍の原型であり、この種類の常備軍は、第二の種類の常備軍よりも危険性が少ない、といいます。では、第二の種類の常備軍とはどのようなもので、そこからどのような危険が生じるというのでしょうか。スミスのいう第二の種類の常備軍とは、1人の将軍が一定数の軍隊を引き連れて政府を援助するという一括契約を結ぶ場合です。その典型として、スミスは古代ローマ帝国の常備軍を挙げるわけですが、我々のイメージしやすいところでは、中華民国の内戦時代に存在した軍閥も、これに相当するといえるでしょう。この種類の常備軍の場合、将軍は国家から独立していますから、雇い主たる国家よりも将軍の方が優位に立ってしまうのです(例えば、中華民国大総統の地位は、北洋軍閥の総帥たる袁世凱に奪われてしまったのでした)。これに対して、第一の種類の常備軍の場合は、将軍たちは名誉を重んじる人々であるし、国家に深い関係を持っているので、自分たちの武器を政府に向ける恐れは格段に低い、とスミスは説明するのです。

 とはいうものの、スミスは、国王派と議会派が国家権力の掌握をめぐって争っているような場合、常備軍が一般に国王の側に与するものであることを指摘し、これは常備軍が国民の事由にとって危険な存在となるケースだと指摘しています。

 以上が、スミス『法学講義』における軍備論です。これで、正義、生活行政、公収入、軍備という「法の四大目的」(序論)については一通り考察が終わったことになるのですが、スミスは法学の最後に、国際法についての考察が必要となることを述べています。その内容については次回検討することにしましょう。
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2015年09月24日

アダム・スミス『法学講義』を読む(9/13)

(9)租税と公債をめぐって

 本稿は、経済(市場)は政治(国家)から自立したシステムであるべきで政治は経済に介入すべきでない、という「自由主義経済学」の教義の妥当性が根本から問い直されなければならない情況になってきていることを踏まえ、「自由主義経済学」の源流とされてきたアダム・スミス『国富論』がスミス自身の『法学講義』から派生してきたものであることに着目し、この『法学講義』の全体像を概観していくことによって、『国富論』を「源流」として「自由主義経済学」が形成されていく過程において、見失われてしまったものは何なのか、明らかにすることを目的にしたものです。

 前回までの3回にわたっては、スミスの生活行政(police)論のうち、分業論、価格論と貨幣論、富裕の進行が遅れてきた原因の考察について紹介してきました。これらの議論を通じてスミスは、一国の富裕は貨幣にある、という当時支配的であった考え方を誤りと断じ、個々人の財産の安全保障という国内統治の枠組みを確立した下で、生産的な労働に従事する人々の労働意欲を削ぐ諸々の観念(商工業への軽蔑など)や制度・政策(穀物の輸出禁止や特権的大商人の優遇など)を排するならば、富裕の進行が実現していくであろうことを主張していたのでした。

 さて、今回は、生活行政論の残された部分である公収入――序論においては、生活行政と並ぶ独立の項目として「法の四大目的」のひとつに挙げられていましたが、実際の講義の進行のなかでは、生活行政論に取り込まれてしまっています――についての議論を紹介することにしましょう。

 スミスは、まず公収入の歴史的起源を考察します。社会の初期においては、公的な業務は、名誉的なものとして、為政者によって無報酬で遂行されたのですが、統治が為政者の全ての配慮を費やさなければならないほどに複雑化してゆくと、報酬の支払いが求められるようになっていきます。さらに統治が発展すると、倉庫や船舶や宮殿その他の公共的な建築物が必要となってくるのであって、それらを賄うための財源を確保することが必要になってきたのです。財源確保の最初の方法として採用されたのは、土地所有が分割された際に、特定の土地を政府の維持に充てるためのものとして確保してしまう(国有地としてしまう)ことです。この方法についてスミスは、土地の改良を妨げ、富裕の進行を遅らせる最悪の方法であると断じます。

 その上でスミスは、租税一般について議論を進めます。スミスは、全ての租税は所有物に対する租税と消費に対する租税の2つに分類して考察できる、とします(地租は前者で、商品に対する税は後者)。所有物は、土地、貯え、貨幣の3つに分けられます。土地については、各人がどれだけの量を所有しているか明白ですから、税の徴収は容易です。しかし、貯えや貨幣に課税をする際には恣意的な手続きを避けるわけにはいきません。商売人に帳簿類を見せるよう義務付けるなど、過酷な手段(自由の侵犯!)によらねば、適正な課税は不可能なのです。

 イングランドでは、個々人の境遇を審査するという自由の侵犯への憂慮から、貯えまたは貨幣には課税されないで、もっぱら消費に課税されているわけですが、この方法の長所がどうであろうとも、ここには明らかにひとつの不平等がある、とスミスはいいます。消費に対する税は、ときには商人によって、ときには消費者によって払われ、またときには輸入業者によって払われて彼は消費者から払い戻しを受けなければならないからです。消費税は、誰の負担になるのか(誰が負担すべきものなのか)明確ではない、というわけです。しかしながら、消費税は、所有に対する税に比べて、ある長所を持っている、とスミスは指摘します。それは(商品価格の一部として)目立たぬように支払われるので痛税感がない、ということです。これに対して、1000ポンドの地代を持つ人は、そこから100ポンドが出ていくのを非常に痛く感じます。消費税に対して不平の声がそれほど高くないのは、消費税を納税する商人がそれを商品価格に転嫁するからであって、消費者は税を負担しているという自覚なしに(すべてを合わせてひとつの価格だと錯覚して)支払うことになるからです。

 関税についてスミスは、イングランドとフランスとを比較し、イングランドの関税徴収の方が優れていると論じています。イングランドでは、税関の帳簿に記入された品物は国中どこにでも何の妨害もなく運ぶことができるのに対して、フランスでは、品物が持ち込まれるほとんど全ての町の入口で入市税が支払われなければならないからです。さらにスミスは、輸出税は輸入税よりもはるかに有害であることを説きます。ある国の住人が、自分たちの労働の生産物の輸出を高い輸出税によって禁止されるならば、それらは国内消費に限定されてしまう(当然にそれだけ売り上げが減少する)ので、労働意欲を削いでしまうことになるでしょう。輸入税はこれと反対に、特定の商品の生産を奨励します。しかし、自然に必要とされる以上に生産されてしまうならば、これまた問題だといわざるをえません。結局、スミスの評価としては、輸出税であろうが輸入税であろうが、一国の産業を不自然な水路に逸れさせるという点で有害なのだ、ということになります(*)。

 続いてスミスは、公債論へと議論を進めます。スミスは、名誉革命後、統治の必要ということで、政府が国民から一般に通常の利息より高率で、数年内に返済されるものとして借金することが必要になった、といいます。この利息の支払いに充てられる基金は、一定の商品に対する税でした。これらは当初、一定年限だけ課されるものだったのですが、統治上の様々な術策によって債務が永久化されると、必然的にこれらも永久化されることになりました。一般にある額の貨幣が私人に貸し付けられるとき、債権者はいつでも好きなときに、債務者に対して元金と利息の双方を請求できるのですが、政府は債権者に3〜4%の利息を受け取る権利を与えても、元金の返済要求権は与えません。債権者が自分の貨幣が決して完済されないという不便に同意するのは奇妙に思われますが、このことは実際は有利なのだ、とスミスは説明します。もし戦時に政府に1,000ポンドを貸し付けるとすれば、政府はそれについて直接の用途があります(戦費として使わざるを得ない)から、恐らく5%の利息を与えるでしょうし、平和になってもその利息の支払いを継続するでしょう。貸し付けた貨幣の安全は完全に保証されていますし、政府はどんな私人にも勝って規則正しく利息を払ってくれます。ですから、しばしば1,000ポンドの公債を1,100ポンドで売ることも可能になるのです。

 ここで問題になるのは、公債価格の変動要因です。戦費調達のために高利回りで新規の募債が行われることが予想されれば、公債保有者はより高い利息を見込んで旧公債を売り払おうとしますから、売り手の数は増加して公債価格は下落します。反対に、平和の見込みがあるときは、新規募債の期待がありませんから、公債保有者はそれを売ろうとせず、公債価格は上昇します。こうした事情に、公債価格の変動を利用して儲けを獲得しようという公債投機業(一時的な公債購入)の影響が加わります。公債の値上がりで大儲けを望む人は、取引所街で、勝利が得られたとか平和が決定したとか、様々な情報を広めます。他方で、公債を買いたいと思い、その下落を望む人々は、戦争は続くだろうとか、新規募債が考えられているとか、公債を可能な限り低落させるような様々な情報を宣伝します。戦時に新聞が決して考えられたことのない侵略や陰謀で一杯になるのはこのためだ、とスミスはいいます。スミスは、取引所街の用語で買い手は牡牛、売り手は熊と呼ばれていることを紹介し、どちらが優勢かによって公債価格は上下するのだ、と総括します。ここに我々は、現代におけるいわゆる「マネーの暴走」の萌芽をみることができるでしょう。

 さて、スミスは生活行政論の最後の部門として、国民のマナー(風習、習慣)に対する商業の影響について論じています。スミスは、どこの国であっても商業の導入とともに誠実さと几帳面さが培われていく、とします。注目すべきなのは、それが利己心の故(業者としての評判を落とすことを恐れる故)と説明されていることです。スミスにあっては、利己心は、各人の諸行為を規制し、人々を利益の観点から行為するように導く一般原理なのであって、徳も利己心なしには培われないのです(スミスの徳論はいわば仮言命法〔条件付き命令〕であり、定言命法〔絶対的命令〕を掲げるカントの徳論とは大きく異なるといえます)。

 一方で、スミスは、商業的精神からいくつかの不都合が生じることも指摘しています。第一に、人々のものの見方が狭くなってしまうということです。分業が高度に発展したところでは、各人はひとつの単純な作業だけを遂行することになります。スミスは、全ての商業国において、下層民衆が知的な鋭敏さを極端に欠いていることは明らかである、と指摘します。第二に、教育が放置されてしまうことです。商業国では、高度に発展した分業が、あらゆる職業を非常に単純な作業に還元しているために、非常に幼い子どもたちでも働けるようになっています。親としても子どもたちを早くから働かせるのが有利だと知っていますから、子どもたちの教育は放置されてしまうのです。第三に、国民の勇敢さ、尚武の精神(martial spirit)が失われてしまうことです。全ての商業国では、戦争もまたひとつの職業になり、国防は一定の集団にゆだねられてしまうために、国民の大多数のなかで尚武の精神が失われてしまうのです。

 このように、商業の発展が徳(誠実と几帳面)を涵養すると同時に、下層民衆の知的鋭敏さの欠如、国民の尚武の精神の衰退といった弊害をもたらすことを指摘して、スミスの生活行政論は締め括られます。最後の尚武の精神の問題は、法学の最後の部門(四大目的の最後)たる軍備論の導入となっているともいえます。これについては、次回以降、検討していくことしましょう。

(*)この『法学講義』の段階では明確には打ち出されていませんが、後の『国富論』においては、いわゆるスミスの租税四原則(公平、確実、便宜、徴税費最少)なるものが確立されます。@税制は公平でなければならないこと(公平)、A誰が何に対していくら負担すべきか明確でなければならないこと(確実)、B納税の時期や方法が納税者にとって便利でなければならないこと(便宜)、C徴税のための費用をできる限り小さくすべきこと(徴税費最小)。『国富論』においては、財産税と奢侈品課税が奨励される一方、必需品課税は名目賃金を引き上げるために好ましくないとされました。ちなみに、当時のイギリスにおいては、国民一般を対象とする所得税は確立されていませんでした。
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2015年09月23日

アダム・スミス『法学講義』を読む(8/13)

(8)一国の富裕は貨幣にあるという謬見はいかなる弊害をもたらしたか

 前回は、スミスの価格論と貨幣論を概観しました。スミスは、商品の市場価格の変動は自然価格によって規制される(商品の価格は、その商品の生産のために投入される労働に適正な報酬が支払われるところに落ち着く)こと、諸商品の自然価格を通じて産業の自然的均衡が達成される(どの労働にどれくらいの労働が投入されるべきかという問題が解決される)こと、商品取引の発展に伴って、価値尺度および流通手段として、金貨・銀貨が鋳造されるようになっていったこと、一国の富裕は金銀の量ではなく生活に必要な商品の豊富さにあるから、流通手段としての銀行券(紙幣)を発行することで、節約された金銀を国外に送って生活に必要な商品を輸入することは、一国の富裕に資するものであること、などを論じていました。スミスが、貨幣こそが富であるという謬見を排して、人々の労働によって生活必需品がきちんと継続的に生産されていくことこそ国家にとって死活的に重要であることを見抜いた点、また産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきであることを鋭く指摘した点は、現代にも通じる卓見として、高く評価するに値するものでした。

 さて、今回は、一国の富裕は金銀の量にあるという考え方がどのような弊害をもたらしたとスミスが考えていたのか、みていくことしましょう。

 スミスはまず、政府が金貨・銀貨の輸出を禁止したのは、富は貨幣である、という誤った教義によるものだった、と断じます。金貨・銀貨の輸出禁止は、商業にとってきわめて有害である、とスミスはいいます。なぜなら、どこの国でも、国内に存在する商品を流通させるのに必要な量を超えて存在する貨幣は、単なる死蔵物でしかないからです。貨幣を食べるわけにも着るわけにもいかないのであって、いくら貨幣がたくさんあったとしても、それ自体としては豊かな生活にとって何らの足しにもならないわけです。

 次いでスミスは、一国の富裕は貨幣にあるという観念によって、貨幣を枯渇させる種類の商業は不利で貨幣を増加させる種類の商業が有利だと考えられ、前者は禁止されて後者が奨励されたことを指摘します。ごく簡単にいえば、貿易黒字によって金銀(貨幣)を蓄積することを目指して、輸出が奨励される一方、輸入は抑制されがちであった、ということです。スミスは、こうした規制が不合理であることは、少しでも反省すれば明らかになるだろう、として以下のように説明しています。

 そもそも、相互の商業は、(お互いが自己の欲求を満たす商品を獲得するという点で)双方にとって有利なのであって、この事情はどの2つの国民の間でも変わりないはずです。さらにまた、外国市場への品物の輸出を禁止することによって、その国の産業は大いに阻害されることになります。民衆が自分たちの労働の生産物を欲しいものと交換できるということは、労働の非常に大きな動機なのであって、この点で人々に対して何らかの抑制があるならば、人々は製造業の改良にそれほど熱心でなくなってしまうでしょう。スミスは、富裕な国民にとって、自由な商業が有益であるのと同じくらいに、(金銀を蓄積している)他国への嫉妬とか輸出の禁止とかは有害なのだ、としています。

 続いてスミスは、一国の富裕は貨幣にあるという非合理的な見解から生じるもうひとつの悪い結果として、輸出と輸入の関係にさえ注意を払っていれば(すなわち、輸出>輸入で金銀が流入してくるようにさえしておけば)自国内でどれだけ消費しても一国の富裕を減少させることはない、という考え方が生み出されてしまったことを指摘します。スミスは、こうした考えは、マンデヴィルの「私悪すなわち公益」という論の基礎である、といいます(マンデヴィル〔1670−1733〕は、主著『蜂の寓話――私悪すなわち公益』〔1705〕において、富裕層の奢侈的消費こそが経済発展を刺激すると説いたのでした)。しかし、スミスは、国民の誰もが自分の貯えを消費するだけでどんな種類の労働にも従事しないのであれば、その国民はその年の終わりには、その年に消費したものの分だけ貧しくなっているのは明らかであろう、といいます。マンデヴィルの論は、奢侈的消費の役割を一面的に過度に強調しており、継続的な労働の根本的な重要性を捉え損なっている、ということでしょう。

 スミスは、以上のような考察からして、イギリスはあらゆる手段によってひとつの自由港に転化されるべきであること、対外貿易に対してどのような種類の妨害もあってはならないこと、もし何か他の方法で統治の費用を賄うことが可能なら、輸出入税、通関税、消費税は全て廃止されるべきこと、自由な商業と自由な交換が、全ての国民との間に、全てのものについて、許されるべきことが明らかになる、と主張するのです。こうしてスミスは、自由貿易こそ富裕をもたらすものである、と高らかに宣言するわけですが、18世紀の当時と21世紀の現代との時代的条件の違いに注意すべきでしょう。18世紀の当時は、絶対王政と結びついた特権的大商人の支配を打ち破って、小規模な商工業者の自由な経済活動を実現することが課題となっていました。自由貿易の理念は、そのための武器として役立ったのです。しかし、現代では、巨大なグローバル企業の横暴から、中小商工業者や労働者、農民の営業と生活を守ることが切実な課題となっています。このような時代的条件の違いを無視して、スミスの自由貿易論を、現代のTPPなどを正当化する論理として持ち出してくるのは、不適切だというべきでしょう。

 さて、スミスは、一国の富裕は貨幣にあるという非合理的な見解から生じる悪影響の最後として、スコットランドの銀行家であったジョン・ロー(1671−1729)の計画について触れています。ローは、一国の富裕は貨幣にあるが、金銀の価値というのは恣意的なもので制度と同意に依存する(金銀それ自体に客観的に価値があるわけではない!)、と考えました。だとすれば、紙切れでも同じではないか、金貨・銀貨よりも紙幣のほうが流通手段としてはるかに便利ではないか……として、金貨・銀貨を紙幣に置き換えてしまう計画を抱いたわけです。この計画はスコットランド議会によって拒否されてしまったために、彼はフランスに渡ります。そこで彼の事業計画は、ルイ15世の摂政であったオルレアン公爵フィリップ2世に評価され、彼はフランス王立銀行の総裁にまで上り詰めます。しかし、フランス領ルイジアナのミシシッピ開発の成功を担保とした不換紙幣の発行の計画が空前のバブルを引き起こしてしまうことになり、その崩壊とともに、彼は失脚してしまうのです。しかし、スミスは、彼の計画は決して軽蔑すべきものではなかった、といいます。紙幣が役に立つという側面を把握していたのは正当だけれども、ただそれを度外れに拡大してしまったのが問題であったのだ、といったところでしょう。

 以上のように、一国の富裕は貨幣にあるという見解がもたらす悪影響についての考察を終えたスミスは、次に、富裕の進行が遅れてしまう原因についての考察に進んでいます。

 まずスミスは、古代の人々は分業がもたらす諸々の効果について無知であった、と指摘します。また、労働が分割され得るには、貯えがいくらか必要であることも、あらゆる国の富裕の進行が遅いことの一大原因であった、と指摘します。人が新しい職業を始めるためには、その職業での稼ぎを得るまでの期間の生活を保障するだけの貯えが必要です。いくらかの貯えが生産されるまでは分業はあり得ないし、分業が行われる前には貯えの蓄積などほとんどあり得ない、という関係が、富裕の進行を遅らせたのだ、というわけです。

 スミスは、もうひとつの原因として、国内統治の性質を挙げます。スミスは、社会が幼い時期には統治は弱体であり、諸個人の労働の成果を隣人たちの貪欲から保護できるようになるまでには長くかかったのだ、といいます。人々が、自分の財産を強奪されるかもしれないという危険を常に感じているならば、勤勉に働こうという気持ちにはなりようがありません。しかし、統治権力が労働の生産物を防衛しうるほどに大きくなったとしても、さらに別の方面からの障害――隣接する敵国の侵略という障害が発生します。スミスは、富裕の進行にとってこれほど大きな障害はない、といいます(この指摘は後に展開される軍備論への布石ともいえます)。

 続いてスミスは、農業、商業のそれぞれについて、諸政策の抑圧的効果を考察していきます。農業の発展が遅れた理由については、収穫物のほとんどが地主のものになるような関係においては、小作人の労働意欲が喚起されず、土地の改良が進まなかったこと、地代が(貨幣形態ではなく)現物形態であったために不作の年には小作人たちが破滅の危機に陥ってしまったこと、長子相続制や限嗣相続制によって土地改良の意欲のない名門旧家に広大な土地が独占されてしまったこと、飢饉に備えるための穀物輸出禁止によって穀物増産の意欲が削がれてしまったこと、などが指摘されています。

 商業の発展が遅れた理由については、文明化されていない社会では、戦争のみが名誉をもたらすものであり、交易は卑しいものとみなされたこと(『オデュッセイア』でオデュッセウスが商人かと問われて侮辱される場面があることが指摘されます)、文明化された社会でもこうした軽蔑は容易には解消せず、商業や手工業は社会の最低の諸身分に限られていたこと(放浪者とみなされて土地を持てなかったユダヤ人が商人と化したことが指摘されます)、契約に関する法律が不完全であったこと(契約は諸権利のなかで、訴訟の根拠となるが最も遅かったことが指摘されます)、ある場所から他の場所への輸送が困難であったこと(山賊行為が頻発し、そもそもよい公道もなかったことが指摘されます)、輸送が危険であった時代に商取引を容易にするために考案された定期大市と普通の市(取引を特定の時間・空間に集中させる)によって、こうした危険が除去された後も、市以外での商取引を禁じる旧習が保持されてしまったこと、輸出入に関する課税によって商品価格が引き上げられることで、売り上げが減少して製造業は妨げられ分業が阻止されてしまうこと、などが指摘されるのです。

 以上のような考察から、スミスは、個々人の財産の安全保障という国内統治の枠組みを確立した下で、生産的な労働に従事する人々の労働意欲を削ぐ諸々の観念(商工業への軽蔑など)や制度・政策(穀物の輸出禁止や特権的大商人の優遇など)を排することによって、富裕の進行が実現される、と考えていたらしいことが分かるでしょう。
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2015年09月22日

アダム・スミス『法学講義』を読む(7/13)

(7)価格論と貨幣論

 前回は、スミスの分業論を概観しました。スミスは、分業(労働の分割)こそが生活資料の安価と豊富をもたらすものであること、分業の根拠は説得の本能を基礎とする交易性向にあること、この交易性向の具体的な発現は「私の欲しいものを私にくれれば、あなたはあなたの欲しいものを手にするだろう」というように、相手の仁愛ではなく利己心に働きかけるものであること、などを論じていたのでした。

 さて、今回は、価格論と貨幣論について概観していくことにしましょう。

 スミスは、あらゆる商品には2種類の価格があるといいます。すなわち、自然価格と市場価格です。自然価格というのは、その商品の生産に従事している人が、労働している間、生きていくために必要な諸費用を賄うに足るだけの価格です。これに対して、市場価格とは文字通り市場で売買される際の価格です。これは、第一に、その商品に対する需要によって、第二に、その需要に対してその商品が豊富なのか希少なのかによって、第三に、需要する人々の貧富によって、規制されると説明されています。自然価格と市場価格は、外見上は無関係に見えるが、必然的に結びついている、とスミスはいいます。もしある商品の市場価格が非常に大きく、その商品を生産するための労働が非常に高い報酬を得るとすれば、そこに多くの労働が投入されるようになって生産量が大きく増え、その商品の市場価格が自然価格にまで下がることで、下層の人々にも売られるようになります。また、市場が在庫過剰になり、市場価格が自然価格よりも下がって、その商品を生産するための労働に対して十分な報酬が支払われなくなるような場合は、誰もその労働に従事しなくなるでしょう。要するに、市場価格の変動は自然価格によって規制されるのだ、換言すれば、商品の価格は、長期的に見れば、その商品の生産のために投入される労働に適正な報酬が支払われるところに落ち着くのだ、というわけです。

 スミスは、以上述べたことから、市場価格を人為的に自然価格以上に引き上げておくような政策(具体的には、消費税の課税や特定の業者に特権を与えること)は全て公共の富裕を減少させる傾向がある、といいます。価格が高ければ、少ししか支払えない下層身分の人々は買うことができなくなってしまうからです。逆に、市場価格を人為的に自然価格以下に引き下げておこうとする政策も、同じく公共の富裕を減少させる効果を持つことが指摘されています。例えば、輸出向け製造業への奨励金は、その商品を安価にしますが、その場合、その商品の生産への労働の投入は需要という自然の要因のみならず、奨励金によって増幅されてしまうので、他の商品の生産から人々が引き抜かれてしまい、産業の自然的均衡というべきものを破壊してしまうのです。このような議論からは、スミスが、諸商品の自然価格を通じてこそ産業の自然的均衡が達成される(どの労働にどれくらいの労働が投入されるべきかという問題が解決される)、という発想を持っていたことがうかがえるでしょう。

 さて、自然価格と市場価格について以上のような議論を展開したスミスは、続いて、貨幣の問題に考察を進めていきます。スミスは、貨幣は、第一に価値の尺度として、第二に交換の媒介物として、考察されなければならない、とします。

 スミスは、人々が多くの種類の商品を取引するようになると、そのうちのひとつが価値の尺度とされるに違いない、といいます。これは当然に人々の最もよく知っている商品だっただろうとして、ホメロスの時代の標準が黒牛と羊であったことが指摘されています。これは、いわば価値の自然の尺度ですが、牛や羊では個体によって大きかったり小さかったりしますから、同じ量が同じか価値であるような、より正確な尺度が求められるようになっていきます。こうした要求を満たしたのが、金属、なかでも金と銀だったわけです。金と銀が価値の尺度となった結果、それは商業の用具(交換手段)ともなりました。商品が市場に運び込まれて(1ヶ所に集められて)取引されるようになると、価値の尺度が同時に交換の媒介物でもあるのでなければ、交換はスムーズに行われません。金銀は、保存が容易ですし、摩耗もしにくく、(少量でも大きな価値を表すので)非常に運びやすい、というように、交換手段として優れた特性を持っていました。

 しかし、金と銀が、価値の尺度、交換の媒介物という目的にとって最も適切なものとなるためには、その重量と純度が正確に確かめられなければなりませんでした。この双方を非常に効果的に保証したのが、貨幣の鋳造です。しかし、当初、政府は鋳貨の品位低下の誘惑から逃れることができませんでした。例えば、債務の支払いに200万必要なのに政府は100万以上は持っていない場合、そこにより多くの合金を混入して鋳造し直し、前とできるだけ似せて200万とする、といったことが横行したのです。スミスは、こうした操作が行われてきた結果、多くの国では、元の価値の50分の1でさえなくなっている、といいます。スミスは、鋳貨の品位低下が商業を大きく混乱させてしまうこと、政府への信頼が全く失われてしまうことを指摘します。

 ここでスミスは、真の価値尺度は、貨幣ではなくて労働であることに注意しなければならない、と述べています。国民の富裕は、商品の量と交易の容易さにこそあるのだ、というわけです。貨幣はそれ自身では死蔵物であって、生活の役に立つ品々を何も生みません。スミスは、貨幣はこの点では一国の公道に比較できるだろう、といいます。公道は、それ自身では穀物も牧草も生みませんが、その国の全ての穀物と牧草を流通させます。もし、公道によって占められている土地を倹約する方法を見つけることができたならば、(その倹約された土地で穀物や牧草を生産することで)商品の量を著しく増加させることが可能となるでしょう。一国の富は、商業を流通させるのに使用される貨幣の量にではなく、生活必需品の豊富さにこそあります。ですから、もし国内の貨幣(金銀)の半分を、何らかの品物に変えるために国外に送り、同時に国内の流通の水路を満たすための別の方法を思いつくことができたならば、この国の富を大いに増加させることが可能となるでしょう。

 スミスは、このことから銀行および紙幣信用の設立の有益な効果が出てくるのだ、と説きます。スミスが挙げている例に従って、そのからくりを確認しておきましょう。スコットランドの全ての貯えが2000万に達し、200万がそれらの流通に使用されるものであり、残りの1800万が商品であるとします。単純化していえば、1800万の生活必需品・便宜品と200万の金銀が存在する、というわけです。このとき、スコットランドの諸銀行が、(国内に存在する金銀の価値に相当する)200万の価値の銀行券(紙幣)を発行し、そのうち30万の金銀を直接の請求にこたえるために保留しておくようにするならば、スコットランド国内の市場には、170万ポンドの金銀と200万の紙幣、合わせて370万の流通手段が存在することになるでしょう。しかし、1800万の商品を流通させるために必要とされる額は200万だけですから、流通の水路はそれ以上を受け入れません。したがって、超過分の170万の金銀は国外に送られて、衣食住の材料を持ち帰ることになるのです。スミスは、このことが国民を富ませる傾向をもつのは一見して明らかだ、といいます。

 紙幣に対しては、銀行券は外国市場に流通させることはできないから外国商品は金貨・銀貨で支払わなければならず、結果として国内の金銀を枯渇させてしまう、という反対論がありました。こうした反対論についてスミスは、一国民の富裕は、金銀の量ではなく生活に必要な商品の豊富さにあるのであって、これらを増加させる傾向をもつものは全て一国の富を増加させる傾向を持つのである、と反駁します。銀行券(紙幣)で国内流通の水路を満たすことによって節約された金銀は、国外から生活に必要な商品を獲得してくるのに役立つので、結局、紙幣の発行は一国の富裕に寄与しうるのだ、というわけです。スミスは、仮に、ある国民の鋳貨(金貨・銀貨)が全て輸出され、それに見合って国内の商品量が増加したとしても、何らかの緊急事態に際しては、鋳貨(金貨・銀貨)は誰もが想像できないほど急速に回収されるはずだ、と主張します。商品の貯えさえあるのならば、それを諸外国に輸出することで、鋳貨(金貨・銀貨)の量を増加させることが可能になるからです。

 以上は、銀行(紙幣発行主体)設立の論理的な起源の問題だといえますが、続いてスミスは、銀行設立の歴史的経緯の問題に検討を進めています。スミスは、銀行設立の最初の原因は、貨幣の移動を容易にしようということであった、といいます。商業が高度に発達すると、金銀の引き渡しに多くの時間がかかることの不便が露呈してきます。そこで、大量の現金を数え上げる面倒を防止したのが、銀行の発行する手形でした。ある人が銀行に一定額の貨幣を預金すると、銀行はその人に預金額を限度として手形を発行する権利を与えます。預金を請求せずそのままにしておくことで貨幣の安全を保障しつつ、商取引は手形によって決済する、ということが可能になったわけです。

 スミスは、一銀行の破滅は、普通に想像されるほどには危険でないだろう、といいます。一国の富はあくまでも人々の生活に役に立つ商品なのであって、金銀ではないからです。人々の労働によって商品がきちんと生産されるのであれば、銀行の破綻など取り立てて問題にするまでもない、ということでしょう。

 以上のようなスミスの銀行論・紙幣論は、紙幣の発行額が金銀の準備量に拘束される金本位制度を前提にしたものですから、通貨供給が通貨当局(中央銀行)の意のままに増やせる現代の管理通貨制度の下における通貨の問題には、直接当てはめることはできません。スミスは銀行券(この場合の銀行券はあくまでも兌換紙幣です)の発行に基本的に肯定的ですが、中央銀行の量的・質的緩和なるものが金融市場のバブル生成・崩壊を引き起こしている現代世界経済の様相とは、相当な距離があることは否めないのです。しかし、貨幣こそが富であるという謬見を排して、人々の労働によって生活必需品がきちんと継続的に生産されていくことこそ国家にとって死活的に重要であることを見抜いた点、また産業の自然的均衡というべきものに沿って社会的総労働が分割されるべきであることを鋭く指摘した点は、すなわち、流通する貨幣の背後に存在していなければならない実質的な関係を鋭く見抜いた点は、現代にも通じる卓見として、高く評価すべきところでしょう。
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2015年09月21日

アダム・スミス『法学講義』を読む(6/13)

(6)人間の諸欲求と分業による文明の発展

 本稿は、経済(市場)は政治(国家)から自立したシステムであるべきで政治は経済に介入すべきでない、という「自由主義経済学」の教義の妥当性が根本から問い直されなければならない情況になってきていることを踏まえ、「自由主義経済学」の源流とされてきたアダム・スミス『国富論』がスミス自身の『法学講義』から派生してきたものであることに着目し、この『法学講義』の全体像を概観していくことによって、『国富論』を「源流」として「自由主義経済学」が形成されていく過程において、見失われてしまったものは何なのか、明らかにすることを目的にしたものです。

 前回までの3回にわたっては、正義(justice)論を概観してきました。正義とは、人間の身体・評判や財産を侵害から防衛することであり、これが大きく、公法論(統治者および被治者のそれぞれの権利を論じる)、家族法論(夫婦関係、親子関係、主人と召使い〔奴隷〕の関係における権利を論じる)、私法論(物を支配する権利、特定の人物に何らかの行為を要求できる権利を論じる)の3つの領域にわけて考察されていました。スミスは、そもそも所有権を守るためにこそ国内統治(市民社会)が成立したのであるし、所有権の状態は国内統治(市民社会)の形態とともに歴史的な変化を遂げてきたに違いないとして、公法論から(家族法を媒介として)私法論へ、という流れで、正義論を展開していたのでした。スミスが論じた国内統治(市民社会)の歴史の到達点は、国民の自由(国王の権力に束縛されないこと)が確立されたところであり、同じくスミスが論じた所有権拡大の歴史の到達点は、土地の売買の自由(何世代も前の故人の遺志に縛られないこと)が切実な課題として浮上してきているところでした。身体および財産の安全保障という正義論について以上のような到達点を確認したうえで、今回から3回にわたっては、スミスが「法学の第二の一般部門」と位置づける生活行政(police)論を概観していくことにしましょう。

 スミスは、 police の語源が国内統治の政策を意味するギリシャ語のポリテイアにあること、現在ではこの語が衛生、治安維持、〔生活資料の〕安価と豊富を意味するものとなっていることを説明します。その上で、犯罪防止のための膨大な規制を持つパリよりも、少数の簡単な規制しか持たないロンドンの方が治安がよいことを指摘し、膨大な規則を定めるよりも、他人に依存して生きる人々を減らすことのほうが治安維持上の効果がある、というのです。パリでは貴族層が多くの召使を抱えており、彼らは主人の気まぐれで解雇されると窮迫した状態に陥って犯罪に追いやられてしまいます。これに対して、商業と製造業の発達によって、正直に勤勉に働けば立派にパンが稼げるような状態をつくるならば、犯罪に向かう人は減っていくだろう、というのが、スミスの主張です。というわけで、スミスの生活行政論の中心は、生活資料が安価で豊富であるためにはどうすればよいのか、という問題が考察の中心となります。

 スミスは、生活資料が安価であることと豊富であることとは同じである、といいます。水が安いのは豊富だからで、ダイアモンドが高価なのは希少だからです。スミスは、これら便宜品を取得する適切な方法について検討する前に、そもそも充足されるべき人類の自然の諸欲望が何であるか考察しなければならない、とします。

 スミスによれば、動物は自然に与えられたものそのままを利用して生きていくことができますが、人間は繊細であるために、あらゆる自然物を改良しなければなりません。食物を調理し、衣服をまとわなければならないのです。さらにスミスは、身体よりもはるかに繊細な精神からあらゆる学問芸術が生まれてきたことを指摘します(スミスは、これら学問芸術の良し悪しを左右するものとして、適当な多様性、無理のない結合、単純な秩序という3つの要素を挙げます)。スミスは、人間生活の全ての勤労が、衣・食・住の必需品の供給のためのみならず、こうした趣味の微妙繊細さに応じた生活の便宜品(学問芸術)を手に入れるために行われていること、必需品を改良し増加させることが、様々な学問芸術を生み出し発展させる要因となったことを強調します。食物の供給を主目的とする農業は、土地の耕作だけでなく、植林や亜麻大麻の生産などを導入しますし、ここからさらに様々な製造業が導入されます。地底から掘り出される金属が、これらの技術の多くを実行するための道具の原料を提供します。商業や航海は、これらさまざまな技術の生産物を集めますし、こうしたことを通じて、多数の取引を記録するための簿記の技術、多くの有用な目的に役立つ幾何学など、補足的な学問芸術が生み出されて発展させられていくのです。こうした生産活動の発展、学問芸術の発展を支える枠組みを提供するのが、法律と統治に他なりません。法律と統治こそ、自分の所有を拡大した個人の安全を保障するものであり、こうした平和の保障があるからこそ、学問芸術も発展しうるのです。

 続いてスミスは、分業(労働の分割)の問題に議論を進めます。スミスは、労働(この労働は社会全体の労働のことを指します)が分割されていない非文明国であっても、人類の自然的欲望が必要とする全てのものが与えられるけれども、その国が開発されて労働が分割されたときには、もっと豊かな生活資料が産み出されるだろう、といいます。このため、イギリスの普通の日雇い労働者の生活様式は、インドの支配者より贅沢なのだ、とスミスは主張します。その分業(労働の分割)がどの程度か示すために、スミスは、イギリスの日雇い労働者が着る毛織の上着を例にとります。毛織の上着を準備するには、羊毛を刈り集める人、それを整理する人、羊毛を紡いで糸にする人、染色工、織布工、仕立屋などなど、非常に多くの人々の労働が必要です。さらに、こうした過程で使われる諸々の道具をつくるためには、多数の職匠、織機製造工、水車大工、縄つくり、煉瓦積み、木こり、鉱夫、溶鉱夫、鍛錬工、鍛冶工などなどの労働が必要です。衣服の他に、諸々の家具や食料品を考えてみれば、日雇い労働者の普通の生活を支えるために、実に多くの人々の労働が必要となっていることが分かるだろう、というわけです。

 このように、分業がもたらす豊かさを力説するスミスですが、しかし、それが必ずしも平等ではないことも指摘しています。そもそも労働の分割そのものが不平等で、全く働かない人もいます。その成果たる富裕の分配は労働の量には対応せず(スミスは、商人はその事務員よりも労働量が少ないのにより多く分配される、という例を挙げています)、いわば社会の重荷を背負っている者が利益を得ること最小なのである、とスミスはいうわけです。 

 次いでスミスは、何故に分業が生産物の増加を引き起こすのか、そのからくりの考察に進みます。ここで登場するのは、『国富論』の冒頭としても有名な、ピン工場の例です。1本のピンをつくるのに、1人が鉱石を掘り出し、それを溶解し、針金を削るとすると、まるまる1年はかかり、したがってその1本のピンはその期間全体の彼の生活を賄いうるだけの金額で売られなければなりません。しかし、もし労働が分割されて、そのために針金が前もって作られているならば、彼は1日に20本は作るでしょうし、ピンの価格も劇的に安くなります。それ故に、ピン製造業者は、その労働を非常に多数の様々な人物に分割するのです。針金を切ること、尖らせること、頭を付けること、光らせることが、全て別々の職業になることで、各人は極めて容易に、1日に2000本を作ることができるようになります。さらにスミスは、分業によって行われる仕事の量は、第一に特定の仕事に対する熟練の度合いが増すことによって、第二に、ある種の労働から別の種の労働へ移るときの時間の浪費の節約によって、第三に機械装置の発明によって(分割によって個々の労働が単純化されることで機械装置の発明が容易になる)大いに増加する、と指摘します。

 以上のように、分業(社会的総労働の分割)の効用を確認したスミスは、次に、そもそも何が分業を引き起こすのか、という問いを提起します。この問いに対してスミスは、人間は他者と交易するという交易本性を持っているのだ、という解答を与えます。人間以外で最も賢明な動物である犬(類人猿についてよく知られていなかった18世紀当時は、そのように考えられていたのでしょう)ですら自分の骨を仲間と交換するところは観察されたことがないのだから、この性向は人間に特有なものなのだ、というわけです。分業の根拠は交易性向だなどといわれると、現代の我々からすればちょっと誤魔化されたような感じを受けてしまいますが、スミスが他の動物と比較しつつ人間の特殊性を把握しようとした発想の素晴らしさは、評価されるべきでしょう。さらにいえば、スミスが、交易性向ということで究明をストップさせず、さらにその基礎を探って、人間本性のなかで支配的な説得の本能(他者に自分の考えや気持ちを理解し納得してもらいたい!)というところまで到達していることは、特筆すべきでしょう。ここには、人間が他者との精神的交通によってつくられていく存在であることの、スミスなりの把握があるといえます。

 この交易性向の発現の具体的な形について、スミスが「私の欲しいものを私にくれれば、あなたはあなたの欲しいものを手にするだろう」と表現していることです。人間は、相手の仁愛に働きかけるのではなく、利己心に働きかけるのだ、というわけです。これは人間を動かす究極の原動力としての利己心を肯定するスミスならではの指摘だといえます(もちろん、スミスはこれが「公平な観察者」によって適切にコントロールされるべきだとするわけですが)。

 もうひとつ注目すべきなのは、この交易性向は、天分や才能の差にもとづくものではないとされていることです。スミスによれば、才能の差というのは、分業の原因ではなく分業の結果なのです。すなわち、生まれつきパン屋向き、酒屋向きの能力を持った人間がいるわけではなく、パン屋あるいは酒屋として働いているうちに、そういう能力がつくられていくのだ、というわけです。

 今回の最後に、スミスが分業と商業の範囲について述べていることを確認しておきましょう。スミスは、分業は常に商業の拡大に比例する、といいます。もしある商品を欲しがっている人が10人しかいないとすれば、その製造過程は、1000人が欲しがっている場合のようには、分割されえないでしょう。要するに、市場の範囲が広がれば広がるほど、より高度な分業が可能となっていくのだ、というわけです。
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2015年09月20日

アダム・スミス『法学講義』を読む(5/13)

(5)スミスが説く所有権確立の歴史的過程

 前々回、および前回は、スミス『法学講義』の正義論のなかの公法論を紹介しました。スミスによれば、そもそも正義の目的とは、侵害に対して安全を保障することであり、侵害が想定される場面は3つ――@人間として、A家族の一員として、B国家の一員として――ありました。このうちBを論じるのが公法論であり、それは、主権者(統治者)が臣民(被治者)から侵害(反逆)されることに対する安全保障、逆に、臣民(被治者)が主権者(統治者)から侵害されることに対する安全保障に分けて議論されることになるのですが、注目すべきなのは、こうした公法論のいわば本論の前提として、市民社会(統治された社会)の起源と歴史について長大な考察が展開されていたことでした。

 さて、正義論の第二に来るのは、家族の一員としての権利(侵害からの安全保障)を論じる家族法論です。ここでは、家族のなかに存在する三重の関係――夫と妻、親と子、主人と召使(奴隷)――のそれぞれについて、まずは古代ローマの状況を押さえつつ、それらがキリスト教の影響を受けながらどのように変化していったのか、という観点から考察されていくことになります。それ自体として非常に興味深いものではありますが、経済学が法学から分離していく過程をみるという本稿の目的からすれば比較的関係の薄いところですから、詳しい説明は割愛して、正義論の第三に来る私法論に進むことにしましょう。

 私法論が対象とするのは、人間としての権利(侵害からの安全保障)であり(上記の@)、自然権(身体および評判への侵害からの安全保障)と取得権(財産への侵害からの安全保障)とに分けらます。取得権はさらに対物権(実在の物を支配・利用する権利)と対人権(特定の人物に対して要求しうる権利)とに分けられるのですが、ここで議論の中心となるのは、対物権の核心をなす所有権です。

 スミスは、所有権取得の5つの方法として、先占(これまで誰にも属していなかったものを占有する)、添付(馬とともに馬蹄に対する権利を取得するように、あるものに対する権利を別のものに対する権利の帰結としてもつ)、時効(他人のものに対する長期の中断されない占有によって生じる)、相続(遺言によるものとそうでないものがある)、譲渡(自分の意志によって自分のものを他人に渡す)を挙げ、それぞれについて歴史的発展過程を視野に入れた解説を行っています。以下、これらのなかでも特に重視されている2つ、すなわち、先占および相続について、スミスがどのような説明を行っているか、確認していきましょう。

 先占についての解説のなかでスミスは、人類社会は、狩猟、牧畜、農耕、商業の四段階を通って発展してきたと述べています。すなわち、人類にとっての最初の食料は果実か野生の動物であった(狩猟段階)が、これらは不足しがちであったため、やがて野生動物を飼いならして手元において置くようになる(牧畜段階)。それでもなお食料が不足するようになるなかで、人々は大地が自然に大量の植物を自生させるのを見て、耕作してそれらをさらに多く生長させることを思いつく(農業段階)。さらに、これに自然に続くのが商業段階である、というわけです。現在では、人々はそれぞれ特定の種類の労働に従事し、自分の生産した品物の余剰分を、他人の品物の余剰分と交換することができるようになっています。スミスは、これらの諸段階に応じて、先占の性格は変化しただろうといいます。 

 スミスがこうした先占の性格の歴史的変遷を議論する基準として持ち出してくるのが、「観察者」の論理(『道徳感情論』で詳しく展開されたもの)です。どういうことかといえば、ある人物が特定の対象物を占有し、その占有を実力で守ろうとすることを、取り立てて利害の絡まない第三者の視点から見て是認できるかどうか、という基準です。例えば、もしある人物が野生の果実を集めたのなら、その人物がそれを好きなように処分することは、観察者にとって容易に是認されるだろう、というわけです。

 スミスは、狩猟民の間での先占について、それが野獣の発見に始まるのか実際に占有された後に始まるのかは議論の余地があるものの、他人が始めた野獣の追跡に途中から割り込むのが所有の侵害とみなされることは間違いないだろう、といいます。その上でスミスは、未開社会においては所有は占有に終始する、と述べています。その理由としてスミスが挙げるのは、未開人の認識のレベルです。すなわち、彼らは、自分たちの身体の周囲にない何物かが自分のものであるなどという観念を持ちようがなかっただろう、というのです。

 さらにスミスは、牧畜民の間では所有の観念がさらに拡大される、といいます。彼らは、家畜が自分のところに帰ってくる習慣を持っている限り、たとえ離れたところにいても、自分のものだとみなします。こうして、彼らが現に持ち歩いているものだけでなく、小屋に蓄えているものなども、彼らの所有するものとみなされるようになっていったのです。

 所有権が動産だけでなく、不動産にまで拡大されるのは、農業段階においてだとスミスはいいます。とはいえ、農耕の開始当初は、彼らの集落の周辺に開墾された土地は村全体の共有であり、その収穫物は各人に平等に分配されました。土地の私的所有は、都市が建設され始めたとき、各人が自宅を完全に自分のものにしようという強い思いを持ち始めたとき、全体の同意によって共有地が分割されることによって始まったのです。

 続いて、相続についてのスミスの説明を確認しておくことにしましょう。相続は法定によるものと遺言によるものとに分けられるのですが、スミスはまず法定相続について、故人の品物をその持ち主自身が選んだであろうと推定される人々に分配すること、とする法律家の見解を批判しています。これは、遺言による相続(故人の遺志にもとづく品物の分配)が法定相続より先行したという想定にもとづくものですが、そうした想定は経験に反する、というのです。古い時代においては、そもそも生存中の人間でさえ完全な所有権を持っていなかったのだから、彼らが自分の死後にそれらを処分する権利を持っていたとはとても考えられない、というのがスミスの主張です。遺言による相続は、アテナイのソロンによる法律、ローマの十二表法によって初めて導入されたと考えられますが、両国にはそれ以前から法定相続が存在していました。スミスは、血縁による相続人の権利は、決して故人の推定された意志にもとづくものではなく、品物のつながりによるものだ、といいます。すなわち、父と子どもたちが一緒に住み、彼らのどんな所有物でも共同の取得者であったから、父が死んだとき、子どもたちは父との関係というよりも、それらを取得するのに自らが投じた労働によって、その品物に対する権利を得たのだ、というわけです。

 封建法においては、土地の不可分相続が成立します。この時代、土地所有の安全を保障するのは、小さい土地であればあるほど困難でした。領地の分割ほど悪い帰結を生むものはなかったわけです。このため、領地は不可分のものとされ、単一の人物、すなわち最年長の息子が優先されることになります。この長子相続制は農業の発展を妨げるものであった、とスミスはいいます。もし領地全体が息子たちの間で分割されるならば、各人は自分の部分を、一人で全体を改良するよりもよく改良したであろうに……というわけです。

 続いて遺言相続について検討されます。スミスは、これほど大きな所有の拡大はない、といいます。生存中の人間が自分の所有物を処分する権利を与えられるのは自然なことであっても、遺言というのは、ある人が自分では権利を持つことができないときに自分の権利を行使することを想定するものなのだ、といいます。スミスは、人々がこうした考え方に慣れるには、相当に長い時間がかかったであろうことを指摘します。その上で、我々は故人の身体にいわば入り込み、我々の生きた霊魂が彼の身体に結合したら何を感じるだろうか、そして我々の最後の指示が実行されないのを見てどれほど大きく嘆くだろうか、と考えるのだといいます。想像の上で死者の立場に立ってみることによって喚起される諸感情こそが、所有権をその人の生存権をいくらか超えて拡大したいという気持ちを人々に抱かせたのだ、というわけです。さすがに『道徳感情論』の著者らしい、非常に興味深い考察だといえるでしょう。

 さらにスミスは、限嗣相続(ここでは遺言相続と長子相続が結びついたものと位置づけられています)に議論を進めます。スミスは、これこそ所有権のあらゆる拡大のうちで最大のものだといいます。人に死後まで自分の所有を左右する権利を与えること自体、大変に重大なことですが、その権利がこの世界の終わりまで(!)拡大されること(永久限嗣相続)に比べれば大したことではない、というのです。スミスは、遺言相続の原理たる死者への共感が成立しうるのは、死者についての人々の記憶が鮮明なときだけなのだから、何世代も後の人々を拘束するような権利を与えるのは不自然だ、と批判します。スミスは、この限嗣相続についても、農村の改良にとって不利であることを強調しています。限嗣相続による土地の相続人たちは、耕作を念頭においているとは限りません。これに対して、土地を買う人は完全に耕作を念頭においており、最良の耕作者となりえます。スミスは、限嗣相続を廃して(少なくともそれが及ぶのはその人の死のときに生きている人々までとすることで)、土地の自由な売買ができるようにするべきであることを示唆するのです。

 以上、所有権が歴史的に拡大してきた過程についてのスミスの議論を概観してきました。「観察者」や想像上の立場の交換という『道徳感情論』で詳しく展開された論理を絡めつつ、人類の認識の歴史的発展という角度から所有権の拡大を検討した、なかなかに興味深い論考であったといえるでしょう。
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2015年09月19日

アダム・スミス『法学講義』を読む(4/13)

(4)スミスが説く市民社会の発展史

 前回は、スミスの市民社会(国内統治)起源論について紹介しました。スミスは、狩猟段階の社会では諸々の侵害に社会全体が一丸となって対処していたために正規の統治(統治者と被治者との対立と統一)はありえなかったこと、牧畜段階の社会において牛や羊といった私有財産を防衛するために正規の統治が生まれたことを論じていたのでした。

 さて、牧畜段階において統治が成立したことを確認したスミスは、次いで、共和制はどのように導入されたのか、という問いを提起します。ここで「共和制」という言葉でイメージされているのは、古代ギリシャのポリス社会や共和政ローマのことにほかなりません。つまり、牧畜段階の社会からどのようにして、古代ギリシャ・ローマのような社会が成立していったのか、という問題が提起されているわけです。

 スミスは、タタール(モンゴル)やアラビアのように大部分が丘と砂漠で耕作できないようなところでは共和制は導入されない、とした上で、これと反対の条件を持ったギリシャ、とりわけアッティカ地方を取り上げています。アッティカの3分の2は海に囲まれ、他方の側は高山の尾根に囲まれていまから、近隣諸国との海を通じた交流が可能になると同時に、外部からの侵入に対しては守られていました。この地もトロイア戦争の時代には、タタールその他の国々と大同小異で、土地の耕作は進んでおらず、所有の大部分が家畜であったのですが(ホメロスが描く所有をめぐる争いは全て家畜についてのもの)、土地が分割され耕作が一般に行われるようになると、余剰生産物の近隣諸国への販売が行われるようになります。しかし、これは同時に、近隣諸国のアッティカ地方への侵入を誘うものともなりましたから、テセウス(伝説的なアテナイ王)は、アテナイを要塞化し、侵略されればいつでも、家畜その他の財産をもってそこに立てこもれるようにしたのです(いわゆる集住〔シノイキスモス〕です)。この要塞化された都市・アテナイで、学問芸術が発展させられていくことになります。スミスは、このようにして人々が都市に住むことに同意した際、それぞれの首長は権威を失って、統治が共和的になるのが普通であった、といいます。なぜなら、(生産活動や交易活動の活発化に伴って)市民たちが徐々に財産を増加させていくことで、市民と首長層の格差が小さくなり、首長層が市民を従わせるだけの権威を失っていくことになるからです。

 共和制の成立過程について以上のように説明したスミスは、次に、どのようにして共和国の自由が失われて君主政治が導入されたのか、と問います。これは、ローマ帝国の成立過程が念頭にあるものといってよいでしょう。スミスは、先に論じた共和制国家(中心にいくつかの町をもち、周辺に農村地帯の領地をもつような国家)を、古い境界に閉じこもる防御的共和(ギリシャ諸国家など)と、征服によって領土を拡大する征服的共和国(ローマ、カルタゴなど)に分け、それぞれについて共和制の崩壊過程を検討しています。

 まず、防御的共和国についてです。一国内で手工業が発展し、市民の少なからぬ部分が手工業者として労働するようになると、戦時に大勢の戦士を送り出すことは不可能になります。また、富裕と奢侈が増大すると、戦争に行くのは大変な苦痛だと考えられるようになるために、富者は自身では戦場に出ずに、傭兵を雇うようになります。こうして、共和国の兵力が減退し、結果として統治そのものも衰退することになってしまったのだ、とスミスはいいます。

 それでは、征服的共和国の場合はどうでしょうか。ローマにおいても、富裕と奢侈の増大によって、兵士の傭兵化という過程が進行します。初めて軍隊の募集を行ったのは民衆派の指導者マリウス(前157−前86)で、彼は解放奴隷を自分の軍隊に集め、厳しい軍律を樹立しました。マリウスはこの軍隊によって属州を征服し威圧するのですが、ローマ不在中に、閥族派の指導者スッラ(前138−前78)によって追放されてしまいます。しかし、マリウスの軍隊は、スッラが遠征でローマ不在の時を狙ってローマに進軍、統治を掌握してスッラの党派を弾圧しました。間もなくしてマリウスが亡くなると、スッラはローマに帰還し、今度はマリウスの党派を弾圧して統治を(事実上の)君主制に変更し、自身が永久独裁官となったのでした。このように、国家がそれ自身の臣民たちによって征服された場合、その行為の性質とその実行手段の双方からして、軍事的君主制(軍事力によって支えられた君主政治)が必然化されてしまうのだ、とスミスは説いています。

 では、こうした軍事的君主制は、どのようにして崩壊していったのでしょうか。ローマ帝国において、富裕と奢侈の増大によって市民が戦争に出るのを好まなくなり、政府としても製造業に従事する人々を派兵することが公収入に悪影響を与えることを知るようになると、近隣のゲルマニア、ブリタニア等の「野蛮な」諸国から安い費用で傭兵が調達されるようになりました。こうした制度の下では、自分自身の部下を率いる蛮族の首長は、政府が少しでも気に食わないことをすれば、自身の兵力を雇い主に向けて、自らが国の主人になることができます。ローマ帝国の西部諸属州はたいていこうしたやり方で占拠され、軍事的君主制は崩壊してしまったのでした。

 軍事的君主制なるものの成立と崩壊について、以上のような議論を展開したスミスは、次いで、どのような形態が西ローマ帝国の没落の後を継承し、ヨーロッパの近代諸統治の起源となったのか、という問いを提起します。西ローマ帝国の没落後にその支配地域を占拠したゲルマン人は、ほとんど無法状態でしたから、国の至るところで略奪が絶えず、あらゆる種類の商業が停止してしまいました。その結果として生じたのが、自由保有地制度です。これは、王や首長が土地の大きな部分を占有して、それを自分の従属者に分配するものです。従属者たちは、一定の年貢を払うとともに、戦争では領主に従って従軍するなどの奉仕をしました。自由保有地領主たちは絶えず争いあっていましたから、土地保有者の従軍を確実なものするために、1年ごとに借地証を与えるというやり方が改められ、終身の保有が認められるようになります。さらにはこの権利が世襲のものとなることで、いわゆる封建制度が成立することになったのでした。封建制度の下では、領主と土地保有者以外にも、農奴や自治都市の住民が存在しました。土地を耕す農奴は土地の付属物でしかありませんでした。自治都市の住民も農奴と同様に軽蔑される存在でしたが、領主との対抗上、領主と自治都市の利害関係を弱めることに利益を見出した国王によって、支援されるようになっていきます。

 封建制度の下では、大なり小なり領地を持っている全ての人物は、国王宮廷(議会)に列席して、国事について国王に相談し助言する権利を持っていました。議会に出席する余裕のない下級小貴族は代表を送るべきだと法定され、自治都市についても同じように議会に代表を持つようになります。下級小貴族は、境遇としては大領主たちよりも平民たちの方に近かったので、間もなく両者は統一的な行動をとるようになっていきました。こうしたなかで、手工業と商業の発展が、貴族層の力の減退をもたらすことになります。奢侈的な消費の魅力の大きさは、貴族層に従者たちを解雇してでも奢侈的消費のための費用を捻出させるようにしたのです。このことは、奢侈的消費の多少の増大によってはびくともしないほどに大きな領地を持った国王の権力を専制的なものにしていきました。

 引き続いてスミスは、イングランドの歴史に焦点を当てつつ、国王の専制的権力が制限されて議会の力が強まっていく過程を説明しています。常に国民の人気を気にしていたエリザベス1世(在位1558-1603)は、財源捻出のために多くの王領地を売り払ってしまいます。そのため、後の王たちは、たびたび課税の承認を議会に求めなければならなくなります。課税の承認を求められるたびに議会は国王の特権を制限していき、国民は言論の自由を獲得して、あらゆる法律に議会の同意が必要であることを法定させたのです。スミスは、ブリテン島が海に囲まれていたため常備軍の必要がなく、国王が議会に対して威圧できる武力を持たなかったという事情も指摘しています。

 続いて、イングランドにおける司法制度の歴史が概観され、議会の同意なしに国王が勝手に裁判所を設置できない、というのが現在の到達点であることが確認されます。

 以上のような歴史的考察を踏まえた上で、いよいよ公法論の本論というべき議論、すなわち、主権者(統治者)および臣民(被治者)それぞれの権利(侵害からの安全保障)についての議論が展開されることになります。ここでは、ごく簡単に確認しておきます。まず、主権者(統治者)に対する臣民(被治者)の犯罪、すなわち、統治を覆そうとする反逆の諸形態について議論され、市民たる要件について検討された上で(大きな国家ではそこで生まれたことが市民をつくり、小さな国家では市民である両親から生まれたことが市民をつくる、とされてきたことなどが紹介されています)、主権者(統治者)の臣民(被治者)に対する犯罪、換言すれば、主権者(統治者)の権力の限界はどこにあるのか、という問題が検討されています。スミスは、「この問題についての我々の最善の見解は、政府のそれぞれの権力とそれらの進歩を考察することから生じてくるだろう」として、連合権(行政権)→司法権→立法権という三権の成立順序を改めて確認し(ここでは、立法権は司法権力の成長から、司法権力への抑制として発生した、とされているのが注目されます)、全く制限されない権威というものがない以上、忠誠の原理が何であろうと(契約であろうと権威と効用であろうと)、抵抗の原理は疑いもなく合法的であるに違いない、と主張するのです。

 以上が、スミス『法学講義』における公法論です。
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2015年09月18日

アダム・スミス『法学講義』を読む(3/13)

(3)スミスが説く市民社会の起源

 本稿は、経済(市場)は政治(国家)から自立したシステムであるべきで政治は経済に介入すべきでない、という「自由主義経済学」の教義の妥当性が根本から問い直されなければならない情況になってきていることを踏まえ、「自由主義経済学」の源流とされてきたアダム・スミス『国富論』がスミス自身の『法学講義』から派生してきたものであることに着目し、この『法学講義』の全体像を概観していくことによって、『国富論』を「源流」として「自由主義経済学」が形成されていく過程において、見失われてしまったものは何なのか、明らかにすることを目的にしたものです。

 今回からいよいよ、『法学講義』の内容に入っていくことにしましょう。前回簡単に紹介したとおり、『法学講義』は、大きくいえば、法学とはそもそもどういうものかを論じる序論、正義(司法)にかかわる諸領域を論じる第1部、生活行政(公収入も含む)と軍備などを扱う第2部から構成されています。

 『法学講義』全体の序論では、冒頭で「法学は、すべての国民の法律の基礎であるべき一般諸原理を研究する学問である」(水田洋訳『法学講義』岩波文庫、p.17)と定義された上で、グロティウス(1583-1645)以来の法学の歴史がざっと概観されています。その後、あらためて「法学は、法と統治の一般諸原理の理論である」と確認し、法の4大目的として、正義(justice)、生活行政(police)、公収入、軍備があげられているのです。

 第1部の「正義論」の序論でスミスは、正義の目的は侵害に対して安全を保障することであるとした上で、侵害が想定される場面を3つ――@人間として、A家族の一員として、B国家の一員として――を挙げています。@を論じるのが私法論、Aを論じるのが家族法論、Bを論じるのが公法論ということになります。

 このうち@については、身体・評判および財産への侵害に対する安全保障が問題になることが確認された上で、前者がローマ時代以来「自然権」とされてきたこと、後者が対物権(実在の物を支配・利用する権利であり、所有権がその核心をなす)と対人権(特定の人物に対して要求しうる権利)とに区分されることが説明されています。その上で、自然権の起源が明白(各人が自身の身体への侵害を防ぐ権利を保持することは疑いようがない)である一方、所有権のような取得権についてはそれ以上の説明が必要となるとして、所有権と国内統治(civil government)が相互に大いに依存しあっていることが指摘されています。そもそも所有権を守るためにこそ国内統治が成立したのであるし、所有権の状態は国内統治の形態とともに歴史的な変化を遂げてきたに違いない、というわけです。そしてスミスは、統治の考察からはじめてその後で所有権およびその他の権利を扱うほうがよいとして(*)、公法論から私法論へ、という論の展開を予告するわけです(実際の講義の進行では、公民としての権利を論じる公法論と私人としての権利を論じる私法論の間に、家族関係における諸権利を論じる家族法論が挟まれることになります)。

 公法論は、国家の一員としての安全保障――主権者(統治者)が臣民(被治者)の反逆から守られること、臣民(被治者)が主権者(統治者)の暴政から守られること――を論じるものですが、こうした公法論のいわば本論が展開される前提として、スミスは国内統治の起源と歴史について、かなり突っ込んだ考察を展開しています。この歴史的考察は非常に興味深いものですから、本稿では、公法論のいわば本論部分はごく簡単に紹介することにして、その前提となる歴史的考察の部分を詳しく紹介することにしましょう。

 スミスは、市民社会(civil society)――ここでは、政治権力によってきちんと統治されるようになった社会、といった程度の意味合いであり、「国内統治(civil government)」とほぼ置き換え可能です――を形成する原理は、権威と効用の2つである、といいます。権威の原理とは、年齢や心身能力や富の優越、家柄の古さなどによって特定の人物が大きな権威を持ち、他の人々がその人物におのずから(優越者、とりわけ富者に観念的に同化することが快いという共感の原理を通じて)服従することになる、というものです。これに対して効用の原理とは、政治的諸制度に服従することによって諸々の侵害から守られるのだから、多少の不満はあってもその制度に従っておいた方が得だ、というものです(スミスは、君主政治では権威の原理が、民主政治では効用の原理が優勢である、とします)。

 ここでスミスは、いわゆる社会契約説――市民社会の形成の原理として構成員による契約を挙げる説――を批判しています。第一には、原始契約の説はイギリスなどに特有のものだが、こうした説が考えられなかったところでも統治は成立しているし、イギリスなどの国の大多数の国民についても、為政者になぜ服従するのかと問われて契約を根拠に挙げる者は誰もいないだろう、ということです。第二には、仮に統治の諸権力が最初に一定の人々に信託された際、それを信託した人々の服従は契約にもとづいていたといえるにしても、彼らの子孫はそうした契約と無関係であり、そういう契約を意識することもなく、したがって拘束することもありえないではないか、ということです。スミスは、このように批判した上で、国内統治(市民社会)を成立させる原理は契約ではなく権威と効用なのだ、と結論づけています。

 以上は、国内統治(市民社会)の論理的な起源についての考察といえますが、さらにスミスは、「統治についての正しい諸観念を得るためには、その最初の形態を考察し、その他の諸形態がそれからどうして生じたかを、観察することが必要である」として、その歴史的な起源と発展過程の問題について考察を進めています。

 スミスは、狩猟民族はあらゆる侵害行為について社会全体として対処するのだから、正規の統治(統治者と被治者が区別されるような状態)は存在しない、といいます。しかし、牛や羊の私有が財産の不平等をもたらすと、富の安全を保障する(貧者による侵害から防衛する)ことが大きな課題となり、ここに正規の統治が成立することになったのだ、というのです。このことからすれば、スミスは私有財産の発生に国家権力の成立根拠を見出している、ということも可能であり、後のマルクス、エンゲルスらによる国家起源論を予感させるものがあるといえます。

 一方でスミスは、いわゆる三権――立法権、司法権、行政権(和戦を決定する連合権)――の問題を取り上げ、社会の最初期におけるそれらの発展過程についても考察しています。政府の最初の形態では、これらが(未分化のまま)国民の総体に属していたものの、まずは牧畜民の時代に行政権が絶対的に行使されるようになり(和戦の決定は社会の最大の関心事であったからだとされています)、次いで司法権が次第に明確化してきて(牛や羊の所有権をめぐる私的な争いには、社会はなかなか直接には関わろうとしなかったといいます)、最後に立法権が導入される(法律を制定して、我々自身のみならずそれに何らの同意も与えなかった子孫をも拘束するのは、統治の最高の仕事であるからだとされています)、というのがスミスの説明です。ここでは、共同体内における私有財産の保護をめぐる権力の機能確立よりも、他共同体との和戦の決定に関わる権力の機能確立の方が先行させられており、興味深いものがあります。

 共同体内の階級分化から国家の発生を説明するのか、それとも共同体どうしの対峙から国家の発生を説明するのか――この段階のスミスにおいては、国家起源論が未成熟で、論理的に整理されきっていなかったのだ、ということになるのかもしれません。というよりもむしろ、国家というよりも国内統治(統治者と被治者との対立と統一)の成立という角度から問題に迫っていったために(国家と国家権力との区別が不明瞭であったために)、議論が整理しきれなかった(国家という枠組みの成立をすっ飛ばして、その内部の構造を云々するようなことになってしまった)というべきかもしれません。もっとも、スミスの主観においては、問題はあくまでも牛や羊の所有権の防衛であって、共同体内の貧者からの攻撃への対処よりも、共同体外の敵からの攻撃への対処の方が先んじて問題になったのだ、という形で、一応は整理されていた(スミスなりの筋は通っていた)可能性はあります。

(*)『法学講義』の正義論は、「Bノート」(1763-1764)では、ここで書いた通り〈公法→家族法→私法〉という順序で展開されるのですが、「Aノート」(1762-1763)では〈私法→家族法→公法〉という順序で展開されています。「Bノート」では全体から部分へ、「Aノート」では部分から全体へ、という流れになっており、論理的には「Bノート」の方が正当だといえます。しかし、このような根本的な構成において動揺がみられることは、スミスが、個々人の意志から(相対的に)独立した国家の意志について如何に把握すべきか、まだよく分かっていなかったことを示唆するものと思われます。
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2015年09月17日

アダム・スミス『法学講義』を読む(2/13)

(2)法学から如何にして経済学(『国富論』)が誕生させられたのか

 前回は、中国の株式市場での株価暴落に対する中国政府の対応が「経済先進国」からの(半ば)嘲笑的な批判を招いてしまったこと、にもかかわらずこの事態は(リーマン・ショック以降の世界経済において中国が果たしてきた役割も含めて考察するならば)市場が最終的には国家の力なくしては支えきれないこと(政治と経済とは決して切り離せないこと)を示すものとして重く受け止めるべきであること、経済は政治から自立したシステムであるべきで政治は経済に介入すべきでないという「自由主義経済学」の教義の妥当性が根本から問い直されなければならない情況になってきていること、を説きました。

 前回の最後の部分では、いわゆる「自由主義経済学」が、自らの源流をアダム・スミスの『国富論』に求めていることを指摘したのでした。確かに、スミスの『国富論』には、政府の恣意的な市場への介入に対する批判が見られます。市場の自由な動きに任せていれば資源の適正な配分(社会的総労働の適正な分割)が実現されるはずだという思想も読み取ることができます。

 しかし、同時に強調されなければならないのは、スミスの『国富論』は決して国家(政治)を考察対象から除外しようとはしていなかったということです。『国富論』において、スミスは、政府の恣意的な市場への介入が排されたとしても国家がなすべき仕事はなお存在するとして、治安維持、司法、公共事業の3つをあげています。これらは、どの市民に対しても普遍的な利益をもたらしますが、市民の個別的な利益にはならない(儲からない)ために、市場では提供されません。このため、国家がこれらの仕事を引き受けなければならないとスミスは主張するのです。

 つまり、『国富論』(正式なタイトルは『諸国民の富の本質と原因に関する研究』です)は、単に資源の配分過程(社会的総労働の分割過程)に対する政府の介入を排するよう主張するだけでなく、すべての国民にとって利益になる仕事をなす主体として、政府を位置づけ直しているのです。スミスは、国家のなすべき仕事について(「経費論」)、また、国家の仕事に必要な財源の調達について(「租税論」)、市場の自然で自由な動きとの関連において、論じています。このようにスミスは、いわば市場論と国家論とを統一したものとして、『国富論』を構成していたわけです。

 さらに重要なのは、そもそもこの『国富論』は、単なる経済学の本として構想されたものではなく、もっと壮大な構想によって生み出されたものだったのだという事実です。スミスは最晩年に出した『道徳感情論』第6版の序文で、以下のように述べています。

「この著作の初版の最終パラグラフで私は、別の論考において、法と統治の一般的諸原理について説明するよう努めるとともに、この一般的諸原理が社会のそれぞれ異なる時代ないし時期に応じてそれぞれこうむることになった種々の大変革について、たんに正義(justice)に関する事柄にとどまらず、生活行政(police)や公収入、および軍備に関わる事柄、さらには法の対象となる他の全ての事柄も含めて、説明に努めるつもりである、と述べておいた。『諸国民の富の本質と原因に関する研究』において、私はこの約束を部分的に、少なくとも生活行政、公収入、軍備に関する限り、実行することができた。」(『道徳感情論』第6版への序文。筆者訳)


 このように、『国富論』は、『法と統治の一般的諸原理と歴史』とでも題されるべき未完の大著の一部でしかなかったのです。ハッキリいえば、現代の私たちがイメージするような経済学の本ということではなく、法学の本の一部分として構想されていたものが『国富論』として結実したわけなのです。

 それでは、この『法と統治の一般的諸原理と歴史』なる未完の大著は、全体としてどのような内容が含まれるものとして構想されていたのでしょうか。最晩年のスミスは、『法と統治の一般的諸原理と歴史』に関連する大量の草稿を焼却処分してしまいました――スミスは『道徳感情論』についても『国富論』についても何度も改訂を繰り返すほどの完璧主義者でしたから、不完全な草稿を残すことに耐えられなかったのでしょう――から、私たちは、それを直接に知ることはできません。しかし、間接的に推測することは不可能ではないのです。幸いなことに、グラスゴウ大学でのスミスの法学講義を記録した学生のノートが発見されているからです(アダム・スミスはスコットランドのグラスゴウ大学の道徳哲学教授であり、この法学講義も道徳哲学講義の一環としてなされたものでした)。

 スミスの法学講義を記録した学生のノートとしては、いわゆる「Aノート」といわゆる「Bノート」と、2つの存在が知られています(邦訳としては、「Bノート」にもとづくものが岩波文庫から、「Aノート」にもとづくものが名古屋大学出版会から出ています)。このうち「Aノート」は、1762年〜1763年の講義を記録したものであり、スミスの講義がかなり詳細に再現されています。ただし、「Bノート」には含まれる公収入論、軍備論を欠いており、それ以前の部分にも少なからず欠落があります(筆記者が聞き取れなかった部分をそのまま空白にしているものなど)。これに対して「Bノート」は、1763年〜1764年の講義を記録したもので、「Aノート」に比べると、論の展開がかなり簡潔に整理されています(分量としては「Aノート」の3分の1程度です)。また、こうしたノートのとり方の違いからくる差異にとどまらず、スミスの講義そのものの構成にも、若干の相違がみられます。

 この『法学講義』は、大きくいえば、法学とはそもそもどういうものかを論じる序論、正義にかかわる諸領域を論じる第1部、生活行政(公収入も含む)と軍備などを扱う第2部から構成されています。

《スミス『法学講義』Bノートの構成》
序論
第1部 正義(司法)
 序論/公法/家族法/私法/契約
第2部
 生活行政・公収入/軍備/国際法


 このうち第2部の生活行政・公収入、軍備の部分こそが、後に『国富論』(1776年)として結実していくものにほかなりません。『国富論』の原型は、『法学講義』の後半部分にあったわけです。

 本稿では、上記「Bノート」(水田洋訳の岩波文庫版)を基本に据えながら、この『法学講義』の全体像を概観していくことにします。スミスの法学についての構想の全体像を踏まえることで、『国富論』を単なる経済学の本として読むのではなく、(未完の)法学体系の一部として読み解いていくことが可能となっていくことでしょう。さらにこのことは、『国富論』を「源流」として、いわゆる「自由主義経済学」が形成されていく過程において、見失われてしまったものは何なのか、明らかにすることにもつながっていくものと期待されます。

*若干の訳語について

 第1部の「正義(司法)」の原語は justice です。邦訳本(水田洋訳)では、これが法の機能であることを重視して「司法」と訳出していますが、もちろん「正義」とも訳しうるものです。また、police は「生活行政」と訳されていますが、これには理由があります。18世紀には現代の私たちがイメージするような警察機構はまだ存在しなかったのであり、police といえば住民の生活条件の確保一般を意味する語だったからです(かのヘーゲルも『法の哲学』においてほぼ同様の内容を含んだものとして Polizei について論じており、中央公論社の「世界の名著」シリーズでは、これに「福祉行政」という訳語があてられています)。これは、古代ギリシャの「ポリス」に近いイメージだと考えればよいでしょう。ちなみにスミスは、この police の目的について「商品の安価と公安と清潔」をあげています。
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2015年09月16日

アダム・スミス『法学講義』を読む(1/13)

(1)経済と政治とは切り離せない関係にある

 この間、世界中の株式市場で株価が大きく値下がりし、世界経済の行方に大きな不安が抱かれています。今回の世界同時株安の発端となったのは、今年の6月後半、中国の株式市場で、それまで好調だった株価が大暴落したことでした。この事態に直面した中国政府は、株価の暴落を何とか食い止めようと、株式市場への全面的な介入を行いました。ところが、こうした中国政府の対応は、アメリカやEUや日本など先進資本主義諸国のマスコミにおいて、批判的な論調で報じられることになります。政府が直接に介入して株価を支えるなんて我々先進国では考えられない! というわけです。例えば、「東京新聞」の社説は次のように論評しています。

「〔中国〕政府はバブルを警戒して、過熱気味の背景だった信用取引(株を担保にして行う取引)を規制した。これで一気に売り圧力が高まり、株価が暴落すると、今度は証券業界が「市場安定化基金」をつくり、株価下支えに動く。企業も自社株の急落を抑えようと証券取引所に売買停止を申請、上場企業の半数以上が取引できない異常事態を招いた。
 売買停止はより大きな混乱を防いだかもしれないが、投資家の取引機会を奪う背信行為であり、大きな不信を生んだはずだ。投資情報の迅速な提供や自由な売買が約束されなければ、市場としての最低限の機能を持っているとはいえない。市場を歪める対応が続くようでは、経済規模で世界二位にまで発展したとはいえ、成熟した経済先進国の仲間入りという長年の悲願は果たせまい。」(「東京新聞」2015年7月10日社説「中国株バブル「官製相場」を改めよ」)


 市場の機能をまともに発揮させないまま、政府が市場を歪める対応を続けているようでは、成熟した経済先進国の仲間入りなどできませんよ、という“忠告”です。市場が自らの機能を発揮できるよう介入を控えるというのが「成熟した経済先進国」の政府として当然身に着けておくべきたしなみであるにもかかわらず、中国はまだまだお行儀がよろしくないね、といったところでしょう。

 しかし、この「東京新聞」社説が、次のように釘を刺していることも見逃すわけにはいきません。

「もっとも、日本の株式市場も「官製相場」の批判は免れない。国民の大切な年金を預かり世界最大の機関投資家である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)や異次元緩和の名目で上場投資信託(ETF)を大量に購入する日銀が相場を支えているのである。中国の市場対応を声高に非難することなどできない。」(同)


 日本の株価も年金積立金の運用や日銀の異次元緩和によって政策的に支えられているのだから、中国の対応を声高に非難できたものではないよ、というわけです。市場の機能に任せ切ることができず、株価を下支えしようとして政府がついつい介入してしまっている――果たしてこれは、中国や日本といった東洋の国々だけの問題なのでしょうか。このことに関連しては、以下のような実に興味深い指摘がなされています。

「二〇〇八年のリーマン・ショック以後、世界経済が少しは持ち直した理由の一つは中国の立ち直りが速かったからである。中国が世界の景気の底を支えたのだ。中国は、世界経済危機にさいして五〇兆円におよぶ巨額な財政出動をしながら財政赤字になっていない。しかも、巨額な貿易黒字によって、巨額の外貨準備を持っている。その世界第一の外貨準備を背景にして中国はアメリカ国債を支えているのである。
 どうしてそのようなことが可能なのか。それは中国が自由・民主主義国家ではないからである。中国経済を根幹において管理しているのは共産主義体制である。
 為替を管理し、金融市場を管理し、独裁的な強力な政府によって十分な税収が確保されるという変則的な経済のおかげで中国経済は未曾有の成長を遂げ、しかもリーマン・ショック以後の世界経済を支えたことになる。」(佐伯啓思『経済学の犯罪』講談社現代新書〔2012〕、pp.53−54)


 要するに、リーマン・ショック以降の世界経済(グローバル市場)の危機的情況は、巨額の財政出動をはじめとする中国政府の強力な介入によって辛うじて切り抜けられてきたのだ、というわけです。さらに著者は次のように述べています。

「自由主義者や市場主義者やグローバリストは、多かれ少なかれ、「国家」を排除しようとしてきた。「国家」による「市場」への介入を嫌い、「市場」は「国家」とは無関係に自立したシステムを作りうると見なしてきた。「市場」は「自由」の領域であり、「国家」は「権力」の作動する世界だと見ていた。この両者を判然と区別できるというところに自由主義経済学の存在理由もあった。……ところが、リーマン・ショックやEUの事態が明らかにしたことは、グローバル市場は最終的に政治的な「力」によって支えられなければならない、ということだった。」(同、p.55)


 端的には、「市場」が「国家」と無関係に自立したシステムを作りうるとみなすのは幻想に過ぎず、市場が最終的に政治的な「力」によって支えられていることを直視しなければならない、ということです。だとするならば、我々「経済先進国」の人間は、株価の暴落に直面した中国政府の狼狽振り(なりふり構わぬ露骨な市場介入)を“上から目線”で嗤うのではなく、「市場」が最終的には「国家」の力なくしては崩壊してしまいかねないことを示すものとして、この事態を自らの問題として深刻に受け止めるべきである、ということになるでしょう。

 このように「市場」と「国家」の関係、より一般的にいいかえるならば、政治と経済との関係をどのように捉えるべきなのかという問題が、現在、大きく問われているといえます。政治と経済とを対立した構図として描いた上で、政治は経済に介入すべきか否か、という問題の立て方をすることが妥当なのかどうか、根本から問い直されなければならなくなっているのです。これは、現在の経済学のあり方に対して重大な問題提起がなされているということにほかなりません。主流派の経済学(佐伯啓思氏の言葉を借りれば「自由主義経済学」)は、政治と経済とを画然と区別し、両者を対立する構図で描き出した上で、政治は経済に介入すべきでない、と論じてきました。こうした「自由主義経済学」の教義の妥当性が、根本から問い直されなければならない情況になってきているわけです。

 それでは、主流派の「自由主義経済学」は、そもそもなぜ、政治は経済に介入すべきではないなどという教義を掲げるようになったのでしょうか。この問題に答えるためには、「自由主義経済学」なるものの起源を問うてみなければなりません。

 結論からいえば、それはアダム・スミスの『国富論』にまで遡る、ということができるでしょう。教科書的には、スミスは、政府の市場への介入を排して自由競争を促進すれば、各個人の利己的行動が「見えざる手」に導かれて社会全体の利益を実現することになると論じたのだ、とされています。この「見えざる手」を市場の自動調節機能(価格の上下を通じて各商品の需要と供給を一致させ、資源の最適な配分を実現する機能)として捉え、政治から切り離された経済(=市場)にのみ視野を限定した上で、「見えざる手」の働き(効率的な資源配分の機能)を数学的手法をも駆使しながら解明していく、という方向に進んでいったのが、いわゆる「自由主義経済学」なるものにほかならなかったのです。
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2015年09月15日

掲載予告:アダム・スミス『法学講義』を読む

 本ブログでは、明日より「アダム・スミス『法学講義』を読む」と題した論稿を掲載していきます(全13回)。

 いま、中国発の世界同時株安により、世界経済の行方に大きな不安が抱かれるようになってきています。今年6月、突然の株安に直面した中国当局のなりふり構わぬ対策については、西側のメディアによって、市場の機能を歪めるものだとして、かなり批判的な論調で報じられました。確かに、中国当局の対策が“見苦しい”ものであったことは否定できませんが、かといって、西側メディアの中国当局批判が前提としている発想――「市場」が「国家」と無関係に自立したシステムを作りうるとする発想――が正しいのかどうかも、批判的に検討すべき余地があるのではないかと思われます。こうした発想の理論的な根拠を提供してきたのが、主流派の経済学です。主流派の経済学は、政治と経済とを画然と区別し、両者を対立する構図で描き出した上で、経済(市場)は自己調整的に安定に向かう力を持っているのだから、その機能を乱さないように、政治(国家)は経済(市場)に介入すべきでない、と論じてきたのでした。

 この主流派経済学の発想は、アダム・スミスの『国富論』を源流とするものだとされています。教科書的には、スミスは、政府の市場への介入を排して自由競争を促進すれば、各個人の利己的行動が「見えざる手」に導かれて社会全体の利益を実現することになると論じたのだ、とされているのです。この「見えざる手」を市場の自動調節機能(価格の上下を通じて各商品の需要と供給を一致させ、資源の最適な配分を実現する機能)として捉え、政治から切り離された経済(=市場)にのみ視野を限定した上で、「見えざる手」の働き(効率的な資源配分の機能)を数学的手法を駆使しながら解明していく方向に進んだのが、主流派経済学にほかなりません。

 しかし、スミスの『国富論』は、決して国家(政治)を考察対象から除外しておらず、政府の市場への恣意的介入が排されたとしても国家がなすべき仕事はなお存在するとして、治安維持、司法、公共事業の3つを挙げています。さらに重要なのは、そもそもこの『国富論(諸国民の富の本質と原因にかんする研究)』は、単なる経済学の本として構想されたものではなく、国家(法と統治)の全体像を、その始原からの発展過程をも視野に入れつつ描き出すという実に壮大な構想の一部であったことです。より具体的にいえば、『法と統治の一般理論と歴史』とでも題すべき未完の大著の後半部分に位置づけられるのが『国富論』だったのです。

 残念ながら、スミスは死の直前に『法と統治の一般理論と歴史』の大量の草稿を焼却処分してしまいましたから、我々がその全体像をハッキリとつかむことは不可能です。しかし、幸いなことに、スミスがグラスゴウ大学の道徳哲学教授として行った法学講義について、受講生がとったノートが2種類、発見されているのです(邦訳としては、それぞれ、岩波文庫版『法学講義』、名古屋大学出版会版『法学講義』として出されています)。我々がそれらを通じて、スミスの壮大な構想を、おぼろげながら推測することは不可能ではないのです。

 本稿では、主流派経済学の源流とされてきたアダム・スミス『国富論』がスミス自身の『法学講義』から派生してきたものであることに着目し、この『法学講義』の全体像を概観していくことによって、『国富論』を「源流」として「自由主義経済学」が形成されていく過程において、見失われてしまったものは何なのか、明らかにすることを目的にしたものです。

 以下、目次です。

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序論
(1)経済と政治とは切り離せない関係にある
(2)法学から如何にして経済学(『国富論』)が誕生させられたのか

1、スミスの正義(justice)論
(3)スミスが説く市民社会の起源
(4)スミスが説く市民社会の発展史
(5)スミスが説く所有権確立の歴史的過程

2、スミスの生活行政(police)論
(6)人間の自然的欲望と分業による文明の発展
(7)価格論と貨幣論
(8)一国の富裕は貨幣にあるという謬見はいかなる弊害をもたらしたか

3、スミスの財政論・軍備論・国際法論
(9)租税と公債をめぐって
(10)民兵と常備軍はどちらがよいのか
(11)戦争における合法性とは何か

結論
(12)スミスにおいては経済が国家の実質的中身として位置づけられた
(13)国家学体系の一部として経済学を確立しなければならない
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2015年09月14日

2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 前回まで3回にわたって、8月例会で提示された論点と、それについてどのような討論を行い、どのような(一応の)結論に到達したかを紹介してきました。

 例会報告の最後にあたって、参加者からの感想を掲載したいと思います。

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 今回の例会では、ソフィスト派からソクラテスまでについて扱った。報告レジュメ作成の担当にあたっていたため、例会までの間に該当範囲を何度も繰り返し読んでいく中で、当初はほとんどヘーゲルの説く内容が理解できなかったものが、徐々にその流れが分かってきたことであった。この過程において特に注意したことが、思惟と存在という問題を、ソフィストはどのように捉えていたのかということと、ヘーゲルが哲学史を説くにあたって絶対精神の自己運動としてどのように論を展開しているのかということであった。これらの視点で『哲学史』に問いかけることによって、徐々にヘーゲルの言わんとするところが見えてきたのであった。

 しかし例会当日の議論を通じて、私の理解が大きく間違っていたことも判明した。どういうことかというと、ヘーゲルがソフィスト派やソクラテスについて、「意識の反省」などという言葉を多用しているのであるが、この言葉を私は絶対精神が一度自然に外化した段階から精神へ復帰してきたことを表していると思っていたのに対して、議論した結果理解できたことは、そうではなくて、自然から精神への復帰ということ自体はすでに古代エジプトのスフィンクスが象徴しているように、古代ギリシャ以前に行われていたのであって、ここで言われている「意識の反省」というのは、精神として復帰した絶対精神が、世界の本質をどこに求めるのかという視点の方向が、自然的なもの(タレスの「水」)などから徐々に抽象的な内容(ピュタゴラス派の「数」)になっていって、遂に観念的な存在(アナクサゴラスの「ヌース」)にまで至ったものが、実は人間自身の精神の中にあることに目を向け始めたということだ、ということであった。絶対精神の「否定の否定」(精神→自然→精神)の構造は、単に1回きりの単純な構造などではなくて、それなりの複雑な過程が想定されていることが分かってきたのであった。

 もう1つ、今回の例会で印象に残っているのは、ちょうどソフィスト派やソクラテスが実践したであろう、何とか自分の頭の中に描いているものを相手に伝えようとする、つまりある見解に対して、それは具体的にはどういうことか、違うのではないか、これまでの議論とのつながりをどのように捉えるのかといった疑問や批判が提起され、それらに対してさらに自分の考えを明確に相手に伝えるべく必死で頭脳活動を行い、それらを何とか自分の言葉で表現する、ということの繰り返しが、例会当日の議論の中で何度も見受けられたことである。哲学史の学び、特に古代ギリシャでの哲学の発展過程を学ぶというのは、単に「読書」をして、その内容を「解釈」することではなくて、こうした論理能力向上の過程を自らの頭脳活動として辿り返しながら、集団としての実力を高めるとともに、個々の認識をも向上させていく過程でなければならないのだ、ということを強く感じた次第である。

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 今回の例会では、論点に対して事前に見解を書くということと、その見解を踏まえてさらに当日に討論するということは、統一して初めて意義が出てくるのだということを感じた。以前の例会では、論点に対して事前に見解を書くということは行っていなかった。そのため、討論自体が深まらず、「まあ、こんな感じで」という中途半端な状態で終わったこともあったと思う。そういう反省から、論点に対しては事前に各会員が見解を書いて相互に送り合うという形式が採用されることとなった。こうして、例会当日は、会員間で一致している点については確認程度に抑え、見解がずれている点について集中的に討論が行うことができるようになった。

 ここまでは、以前から自覚していたことであったが、今回は、さらに別のことにも気づいた。それは、事前に言語表現している見解についても、さらっと読んで分かった気になってはいけない、認識と(言語)表現は相対的に独立しているから、自分が相手の言語表現から読み取った内容が果たして本当に相手が描いていた認識=像と一致するのかどうかを確かめておく必要があり、それは当日の討論によってこそなされるのだ、ということである。具体的にいうと、今回、私はレジュメ報告者の見解を読んで、私には希薄であった絶対精神の自己運動という観点が明確に打ち出されており、非常に感銘をうけたものだった。ところが、例会当日に討論してみると、私が読み取ったと思っていた内容と、当のレジュメ報告者が実際に描いていた認識=像がどうやらずれているらしいということが分かってきたのである。ここはヘーゲル理解全体としても重要な箇所であるので、少し詳しく説いてみたい。

 レジュメ報告者は、アナクサゴラスやソフィストあたりで、絶対精神が自然から精神へと転生するものと捉えていた。しかし実際は、ヘーゲル『歴史哲学』を扱った一昨年の例会で確認したように、古代エジプトのスフィンクスは、自然から精神が生まれ出ようとしていることの象徴として捉えられていたのであり、古代ギリシャ時代にはすでに精神なるものが誕生していて、そこからの絶対精神の精神としての生成発展がヘーゲル『哲学史』において説かれていたのである。アナクサゴラスは、その精神が自然(世界)を研究して、その根源が物質とは区別される精神的な存在にあるということを自覚した段階であり、その精神的な存在とは取りも直さず自分(絶対精神)なのだということが分かってきたのが、ソフィストからソクラテス以降への流れの段階ということになるのだろう。私自身は漠然と、このように捉えていたために、レジュメ報告者の言語表現を呼んだ時、問いかけ的に反映して、そういう内容が説いてあると勘違いしたのだと考えられる。ここをしっかりと言語表現に即して、相手の描いていた像をしっかり把握するためにも、例会当日の討論が重要であり、事前の文章化と当日の討論のどちらかが欠けても、学問的な討論としては不十分なものとなることがわかった例会であった。

 また、今触れたことにも関連して、ヘーゲル『哲学史』を読み解いていく際には、3つの観点をしっかり区別しながら読んでいく必要があると感じた。それは、たとえばソクラテスならソクラテスが、どのような学説を説いていたのかということと、それをヘーゲルが、絶対精神の精神としての発展段階としてどのように捉えていたのかということと、それをわれわれが唯物論的な歴史観の立場に立って、どのような自然的外界・社会的外界の反映として、その当時の人類の社会的認識が成立し、それは学的認識としてはどのようなレベルであったのかをしっかりと把握するということ、の3つである。特に3つ目は、ただ単に「唯物論的に捉える」といった漠然とした問題意識ではなくて、しっかりと唯物論の立場から解明された「世界歴史とは何か」の本質規定に繋げる形で、当の哲学者の学説を把握していくことである、ということを共有できた点は、非常に大きな収穫であったと思う。

 次回以降もこれらのことを念頭に置きながら、重要な点は何度も何度も討論しつつ、自己の認識を深めていきたいと思う。

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 今回の例会ではチューター役であったが、改めてチューターの重要性を感じた。チューターの役割は大きく3つある。事前に出された各自の論点を整理すること、その整理された論点に対して各自が提出した見解を整理し、議論すべき点を明確にすること、そして当日の議論を進行することである。このそれぞれの役割で課題があったと反省している。

 まず論点の整理についてである。今回、ソフィストに関わって「唯物論の立場からはどう評価することができるか」という問いが論点の説明の中に入っていたが、この問いに対する各人の見解が内容的に大きく2つにわかれることとなった。その原因として、何を尋ねているのかが漠然としているからだという指摘を受けた。つまり、問いに対する答えをイメージしないで、各自から出された論点を文言のみ見て並べているということである。ここは大きく反省すべき点である。

 続いて、論点に対する見解の整理についてである。こちらについては、共通点と相違点を意識しながらそれぞれの見解を見比べ続けることで、議論すべき点をある程度浮き彫りにすることができたと感じている。また、その過程でテキストの内容も一人で見解を書いただけの時よりもより深く理解することができた。やはり自分の見解を出すのみならず、他の人の見解も読んで、その共通点と相違点をしっかり把握した上で再度テキストを読むという作業が、理解を深めていく上で非常に重要なのだなと感じた。

 しかし、そのまとめ方ということに関わって、「チューターのまとめしか書かれておらず、自分がどのように書いていたのかがわからない」という指摘を受けた。つまり、チューターが各自の見解をどのように捉えたかは書かれているけれども、その各自の見解そのものは書かれていないということである。さらに抽象化すれば、自分の解釈のみで、解釈のもととなった事実がないということである。これでは何をもとにそのような解釈を行ったのか、読み手には全く伝わらないことになってしまう。ここはしっかりと反省すべきだと感じた。

 最後に当日の議論についてである。いつもであれば研究会は2時間程度だが、今回は論点1のみでその2時間使うこととなってしまった。問題となったのは、絶対精神が自然から精神へと転化した(精神が自然から抜け出した)のはどこかということだが、ここに大きく時間を費やすこととなった。確かに重たいテーマではあるが、その時その時で何が問題になっているのか、それに対して一人はどのように主張し、もう一人はどのように主張しているのかを瞬時に判断して、議論を整理していく必要があったと思う。

 以上のような内容が実践できるようにするため、何よりもチューターがテキストの内容について、他のメンバーの誰よりも深く理解していることが必要であろう。テキストの内容が把握できているからこそ、明確で意味のある論点が出せるのであり、当日の議論にしても、テキストの内容が理解できているからこそ、それぞれの主張を論理的に位置づけて把握することができるのである。次回はチューターではないが、普段から意識していこうと思った。

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 最初にざっと通読した感じでは、これまで読んできたところ以上に難解で内容をつかみにくく感じた。これは訳者が変わったことも大きいのかもしれない。武市健人訳ではかなり細かい見出しがつけられていて(見出しのつけ方に疑問のあるところもあったが)、おおよその内容をつかむのにかなり役立っていたのだが、それがなかったのも、読みにくさの大きな要因であったと思う。そういう読みにくさもあって、要約作業には相当に苦労したのだが、その要約するという作業を通じてこそ、おぼろげながらにも内容をつかめてくるのだということ、難解な文献を読み解いていく上でともかくも要約をしてみるということの大切さを、いつも以上に感じさせられたのであった。

 例会での議論を通じては、各メンバーの間に、精神が自然から分離するということをめぐって、かなり大きなイメージの差異があったことが明らかになった。結果として相当な時間を費やした議論になったのだが、それはそれで非常によかったのではないかと思っている。精神の自然からの分離とはそう単純なものではなく(一気に完結するものではなく)、まずはエジプトからギリシャへの過程があり、さらにギリシャ世界のなかでも相当に長い時間をかけた進展の過程があったこと、大きな「否定の否定」(ここでは〈精神→自然→精神〉というヘーゲル歴史観の全体像のこと)は小さな「否定の否定」を無数に含んだ形で進展していくのであって、後者を前者に解消してしまってはならないこと、などが明確になったのは非常に大きな収穫であったと思う。私としても、ここで確認された視点を明確に持った上で、『歴史哲学』を読み直してみたい、『哲学史』のこれまで例会で扱ってきた部分を再読してみたい、という思いを抱かされた。

 また、例会の場で、私としては(『哲学史』に登場する哲学者を)唯物論的に捉えるとはどういうことか、という問題を提起した。これは、論点の提起・整理において「唯物論的に捉えると……」というフレーズがちょっと安易に多用されている印象があったからである。「唯物論的に捉える」というのはそんなに簡単なことではないぞ、唯物論的世界歴史の本質論からきちんと筋を通して見解を書かなければならないのだぞ、ということを一応の共通認識とすることができたのはよかったと思う。
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2015年09月13日

2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス(9/10)

(9)論点3:世界史的個人としてのソクラテスの役割とは

 前回は、プロタゴラスとゴルギアスに関わる論点2についての討論過程を紹介しました。今回は、ソクラテスに関わる論点3について、どのような討論がなされたのかを紹介します。論点3は以下のようなものでした。

<論点再掲>
論点3 世界史的個人としてのソクラテスの役割とは
 ヘーゲルはソクラテスの刑死について、当時のアテナイ市民を一方的に悪者扱いして非難するような通説的な見方に反対し、アテナイ市民がソクラテスを死刑にしたのも当然だと捉えているようである。ここには、ヘーゲルにおける世界史的個人という把握の仕方が反映しているといえるが、当時のアテナイ国家のあり方、ギリシャ精神の成長段階を踏まえて、具体的にソクラテスの掲げた原理がそれとどのように衝突し、ソクラテスの掲げた原理がソクラテスの刑死後どのように展開していくことになったのか。ソクラテスの哲学思想に対して「精神の、それ自身のなかでの1つの主要転回点」(p.50)と指摘している点も踏まえて確認しておきたい。また、唯物論的にはソクラテスはどう捉えることができるか。悠季真理論文を踏まえて確認するとともに、ヘーゲルの捉え方と比較しておきたい。


 まずソクラテスの原理が何とどのように衝突したのかという点について確認をしました。ここについては、ソクラテスに至って、普遍的な内容を志向する理性的な人間こそが尺度であるという観点を強く打ち出されるようになったということ、これは主体的道徳であり、自らが主体的に善を認識して、自分自身が正しいと考える行動を決断することを説くものであり、これが旧来の習俗的道徳(理由抜きにそうすべきとされる規範)とぶつかったのだということで意見は一致しました。

 これを踏まえて、ソクラテスが「精神の、それ自身のなかでの1つの主要転回点」であるとはどういうことかについて検討しました。あるメンバーは「ソフィストが既成の道徳的権威を揺るがしただけに留まったのに対して、ソクラテスはそれに代わる肯定的な内容を積極的に打ち出していったのであり、それが主要転回点だということではないか」という見解を出しました。一方、報告者は「ソフィストにおいては個々の人間が基準とされたのに対して、ソクラテスは理性をもった人間こそが基準だとされるようになったのであり、これが転回点だということではないか」と発言しました。

 それぞれの見解については納得されたものの、両者をどのように統一して捉えればいいかが問題となりました。これについては、一人のメンバーが次のように説明しました。個々の人間が基準となった場合、基準が様々に存在することになって、絶対的な基準というものが失われることになります。これがソフィストの段階です。それに対して、理性をもった人間こそが基準だとされれば、基準は1つに定まることとなり、その基準にそって新たな肯定的な内容が打ち出されていきます。これがソクラテスだということです。以上の説明に対して、他のメンバーも納得しました。

 続いて、具体的にソクラテスの掲げた原理がどのように衝突したのかを確認しました。これは次のような結論に至りました。ソクラテスの原理は旧来の神々を否定するものであり、さらにソクラテスは若者に問答を行って既成の道徳観念を揺るがし親子間の道徳的なつながりを攻撃したということです。アテナイでは公的宗教の崩壊は国家の転覆を意味するものであったし、家族的孝順が国家の実体的基調となっていたから、それを攻撃したソクラテスは死刑になっても仕方ないということでした。

 次に、このソクラテスの原理がその後どう展開されていったかを確認しました。世界史的個人は旧来の掟を強引に破る者として登場するのであるが、その原理は個人が滅ぼされてしまっても、新たな世代に引き継がれて発展していきます。ソクラテスの原理(自己規定の原理)もアテナイで受け入れられていくこととなったのでした。しかし、そもそもアテナイは個人的意志と国家的意志の調和によって成り立っていたのでした。したがって個人的意志が伸長してその調和が崩れていくと政治が混乱し、アテナイの国力は衰微し、その世界史的役割を終えていくこととなったのでした。その後、この原理はプラトンのイデア論やアリストテレスの不動の動者などという捉え方に引き継がれていったのです。概ね以上のような内容を確認しました。

 最後に、唯物論的にはソクラテスをどう捉えることができるのかを議論しました。ここに関わって、あるメンバーから「唯物論的に捉えるとはどういうことか。そもそも唯物論とは何か。唯物論的な世界歴史の定義は加藤幸信論文に説かれているが、それらをしっかり踏まえていく必要があるのではないか」という問題提起がなされました。その重要性は全員が感じたものの、時間の都合上、今回はすでに出されている見解をもとに検討をしていくこととなりました。

 まずソクラテスが出てきた必然性について、『哲学・論理学研究』では次のように書かれていました。

「民衆(ここでは裕福な資産階級となった者)もそれなりに経済力をつけ、戦闘能力もつけてくるようになると、貴族はこれまでのように元来の家柄の良さ、権威を示すことで民を従わせる、あるいは単に力づくで民を従わせるは不可能になってくる。」(p.175)

「ソクラテスが賢人に激しい問答を投げかけていった背景には、戦争(敗戦)で疲弊しきった社会の中で、生活が苦しくなった市民(資産階級)の、上層市民(貴族)のやり方への何らかの不満、不信といったものが増大していたことが考えられる。上層市民(貴族)に言われるがままに従うのには耐えがたい何らかの感情が積み重なってきていたことが、上層市民の弁論に対して抗していく、疑問を呈していくような流れを生み出していったのである。」(p.180)

 これを踏まえて、ソクラテスが登場した背景には、アテナイの経済発展によって上層市民(貴族)に対する市民(資産階級)の発言力が増していく(社会的地位が向上していく)という流れがあったということを確認しました。このような現実の社会のあり方がソクラテスの問答の原動力であって、ヨリ具体的にいえば、社会全体を覆う市民感情の蓄積が高じて、その先端が不満や不信という形で先鋭化してソクラテスの認識に反映したのであり、その結果がソクラテスの問答という行動に現れたのだということです。こうして弁証の方法が芽生え、論理的な像を形成させていくプロセスが始まったのだということを確認しました。

 こうした把握が、ヘーゲルの立場とはどのような点で異なるのかという問題については、必然性を説けるかどうかという点を複数のメンバーが指摘しました。唯物論の立場では、ある時代の社会的認識は、その時代の外界(自然的外界と社会的外界)が反映した結果だと捉えるため、どのような外界がその時代の社会的認識を生んだのかという必然性を問うことになります。ところが、ヘーゲルは絶対精神の「自己」運動として捉えるのであり、あくまでも絶対精神が自分で勝手にそのように発展したのだとしか説けないことになります。また、ソクラテスの原理がアテナイで受けいれられていった必然性も説けません。ここが大きな違いだということです。ここは特に異論は出されませんでした。

 また、あるメンバーは主体性の芽生えの時期を問題にしました。ヘーゲルにおいては、ソクラテスにおいて自らが基準だと考えられるようになったのであり、ここが主体性の芽生えだと言えるが、例えばそれ以前のパルメニデスも国家の指導者として主体性を発揮して問題を解決していったのではないか、ということでした。これに対しては、主体性の中身が違うのではないかという意見が出されました。つまりソクラテスの主体性とは、正しいとされるものに異論を唱えるというものであり、それはやはりソクラテスにおいて始まったものではないかということでした。これについてはそのメンバーも納得しました。

 論点3について、以上で討論を終えました。
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2015年09月12日

2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス(8/10)

(8)論点2:プロタゴラスとゴルギアスそれぞれの主張はどういうものか

 前回は、ソフィスト派の総論部分に関わる論点1についての討論過程を紹介しました。今回は、プロタゴラスとゴルギアスに関わる論点2について、どのような討論がなされたのかを紹介します。論点2は以下のようなものでした。

<論点再掲>
論点2 プロタゴラスとゴルギアスそれぞれの主張はどういうものか
 プロタゴラスによる現象の捉え方は、どのような意味でヘーゲルによって評価されているのか。また、プロタゴラスの現象についての把握は、ヘーゲルが考えるあるべき現象の把握の仕方と比較して、どのような点が異なるのか。カントの現象の把握の仕方との比較も念頭に置いて確認しておきたい。また、エレア派に近いとされるゴルギアスの弁証法は、「カントの場合にまたぞろ現れたのとまさに同じ区別である」(p.49)とも述べているが、結局のところ何を明らかにしたものといえるのであろうか。エレア派の影響はどのような点に見られるのであろうか。以上を踏まえてプロタゴラスとゴルギアスの共通点と相違点はどういうものかを確認しておきたい。


 プロタゴラスの現象の捉え方については、まず存在するものと意識との関係を分析したものであることを確認しました。その中身に関わって、チューターからは「世界は常識的にはありのまま見ているように思うけれども、実はそうではないということを指摘した」という見解を提示していました。つまり、客観的な世界を見ることはできず、見ているのはあくまでも主観的な世界(自分の認識)にすぎないということを指摘したということですが、これにメンバーの一人から「このように述べると、客観的な世界がそれ自体として存在すると述べていることになるが、これはカントであって、プロタゴラスは客観的な世界は存在しないと言っているのではないか。だから、すべては相対的でしかないんだと言っているのではないか。」という反論がありました。これについては、チューターも納得しました。それを踏まえて、結局プロタゴラスは、客観的な存在は意識との関係において存在するということを主張したのであることを確認しました。(その客観的な存在がそれ自体として存在するかどうかという違いはあるものの)この点がカントと同様であることを確認しました。

 続いて、カントとの違いをヘーゲルの叙述に沿ってもう少し詳しく見ていきました。ヘーゲルはプロタゴラスが二重の相対性をいうものを認めた上で、カントがプロタゴラスと違うのは「相対性が自我のうちへ移し入れられ、対象的存在のうちへではないという点においてのみである」と指摘しています。この二重の相対性とは何か、これをカントは自我のうちへ移し入れたとはどういうことかを議論しました。

 二重の相対性について、チューターから「対象の性質が他の対象や我々の認識によって与えられるということだ」という見解を提示しました。例えば、サイコロが6つあって、その横に4つのサイコロを置く場合、この4つのサイコロは「少ない」という性質を与えられることになります。他の対象によって性質が与えられるわけです。また、風が吹いたときに「寒い」と感じる人もいれば、そう感じない人もいるため、風自体に寒いという性質は存在しておらず、あくまでも「寒い」と感じる人によって与えられるものだということになります。我々の認識(感覚)によって性質が与えられるわけです。これが二重の相対性ということではないかということでした。

 これに対して、あるメンバーは「それはそれとして納得できるものの、ヘーゲルの記述とのつながりがよくわからない」と発言しました。ヘーゲルは二重の相対性について「意識の固定的要素にではなく感性的認識に関係づけられている」ということと、「意識そのものは一つの状態、すなわちそれ自身、うつろいゆく或るものだ」ということだと述べていました。「後者は要するにその人の認識によって、対象の性質が与えられるということだとして、前者はどういうことなのか」ということでした。ここについては、「サイコロが多いとか少ないとかいうことは感性的なものにすぎず、真理を感性的に捉えられるものだとしているから相対的になるということではないか。ヘーゲルとしてはサイコロのイデアのようなものこそ真理と言えると主張したいのではないか」という意見が出されました。ここについては、特に異論が出されませんでした。

 これを踏まえて、カントが相対性を自我のうちへ移し入れたとはどういうことかを確認しました。これについては、チューターから「例えばサイコロが多いとか少ないとか言っても、そのように判断するのはあくまでも我々の認識であって、結局、対象のもつ性質は我々の認識が与えているのだと考えたということではないか」という見解を出しました。他のメンバーもその説明で概ね納得しました。

 続いて、プロタゴラスの現象の捉え方とヘーゲルの捉え方はどのように違うのかを議論しました。これについて、一人のメンバーが次のように説明しました。プロタゴラスやカントは、客観的な世界は意識に対するもの(現象)としてしか把握できないという意味で、世界は現象であると主張したのでした。これは客観的な世界と意識との間に絶対的な壁を設けるものでした。しかし、ヘーゲルは客観的な世界も意識も絶対精神の現象なのであり、その意味で両者は同一のものであるのだから、客観的な世界を把握することは可能であり、そこを把握していかなければならないのだと主張したのだ、ということでした。これについては、全員が納得しました。

 続いて、ゴルギアスの弁証法が何を明らかにしたのかについて確認しました。ここについて、報告者は「感性的認識が捉える感性的存在とは別の、真の世界の存在をこそ対象としなければならない」ことを明らかにしたとし、これは「カントが物自体こそ哲学の対象としたことと同様である」という見解を提示していました。チューターは「カントは物自体こそ哲学の対象としたのか。物自体は認識できないと主張したのではないのか」と発言しましたが、別のメンバーから「確かに『純粋理性批判』においてはそうだったが、『実践理性批判』においては、物自体を対象としたのではないか」という説明がありました。

 しかし、果たしてゴルギアスは感性的存在とは別の、真の世界の存在を対象としなければならないと主張したのかが問題となりました。このように考えた根拠について、報告者はエレア派からの影響という点を挙げました。エレア派においては、見せかけの世界では運動は存在するものの、真の世界では運動は存在しないと主張しています。これはつまり、真の世界を捉えないといけないということであり、ゴルギアスも同じようなことを主張したのではないか、ということでした。

 これに対してチューターは「常識的な考え方とは違う側面を指摘したという点は確かに同様ではないか」と発言しました。ゴルギアスの弁証法は「存在しないこと」「存在しても認識できないこと」「存在して認識しても伝えられないこと」を明らかにしたとされています。常識的には存在はあり、認識でき、伝えることができます。そうではないという点を指摘したということではないか、ということでした。

 さらに、その証明の仕方に関わって、次のような説明を行いました。我々は対象を反映させて認識を形成しています。その意味では対象と認識はつながっています。一方で、反映させた対象をアタマの中でいかようにも変化させることができ、その意味ではつながっていません。つまり、対象と認識はつながっているとともにつながっていません。ゴルギアスは対象と認識のつながりを過度に取り上げて、「対象と認識がつながっているとするならば、空飛ぶ人間とか海上をゆく車とかを思い浮かべられる以上、そのような対象が存在するはずであるが、そのような対象は存在しない。だから対象と認識はつながっていない」と論じているのではないか、ということでした。

 また、我々がある特定の木を見て、「木があった!」と誰かに言う場合、具体的な木の姿を「木」という概念へと抽象化して、「木」という音声で相手に伝えることになります。相手はその音声を受けとって、「木」という抽象的な概念から、自らがもっている具体的なイメージを描きます。この時、「木」という概念は伝わるが、具体的なイメージは伝わりません。つまり、伝わると同時に伝わらないということです。ゴルギアスは「伝わるとするならば具体的なイメージも伝わるはずであるが、目で捉えた具体的なイメージを耳で同じように捉えることができるはずがない。だから、伝わらない」というような論じ方をしているのではないか、ということでした。

 この見解については、「確かに対象→認識→表現という唯物論的な把握を踏まえれば、そのように読むことができるだろう」ということで他のメンバーも納得しました。また、このように考えれば、確かに別の側面を指摘したという点でゼノンと同じだと言えそうだという意見も出ました。

 最後にプロタゴラスとゴルギアスの共通点と相違点について確認しました。ここに関わって、一人のメンバーは「プロタゴラスがあらゆる存在が意識との関係においてのみ存在する相対的なものである(その存在には意識との関係が不可欠である)と主張したのに対して、ゴルギアスは、存在するとされるものを、意識という他者との関係においてではなく、ただそれ自体だけで取り上げ、それ自体において存在しないことを証明しようとする」という見解を出しました。つまり、プロタゴラスは存在はあくまでも意識との関係でしか存在しないと主張したのに対して、ゴルギアスは存在そのものがないのだと主張したということです。存在というものを否定したことは同様であるが、その否定の仕方が異なるのだということです。ここについては、他のメンバーも納得しました。

 以上で、この論点についての議論を終えました。
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2015年09月11日

2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス(7/10)

(7)論点1:ソフィスト派の歴史的意義とは何か

 前回は、ヘーゲル『哲学史』の今回の範囲を改めて振り返った後、チューターがまとめた3つの論点を紹介しました。今回から、これらの論点についての討論過程を紹介していきます。

 今回は一つ目の論点をとりあげます。論点1は以下のようなものでした。

<論点再掲>
 ヘーゲルは、ソフィスト派を哲学史の流れのなかでどのように位置づけているか。アナクサゴラスの原理をどのように引き継いで、ソクラテスやプラトンにどのように媒介したと捉えられているのか。「それ自身を規定するはたらきである抽象的思惟がそれ自身にあたえるこの絶対的に普遍的な内容とは何であろうか?」(p.4)という「本質的な問い」を踏まえる形で考察したい。また、そうした観点からしてヘーゲルは、ソフィストを詭弁を弄んだ人々として否定的に捉える通説的な観念に対して、彼らの歴史的意義をどのように擁護しているのか。また、唯物論の立場からはどう評価することができるか。


 この点については、まずアナクサゴラスの原理にいかなる課題があったのかを確認しました。アナクサゴラスは物質的なものから明瞭に区別された思想(ヌース)こそが原理だと唱えたものの、それは抽象的で無内容なものであったから、その内容が求められた、ということでした。したがって、「それ自身を規定するはたらきである抽象的思惟がそれ自身にあたえるこの絶対的に普遍的な内容とは何であろうか?」という問いは、要するにヌースの内容は何かという意味であるということで見解は一致しました。

 この問いの探求の過程でソフィストがどのような役割を果たしたかについて、一人のメンバーが次のように述べました。つまり、自分自身が思想であることに気づき始めたら、今度は世界全体に能動的に問いかけて、その絶対に普遍的な内容を自分自身のものとして獲得していく必要があったのであり、ソフィストはヌースの原理を実際に社会生活の諸々の事例に対して使用していったということです。それは外的な権威に追従するのではなく自分自身のアタマで考えて納得して行動するというあり方であり、このようなあり方(教養)をギリシャ世界にもたらしたのだ、ということでした。

 これに対して、別のメンバーがどこの記述から『問いかける』ということを読み取ったのかという疑問を出しました。これは「理性がアナクサゴラスにおいて本質として見出したところの概念は、一切の被規定性、一切の存在者と個物をおのが内に沈み込ませるところの単一な否定者である」(pp.5-6)からだということでした。それに対して、さらに「沈みこませる」とはどういうことなのか、先の「問いかける」とはどうつながるのかという疑問が出されました。

 これについては、見解を出したメンバーから以下のような説明がありました。まずアナクサゴラスによって捉えられたヌースは何の内容もないものであって、そこに現実の個物を入れていく必要があったのだということでした。現実の個物をヌースの中に入れていくということが「沈みこませる」ということであるが、ヘーゲルは「抽象的思惟がそれ自身にあたえるこの絶対的に普遍的な内容とは何か」と書いており、これはヌースが自分自身に内容を与えていくということだと読める。このような能動性を捉えれば「問いかける」という表現が適切なのではないか、ということでした。これについては、他のメンバーも納得しました。

 このメンバーはさらに続けて、「最終的には、ヌース(理性)も現実の個物(世界)も同じものであり、絶対精神なのだという把握がヘーゲルによってなされるのだが、そういう自覚(自らは絶対精神なのだという自覚)にいたるための原理がアナクサゴラスにおいて提出されたと言えるだろう」と発言しました。それを踏まえて、報告者が予め提出していた見解に対して疑問を出しました。報告者は「プラトンの段階になると、自分が遍歴してきた客観(自然)も含めて、自分が何者であるのかの理解(絶対精神の自覚)が一応の完成に至る」と書いていたのですが、「これはプラトンの過大評価なのではないか」ということでした。ここに関しては、チューターからも一応の完成に至るとはどういうことか、ヘーゲルにおける完成した段階とはどう異なるのかという疑問を出しました。

 見解を出していたメンバーは「プラトンはイデアが全世界の本質であり、この世界はイデアの陰なのだと説いている。その内容の是非はともかく、これは全世界の普遍的な内容をつかんだと言えるのではないのか」と主張しました。これに対して、別のメンバーは「プラトンは絶対的で普遍的な内容をイデアとしてつかんだということではないか。自分が絶対精神だという把握に至るのはあくまでもヘーゲルではないのか」と反論しました。これについては、そのメンバーも納得しました。

 このことをきっかけに、別のメンバーがさらに報告者の見解について疑問を出しました。報告者は「アナクサゴラスにおいては、まだ絶対精神が自分自身について何となくわかりかけてきた段階」として捉えていたのですが、「果たしてアナクサゴラスがそんなに高度な段階なのか」ということでした。

 これについて、報告者は絶対精神の自己運動という観点から説明をしました。「ヘーゲルは絶対精神が自らを自然として外化し、その後、再び精神へと戻ってくると考えたが、その自然から精神へと返った段階がアナクサゴラスではないか」ということでした。『哲学史』に「思惟の主観性は他方また、精神が客観性から自己自身のなかへ引き返すことであるという規定をもっている」「思惟の引き返しにともない、還元すれば主観が思惟の主体であるという意識にともない・・」(p.4)などと書かれていることを取り上げて、「これは精神が自然から還ってきて、自分は精神だったのだと気づいたということなのではないか」ということでした。

 一方、疑問を出したメンバーは、自然から精神に戻ってくるというのは、自然から精神が分離したということであることを確認した上で、「これはこれまでの議論の中でタレスの段階ということで確認していたのではないか」と反論しました。

 「では、そのように考えた場合、『思惟の引き返し』とはどういうことなのか。これまでの我々の解釈が間違っていたということではないのか」という再反論がなされました。「これは自然から抜け出した精神が、自分は自然とは違う存在(精神)だったのだということに気づいたということではないのか」ということでした。こうして、精神が自然から分離したのはいつなのかという問題について様々な議論を行いましたが、概ね以下のような結論に至りました。

 自然から精神が分離していく過程は古代エジプトにおいて始まっているのであり、それはスフィンクスの姿などで現されています。自然から分離した精神はやがて目の前の自然を眺めて、その根本的なものは何かを問いかけるようになりました。これがタレスの段階です。これについてタレスは水と説き、その後、様々な見解が出されましたが、アナクサゴラスにおいて、観念的な存在であるヌースが絶対的なものだと考えられるようになったのです。では、そのヌースはどこにあるのかということが問題となり、自然ではなく精神の方にあるのだということが認識されていったということです。

 しかし、これは当初、これまで絶対的だとされた基準が否定されるという形で現れることとなります。これがソフィストの段階です。ヘーゲルの哲学史の流れから説けば、ヌースの機能が「否定」という形で現れたということになります。そこから肯定的なものを打ち立てていくのがソクラテスであり、ここにおいて「精神が客観性から自己自身へ引き返」したのであり、これが「思惟の引き返し」と言えるということです。以上の内容を確認しました。

 続いて、ソフィスト・ソクラテスからプラトン・アリストテレスへの流れについて検討しました。あるメンバーが「絶対的な基準が主観的なもの(絶対的な基準は人間の主観)ではなく、普遍的で客観的なものであるとされるようになっていく」という見解を提出しました。これに対して、チューターは「このように述べると、絶対的な基準が人間の外(精神が対峙する自然)に戻ってしまったことになるのではないか」と反論しました。そのメンバーは「確かに違和感はあるものの、『プラトンとアリストテレスにあっては普遍的に客観的な在り方で、類または理念としてつかまれた』(p.3)という記述からすれば、このように解釈することができるのではないか」と発言しました。結局、明確な結論には至らず、次回にプラトンを扱ったときに再度検討することとなりました。

 最後に、ソフィストは唯物論的にどのように評価することができるのかを確認しました。まずソフィストが出てきた必然性について、チューターは『哲学・論理学研究』の記述を踏まえて見解を提出しました。つまり、民衆の社会的な地位が高まる中で、民心の心を統括する術(弁論術)が必要とされるようになったのであり、それを上層階級の子どもたちに教育する存在として、ソフィストが登場したのだということでした。これに対して、別のメンバーが疑問を出しました。「確かに『哲学・論理学研究』ではそのように説かれているが、一般的にはソフィストは権威的なものを破壊していったといわれているのであり、実際にプロタゴラスは本が禁書に指定されたり、国を追い出されたりしている。どう統一して把握すればよいのだろうか」ということでした。

 これについて議論をした結果、次のような結論に至りました。そもそも弁論術とは自分の見解を相手に納得させるための手段であるから、社会の支配者層も被支配者層も使うことができるものです。確かに出発点としては指導者の見解を民に納得させるための手段として弁論術が生まれたのであり、弁論術を教育する存在としてソフィストが登場してきたのであるが、次第に民衆の側からも使われるようになり、権威的なものを破壊する武器として使われるようになった、またそのように弁論術を使うソフィストが出てきたということです。これがプロタゴラスやゴルギアスだったのだということです。なお、中世において神学を守るために生まれてきた哲学が、神学を破壊するものに転化したり、ブルジョアジーの中からその墓堀人が生まれ(マルクス・エンゲルスの理論が生まれ)たりするのも、同様の過程ではないかという意見も出されました。このように誕生の必然性と、発展過程での変容とを区別しなければならないということを確認しました。

 なお、「唯物論的にどう評価できるか」という問いは、必然性を尋ねているのか、歴史的な意義を尋ねているのかが不明確であるから、もう少し問いを吟味する必要があるという意見が出されました。
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<講義一覧>

 ・2010年5月例会の報告
 ・2010年6月例会の報告
 ・日本酒を楽しめる店の条件
 ・交響曲の歴史を社会的認識から問う
 ・初心者に説く日本酒を見る視点
 ・『寄席芸人伝』に見る教育論
 ・初学者に説く経済学の歴史の物語
 ・奥村宏『経済学は死んだのか』から考える経済学再生への道
 ・『秘密諜報員ベートーヴェン』から何を学ぶか
 ・時代を拓いた教師を評価する(1)――有田和正氏のユーモア教育の分析
 ・2010年7月例会報告
 ・弁証法から説く消費税増税不可避論の誤り
 ・佐村河内守『交響曲第一番』
 ・観念的二重化への道
 ・このブログの目的とは――毎日更新50日目を迎えて
 ・山登りの効用
 ・21世紀に誕生した真に交響曲の名に値する大交響曲――佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」全曲初演
 ・2010年8月例会報告
 ・各種の日本酒を体系的に説く
 ・「菅・小沢対決」の歴史的な意義を問う
 ・『もしドラ』をいかに読むべきか
 ・現代日本における「国家戦略」の不在を問う
 ・『寄席芸人伝』に学ぶ教師の実力養成の視点
 ・弁証法の学び方の具体を説く
 ・日本歴史の流れにおける荘園の存在意義を問う
 ・わかるとはどういうことか
 ・奥村宏『徹底検証 日本の財界』を手がかりに問う「財界とは何か」
 ・「小沢失脚」謀略を問う
 ・2010年11月例会報告
 ・男前はなぜ得か
 ・平安貴族の政権担当者としての実力を問う
 ・教育学構築につながる教育実践とは
 ・2010年12月例会報告
 ・「法人税5%減税」方針決定の過程的構造を解く
 ・ベートーヴェン「第九」の歴史的位置を問う
 ・年頭言:主体性確立のために「弁証法・認識論」の学びを
 ・法人税減税の必要性を問う
 ・2011年1月例会報告
 ・武士はどのように成立したか
 ・われわれはどのように論文を書いているか
 ・三浦つとむ生誕100年に寄せて
 ・2011年2月例会報告:南郷継正『武道哲学講義U』読書会
 ・TPPは日本に何をもたらすのか
 ・東日本大震災から国家における経済のあり方を問う
 ・『弁証法はどういう科学か』誤植の訂正について
 ・2011年3月例会報告:南郷継正『武道哲学講義V』読書会
 ・新人教師に説く「子ども同士のトラブルにどう対応するか」
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』誤植一覧
 ・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・新大学生に説く「文献・何をいかに読むべきか」
 ・2011年4月例会報告:南郷継正『武道哲学講義W』読書会
 ・三浦つとむ弁証法の歴史的意義を問う
 ・新人教師に説く学級経営の意義と方法
 ・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・横須賀壽子さんにお会いして
 ・続・三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出
 ・学びにおける目的意識の重要性
 ・ブログ毎日更新1周年を迎えてその意義を問う
 ・2011年5・6月例会報告:南郷継正「武道哲学講義〔X〕」読書会
 ・心理療法における外在化の意義を問う
 ・佐村河内守:交響曲第1番「HIROSHIMA」CD発売
 ・新人教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2011年7月例会報告:近藤成美「マルクス『国家論』の原点を問う」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む
 ・2011年8月例会報告:加納哲邦「学的国家論への序章」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論1三浦つとむの哲学不要論をめぐって
 ・一会員による『学城』第8号の感想
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論2 マルクス『経済学批判』「序言」をめぐって
 ・2011年9月例会報告:加藤幸信論文・村田洋一論文読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論3 マルクス「唯物論的歴史観」なるものの評価について
 ・三浦つとむさん宅を訪問して
 ・TPP―-オバマ大統領の歓心を買うために交渉参加するのか
 ・続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2011年10月例会報告:滋賀地酒の祭典参加
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論4不破哲三氏のエンゲルス批判について
 ・2011年11月例会報告:悠季真理「古代ギリシャの学問とは何か」読書会
 ・エンゲルス『空想から科学へ』を読む・補論5ケインズ経済学の歴史的意義について
 ・一会員による『綜合看護』2011年4号の感想
 ・『美味しんぼ』から何を学ぶべきか
 ・2011年12月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」読書会
 ・年頭言:「大和魂」創出を志して、2012年に何をなすべきか
 ・消費税はどういう税金か
 ・心理療法におけるリフレーミングとは何か
 ・2012年1月例会報告:悠季真理「古代ギリシャ哲学,その学び方への招待」読書会
 ・バッハ「マタイ受難曲」の構造を解く
 ・2012年2月例会報告:科学史の全体像について
 ・『弁証法はどういう科学か』の要約をどのように行っているか
 ・一会員による『綜合看護』2012年1号の感想
 ・橋下教育基本条例案を問う
 ・吉本隆明さん逝去に寄せて
 ・2012年3月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第1章〜第4章
 ・科学者列伝:古代ギリシャ編
 ・2年目教師としての一年間を実践記録で振り返る
 ・2012年4月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第5章〜第6章
 ・科学者列伝:ヘレニズム・ローマ・イスラム編
 ・簡約版・消費税はどういう税金か
 ・一会員による『新・頭脳の科学(上巻)』の感想
 ・新人教師のもつ若さの意義を説く
 ・2012年5月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第7章
 ・科学者列伝:西欧中世編
 ・アダム・スミス『道徳感情論』を読む
 ・2012年6月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第8章
 ・科学者列伝:近代科学の開始編
 ・ブログ更新2周年にあたって
 ・古代ギリシアにおける学問の誕生を問う
 ・一会員による『綜合看護』2012年2号の感想
 ・クセノフォン『オイコノミコス』を読む
 ・2012年7月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第9章
 ・科学者列伝:17世紀の科学編
 ・一会員による『新・頭脳の科学(下巻)』の感想
 ・消費税増税実施の是非を問う
 ・原田メソッドの教育学的意味を問う
 ・2012年8月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第10章
 ・科学者列伝:18世紀の科学編
 ・一会員による『綜合看護』2012年3号の感想
 ・経済学を誕生させた経済の発展とはどういうものだったのか
 ・2012年9月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・人類の歴史における論理的認識の創出・使用の過程を問う
 ・長縄跳びの取り組み
 ・国家の生成発展の過程を問う――滝村隆一『マルクス主義国家論』から学ぶ
 ・三浦つとむの言語過程説から言語の本質を問う
 ・2012年10月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第11章
 ・科学者列伝:19世紀の自然科学編
 ・古代から17世紀までの科学の歴史――シュテーリヒ『西洋科学史』要約で概観する
 ・2012年11月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章前半
 ・2012年12月例会報告:シュテーリヒ『西洋科学史』第12章後半
 ・科学者列伝:19世紀の精神科学編
 ・年頭言:混迷の時代が求める学問の確立をめざして
 ・科学はどのように発展してきたのか
 ・一会員による『学城』第9号の感想
 ・一会員による『綜合看護』2012年4号の感想
 ・2013年1月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』を読む前提としての世界歴史の全体像
 ・歴史観の歴史を問う
 ・2013年2月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』をどのように読んでいくべきか
 ・『三浦つとむ意志論集』を読む
 ・言語学の構築に向けてどのように研究を進めるのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年1号の感想
 ・改訂版・新大学生に説く「大学で何をどう学ぶか」
 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか