2018年01月12日

新ブログへの移行

われわれ京都弁証法認識論研究会のブログは、2018年1月より、新しいブログに移行しました。新しいブログのURLは以下です。今後とも、よろしくお願いいたします。

http://kyotodialectic.seesaa.net/
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2017年12月31日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで『純粋理性批判』の序文と緒言について扱った2017年12月例会について、報告レジュメおよび当該部分の要約した文章を紹介した上で、3つの論点に諸々に議論した内容を紹介してきました。

 最後に、参加していた会員の感想を紹介することにします。

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今回は、先回の確認に基づき、また初めからカント『純粋理性批判』を読み直すということで、序文と緒言とを再び扱うこととなった。

読み直してもう一度同じ範囲を例会で扱うという今回からの取り組みについて率直に感じたことは、こうしたやり方を決断して良かったというものであった。読んでいても理解が前よりも深まっている感じがしたし、例会の議論に関しても、これまで上巻を一通り学んだことを踏まえつつ、より突っ込んだ議論ができたのではないかと思うからである。例えば、カントの問題意識については、形而上学の混乱の歴史をふまえつつ、ヒュームの因果律批判への反駁ということが大きな要因としてあったことが明確になって来たし、因果律という現象に適用される原則を確固としたものとして打ち立てることで、神、自由、魂の不死という絶対的なもの(物自体の世界に属するもの)の存在を確立しようというカントの意図も見えてきたのであった。

各会員の提出した見解についても、諸々の鋭い突込みがあったように思う。私が報告レジュメにおいて、唯物論の立場からすればカントの物自体論は、「物質の究明から逃げたのだと評されても仕方がないものであった」と記載していたことに関しては、ある会員から、カントは『自然の形而上学』という著作を計画していたのであって、決して物質の究明から逃げたわけではなく、まずは理性という認識能力に焦点を当ててこの著作を執筆したというだけではないのかといった反論がなされたり、別の会員が「人間の認識には個々の体験を一般化して考える性質がある」と述べていたことに対して、なぜ「人間には」とせずに「人間の認識には」としたのか、「一般化」とはどういうことか、それは抽象化とは違うことなのか、そうした性質は「ある」ものなのか、それとも「獲得されていく」ものなのか、といった疑問が呈せられたことなどである。

例会での議論で最も重要だったと思われるのは、カント(やヒュームといった歴史上の偉大な人物)の論を、単に現時点での唯物論の成果を借りてきて安易に批判するだけで終わってしまってはならないということであった。彼らが、当時支配的であった一般的な考え方のどこにどのように疑問を感じ、それらをどのような道筋で解決しようとしたのかという苦悩の歴史をしっかりとまずは味わってから、そのレベルの実力を把持した上で、漸くにして唯物論的な批判が可能となるという「否定の否定」を観念的に実践すべきであって、初めの否定すらしないというのでは哲学史を学ぶ意味がないのではないかということであった。

こうした再度の学びにおける成果をしっかりとふまえつつ、次回以降もカントに二重化すべく取り組んでいく必要があると感じた次第である。

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今回から、『純粋理性批判』の最初に戻って(ただし、2倍の速度で)読み直す作業を始めたのだが、非常によかったと思う。論点についても、前回同じ範囲を扱ったときとおおよそ重なるようなものであったが(これは同じ範囲を扱っているのだから当然だが)、議論のレベルがそれなりに深まっているように感じられた。哲学史の大きな流れのなかでのカントの『純粋理性批判』の位置づけとか、カントのそもそもの問題意識ということが、より明確になったのではないかと思う。

議論のなかで非常に重要だと思ったのは、現代の我々が先人たちの学問の発展の結果として知識的に獲得したにすぎないものを、あたかも我々自身の実力と錯覚して、ヒュームやカントなどを“上から目線”で批判してはならない、ということである。これは、ヒュームやカントに限らず、哲学史に名を残しているほどの人物なら全般的にいわなければならないことであろう。自分自身の実力を過信せず、偉大な先人たちへの敬意をもって学んでいかなければ、自分自身に真の実力をつけていくことはできないのだと思う。

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今回から改めて『純粋理性批判』を読み返していったが、カントの問題意識などを再確認することができて非常に良かったと思う。やはりこの序文と緒言がこの『純粋理性批判』のスタートであるとともにゴールであり、ここをしっかりと把握した上で、こことのつながりでそれぞれの部分の内容を理解していかなければならないと感じた。

議論に関わっては、カントなど名前が残っている哲学者を軽々しく批判してはいけないということを確認できたことがとても良かった。あくまでも南郷先生の実力だからこそ批判できるのであって、それを受けて我々が批判するのは勘違いもいいところであり、当時としては最高の頭脳であるということをしっかりわかっておかなければならないと思った。

なお、今回はチューターを務めたが、議論をうまく進行させることができなかったのが大きな反省点である。その場その場で出される見解をしっかり論理的に整理していくことが課題だと感じた。

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今回の例会では、カント『純粋理性批判』を初めに戻ってもう一度読み返す試みを始めたのであるが、これは非常に重要な取り組みであると再確認できた。というのは、「こんなことが書いてあったのか」という部分が非常に多かったからである。やはり、一度読んだだけでは、内容をきちんと把握することすらおぼつかないということがよくわかった。さらにそれだけではなくて、分かっていたつもりになっていた部分も、理解が深まったという気がする。たとえば、今回の範囲である序論や緒言では、『純粋理性批判』の全体像がそれとなく説かれている部分があり、途中まで読んでいったからこそ、その内容がきちんと理解できた、という側面がある。原点に戻って、常に全体像を確認することが重要だということを痛感したのも、非常に大きな学びであったと感じている。

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最後に読者の皆様に重要なお知らせがあります。来年より本ブログは新しいブログへと引越しを行います。新ブログのアドレスは以下になります。

http://kyotodialectic.seesaa.net/

中身についても大きくリニューアルする予定です。その経緯や今後の掲載のあり方については、1月4日より掲載予定の年頭言においてお伝えします。
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2017年12月30日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(9/10)

(9)論点3:ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか

 前回は、カントがなぜ現象と物自体とを区別したのかという点について行った議論を紹介しました。

 今回は、ア・プリオリな総合的判断とはどういうものかについて行った議論を紹介します(ただし、この論点については、時間が限られていたため、ざっと確認するに留まりました)。まず論点を再度確認します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
3、ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか
 カントはヒュームの懐疑論的主張に反対しつつ、「理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれる」「純粋理性の本来の課題は『ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか』という形の問いに含まれている」などと主張しているが、これはどういうことか。ア・プリオリな認識とは何か。綜合的判断とは何か。それぞれ、ア・ポステリオリな認識と分析的判断との対比で確認しておきたい。また、「先験的」という言葉の意味も押さえておきたい。このような主張を、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。


 第一に、ア・プリオリな認識、綜合的判断、先験的とはどういうことかを確認しました。まずア・プリオリな認識ですが、これは個々の経験にかかわりのない認識というのではなくて、一切の経験に絶対にかかわりなく成立する認識であり、経験的認識(ア・ポステリオリな認識)と対比されていること、また普遍性と必然性が含まれていることを確認しました。次に、「述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとしてAに属する」「述語と主語の結びつきが同一性の原理によって考えられる」場合の判断を「分析的判断」と呼び、「述語Bは主語Aと結び付いているが、しかしまったくAという概念の外にある」「〔述語と主語の〕結びつきが同一性によらないで考えられる」場合の判断を「綜合的判断」と呼ぶことを確認しました。先験的については、カントが「対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方――それがア・プリオリに可能である限り、――に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける」(p.79)と述べていることを確認しました。また別のメンバーは、中山元訳から「対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識」と書かれていることを紹介しました。要するに、対象を見つめる自分を一歩高い立場(ディソシエイトした立場)から客観的に眺めているというイメージであることを確認しました。

 第二に、「理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれる」「純粋理性の本来の課題は『ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか』という形の問いに含まれている」とはどういうことかを確認しました。まず前者については、数学や自然科学、形而上学にア・プリオリな総合的判断が存在しているということで全員が共通していました。では、このア・プリオリな総合的判断はどうして成り立つのか(分析的判断は必ずア・プリオリであり、経験的認識は必ず総合的判断になる)が問題になります。ここを問うことが純粋理性の本来の課題だとカントは主張しているのだという見解が出されており、大きく異論はありませんでした。また、カントがこのように主張した背景には、形而上学におけるア・プリオリな総合的判断に矛盾したものが存在している(二律背反)ということがあるという見解も出されていました。結局、カントは対象が客観的にもっている普遍的な法則性を人間の認識が把握できるのはなぜなのかを問おうとしたのだという指摘もあり、全員が納得していました。

 第三に、このような主張を、唯物論の立場からはどのように評価することができるかを確認しました。認識とは対象の頭脳における反映を原基形態とするという唯物論的認識論の立場からすれば、ア・プリオリな認識を認めるわけにはいかないものの、カントが明らかにしようとした必然性や普遍性を備えた認識の成立過程は唯物論の立場でも一貫した論理で説き切ることが課題であるということや、ア・プリオリな認識を広く対象への問いかけとして捉えれば、唯物論的認識論の立場からもそれなりの解明をなした主張だと言えるかもしれないなどの見解が出されていました。

 以上で、12月例会での議論をすべて終了しました。
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2017年12月29日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(8/10)

(8)論点2:カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか

 前回は、カントが『純粋理性批判』を執筆した問題意識について議論した内容を紹介しました。

 今回は、カントがなぜ現象と物自体とを区別したのかという点について行った議論を紹介します。まず論点を再度確認します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
2、カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか
 カントは客観を現象と物自体との2つに区分しているが、なぜこのような区分をするにいたったのか。そもそも現象とは何か。物自体とは何か。純粋理性の実践的(道徳的)使用、あるいは道徳哲学における意志の自由の問題は、これとどのように関わると考えられているのか。こうしたカントの主張について、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。


 第一に、そもそも現象・物自体とは何かについて確認しました。各自が見解を出していましたが、簡単にまとめるならば、我々の感覚器官で捉えられるものが現象であり、そのもとになっているものが物自体ということでおおむね共通した理解でした。また、このように2つに区分した理由も、形而上学の混迷や矛盾を解決するためということではほぼ同様の見解でした。もう少し詳しく言えば、我々の経験的認識が物自体としての対象に従って規定されると想定する限り、絶対的なものは矛盾なしに考えることができません(二律が背反してしま)。しかし、物が対象として我々に与えられる前に、我々が物を表象し、この表象が物自体としてのものに従うのでなく、逆に対象が現象としての我々の表象の仕方に従うのだ、と想定すれば、こうした矛盾は解消します。このように二律背反という問題を解決するために、現象と物自体とを区別したのだということでした。

 第二に、純粋理性の実践的(道徳的)使用、あるいは道徳哲学における意志の自由の問題は、これとどのように関わると考えられているのかを確認しました。これは簡単に言えば、もしこの世界が因果律によって支配されているならば、人間の意志も因果律によって支配されており、自由など存在しないはずではないか、その問題はどう考えるのかということです。こちらについても、ほぼ同様の見解が出されていました。つまり、我々が認識できる現象としての客観は自然法則に支配されていて自由とはいえませんが、物自体としての客観はそうした法則に縛られるものではなくて自由だということです。つまり、現象と物自体とを区別することによって、自然法則が支配する自然に関する学と、自由が支配する道徳哲学とが、矛盾することなく両立できるということを主張したのだということでした。

 第三に、カントの主張について、唯物論の立場からはどのように評価することができるかを議論しました。まずカントへの批判として「物質の存在する領域を二分してしまっていて、物質についての統一した把握が困難であるといえるのではないか。」「認識の及ぶ範囲と及ばない範囲を固定的に設定してしまったことは、カントの弱点といえるのではないか。」という見解が出されていました。一方で、別のメンバーは「カントの「物自体」論は、物自体を現象から明確に切り離すことによって、絶対的なもの(世界の本質的なあり方)をヒューム的な懐疑論の攻撃から守るためのものだ」という見解を出していました。ヒュームの因果律批判は、自然法則のみならずアプリオリな認識一般を否定するものでした。したがって、ヒュームの因果律批判を容認すれば、カントが世界の本質的な存在と考えていた神・自由・不死なども否定されることになります。このようなヒュームの攻撃から絶対的なものを守るために、物自体を現象から区別したのだというのです。南郷先生が「カントの「物自体」論は本質論である」といった指摘をしておられるのも、こうして点を踏まえてのものではないかということでした。これについては、全員が納得しました。

 以上で、論点2の議論を終えました
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2017年12月28日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(7/10)

(7)論点1:『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは

 前回は、今回扱った範囲の大事な部分を再度まとめ直した後、チューターが整理した3つの論点を紹介しました。

 今回はこのうち、カントの問題意識に関する初めの論点について、どのような議論がなされたのかを紹介します。論点は以下のようなものでした。

【論点再掲】
1.『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは?
 カントはいかなる問題意識で『純粋理性批判』を書いたのか。そもそも「理性」「純粋理性」「批判」とはどういうものか。カントのいう形而上学とはいかなる学問であるか。論理学と比較しながら確認しておきたい。その形而上学の歴史に『純粋理性批判』をどのように位置づけているか。また、カントのいうコペルニクス的転回とはどのようなことを意味しているのか。唯物論の立場からすれば、カントの問題意識についてどのように評価することができるか。


 第一に、カントはいかなる問題意識で『純粋理性批判』を書いたのかという点を議論しました。これについては、ヒュームの因果律批判に反論しようとしたということや、従来の形而上学を批判しようとしたということが挙げられていました。例えば、「ヒュームの因果律批判(原因と結果の結びつきは習慣にもとづく主観的な信念にすぎない)に接して、原因と結果の法則のような総合的判断がア・プリオリに可能であることを明らかにしなければならない、という問題意識を抱いたからである。」「これまでの形而上学は独断論的であったため、いわば土台がしっかりしていない地面の上に立てられた建物のようなものである。カントは、形而上学という建物を建てる前に、その土台をしっかりと固める必要があると説いており、その土台を固める作業が理性批判、すなわち理性の吟味なのである。」などのようにです。これについて、チューターは大きく2つの背景があるとまとめようとしましたが、形而上学の歴史の一部としてヒュームの因果律批判があるのであり、両者は一体のものなのではないかという見解が出されました。それについては全員が納得しました。

 第二に、そもそも「理性」「純粋理性」「批判」とはどういうものかという点を議論しました。まず「理性」については、カント自身が「条件からそのまた条件へと条件の系列を遡ってますます高く昇っていく」能力だと書いていることを確認しました。一方、あるメンバーは悟性との対比で「理性とは、経験を越えた存在(神など)を対象とする認識能力であって、悟性が経験的な存在を対象とすることと対になる概念である」としており、両者の関係が問題になりました。チューターは、条件からそのまた条件へと条件の系列を遡って高く昇っていけば、最終的には経験を超えた存在に行きつくということで、両者は同じものと言えるのではないかと発言しました。次に「純粋理性」については、「経験的なものから独立した理性」「あるものをまったくアプリオリに認識することのできる諸原理を含む理性」「経験に全く関係ないことが強調されている」などの見解が出されていました。この純粋理性については実践理性との対比で考えていくべきではないかという指摘もなされましたが、はっきりした把握にはいたりませんでした。最後に「批判」については、理性には何ができて何ができないのかを批判的に明らかにするという意味合いでほぼ共通した見解でした。

 第三に、形而上学とはいかなる学問であるかを確認しました。形而上学とは、一切の経験を超えた根本的な原則(世界の究極的なあり方に関わるような原則)について、諸々の論争が闘わされてきたものであるということでほぼ共通した見解でした。そして、形而上学の課題として神・自由・不死があるという指摘もありました。これに対して論理学は、一切の思惟の形式的規則を漏れなく説明し厳密に証明する学問であり、論理学は悟性に関わるもの、形而上学は理性に関わるもの、という対比がありそうだということを確認しました。

 第四に、カントが形而上学の歴史に『純粋理性批判』をどのように位置づけているかを確認しました。これは今年の2月の例会で扱ったもので、その内容を踏まえて各自が見解を出しており、おおむね共通したものでした。以下のような内容になります。

 カントは、形而上学の歴史を、女王によって統治される王国にたとえている。統治は、最初は、独断論者の支配下で専制的であったという。絶対に正しいとされる原則を前提にして、そこから世界の全てが説明されていた、ということであろう。しかし、その原則は絶対的に正しいものかどうか、きちんと証明されているとはいえないシロモノであったので、しばしば懐疑論者によって攻撃された。しかし、そうした攻撃は散発的なものにとどまり、独断論者の支配が覆されることはなかった、という。状況を大きく変えるのは、ロックの『人間悟性(知性)論』であり、結局のところ全ての原則なるものは経験に由来するのだ、と主張されたことで、形而上学の支配が覆ったかに見えたが、経験によっては原則の成立を説明しきれないことが明らかになったために、再び独断論者の支配(しかし、それは陳腐な虫食いだらけだ、とされている)が復活することになった、というのである。こうした状況のなかで、形而上学への真面目な関心がもたれなくなっているのが現状である、とカントはいう。こうした無関心についてカントは、見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性が自己認識するための法廷を設けよ、という要求にほかならない、と前向きに捉える。理性が自分自身を批判(吟味)することで、経験を超えた使用でなぜ不都合が生じてしまったのかを明らかにするのだ、というわけである。理性が経験を超えたものについて論じようとすると混迷と矛盾に陥ってしまう、という問題を正面に据え、理性自身を批判(吟味)することで、形而上学の完成に道を切り拓こうというのが、カントの『純粋理性批判』の意図であるといえよう。


 第五に、カントのいうコペルニクス的転回とはどのようなことを意味しているのかを確認しました。これは、対象が認識を規定すると考えるのではなくて、認識が対象を規定すると考えることということで、見解は一致していました。その上で、なぜカントがこのようなことを考えたのかを議論し、おおむね以下のような結論になりました。もし対象によって認識が規定されていると考えると、ヒュームのように、結局は因果律のような必然性の認識は不可能であり、それはただ習慣によるものでしかないという結論になってしまいます。これではアプリオリな認識そのものが否定され、同じく神・自由・不死などのアプリオリな認識を扱う形而上学が否定されることになってしまいます。このようなヒュームの因果律批判から形而上学を守ろうとしたのだということでした。

 第六に、唯物論の立場からすれば、カントの問題意識についてどのように評価することができるかを議論しました。独断論的な演繹でも、ロックの経験論的な帰納でも解決できなかった課題を解決しようとしたという問題意識は評価できるという点は全員が共通していました。その課題とは、なぜ普遍性や必然性の認識が成立するのかということです。これをカントは観念論的に説いたということでした。では、唯物論の立場からはどう説くのかという点について、「因果関係(法則性)は全世界に貫かれており、個々の体験にもそれが存在しているから、また、人間の認識には個々の体験を一般化して考える性質があるから、個々の体験を通して全世界を貫いている因果関係(法則性)を把握することが可能なのだ」「現代の唯物論は、世界が弁証法という普遍的な法則をもっており、人間の認識は個別的な経験の積み重ねを通じて、この普遍的な法則を把握することができると主張しているのである」という見解が出されました。前者はチューターが書いたものですが、これについて、「人間の認識には個々の体験を一般化して考える性質がある」という表現について、一般化して考えることも徐々に育っていくものであるのに、もともと存在しているようかのような表現になっているという指摘がありました。これについては、チューターも納得しました。また、そもそもこの論点ではカントの主張についてではなく、問題意識についての評価であるから、唯物論の立場からどう説くかということは論点から少しずれるのではないかという指摘もなされました。加えて、確かに、唯物論の立場では「全世界を貫いている因果関係(法則性)」「世界が弁証法という普遍的な法則性をもっており」ということを説くものの、これをカントなりヒュームなりに説得的に論じることができるのかという指摘もなされました。あくまでも一度カントやヒュームの立場に立ってみて、こちらの主張をどう受け取るか、またそれに対してどう反論してくるかを想定すること、端的には南郷先生が言うような「独りっきりの二人問答」が必要だということを確認しました。

 以上で、論点1に関する議論を終了しました。
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2017年12月27日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで4回にわたって『純粋理性批判』の12月例会の範囲の要約を掲載してきました。ここで改めて、今回の範囲で大事な内容を簡単に振り返っておきたいと思います。

 カントは最初に形而上学の歴史を振り返っていました。最初は独断論の支配が行われていたものの、経験論からの反論などもあり、現在の形而上学は混迷と矛盾に陥っているということでした。そこで批判という形で理性にできることを明らかにしなければならないと説いていたのでした。

 一方、形而上学と同じく理論的認識を扱う数学や自然科学は1個の学として確実な道を歩んでいることが紹介されていました。そこでカントは、形而上学においても、数学や自然科学の考え方を模倣するべきだと説いていたのでした。その中身がコペルニクス的転回として有名なものであり、対象が認識を規定するのではなく、認識が対象を規定するというものなのでした。認識によって規定された存在としての現象と、決して認識できない存在としての物自体とを区別することにより、道徳哲学が成立する根拠なども明らかになると主張していたのでした。このように、序文において、『純粋理性批判』の結論に相当する部分が紹介されていました。

 そして緒言において、基本的な用語である純粋認識(ア・プリオリな認識)や分析的判断・総合的判断などについて解説がなされていました。純粋認識(ア・プリオリな認識)とは経験を一切含まない認識であるということでした。また「AはBである」という判断において、主語Aの中に述語Bが含まれている場合は分析的判断、含まれていない場合は総合的判断であるということでした。分析的判断においては述語Bが主語Aの中に含まれているので、主語Aを分析していくだけでよく、経験を必要としません。したがって、分析的判断であれば、ア・プリオリな認識だということになります。一方、総合的判断の場合は、述語Bが主語Aに含まれていませんから、経験を必要とします。ところが、形而上学などにおいては、ア・プリオリな総合的判断が存在しています。では、このア・プリオリな総合的判断はいかにして可能となるのかが問われるのであり、これこそが純粋理性の本来の課題なのだということでした。

 以上のような内容に関わって、会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは?
 カントはいかなる問題意識で『純粋理性批判』を書いたのか。そもそも「理性」「純粋理性」「批判」とはどういうものか。カントのいう形而上学とはいかなる学問であるか。論理学と比較しながら確認しておきたい。その形而上学の歴史に『純粋理性批判』をどのように位置づけているか。また、カントのいうコペルニクス的転回とはどのようなことを意味しているのか。唯物論の立場からすれば、カントの問題意識についてどのように評価することができるか。

2、カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか
 カントは客観を現象と物自体との2つに区分しているが、なぜこのような区分をするにいたったのか。そもそも現象とは何か。物自体とは何か。純粋理性の実践的(道徳的)使用、あるいは道徳哲学における意志の自由の問題は、これとどのように関わると考えられているのか。こうしたカントの主張について、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。

3、ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか
 カントはヒュームの懐疑論的主張に反対しつつ、「理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれる」「純粋理性の本来の課題は『ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか』という形の問いに含まれている」などと主張しているが、これはどういうことか。ア・プリオリな認識とは何か。綜合的判断とは何か。それぞれ、ア・ポステリオリな認識と分析的判断との対比で確認しておきたい。また、「先験的」という言葉の意味も押さえておきたい。このような主張を、唯物論の立場からはどのように評価することができるか。

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2017年12月26日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約C

 前回は、『純粋理性批判』の序文の前半部分の要約を紹介しました。そこでは純粋認識(ア・プリオリな認識)と経験的認識、分析的判断と総合的判断の区別などが説かれていました。端的には経験を一切含まない認識が純粋認識であるということでした。また「AはBである」という判断において、主語Aの中に述語Bが含まれている場合は分析的判断、含まれていない場合は総合的判断であるということでした。

 今回は、『純粋理性批判』の序文の後半部分の要約を紹介します。ここでは、純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合判断はどうして可能か」という点であることが説かれています。

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X 理性にもとづくあらゆる理論的な学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれる

 1、数学的判断は全て総合的判断である。この命題は極めて確実で、誰も反駁できない。「7+5=12」という命題は分析的命題だと考えられるかもしれない。しかし、12という概念は、私が7と5との結びつきを考えるだけで既にこの概念において考えられているというわけにはいかない。和の概念をいくら分析しても、この概念のうちに12という数は見出されない。同様に、純粋幾何学の「直線は2点間で最短である」という命題も総合的命題である。直線という概念は長短の量を含むものではなく、ただ性質を含んでいるだけだからである。最短という概念は、全く別に付け加わったものであり、分析によってこれを直線の概念から引き出すことはできない。

 2、自然科学(物理学)はア・プリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は常に不変である」あるいは「運動の一切の伝達において作用と反作用は常に相等しくなければならない」という命題は、いずれも必然性と、したがってア・プリオリな起源とを有するのみならず、総合的命題であることも明白である。物質という概念で考えられるのは、物質が空間のうちに現に存在しているということだけであり、常住不変という性質ではない。だから、物質という概念によって考えられていなかった何かあるものを、ア・プリオリにこの概念に付け加えるためには、物質という概念の外に出なければならない。

 3、形而上学は、これまでのところ単に試みられたにすぎない学であるにもかかわらず、人間理性の自然的本性からいって、欠くことのできない学だとみなされている。形而上学の旨とするところは、我々が物に関してア・プリオリに構成するところの概念を単に分析することによって、これらの概念を分析的に解明するのではなく、我々が我々の認識をア・プリオリに拡張するところにある。そのためには、与えられた概念の外に出て、この概念に含まれていなかった何かあるものを別に付け加えるような原則を用いなければならない。そこで我々は、ア・プリオリな総合的命題によってこの概念を超出することになるので、経験そのものはもはや我々に追随できないのである。例えば、「世界にはそもそもの始まりがなければならない」などという命題がこれである。


Y 純粋理性の一般的課題

 純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能か」という形の問いに含まれる。

 形而上学がこれまで非常に不確かで矛盾に満ちていたのは、哲学者たちがこのような課題はもとより、分析的判断と総合的判断との区別にすら気づかなかったからである。それでも哲学者たちのうちで、この課題の解決に最も近づいたのは、デイヴィッド・ヒュームである。しかし、彼も、生起した結果をその原因に結びつけるという総合的命題(因果律)だけにとどまった。彼は、こうした命題はア・プリオリには全く不可能であることを明らかにすることができた、と信じた。彼の推論に従えば、我々が形而上学と呼ぶところのものは全て、実際には全く経験から得たところのものや、習慣によって見かけだけの必然性を得たところのものを、理性の真正な洞察と思い誤った妄想にすぎないということになるだろう。もしヒュームが、我々の提出した課題は普遍性をもつものだということを念頭に置いていたら、一切の純粋哲学を破壊するような主張を思いつきはしなかっただろうし、彼の論証に従えば純粋数学すら存在しなくなることを覚っただろう。

 上記の課題の解決は、「純粋数学はどうして可能であるか」「純粋自然科学はどうして可能であるか」という問題に対する解答をもまた包括することになる。純粋数学にせよ純粋自然科学にせよ、いずれも実際に存在しているのだから、これらの学がどうして可能なのか問うのは当を得たことである。ところが形而上学に関しては、実際に存在しているとは言い難いので、誰しもこの学が可能であることに疑いを差し挟むのはもっともである。

 しかし、形而上学は、学としてではなくても、人間の自然的素質としては実際に存在する。人間の理性は、自分自身の止みがたい要求に駆られて、理性の経験的使用やまたそれから得られた原理などによってはとうてい答えられないような問題に向って、絶えず進んでいくものだからである。そこで形而上学については、「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが生じる。

 しかし、人間理性にとって自然な問題、例えば「世界にはそもそも始まりがあるのか、それとも世界は無限の昔から存在しているのか」という問題に応えようとする従来のあらゆる試みには、常に避けることのできない矛盾があった。それだから我々は、人間理性に存在する形而上学的素質だけにとどまっているわけにはいかず、形而上学の論究する対象は知ることができるのか否か、これらの対象について何ごとか判断する能力の有無が決められるのか、したがってまた我々の純粋理性を拡張できるのか、それとも純粋理性には明確に規定された確実な制限を付しうるのか、問わねばならない。すると、上記の一般的課題から生じてくる第三の問題は当然に次のようなものになるであろう。「学としての形而上学はどうして可能であるか」。

 それだから、理性批判は結局学にならざるをえない。これに反して批判なしに理性を独断論的に使用すれば、根拠のない主張に、したがってまた懐疑論に陥るのである。こうした主張には同じくもっともらしい主張を対抗させることができるからである。

 理性批判という学が扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、全く理性自身であり、全て理性の内奥から生じたところの課題――理性自身の自然な本性によって理性に提出されたところの課題である。実際にも、もし理性が経験において自分に現われるところの対象に関して、前もって自分自身の能力を完全に知ることができれば、経験の一切の限界を超えて試みられる理性使用の範囲と限界とを完全かつ確実に規定することが容易になるに違いない。


Z 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分

 以上述べたところから、純粋理性批判と名づけられるような特殊な学の構想が生じる。純粋理性は、何かあるものを全くア・プリオリに認識する原理を含むところの理性である。我々の認識の拡張は果たして可能なのか、また可能だとすればそれはどのような場合に可能であるか、今のところはまだ決定されていないわけだから、我々は純粋理性とその源泉および限界との批判を旨とするような学を、純粋理性のための予備学とみなしてよい。こうした予備学は、学説ではなくて、単に純粋理性の批判と呼ばれなければならないだろう。また、この批判の効用は、思弁に関しては全く消極的であって、我々の理性を拡張するのに役立つものではなく、ただ理性を純化する用をなすことで理性が誤謬に陥るのを防ぐことになるだろう。私は、対象に関する認識ではなくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を先験的(transzendental)と名づける。すると、こうした概念の体系は先験的哲学と名づけられてよいが、そういってしまっては最初としては過大である。この学は、分析的認識とア・プリオリな総合的認識を完全に含んでいなければならないので、我々の意図に関する限りでは、なお範囲が広すぎるからである。我々が分析を進めて差し支えないのは、ア・プリオリな総合の諸原理をその全範囲にわたって洞察するのに是非とも必要な程度に限られている。したがって、この研究は学説と称してよいようなものではなく、先験的批判と名づけられるべきものである。

 先験的哲学は、ある種の学の構想である。換言すれば、純粋理性批判がこの学の全設計をいわば建築術的に、すなわち原理にもとづいて立案するとともに、この建物を構成する一切の部分の完全と安全とを十分に保障しなければならないような学の構想である。すなわち、先験的哲学は、純粋理性の一切の原理の体系である。この批判がみずから先験的哲学と名のらないのは、こうした批判が完全な体系であるためには、人間のア・プリオリな認識全体の周到な分析を含まねばならないからである。

 こうした学〔純粋理性批判〕を区分するに当たって最も重要な目安は、何によらず経験的なものを含むような概念が入り込んではならない、換言すれば、ア・プリオリな認識はあくまで純粋でなければならない、ということである。それだから、道徳の最高原則と基本概念とは、ア・プリオリな認識ではあるが先験的哲学には属さない。

 ところで、一般に体系というものを考察する見地からこの学の区分を試みるとなると、我々が今述べているところの区分は、第一に純粋理性の原理論を、また第二に純粋理性の方法論を含まねばならない。またこれら2つの主要部門は、それぞれ小区分を含むことになるだろう。人間の認識には、2つの根幹がある。おそらくこれら根幹は、共通ではあるがしかし我々には知られない唯一の根から生じたものであろう。この2つの根幹というのは、感性と悟性とである。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が思惟されるのである。ところで感性は、対象が我々に与えられるための条件をなすところから、先験的哲学に属するだろう。そして先験的感性論は、原理論の第一部門でなければならないだろう。認識の対象が人間に与えられるための条件は、その対象が考えられるための条件に先立つからである。
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2017年12月25日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約B

 前回は、『純粋理性批判』第2版序文の残りの部分の要約を紹介しました。ここでは形而上学が混迷と矛盾に陥っていることを踏まえて、1個の学として確実な道を歩んでいる数学と自然科学の考え方を模倣するべきだと主張していたのでした。その中身こそが、認識が対象によって規定されるのではなく、対象が認識によって規定されるのだというコペルニクス的転回だったのでした。そして、認識できない物自体の存在を想定することによって、道徳哲学の成立根拠を明らかにしたのでした。

 今回は、『純粋理性批判』の緒言の前半部分の要約です。ここではア・プリオリな認識、分析的判断と総合的判断といった用語についての解説がなされています。

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緒言

T 純粋認識と経験的認識との区別について

 我々の認識がすべて経験をもって始まるということはいささかも疑いえない。対象こそが、我々の感覚を触発し、一方ではおのずから表象をつくりだし、他方では、我々の悟性を働かせてこれらの表象を比較し結合または分離して、感覚的印象という素材を対象の認識、すなわち経験へとつくりあげるのである。

 しかし、我々の認識がすべて経験をもって始まるとしても、我々の認識がすべて経験から生じるというわけではない。我々の経験的認識ですら、我々が感覚的印象によって受け取るところのものに、我々自身の認識能力〔悟性〕が自分自身のうちから取り出したものが付加されてできた合成物であるからである。

 それだから、経験に関わりない認識、それどころか一切の感覚的印象にすら関わりないような認識が実際に存在するかという問題は、立ち入った研究を必要とする。こうした認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれ、経験的認識から区別される。経験的認識の源泉は経験のうちにあるから、ア・ポステリオリである。

 ところが、ア・プリオリな認識という語は、明確さを欠いており、当面の問題に含まれている意味の全体を適切に言い表すには十分ではない。土台の下を掘ったために家を倒壊させた人がいると、彼はこうすれば家が倒れるということをア・プリオリに知りえたはずだ、なにも家が実際に倒れるという経験をまつまでもなかったのに、などといわれることがあるからである。しかし、彼とて、このことを何から何までア・プリオリに知ることはできなかったのである。なぜなら、物体には重さがあるのだから、物体を支えているものが取り除かれれば落っこちてくる、ということは、やはりあらかじめ経験によって知っておかなければならなかったからである。

 それだから、これから先、我々がア・プリオリな認識というときには、個々の経験に関わりない認識ということではなく、一切の経験に絶対に関わりなく成立する認識を意味するということにしよう。ア・プリオリな認識のうちで、経験的なものを一切含まない認識を純粋認識という。例えば、「およそ変化は全てその原因をもつ」という命題はア・プリオリな命題ではあるが、しかし純粋ではない。「変化」という概念は、経験からのみ引き出すことができるものだからである。


U 我々はある種のア・プリオリな認識をもち、常識といえども決してこれを欠くことはない

 ここで問題は、純粋認識と経験的認識とを確実に区別しうる標徴は何か、ということである。経験は、何かあるものが事実としてしかじかであることを教えはするが、そのものが「それ以外ではありえない」という必然性を教えるものではない。だから第一に、ある命題があって、それが同時に必然性をもつと考えられるなら、それはア・プリオリな判断である。その上、その命題が必然的な命題だけから導かれたものなら、それは絶対にア・プリオリな命題である。第二に、経験はその判断に厳密な普遍性を与えるものではなく、ただ想定された相対的普遍性を与えるだけである。もし、ある判断が厳密な普遍性をもつ(ただひとつの例外も許さない)と考えられるなら、こうした判断は経験から得られたのではなく、絶対にア・プリオリに妥当する判断である。

 我々はこうした必然的な、また厳密な意味で普遍的な、したがってまたア・プリオリな純粋判断が、人間の認識に実際に存することを容易に示すことができる。「変化は全て原因をもたねばならない」という命題を例にとってみても、原因の概念は、原因が結果と結び付く必然性という概念と、この規則すなわち因果律の厳密な普遍性という概念とを明らかに含んでいる。ヒュームのように、原因の概念を習慣からひきだそうとしたら、この概念は全く成り立たない。だが、わざわざこのような例を挙げなくとも、ア・プリオリな純粋原則が経験そのものを可能にするために不可欠なものであることをア・プリオリにも示すことができる。もし、経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性をどこに求めようとするのだろうか。判断ばかりでなく概念にさえ、ア・プリオリな起源をもつものがいくつかある。物体という経験概念から物体における一切の経験的なもの――色、硬さ、重さ、不可入性を次第に抜き去ってみても、この物体が占めていたところの空間は残る。


V 哲学はあらゆるア・プリオリな認識の可能性、原理および範囲を規定するような学を必要とする

 しかし、はるかに重大な意味をもつのは、ある種の〔ア・プリオリな〕認識は一切の可能的経験の領域を捨て、自分に対応する対象が経験において全く与えられないような概念によって、我々の判断の範囲を経験の一切の限界を超えて拡張するように見える、ということである。

 純粋理性にとって避けることのできない課題は、神、自由および不死である。そしてこれらの課題の解決を究極目的とし、一切の準備を挙げてもっぱらこの意図の達成を期する本来の学を形而上学というのである。ところが、この学のとる方法は、最初は独断論的である。つまり、こうした大事業を成就しうる能力の有無を理性についてあらかじめ検討せずに、この事業の遂行を担当してはばからないわけである。

 しかし、我々としては、経験の領域を立ち去るや否や、素性の分からない認識を材料とし、起源の不明な原則をそのまま信用し、綿密な研究によって建物の基礎を確かめもせずに、すぐさま建築に取り掛かるよりも、まずその前に、一体悟性はどうしてこのようなア・プリオリな認識を得るに至ったのか、またこのような認識はどのような範囲、妥当性および価値をもつのか、という問いを提出する方がよほど自然なことであると思われる。
 我々の理性の仕事の大きな部分は、我々のすでにもっている種々の概念を分析するところにある。概念の分析は我々に多くの認識を与えるが、実質すなわち内容からいえば、分析は我々の概念を拡張するものではなくて、ただこれを分解するものにすぎない。ところが、この方法は、実際にもア・プリオリな認識を与え、またこの認識は確実でかつ有用な発展をとげるので、理性はこれに欺かれて、自分でも気づかぬうちに全く別の種類の主張をひそかに取り入れるのである。換言すれば、理性はすでに与えられている概念に、これとは全く無縁の、しかもア・プリオリな概念を付加する。しかし我々には、理性がどうしてこういうことをするのか、わけが分かっていない。それどころか我々は、こういう問いを発することすら思いつかないのである。そこで、まずはじめに、認識のこうした2通りの仕方の区別を論じてみたい。


W 分析的判断と総合的判断との区別について

 主語と述語との関係を含む一切の判断において、この関係は2通りの仕方で可能である。すなわち、述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれているものとして主語Aに属するか、そうでなければ述語Bは主語Aと結び付いてはいるが、しかし全くAという概念の外にあるか。第一の場合を分析的判断、第二の場合を総合的判断と呼ぶ。前者は、述語によって主語の概念に何も付け加えず、ただ主語概念を分析していくつかの部分的概念に分析するだけである。これに反して後者は、主語の概念に述語を付け加える。この述語は主語の概念においては全く考えられていなかったもの、また主語概念を分析することでは引き出してこれなかったものである。「物体は全て延長をもつ」は分析判断であるが、「物体は重さをもつ」は総合判断である。

 経験判断はその本性上、全て総合的である。分析的判断を構成するには、私がすでにもっている概念の外へ出る必要はなく、分析的判断は経験の証言を必要としない。

 ところが、ア・プリオリな総合的判断となると、経験という便宜を全くもたない。例えば、「生起するものは全てその原因をもつ」という命題において、原因という概念は、生起する何かあるものという概念の全く外にあり、生起するものとは異なる何かあるものを示している。では、私は一体どうやって、一般に生起するものの概念に、これとは全く異なるものを述語として付け加えうるのか。その支えとなる未知のXは何か。それは経験ではあり得ない。上記命題を成立させる原則は、経験が与えうる以上の普遍性をもって、そればかりかさらに必然性という言葉をもって、したがってまた全くア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加え得るのである。要するに、我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらこうした総合的原則すなわち拡張の原則に基づいているのである。
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2017年12月24日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約A

 前回は、『純粋理性批判』の第1版序文と第2版序文の途中までの要約を紹介しました。そこでは、形而上学が独断論によって支配されていたものの、経験論からの反論などもあり、現在は矛盾と混迷に陥っており、理性にできることを批判という形で明らかにすることが必要だと説いているのでした。一方、同じく理性的認識を扱う数学と自然科学は1個の学として確実な道を歩んでいることなどが説かれていました。

 今回は、第2版序文の残りの部分の要約です。ここでは有名なカントのコペルニクス的転回について触れられています。

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 形而上学において、学としての確実な道がこれまで見出されなかった理由は一体どこにあるのだろうか。

 私は、数学と自然科学に大きな利益を与えたところの考え方の変革に存する本質的な点を詳細に考え、また形而上学が数学および自然科学と同じく理性認識であるという事情にかんがみて、これら2つの学と形而上学との類比が許す限り、形而上学において少なくとも試みに数学および自然科学を模倣してみてはどうか、と思う。

 我々はこれまで、我々の認識は全て対象に従って規定されなければならないと考えていた。しかし、我々がこのような対象に関して、何事かをア・プリオリに概念によって規定し、こうして我々の認識を拡張しようとする試みは、こうした前提の下では全て潰え去ったのである。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定されなければならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試してみてはどうだろうか。コペルニクスは、全ての天体が観察者の周囲を運行するというふうに想定すると、天体の運動の説明なかなかうまく運ばなかったので、今度は天体を静止させ、その周囲を観察者に回らせたらもっとうまくいきはしないかと思って、そのことを試みたのである。形而上学においても、対象の直観に関して、これと同じような仕方を試みることができる。もし直観が、対象の性質に従って規定されなければならないとすると、私はこの性質についてどうしてア・プリオリに、何事かを知り得るのか分からなくなる。これに反して(感覚能力の対象としての)対象が、われわれの直観能力の性質に従って規定されるというのなら、私には直ちにこのことが可能であることがよく分かるのである。

 私は表象としてのこれらの直観を、対象としての何かあるものに関係させ、対象をこうした表象によって規定しなければならない。経験そのものが認識のひとつの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない。そして、こうした悟性規則は、ア・プリオリな悟性概念によって表現されるものであるから、経験の一切の対象は、必然的にこうした悟性概念〔カテゴリー〕に従って規定され、またこれらの概念と一致しなければならないのである。対象のなかには、理性だけによって必然的に考えられはするが、しかし(少なくとも理性が、自分なりにこうした対象を考えるようには)経験には全く与えられないようなものがある。こういう対象についていうと、これを考えようとする(こうした対象にしろ、とにかく考えられはするのだから)試みは、我々が一変した考え方、つまり、我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物のなかへ自分で入れるところのものだけである、という新しい方法による考え方と見なすところのものの是非を吟味する試金石であることが、もっと先へ行ってから分かると思う。

 この試みは、希望通りの成功を収めて、形而上学の第一部門に、ひとつの学としての確実な道を約束した。形而上学は、この第一部門〔先験的感性論〕でア・プリオリな概念を論究するが、これらの概念に対応しかつ適合する対象は、経験に与えうるのである。上記の考え方の転換によって、ア・プリオリな認識が可能であることを非常に具合よく説明することができるし、経験の対象の総括たる自然の根底にア・プリオリに存在する法則に十分な証明を与えることができるからである。これらのことは、これまでの方法では全く不可能であった。ところが、形而上学のこの第一部門では、ア・プリオリな認識能力のこうした演繹から、形而上学の全目的にとって、すこぶる不利であるような、奇異な結果が生じる。それは、ア・プリオリな認識能力によっては、可能的経験の限界をどうしても超えられない、ということである。ところが、可能的経験の限界を越えることこそ、形而上学の最も本質的な関心事なのであり、形而上学の全目的を論究することこそ、第二部門〔先験的論理学〕の主旨なのである。ア・プリオリな理性的認識は現象だけに関係するもので、物自体は実在するかもしれないが我々には認識できないものとして度外視するというのが、第一部門の結論であった。こうした結論の真実性を吟味する実験が、この第二部門に含まれている。経験と一切の現象との限界を超えることを我我に強いるのは、無条件的なもの〔絶対的なもの〕である。理性は物自体を設定して強制的に、しかも全く当然のこととして、一切の条件付きのものに対して無条件的なものを要求し、またこうして条件の系列の完結を要求する。しかし我々が、我々の経験的認識は物自体としての対象に従って規定されると想定する限り、無条件的なものは矛盾なしには全く考えられないのである。これに反して、物〔対象としての〕が我々に与えられる前に、我々はこうした物を表象し、またこの表象が物自体としての物に従うのではなくて、かえって対象が現象として我々の表象の仕方に従うというように想定するならば、この矛盾は解消する。しかし、その場合にも、我々に無条件的なものという先験的理性概念を規定させ、また、このような仕方で、形而上学の希望するままに一切の可能的経験の限界を超えて、我々の認識――といっても、実践的〔道徳的〕な意味においてのみ可能なア・プリオリな認識をもってこうした先験的理性概念に達するような事実が、理性の実践的認識に存在しないかどうかを検討する、という課題が残されている。思弁的理性は、こういうやり方でこうした実践的拡張を可能とするために、少なくとも場所を確保した。もちろん、思弁的理性としても、この場所を開けておかざるをえなかったのである。我々が、この場所を理性の実践的事実によって満たすことは、今でも我々の自由に任されている。いや、それどころか、そうすることが理性によって我々に要求されているのである。

 形而上学の従来の方法を変革しようという試みこそ、しかも幾何学者および自然科学者を模範として形而上学の全面的な革新を企てることによってこうした変革を成し遂げようとする試みこそ、この思弁的純粋理性批判の本旨なのである。

 本書を読了した人は、思弁的理性をもって経験の限界を超えるとをあえてしないというのが本書の効用だとすれば、それは全く消極的な効用にすぎないではないか、と考えるかもしれない。しかし、思弁的理性が自分の限界を超えようとする場合に用いる原理は、我々の理性使用を拡張するように見えて、実は我々の理性使用を狭めるという結果をもたらさずにはおかない。こうした原則は、もともと感性に属するものであるにもかかわらず、実際には感性の限界をどこまでも拡張して、純粋な(実践的)理性使用すらも駆逐しかねないからである。このことを知るならば、消極的効用はたちまち積極的効用に転化する。つまり、我々の批判は、思弁的理性に制限を加えるという点では消極的であるが、理性の実践的使用を制限したり滅却したりしかねないような制限を取り除くものだという点で、積極的な効用を有するのである。

 この批判の分析的部門で証明されるのは、空間と時間とは感性的直観の形式にすぎず、現象としての物の存在を成立させる条件にほかならない、また、我々の悟性概念に対応する直観が与えられなければ我々はいかなる悟性概念ももちえず、物を認識するのに必要な要素をひとつももたない、ということである。つまり、我々が認識しうるのは物自体としての現象ではなく感性的直観の対象としての物、換言すれば現象としての物だけである。ここから、およそ理性の可能的な思弁的認識は、全て経験の対象のみに限られるという結論が当然に生じる。

 しかし、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識することはできなくても、物自体として考えることができねばならない、という考えは依然として留保される。さもなければ、現象として現われる当のものが存在しないのに、現象が存在するという不合理なことになってしまう。経験の対象としての物と、物自体としての物との区別が全く設けられなければ、原因性の原則〔因果律〕と、原因性によって規定されている自然機構とは、作用原因としての一切のもの一般にそのまま通用しなければならなくなるだろう。我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える。第一には、現象としての客観であり、第二には物自体としての客観である。

 道徳哲学は、自由を我々の意志の性質として必然的に前提している。ところが、思弁的理性が、自由は全く考えられない、という証明をしたとすれば、上記の道徳的前提は、思弁的理性に屈服し、自由および道徳は自然機構に席を譲らなければならなくなる。それだから、道徳哲学に必要とされるのは、自由が自己矛盾をふくまないこと、したがってまた自由は少なくとも考えられはするものの、それ以上の理解を必要とするものではないということ、また自由は、同一の行為の自然機構をいささかも妨げるものではない、ということである。そうすれば、道徳に関する学と自然に関する学とは、各々その地歩を確保して互いに相侵すことがない。純粋理性の批判的原則から生じる積極的効用については、神や我々の心の単純性という概念に対しても、全く同様の説明がなされる。要するに、思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は神、自由および不死〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすらできないのである。私は、信仰を容れる場所を確保するために知識を除かなければならなかった。
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2017年12月23日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』序文と緒言 要約@

 今回から4回に分けて、12月例会で扱った範囲の要約を掲載していくことにします。

 今回は、『純粋理性批判』の第1版序文と第2版序文の途中までの部分です。ここでは、形而上学の歴史とそれを踏まえた『純粋理性批判』執筆の背景、また形而上学と同じく理論的認識を扱う数学や自然科学の歴史について説かれています。

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第1版序文(1781年)

 人間の理性は、ある種の認識について、理性が退けることもできず答えることもできないような問題に悩まされるという特異な運命を背負っている。退けることができないというのは、これらの問題が理性の自然な本性によって理性に課せられているからであり、答えることができないというのは、こうした問題が人間の理性のあらゆる能力を超えているからである。

 理性は、経験の過程で必ず使用されねばならず、その使用が経験によって十分に保障されている原則から出発する。理性はこうした原則によって、前提そのまた前提へとどこまでも上昇していくが、問題はいつになっても尽きることがないので、理性は、考えられうる一切の経験使用を超えるにもかかわらず、常識とも一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるをえなくなる。そのために理性は混迷と矛盾に陥る。理性の用いる原則は、一切の経験の限界を超越しているので、経験による吟味をもはや承認しないから、どこかに謬見が隠れているに違いないと推量するものの、それを発見することができない。この果てしない争いを展開する競技場が形而上学である。

 形而上学の統治は、最初は独断論者の支配下にあって専制的であった。数次の内乱で次第に無政府状態に堕し、定住を嫌う遊牧民たる懐疑論者が国民の結束をしばしば寸断したが、懐疑論者たちは数がいたって少なかったので、独断論者たちが絶えず新たに殖民を企てるのを防止できなかった。近代になって、女王と自称する形而上学の家柄は経験という下層民に由来するのだから女王というのは僭称だ、と一時いわれたものの、こうした系図は捏造であり、形而上学への誹謗中傷であった。そこで形而上学は依然としてその要求を主張することになり、一切はまたしても陳腐な虫食いだらけの独断論に陥った。現代では、あらゆる道が(通説では)試みられ徒労に終わった挙句、学問において有力な傾向をなすものは倦怠と全くの無関心である。

 一切の知識のうちで最も愛惜されるはずの学に対する無関心は、注意と熟考に値する現象である。この無関心は、もはや見せかけの知識には釣られない成熟した判断力の結果であり、理性のあらゆる任務のうちで最も困難な技であるところの自己認識に新たに着手し、そのためにひとつの法廷を設けよ、という理性に対する要請なのである。この法廷こそ純粋理性批判そのものにほかならない。

 私がここでいう批判は、理性が一切の経験に関わりなく獲得しようとするあらゆる認識について、理性能力一般を批判することである。私は、これまで手をつけられていなかった批判という道をとることで、従来理性がその超経験的使用のために自分自身といわば不和を醸す原因となっていたところの一切の謬見を除去する手立てが発見されたことを喜んでいる。私は、およそ形而上学の課題にして、この批判において解決されなかったもの、少なくともその手がかりがあたえられなかったものはひとつもないはずである、と明言して憚らない。

 私の言い分は、心の単一性だの世界の始まりが必然的であることなどを証明する、と謳う形而上学の綱要書の著者の主張よりも、くらべものにならぬほど穏やかなものである。こうした著者は、人間の認識を可能的経験の一切の限界を超えて拡張しようとするが、私の方は、そんなことは全く私の手に負えない、と慎ましく告白するからである。

 確実と明晰という2つの特性は認識の形式に関するものであり、甚だ手に終えない企てを敢てする著者に、当然課せられるべき本質的要求と見なされてよい。

 いやしくもア・プリオリに確立されるほどの認識ならば、絶対に必然的と認められることを欲する。ア・プリオリな純粋認識を規定することは、あらゆる必然的(哲学的)確実性の基準となり、したがってまたこうした確実性の実例にもなるのである。

 明晰ということについていえば、読者は第一に概念による論証的明晰を、第二に直観による――換言すれば、実例あるいはその他の具体的説明による直観的(感性的)明晰を要求する権利がある。論証的明晰に対して私は十分な配慮をしたが、それがまた第二の要求を満足させえなかったことの原因にもなった。通俗的な目的にこそ必要な実例や説明によって、本書をこれ以上膨れ上がらせない方がよいと思った。

 私がここでその概念を与えようとしている形而上学は、一致した協力によって短期間で完成すると期待してよい唯一の学であり、しかも完成した暁には、後世の人々にとっては、全てを教示的な方法で自分たちの目的に従って整える以外にはやることがなく、内容を少しも増やせるものではない。なぜならそれは、純粋理性による我々全ての所有物の、体系的に整理された財産目録だからである。

第2版序文(1787年)

 理性の営みのひとつである認識を改善する作業が学として確実な道を歩んでいるかどうかは、その成果を見ればすぐに判定できる。

 論理学がこうした確実な道をずっと古い時代から歩んできたことは、この学がアリストテレス以来、いささかも後退する必要がなかったことからして明白である。論理学の限界は、一切の思惟の形式的規則を漏れなく説明し、また厳密に証明するという根拠によって厳密に規定されている。

 論理学は、認識の一切の対象とその差別を度外視する権限をもっている、というようりも、そうする義務を課せられている。それゆえに、論理学において悟性が問題にするのは、悟性自身と悟性の形式だけである。しかし理性となると、理性自身ばかりでなく、その対象をも究明しなければならないので、学としての確実な道を歩むのは、当然とはいえ、理性にとってはるかに困難であるに違いなかった。このようなわけで論理学はまた予備学として、いわば諸学の玄関をなすものである。また知識が問題となる場合には、与えられた知識を判定するためにも、論理学が前提される。しかし新たに知識を獲得するとなると、これは本来の意味で、また客観的に学とよばれるべき学に求められねばならないのである。

 しかし、こうした学は、当然に理性を含んでいるわけであるから、これらの学においては、ア・プリオリに認識されるものがなければならない。理性認識は、対象とその概念を規定するだけであるか、対象を実現するか、2通りの方法で対象と関係することができる。第一は、理性による理論的認識であり、第二は、理性による実践的認識である。いずれについても、その純粋な部分(ア・プリオリな部分)だけが前もって論究されなければならない。これ以外の源泉から生じたものを、純粋な部分と混同してはならない。

 数学と物理学とは、それぞれの対象をア・プリオリに規定しなければならない2つの理論的認識である。数学は全体として純粋であり、また物理学は少なくとも部分的に純粋である。

 数学は、人間理性の歴史が遡りうる最古の時代から1個の学としての確実な道を歩んできた。それが1個の堅実な学になったのは、ひとつの革新を経たお陰である。この革新は、ある人物が素晴らしい着想を得たことによって生じた。要するに、二等辺三角形を初めて論証した人は、この図形において現に見ているところのものから図形の様々な性質を学び取るのではなく、概念に従って自分でア・プリオリに件の図形のなかへ考え入れたところのものによって、この概念に対応するところの対象を産出しなければならないということ、また彼が何ごとかを確実にかつア・プリオリ知ろうとするならば、彼は自分の概念に従って自ら対象のなかへ入れたところのものから必然的に生じる以外のものを、この対象に付け加えてはならない、ということを知ったからである。

 自然科学者たちの心に一条の光が閃いたのは、ガリレイが一定の重さの球を斜面下で落下させたとき、またトリチェリがある水柱の重さを前もって測定しておきこの重さに相当すると思われる重さを空気で支えてみたとき、さらに下ってはシュタールが金属と焼灰とからそれぞれあるものを除いたりあるいはこれにあるものを加えたりして金属を焼灰に変化させまた逆にその焼灰を金属に変化させたときであった。こうして自然科学者たちは、理性は一定不変の法則に従う理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせなければならないのであって、いたずらに自然に引きまわされて、あたかも幼児が手引き紐でよちよち歩きするような真似をしてはならない、ということを知ったのである。物理学の考え方の革新も、理性は自然から学ばなければならないことやまた理性自体だけではそれについて何も知りえないようなことを自分自身が自然のなかへ入れたところのものに従って、それを自然のうちに求めねばならない(もともと自然のなかにありもしないことを自然に押しつけるのではなくて)、という着想に負っているのである。
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2017年12月22日

2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言(1/10)

(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、絶対精神の成長の過程(自己=世界という自覚の成立過程)として哲学の発展の歴史を描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画にもとづいたものです。

 しかし、読み進めていく中で徐々に論の展開や用語などを把握することが難しくなり、もう一度最初から読み返していくことが必要だということが感じられるようになってきました。そして前回、先験的弁証論の入り口を扱ったことによって、やはり組織的にもう一度初めから『純粋理性批判』を復習した方がいいのではないかということになり、今回から再度読み返していくことになったのでした。ただし、すでに一度扱っている箇所であるため、これまでの2倍のペースで読み進めていくことにしたのでした。そして今回、『純粋理性批判』の序文と緒言を扱いました。

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

カント『純粋理性批判』序文、緒言
【1】『純粋理性批判』におけるカントの問題意識とは何か?
 カントが『純粋理性批判』を執筆するに至った直接の要因は、ヒュームによる因果律批判にあるだろう。ヒュームは、原因と結果の結びつきが習慣による主観的なものに過ぎないと論じたのであるが、これに反駁するために、理性がどういうものかを吟味してみる必要性を感じたのである。もう少し視野を広げると、歴史的に混迷してきた形而上学を完成させるために、理性自身を詳しく検討してみる必要があると思い至ったものと思われる。このことにより同時に、理性の実践的使用の範囲を明確するということも念頭にあったのだろう。

<報告者コメント>
 カントは、その直近の存在であるヒュームを含めた形而上学の歴史(哲学史)を視野に入れつつ、自らの問題意識を検討していっている。普遍的な認識がどのようにして成立するのか、この問題についてヒュームは、習慣による主観的な事柄に過ぎないと断じていたのであるが、カントはこの問題について、ア・プリオリな総合判断がどうして可能であるのかという問いを立てつつ追求していくのである。独断論でも経験論でも解決しえなかった歴史上の問題に対するカントの姿勢は、カントをも歴史上の人物として俯瞰できる我々が学ぶべきものを多く持っているといえる。

【2】カントはなぜ現象と物自体とを区別したのか?
 カントが現象と物自体とを区別したのは、端的にいえば、絶対的なものを矛盾なく考えることができるようにするためである。カントは、認識が対象に規定されると考えると、絶対的なものを矛盾なしに考えることができず、二律背反に陥ってしまうから、逆に認識が現象としての対象を規定する(一方で、物自体としての対象は人間の認識では捉えることができないものだ)と考えることでこの矛盾を解決できるのではないかと考えたのである。現象は自然必然性に規定され、物自体はそうした制約から自由であると考えることで、自由と必然という二律背反を両立させたのである。

<報告者コメント>
 カントの物自体論は、避けることのできない二律背反という矛盾を解決するためにカントが編み出した根本的な法則だといえるだろう。しかしこの考え方は、あくまでも物質のありかた、性質から世界全体を説いていくという唯物論の立場からすれば、物質の究明から逃げたのだと評されても仕方がないものであった。頭の中だけで物質の世界を二分してしまい、それを現実の世界に適用して問題の解決を図るという手法ではなく、そもそも現実世界の物質が弁証法性をもった存在であると考えるのが唯物論の考え方である。

【3】ア・プリオリな総合的判断とはどういうものか?
 カントによれば、ア・プリオリな認識というのは、経験に関わりないだけでなく、一切の感覚的印象にすら関わりの内容な認識のことである。また、総合的判断は、主語の概念をいくら分析しても出てこない述語を付け加える拡張的な判断であるとも述べている。カントは、「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」という問いを立てそれに対する答を追求していくことが形而上学の根本的な課題であるとしているのである。

<報告者コメント>
 事物の普遍性は如何にして認識可能かという問いのカントなりの表現が「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」というものであろう。カントはこの問いに対して、時間や空間という直観の形式、カテゴリーという純粋悟性概念、そして最後にはイデーという純粋理性概念を持ってきて説明をしていくわけであるが、やはり唯物論の立場からは、世界の森羅万象のもつ法則性、弁証法性を我々が認識できるまでに人間が発展してきたからだということになるだろう。


 このレジュメに対して、いくつかの指摘がなされましたが、その中でも2つ目の報告者コメントにある「唯物論の立場からすれば、物質の究明から逃げたのだと評されても仕方がないものであった」というカントに対する評価については、大きく議論となりました。指摘したメンバーは、「カントは『自然の形而上学』などを書こうとしたのだから、逃げたというのはおかしいのではないか」ということでした。それに対して、報告者は「物自体に何の性質もないと言っているのだから、それは物質の究明から逃げたと言われても仕方がないのではないか」と答えました。また報告者は南郷先生の文章をもとにしているということだったので、その文章を確認し、確かに「物質の究明から逃げた」と解釈することもできる記述があることを確認しました。

 しかし、このような評価は南郷先生だからこそできるのであり、我々としては二律背反の問題を必死で解決しようとして物自体論に至ったカントの意義をこそ把握するべきではないか、南郷先生の受け売りで安易に「逃げた」などと評価するべきではないのではないか、という意見も出されました。これについては、報告者も納得しました。
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2017年12月21日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(5/5)

(5)経済学の歴史を見る上での最大のポイントは経済の歴史と経済学の歴史とのつながりである
 
 本稿は、諸々の経済問題にたいして適切な対策を行っていくためには、現実の経済がもつ構造を把握した科学的な経済理論を確立しておく必要があるという問題意識から、経済学の歴史を論理的にたどってみることを目的としたものでした。

 ここで、これまで説いてきた流れを簡単に振り返っておくことにしましょう。

 まず、経済学らしい経済学は資本主義経済の成立とともに誕生したことを確認しました。その背景としては、商品交換のひろがりによって、労働力や土地といった生産のための根源的な要素までもが商品となり、さらには貨幣も商品化(利子を取ってのお金の貸し借りが盛んになる)するようになっていくことで、政治的な行為あるいは宗教的な行為とはハッキリと区別された独自の経済的な行為というものがあるという社会的認識が生成していったことがありました。このような経済の分離によって、人びとは全体として、それ以前の時代よりも格段に物質的に豊かな生活を享受できるようになりました。こうした物質的な豊かさのもととなる富とは何であり、その源泉は何なのか、という問題を解明しようとしてはじまったのが、経済学とよばれる学問であったということができます。「経済学の祖」とされるアダム・スミスは、『国富論』において、人間の労働こそがさまざまな富を生み出す源泉であることを指摘し、労働価値説を打ち立てました。18世紀の資本主義経済の生成期においては、さまざまな部門で多くの小さな企業が自由な競争をおこなっており、この競争をつうじて全体として経済は上向きに発展していく、という楽観的な見方が強くありました。スミスに代表される古典派経済学は、このような見方に支えられて、個々人が私的な利益を追求して合理的に行動すれば、神の「見えざる手」(スミス)の導きによって社会全体の最大の利益が調和的に達成される、と主張しました。

 しかし、19世紀の後半以降、恐慌や失業、貧困など、資本主義経済が抱える諸々の弊害が大きな問題として浮上してくるようになると、経済学の関心の焦点は、富の生産の場面よりも富の分配や消費の場面に移っていくことになります。資本家と労働者の対立という現実を直視し、はっきりと労働者階級の立場に立ちながら、古典派経済学の労働価値説を継承・発展させたマルクスにたいして、商品が消費される場面に視点を移して、その商品から得られる満足の度合い、すなわち消費者の認識こそがその商品の価値の大きさを決めるのだとという効用価値説も唱えられることになりました。ある財の価値の大きさを決めるのはその財の追加的1単位の効用だという限界効用理論は、個々人の合理的な行動という古典派経済学の前提を、消費者の認識が大きな役割を果たすようになってきたという新しい経済の現実に、なんとか対応させていこうという試みだといえました。限界効用理論は、あらゆる商品の需要と供給についての連立方程式を立て、それを解くことによってすべての商品の市場が同時に均衡する状態をあきらかにしようとする、一般均衡論とよばれる理論を生み出しました。しかし、個々人の自由で合理的な行動という前提を究極にまで徹底し、数学的に精緻にくみあげられた体系は、ダイナミックに発展していく現実の経済との生き生きとした連関を欠いてしまい、一般均衡論は発展のない静態的なモデルとなってしまったのでした。

 一般均衡論が古典派経済学の前提となる人間観のみを受けついで現実とのつながりを断ち切ってしまったのにたいして、古典派経済学の母国イギリスでその伝統を受けつぎつつ、理論と現実をなんとか対応させていこうとがんばったのが、マーシャルらのケンブリッジ学派でした。ケンブリッジ学派の学者たちは、イギリス資本主義の爛熟期からやや翳りが見えはじめるという時代状況のなかで、基本的にブルジョアジーの立場に立ちつつ、台頭してくる労働者階級の主張にも一定配慮しながら、政策提言にも深くかかわっていきました。しかし、この学派は、1930年代の大量失業問題にたいして、賃金が高止まりしているから労働にたいする需要が増えないのだ、という伝統的な発想を克服できずに挫折してしまいました。こうした状況のなかで、ケインズは、雇用量を決めるのは社会全体の有効需要(消費+投資)の大きさだ、と主張しました。ケインズは、投資の量は、その投資からの予想利潤率とその投資のための資金を調達するコストである利子率とのかねあいによって決まってくると考えました。前者が後者を上回るという期待がなければ、企業は投資を決断できません。予想利潤率が低下してしまうか利子率が高止まりしてしまえば、投資は低い水準にまで落ち込み、失業を生みだしてしまうと考えられるのです。ケインズは、有効需要が不足して失業が存在する場合は、政府が金融政策・財政政策を駆使して将来への期待を改善し、予想利潤率が利子率を上回るようにして投資を刺激することで完全雇用をめざせばよい、と主張したのでした。

 以上、本稿でたどってきた経済学の歴史を簡単に振り返ってみたわけですが、そもそも経済学の歴史を見る目的は、あくまでも、経済の現実を反映したまっとうな理論の体系を構築するために、過去の偉大な経済学者たちの経験に学ぶためでした。

 それでは、経済学の歴史をふまえることで、現代に生きる我々がまっとうな経済学の確立のために果たすべき課題として、いったいどういうことがみえてくるでしょうか?

 経済学の歴史を見る上での最大のポイントは、経済の歴史と経済学の歴史とのつながりです。単細胞体から人間にまでつながる生命体の進化の歴史があくまでも地球環境の変化・発展とのつながりにおいてあったように、経済学はたんに経済学だけで発展してきたわけではなく、あくまでも現実の経済との相互浸透関係のなかで発展してきたのです。現実の経済が突きつけてくる諸課題に真剣にとりくむところにこそ経済学の発展があったのであり、現実との連関を欠いたところでいくら精緻な体系をくみ上げたとしても、それは学問としては発展性を失ったものであるといわざるをえないのです。経済学の歴史における一般均衡論は、ちょうど「生命の歴史」における爬虫類のようなものだということができるでしょう。外界との相互浸透関係を断ち切ってしまうと、それ以上の発展性をもてなくなってしまうのです(詳しくは、本田克也ほか『看護のための「いのちの歴史」の物語』〔現代社白鳳選書〕で確認してください)。

 現在進行中の世界的な経済の危機は、経済学の歴史とのかかわりという観点からいえば、現実と乖離した理論にもとづいた経済政策がいかに大きな災厄をもたらすかということを如実に示しているものだといってもよいでしょう。

 経済学の歴史上、現実の経済問題への真剣なとりくみが理論の大きな発展をもたらした事例としては、なによりも、マルクスとケインズの経済学をあげなければなりません。

 マルクスは、資本家階級と労働者階級の対立という現実に労働者階級の立場から迫っていくという、経済学としてはやや偏った視点からではあるものの、自己増殖する価値としての資本なるものを措定することにより、経済全体の構造に筋をとおして把握するという点で、大きな成果をあげました。

 一方、ケインズも、失業問題の解決という限定された問題意識から、一国全体で集計された消費量・投資量・雇用量などの諸量の間には一定の法則的な関係があることをあきらかにするという現象論的な把握のレベルにとどまったとはいえ、不確実な将来をめぐる人間の認識の複雑な動きの問題を正面からとりあげ、資本主義経済が根本的に不安定であることを解明したのは、きわめて大きな功績であったといわなければなりません。

 このように、現在の経済的な危機のなかで、ケインズの復権が叫ばれ、マルクスの経済学が新たな注目を集めつつあるのは、決して理由のないことではないのです。

 しかし同時に、マルクスやケインズの経済学が未完成であることも忘れてはなりません。現在の世界経済、日本経済の状況は、たんに彼らの成果を学ぶことだけでなく、現実の経済に根ざした理論を一般均衡論に対抗しうるだけの体系性をもったものとして構築してくことを強く要求しているのです。経済学が世界中の人々の生活に極めて大きな影響をあたえる学問であることをしっかりと自覚して、この課題にとりくんでいくことこそが、現代に生きるわれわれの人類史にたいする責任だといえるでしょう。

(了)
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2017年12月20日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(4/5)

(4)経済学が資本主義経済の現実を大きく変えるだけの力を持ってきた

 前回は、19世紀の後半以降、恐慌や失業、貧困など、資本主義経済が抱える諸々の弊害が大きな問題として浮上してくるようになるなかで、経済学の関心の焦点が富の生産の場面よりも富の分配や消費の場面に移っていき、富の分配にかかわって労働価値説の新たな発展があった一方、富の消費の場面に着目することで効用価値説が唱えられるようになったことをみました。

 ある財の価値の大きさを決めるのはその財の追加的1単位の効用だという限界効用理論は、個々人の合理的な行動という古典派経済学の前提を、消費者の認識が大きな役割を果たすようになってきたという新しい経済の現実に、なんとか対応させていこうという試みだといえました。限界効用理論は、あらゆる商品の需要と供給についての連立方程式を立て、それを解くことによってすべての商品の市場が同時に均衡する状態をあきらかにしようとする、一般均衡論とよばれる理論を生み出しました。しかし、個々人の自由で合理的な行動という前提を究極にまで徹底し、数学的に精緻にくみあげられた体系は、ダイナミックに発展していく現実の経済との生き生きとした連関を欠いてしまいます。一般均衡論は発展のない静態的なモデルとなってしまったのでした。

 一般均衡論が古典派経済学の前提となる人間観のみを受けついで現実とのつながりを断ち切ってしまったのにたいして、古典派経済学の母国イギリスでその伝統を受けつぎ、理論と現実を対応させていこうとがんばったのが、マーシャルらのケンブリッジ学派です。

 では、このケンブリッジ学派はいかなる特徴をもっているのでしょうか?

 この学派もまた、価値論的には、効用価値説を受け入れます。ただし、労働価値説にとって代わるものとしてではなく、補完するものとして、です。マーシャルは、現在の教科書によくでてくる、供給曲線と需要曲線の図を描いたことで知られています。ある商品の市場について、縦軸に価格を、横軸に数量をとったときに、右上がりの供給曲線と右下がりの需要曲線が引け、その交点でその価格と取引数量が決定されるという、おなじみのあの図です。マーシャルは、商品の価格は、効用すなわち需要側の要因と生産費すなわち供給側の要因の相互作用で決まるものであり、どちらか一方だけを主張するのは一面的であるとしました。そのうえで、短期的には供給が固定されている(供給曲線が横軸にたいして垂直に近くなる)ので需要側の要因(主観的な効用)が大きく作用するが、長期的には操業度にくわえて機械設備そのものの量までも調整できるので一定の価格水準で供給量をある程度まで自由に増やすことできるようになり(供給曲線が水平に近くなり)、その価格水準と需要曲線との交点で数量が決定されることになる、すなわち供給側の要因(生産費あるいは費やされた労働量)が大きく作用すると考えたのです。また、マーシャルが、ワルラスのような物理学的な経済現象のとらえかたに反対し、生物学的な「有機的成長」というとらえかたを主張したことも重要です。これは、成長しつつあったり衰退しつつあったりする諸々の経済主体が複雑な相互依存関係にあり、こうした相互依存関係が全体として成長しまた衰退していくのだ、というとらえかたです。

 ケンブリッジ学派の学者たちは、イギリス資本主義の爛熟期からやや翳りが見えはじめるという時代状況のなかで、基本的にブルジョアジーの立場に立ちつつ、台頭してくる労働者階級の主張にも一定配慮しながら、政策提言にも深くかかわっていきました。マーシャルは新たな成長を達成することによって、その弟子のピグーは政策的な所得再分配によって、貧困問題の解決を模索したのです。しかし、この学派は、1930年代の大量失業問題にたいして、賃金が高止まりしているから労働にたいする需要が増えないのだ、という伝統的な発想を克服できず、挫折してしまうことになりました。

 しかし、このケンブリッジ学派のなかから、従来の経済学を根本からくつがえすような革新的な理論が生まれてきました。それがケインズ学派です。ケインズ(1883〜1946)の最大の問題意識は、失業はなぜ存在するのか、失業を解消するためにはどうすればよいのか、ということでした。

 それでは、ケインズは失業の問題をどうとらえ、どう解決しようとしたのでしょうか?

 ケインズは、まず、1930年代の世界大不況という経済の現実について、労働者は賃金が安いから働くことを拒否しているのではなくて、働きたくても企業が雇ってくれないからやむをえず失業しているのだということを認めたのです。こう書くと「なにをあたりまえのことを!」という感じかもしれませんが、ケインズ以前の経済学の常識では、雇用量は労働者側からの労働供給(賃金が高ければ増やし安ければ減らす)と企業側からの労働需要(賃金が安ければ増やし高ければ減らす)の関係で決まるわけですから、労働者は自発的に失業している、つまり、「もっと賃金を上げないと働かないぞ!」とワガママをいっている、という結論しか出てこなかったわけです。これに対して、ケインズは、雇用量を決めるのは社会全体の有効需要(消費+投資)の大きさだ、としました。直接的には、企業が投資を控えて生産を増やそうとしないから労働者は失業してしまうのだ、ということです。これは、端的にいえば「需要が供給をつくる」(売れるという見込みがあるからモノは生産されるのだ)ということであり、「供給が需要をつくる」(ともかくモノを生産すれば売れるはずだ)というセー法則の完全否定を意味します。これは、生産力の水準が上がり、恒常的に供給が需要を上回ってしまう状態がつくられたことの反映でもありました。

 では、なぜ企業は投資を控えてしまうのでしょうか? ケインズは、投資の量は、その投資からの予想利潤率とその投資のための資金を調達するコストである利子率とのかねあいによって決まってくると考えました。前者が後者を上回るという期待がなければ、企業は投資を決断できません。予想利潤率が低下してしまうか利子率が高止まりしてしまえば、投資は低い水準にまで落ち込み、失業を生みだしてしまうと考えられるのです。

 ケインズは、利子率が高止まりするのは、貨幣がたんなる価値尺度や交換手段ではなく、価値貯蔵手段であるからだと考えました。不確実な未来について悲観的な予想が強まると、貨幣所有者は価値を安全・確実なかたちで保存しておきたいと考え、貨幣をなかなか手放そうとしません。結果として、貸し出しにまわされる貨幣が借り入れ需要を満たすことができないために、利子率が高止まりすることになってしまう、というわけです。

 ケインズは、有効需要が不足して失業が存在する場合は、政府が金融政策・財政政策を駆使して将来への期待を改善し、投資を刺激することで完全雇用をめざすべきであるとして、政府の経済への介入を正当化したのでした。

 第二次世界大戦後、世界経済の中心はイギリスからアメリカへ移っていきます。ケインズの経済学は、アメリカの経済学者たちによって受け入れられることになりました。ただし、不確実な将来をめぐる人間の認識の複雑な動きを重視したケインズの理論の核心は継承されず、政府が公共投資を増やせばどれだけ雇用を増やす効果があるかといったことを示すようなものとして、単純にモデル化されてしまったのです。単純化されたケインズ・モデルは、金融政策と財政政策による景気対策といういわゆる「ケインズ政策」の理論的根拠となり、資本主義国各国政府の経済政策に大きな影響をあたえました。成長の成果を高賃金や社会保障のかたちで労働者階級に還元し、耐久消費財を消費させることで国内市場を拡大していく仕組みがつくられたことで、戦後の資本主義諸国における高成長が可能となっていったのです。

 しかし、1970年代、耐久消費財がだいたい普及し尽くして国内市場が飽和すると、高度成長は行き詰まってしまいました。また、貿易の拡大によって政府の財政支出による景気対策は効きにくくなり、財政赤字などの弊害ばかりが目立つようになるなかで、鉄道や郵便などの公営事業の非効率も浮き彫りになってきたのです。

 このことは、ワルラス流の一般均衡論的な発想、すなわち、市場の自由な競争に任せれば効率的な資源配分が達成されるという発想に立った諸々の主張を登場させることになりました。これらの主張は、いわゆる「ケインズ政策」が市場の調整機能を阻害してしまっていることこそ問題であると厳しく批判しました。これが、労働者への分配をおさえ、企業の負担軽減や企業活動への規制を取り払っていこうという大企業経営者たちの政治的な動きと結びついて、1980年代以降、世界中で企業活動についての規制緩和や公営事業の民営化が強力におしすすめられていくことになったのです。

 しかし、先ほどみたように、ワルラス流の一般均衡論は現実との連関を欠いたモデルであり、一般均衡論の想定する経済の姿は現実の経済の姿とはかけはなれています。理論と現実が食い違う場合、現実にそって理論のほうを構築しなおすのが学問の発展の本来あるべき姿です。ところが、1980年代以降の政治的な「ケインズ政策」批判は、理論と食い違う現実のほうに問題があるとして、現実との連関を欠いた抽象的な理論にしたがって現実の改革を要求したのです。学問としての経済学の歴史からみれば、これはまさに逆立ちした運動だったといわねばなりません。
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2017年12月19日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(3/5)

(3)資本主義経済の新しい現実への対応をめぐって経済学は諸学派に分裂した

 前回は、経済学らしい経済学は資本主義経済の成立とともに誕生したことを確認しました。その背景としては、商品交換のひろがりによって、労働力や土地といった生産のための根源的な要素までもが商品となり、さらには貨幣も商品化(利子を取ってのお金の貸し借りが盛んになる)するようになっていくことで、政治的な行為あるいは宗教的な行為とはハッキリと区別された独自の経済的な行為というものがあるという社会的認識が生成していったことがありました。このような経済の分離によって、人びとは全体として、それ以前の時代よりも格段に物質的に豊かな生活を享受できるようになっていったわけですが、こうした物質的な豊かさのもととなる富とは何であり、その源泉は何なのか、という問題を解明しようとしてはじまったのが、経済学とよばれる学問なのでした。

 さて、1860〜70年代になると、資本主義経済が抱える諸々の弊害が大きな問題として浮上してくるようになります。資本主義経済に特有な周期的な恐慌は、1825年にはイギリスを襲っただけでしたが、1836〜37年、1847年の際には、それが襲う範囲はしだいに広がっていき、ついに1857年には、イギリスをはじめ、ドイツやフランス、アメリカなど、資本主義経済を発展させつつあった主要な国々をまきこんだ世界的な規模での恐慌となりました。恐慌は失業者を生み、貧困をもたらします。こうした事態にたいして、労働者階級は独自の組織をつくってたたかいをすすめていくようになり、資本家と労働者の間の階級対立が激しくなってきました。資本主義経済のこのような新しい動向は、経済学の世界にどのような影響をあたえたのでしょうか?

 ひとことでいえば、関心の焦点が富の生産の場面よりも富の分配や消費の場面に移っていくことになります。富の分配にかかわって労働価値説の新たな発展があった一方、富の消費の場面に着目することで労働価値説に対抗する効用価値説が唱えられます。くわえて、景気循環の問題、成長(技術革新)の問題、市場メカニズムの機能の問題、政府の役割の問題などが、さまざまに論じられるようになっていったのです。これは同時に、経済学の世界が、立場の大きく異なる複数の学派に分裂してく過程でもありました。資本主義経済の新しい現実をどのような立場でとらえ理論を構築していくかという視点の違いをつうじて、立場の異なる複数の学派が生まれてきたのです。

 資本家と労働者の対立という現実を直視し、はっきりと労働者階級の立場に立ちながら、古典派経済学の労働価値説を継承・発展させたのがマルクスです。マルクスによる労働価値説の発展は、大きくは、貨幣の成立の根拠を解明したことと、剰余価値の謎を解明したことの2点にあるといえます。

 まず、貨幣成立の根拠の解明からみていきましょう。マルクスは、商品の価値の大きさはその商品をつくるのに費やされた労働の量によって決まるということを出発点に、商品交換関係の広がりと深まりのなかで、ある特定の商品がしだいに他の諸々の商品から分離して貨幣となっていく過程を歴史的かつ論理的に解明しました(価値形態論)。貨幣はもともとそれ自体価値をもった商品であるからこそ、たんなる価値尺度や交換手段ではなく、価値を保存するための手段にもなるのだということを示したのです。分かりやすくいえば、お金が何か他のモノを買うために使われないままに貯め込んでおかれることがあるのだ、ということです。これは、貨幣論のレベルからセー法則を否定する(お金があっても使われない=モノが売れ残る)ものであり、恐慌発生の根拠のひとつを示すものでした。

 では、剰余価値の謎の解明とは一体いかなることでしょうか? 剰余価値とは簡単にいえば資本家の儲けのことです。現実の生産過程をみれば、労働者が生みだした生産物の価値は、資本家が労働者に支払う賃金より大きく、この差額が剰余価値(資本家の儲け)となっています。マルクス以前の労働価値説は、労働者が行う労働に対して賃金が支払われていると考えたために、その労働によって生みだされた生産物の価値がなぜ賃金より大きいのか説明できませんでした。これにたいしてマルクスは、賃金は、労働者の労働ではなく、労働する能力に対して支払われているのだとしました。つまり、賃金は、労働者が他人の労働の成果を生活資料として受けとって自らを労働力商品としてつくっていくという側面にたいして支払われているのだとしたのです。労働者の労働力商品としての価値の大きさを決めるのは、この労働者が受け取って消費した生活資料の価値の大きさ、つまり、他人の労働によって生みだされた価値の大きさです。その価値よりも、その労働者自身の労働が生みだす価値のほうが大きいからこそ、剰余価値が生まれるのです。

 マルクスは、この剰余価値の獲得をめざして運動する価値、すなわち自己増殖をめざして運動する価値こそが資本にほかならないとしました。マルクスは、経済全体をこの資本の運動として、ようするに価値というひとつのものがさまざまに姿を変えながら運動しているという論理で、筋をとおして把握しようとしたのです。このような観点からマルクスは、新しい機械設備や技術の導入がすすむ一方で失業者が増えていくこと(相対的過剰人口論)、社会全体で生産される生産手段の価値の大きさと消費手段の価値の大きさとの間には一定のバランスが保たれなければならないこと(再生産論)、剰余価値が具体的には利潤、利子、地代という形態に分かれて分配されていくことなどを、次々とあきらかにしていったのです。

 こうしたマルクス的な労働価値説に対抗し、効用価値説を打ち立てたのが、メンガー(1840〜1921)やボェーム=バヴェルク(1851〜1914)らに代表されるオーストリア学派です。これは、ある商品の価値の大きさを決めるのは、そこに含まれている労働の量ではなく、その商品が個々人の欲望をどの程度満足させるのかという度合いである、という説です。彼らは、この満足の度合いのことを「効用」と呼びました。ここで重要なのは、ある財に対する効用の大きさは、その財の消費量が増えるにしたがって低下していくとされたことです。たとえば、1杯目のビールは最高に美味いと感じても、2杯目、3杯目……と飲みすすむうちに、その最後の1杯から得られる満足の度合いはだんだん小さくなっていくでしょう。一般的にいえば、財の消費量を1単位ずつ追加していくと、その追加的1単位の効用はしだいに小さくなっていくのです。この追加的1単位の効用のことを「限界効用」とよびます。彼らは、ある財の価値の大きさを決めるのは、この限界効用だと考えました。人間の生命の維持に不可欠な水がタダ同然なのは、それがきわめて豊富にあるために最後の1単位の水から得られる満足度が低くなっているからであり、人間の生命の維持に不可欠とはいえないダイヤモンドが高価なのは、それが希少であるために最後の1単位から得られる満足度が高いままだからだ、というわけです。このような考え方は限界効用理論とよばれています。フランスに生まれスイスのローザンヌ大学の教授になったワルラス(1834〜1910)によって創始されたローザンヌ学派は、この限界効用理論をさらに一歩すすめて、あらゆる商品の需要と供給についての連立方程式を立て、それを解くことによってすべての商品の市場が同時に均衡する状態をあきらかにする、一般均衡論とよばれる理論を打ち立てました。

 なぜ限界効用理論や一般均衡論のような説が唱えられたのでしょうか? まず、そこには、産業革命の進展によって生産水準が上がり、しだいに市場の供給が需要を上回ることが多くなってきたことが影響しています。モノをつくれば売れた時代から、いかに売るかということが問題になる時代、いいかえれば、消費者の認識が大きな問題として浮上してくるという時代の変化が反映しているのです。いくら多くの労働を費やして財を生産したとしても、それが誰にたいしても有用だと評価されないのであれば、そこに費やされた労働は無価値ですから、価値の大きさを決める上で人間の認識が無視できないのはあきらかです。この点で、限界効用論が、商品の価値の大きさを決める要因として人間の認識に着目したこと自体は評価されるべきです。しかし、マルクス主義にもとづいた社会主義運動に対する資本家階級の側からの対抗の必要性ということも反映してのことでしょうが、限界効用理論は「あれかこれか」式に、労働価値説を完全否定してしまったのでした。

 このような社会的な要因にくわえて、理論の形式という観点からすれば、個々人の合理的な行動という古典派経済学の前提を、新しい経済の現実に対応させる形で、なんとか継承しようとしたということもいえるでしょう。資本主義の生成期はまだしも、産業革命の進展によって、生産過程における労働者の資本家への従属がハッキリしてきた段階では、労働価値説を個々人の自由で合理的な行動という前提とむすびつけることは困難になってきます。そこで、経済学の出発点ともいえる価値論を生産の場面から消費の場面に移して展開することで、個々人の自由で合理的な行動という基本的な発想をまもろうとしたのだ、というわけです。この背景には、オーストリアやフランスがイギリスに追いつき追い越すべく急速な工業化をすすめていくなかで、社会全体の利益のために個人の自由が犠牲にされてしまうような風潮があったことにたいする反発があったことも見逃せません。ワルラスの一般均衡論とは、まさに、個人の自由な活動こそが社会全体の利益につながることを数学的に示した体系にほかならなかったのです。

 しかし、現実の人間の行動は、決して数学的に記述できるものではありません。個々人の自由で合理的な行動という前提を究極にまで徹底し、数学的に精緻にくみあげられた体系は、ダイナミックに発展していく現実の経済との生き生きとした連関を欠いてしまい、一般均衡論は発展のない静態的なモデルとなってしまったのです。

 このことについての反省にもとづいて、オーストリア学派の流れから登場したシュンペーターは、ワルラスの一般均衡論を高く評価しそれを前提としながらも、生産要素の新しい結合のあり方を試みる企業家と、その企業家に必要な資金を提供する銀行家の登場によって、経済発展が動態的にすすんでいくのだという論を構築しようとしました。しかし、一般均衡論をそのまま前提としてしまっている以上、静態的な市場に対して、企業家の行動を外部からの攪乱要因として対置するという機械的な2分法にとどまってしまっているといわざるをえません。
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2017年12月18日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(2/5)

(2)経済学は資本主義の成立過程とともに成立した

 本稿は、諸々の経済問題にたいして適切な対策を行っていくためには、現実の経済がもつ構造を把握した科学的な経済理論を確立しておく必要があるという問題意識から、経済学の歴史を論理的にたどってみることを目的としたものです。

 そもそも経済学とはいつはじまったのでしょうか? 通常「経済学の祖」とされるアダム・スミス(1723-1790)が『国富論』を出版したのは18世紀の後半、1776年のことでした。このことからも予想されるように、実は、経済学は比較的に新しい学問なのです。

 経済とは、現象的にいえば、人間が自分たちの生活に必要なもの(生活資料)を労働によって生産し、それを分配・交換して消費する活動のことです。もちろん、こうした活動は、人類が誕生したときからずっと存在していました。しかし、いわゆる資本主義経済の成立までは、こうした活動は社会のなかに埋め込まれていたようなもので、社会の他の領域からはっきり分離した独自の領域を占めることはなかったのです。たとえば、いわゆる中世封建制の社会においては、領主や教会によって土地の安全を保障された農民たちが、(神によって定められた生活のあり方として納得させられて)土地を耕して農産物などを生産し、その一部を領主や教会に年貢として納めるという形で、生活資料の生産・分配が行われていたのでした。このように、資本主義経済が成立する前には、経済的な行為というものが、政治的な行為あるいは宗教的な行為と直接に同一のものとしてしか存在しえなかったのです。したがって、古代ギリシャのころから、経済的な事象について論じた思想家や学者は存在していたのですが、他の学問から独立した形での体系的な経済学は存在しえませんでした。

 経済が社会の他の領域からはっきりと分離していくのは、資本主義経済の成立とともに、です。商品交換がひろがり、労働力や土地といった生産のための根源的な要素までもが商品となり、さらには貨幣も商品化(利子を取ってのお金の貸し借りが盛んになる)するようになっていくことで、政治的な行為あるいは宗教的な行為とはハッキリと区別された独自の経済的な行為というものがあるという社会的認識が生成していったわけです。

 このような経済の分離によって、人びとは全体として、それ以前の時代よりも格段に物質的に豊かな生活を享受できるようになっていきました。その豊かさをめぐる諸問題について解明しようとしてはじまった学問が経済学なのだといってもよいでしょう。経済学がまず問題にしたのは、物質的な豊かさのもととなる富とは何であり、その源泉は何なのか、という問題だったのです。

 もちろん、経済学らしい経済学がいきなり誕生したわけではありません。豊かさにまつわる諸々の問題を論じるなかで、しだいに経済学らしい経済学がつくられていくのです。そのような経済学が成立する前夜の経済思想として、重商主義と重農主義があります。

 重商主義は、16世紀の絶対主義国家成立期から18〜19世紀の産業革命期まで、ヨーロッパ諸国の経済政策のもとになった思想です。これは、端的にいえば、富とは金銀のことだとして、他国との貿易で黒字を稼いで金銀を蓄積して、富国強兵を図ろうという考えです。他国との貿易こそが豊かさの源泉であると認識されたわけです。

 しかし、重商主義は輸出のための奢侈品産業ばかりを優遇し、国民生活の基礎となる農業を軽視し、農村の疲弊を招いてしましました。このことに反発し、農業こそ富を生み出す唯一の産業であり、土地(=自然)こそ富の源泉である、と主張したのが、フランス革命前夜の重農主義です。代表的論者であるフランソワ・ケネー(1694-1774。もともとは外科医でした)は、農業で生み出された富が、借地農・地主・商工業者の3階級の間でどのように分配され、一国内の経済循環(富の生産・再生産)がどのように成立するかということを、「経済表」という図式によって簡潔かつ明快にあらわしました。富の源泉を農業のみにもとめたという限界はあるものの、国家という枠組みを正面に据えて、人々の生活がきちんと再生産されていくために必要な条件を客観的な法則性としてあきらかにしようとしたのは、非常に優れた問題意識であったといってよいでしょう。

 では、経済学らしい経済学はどのような過程において成立したのでしょうか?

 この過程にも現実の経済のあり方の変化が反映しています。18世紀から19世紀にかけて、諸々の機械の発明や普及で工業が大きく発展していくと、農業こそ富を生み出す唯一の産業だ、という認識では現実の経済とのズレが大きくなっていったのです。そういう現実の経済のあり方の変化を反映して、農業労働にくわえて工業労働も、すなわち労働一般こそが富の源泉である、という認識に到達したのが、スミスやリカード(1772-1823)などに代表されるイギリスの古典派経済学でした。

 彼らは、諸々の商品が相互に交換されている過程に着目し、その交換比率としての諸商品の価格は何によって決まるのかを考察していきました。そして、絶えず変動している価格の背後にあってそれを支えているものとして価値を想定し、労働こそがその商品の価値の大きさを決定しているのだとして、労働価値説を唱えたのです。

 このように、古典派経済学が労働に着目したことは、経済学の確立過程において決定的な意義がありました。それは、この労働こそが、人間とそれ以外の生物の生活過程のあり方における最大の違いだからです。そもそも生命の歴史(地球上に単細胞体として誕生した生命体が人類にまで進化する過程)をふまえていえば、人類は、それまでの生命体のように環境の変化に受動的に適応していく存在ではなくて、労働によって環境を意識的に変革していく存在として誕生しました。少し難しくいえば、労働という過程を内に含んだことによってこそ、地球と生命体との相互浸透の過程――相互浸透とは、つながり合っているものがお互いに相手の性質を受け取るという関係にあり、この関係を深める形で発展が進んでいくことです――としての生命の歴史は、人類の歴史へと転化しえたといえるのです。古典派経済学は、このような人類史の根源ともいうべき労働を、富の源泉として明確に位置づけた上で、現実の経済の構造を解こうとしていったわけです。

 ところで、当時の現実の経済において、諸々の商品を生み出す労働は、資本家が労働者を雇って働かせるという形態によって行われるようになりつつありました。ようするに、この古典派経済学によってはじめて、資本家が労働者を雇って生産するという関係――これを「資本主義的な生産関係」とよびます――が本格的な考察の対象になったといえるのです。

 このように、富の源泉として労働に着目した点、さらにその具体的なあり方としての資本主義的な生産関係をはじめて本格的な考察の対象にした点において、経済学らしい経済学は、古典派経済学の成立をもって誕生したということができるのです。

 さて、この古典派経済学の特徴をもう少しだけ詳しくみておきましょう。

 古典派経済学は、重商主義にもとづく政府の経済への介入を批判し、市場の自由な競争に任せることを主張しました。当時は、さまざまな部門で多くの小さな企業が自由な競争をおこなっており、この競争をつうじて全体として経済は上向きに発展していく、という楽観的な見方が強くあったのです。このような見方に支えられて、古典派経済学は、個々人が私的な利益を追求して合理的に行動すれば、神の「見えざる手」(スミス)の導きによって社会全体の最大の利益が調和的に達成される、としたわけです。

 競争が重視されたのには、当時の生産水準がまだまだ低かったことも反映しています。全体としてみれば、市場の供給は需要を下回ることが多かった(みんなが欲しいと思うだけのモノを供給しきれなかった)ので、生産されたものは価格が適切に上下しさえすれば、だいたい売りつくすことができたのです。供給されたモノはすべて需要される、いいかえれば、供給が需要をつくりだす――このような考え方を、提唱した経済学者の名前(ジャン=バティスト・セー)をとって「セー法則」とよんでいます。

 セー法則は、貨幣というものの捉え方にも影響を与えました。理論的には、供給されたものはすべて売りつくされるはずだと考えられたので、貨幣がモノを買うために使用されずに貯め込んでしまわれることがある、という事実についてはほとんど重視されなかったのです。ようするに、貨幣は価値の大きさを測り、交換するための手段であるとのみ、捉えられてしまったのだというわけです。
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2017年12月17日

改訂版・初学者に説く経済学の歴史(1/5)

目次

(1)経済学の歴史を学ぶことにはどのような意味があるのだろうか
(2)経済学は資本主義の成立過程とともに成立した
(3)資本主義経済の新しい現実への対応をめぐって経済学は諸学派に分裂した
(4)経済学が資本主義経済の現実を大きく変えるだけの力を持ってきた
(5)経済学の歴史を見る上での最大のポイントは経済の歴史と経済学の歴史とのつながりである

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(1)経済学の歴史を学ぶことにはどのような意味があるのだろうか

 2007年のサブプライムローン問題、2008年のリーマン・ショックをきっかけにして、世界経済はたいへんな危機に陥ることになりました。その後、各国の政府や中央銀行による必死の対策によって若干持ち直したようではありましたが、ギリシャ危機をきっかけに各国の財政危機の問題が大きな注目を集めて、世界経済は再び失速することになりました。その後、財政政策としては、財政危機への対応として緊縮政策(増税や財政支出の削減)がとられたり、あるいは景気対策の観点から積極的な財政出動が行われたりする一方で、金融政策としてはほぼ一貫して思い切った緩和政策(中央銀行が国債をはじめとする様々な債権を市場から買い取って大量の資金を供給する政策)が行われ続けてきたことによって、世界経済は弱々しいながらも何とか回復の傾向にあったというのが、ここ数年の状況だといってよいでしょう。日本においても、2013年以降のいわゆる「アベノミクス」によって、景気は弱々しいながらも回復傾向にあるとされていますが、これが政府の財政出動や日本銀行の「異次元緩和」に支えられたものであることはいうまでもないでしょう。現在の世界経済、日本経済は、政府が大量の国債を発行して財政出動を行い、中央銀行が大量の国債を買い取って資金を市場に供給する、という構造によって何とか支えられているわけですが、こうした状況がいつまでも続けられるわけでもないでしょう。危機への対応として行われてきた政策が、より大きな危機の原因を創り出している、ということなのかもしれないのです。

 世界経済は、日本経済は、これからどうなっていくのでしょうか? 危機を根本的に打開していくためには、いったいどのような対策が必要なのでしょうか?

 こうした問題に解答を与えることが期待される学問が経済学です。ところが、経済学者とされる人たちによってなされる対策の提案は、必ずしも一致しているわけではありません。たとえば、日本のデフレ(継続的に物価が下がる現象)ひとつとってみても、どのような原因で生じたもので、どのような対策をとるべきなのかをめぐって、大きな論争が行なわれてきたのでした。具体的にいえば、デフレは貨幣的な現象であるから日本銀行が思い切って貨幣供給量を増やせば解決するはずだ、という主張と、貨幣の流通量は経済活動がどれだけ活発に行われているかによって決まるのだから日本銀行が直接に増やそうと思って増やせるものではない、という主張とが対立してきたわけです。

 いったいなぜ、このような基本的な問題で意見が対立してしまうのでしょうか?

 それは、端的にいえば、学問の名に値するまっとうな経済学の体系がいまだに確立されておらず、経済についての基本的な見方・考え方が異なる、いくつもの流派が分立している状態であるからだと思われます。

 これは非常に困ったことです。たとえば、もし、医学において根本的に考えの異なる流派があったとして、それぞれの立場に立つ2人の医師が、ある患者のある病気の原因にたいして、まったくちがう原因を主張し、まったく正反対の治療法を提案したらどうでしょうか? 医療現場は混乱し、とてもまともな治療は期待できませんね。現在の経済学の世界は、ちょうどそのような状況なのだといってもよいでしょう。

 病気にたいする適切な治療を安定的に行っていくためには、現実の人間の病気についての科学的な理論を確立しておくことがもとめられます。これとまったく同じように、諸々の経済問題にたいして適切な対策を行っていくためには、現実の経済がもつ構造を把握した科学的な経済理論を確立しておく必要があるのです。

 では、科学的な経済理論を確立していくとは、いったいどういうことなのでしょうか?

 そもそも科学とは、現実の対象がもっている体系的な構造について把握した体系的な認識のことです。したがって、科学的な経済理論を確立するとは、歴史的・体系的に発展してきた現実の経済を対象にして、その構造についてのイメージを自らのアタマのなかにしっかりと描けるようにしていく、ということです。
 これをまともにやり遂げていくうえで必須となる作業の一つが、過去の経済学者たちが現実の経済の構造をどのように把握しようと試みたのか、その経験から学ぶ、ということです。いいかえれば、経済学の歴史をさかのぼって、その歩みを論理的にたどってみる、ということです。

 経済学の歴史を論理的にたどるとは、なによりもまず、それぞれの流派が、どういう視点(問いかけ)をもって現実の経済のどういう部分に着目して成立したのか、その根拠をあきらかにすることにほかなりません。いくら異なる流派でも、現実の経済を研究の対象としているという点では、変わりはないはずです。流派が異なるのは、現実の経済を見る上での視点がそれぞれに異なっているからであり、その結果として、現実の経済のさまざまに異なる部分がもつ、それぞれに特殊な性質に着目してそれぞれの「理論」を組み立ててしまったからだ、ということができるでしょう。

 つまり、異なる主張を掲げて相互に対立している諸流派も、すべてそれぞれなりに真理を捉えているのだ、ということができるわけです。しかし、その真理には必ず多かれ少なかれなんらかの誤謬がつきまとっています。経済学の歴史を論理的にたどるとは、それぞれの学派がそれぞれの視点から達成した成果をより一段高い視点から評価し、行き過ぎたところを削り不足している部分を補いつつ、ひとつの新しい体系のなかに取り込んでいくことにほかならないのです。

 本稿では、以上のような観点に立って、経済学の歴史の大きな流れをたどってみることにします。つまり、経済学とよばれる学問が、社会のどのような問題にたいしてどのように取り組んできたのかをたどってみるわけですが、いうまでもなく、社会というものは歴史的に発展してきたものです。その時代時代で、社会のどのような問題が解決すべき経済問題として取り上げられたのか、それらの問題についてどのような解決が模索されたのか、ということをたどっていくことによってこそ、経済とは何か、経済学とは何か、という本質的な問題についての大きな手がかりとなるに違いありません。
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2017年12月16日

南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想(5/5)

(5)南郷継正は弁証法の権化である

 本稿は,南郷継正『“夢”講義(6)』を組織的に読み込み,学んだ内容を一会員である筆者がまとめた論考である。ここで,これまでの内容を簡単に振り返っておきたい。

 初めに,本書で説かれている弁証法の弁証法的学び方について,3点を検討した。まず,弁証法のドアを閉めるということの意味についてであった。弁証法のドアを閉めるとは,他人の力を借りるのではなく,自分の能力で目次の全ての行をしっかりと分かっていく努力をなすことであり,これまで学んできたものは持ち込まず,弁証法の基本書の目次と本文の中身だけに基づいて,自分としての正解を求めていくこと,弁証法の本の中身から全ての書物の中身を検討していくことである,ということであった。これは,否定の否定的な学び方であり,これまで学んできた文化遺産から弁証法を学んでいく,というのではなくて,これから学んでいく弁証法から文化遺産を学んでいく,ということが大切だと感じたと説いておいた。第二に,正規分布に従ってのくり返しの重要性・必然性についてであった。正規分布に従ってのくり返しとは,生成,発展,衰退という過程において,発展しつくす前に(完熟してしまう前に),少し上昇したら元(原点)=初歩に戻り,またそこから過程を辿り返して,また少し上昇したら元へ戻るということをくり返しながら徐々に頂点へと昇りつめるというくり返しのことであった。少し上達して実力がついたら,また初歩からやり直す,そうすることによって,あらゆる事物が辿るはずの生成・発展・衰退の過程を辿ることなく,正規分布の曲線を次々に上に積み上げていくような形で,実力を養成していけるのだと説いておいた。また,この場合の正規分布は立体的な山のイメージであり,正面から見れば共時的な,ある時点における正規分布図が描かれるが,これを横から見ると通時的な,横軸が時間であるような生成・発展・衰退の流れが正規分布の山として描かれるのではないかと考察した。第三に,3年にして1作品という構造を取り上げた。長い連載的執筆は,理論性,体系性が深まることがなく,自分の作品の欠陥を分かることがなかなかできなくなるのでやめた方がよく,3年に1作品くらいのペースで,前の作品を反省し,その欠陥を克服しながら,頭脳活動の変化過程を持ち続けていくことが頭脳活動の向上には必要不可欠だということであった。これは,正規分布に従ってのくり返しの論理を執筆活動へと具体化したものではないかと説いておいた。筆者も単行本を執筆しているので,3年で一冊というペースを実現していきたいと決意を述べておいた。

 次に,全てを二重化して捉えるということ,さらに,全てを対立物の統一として捉えるということについて,本書で説かれている内容を確認して考察した。本書では,二人の恩師のうちの一人である滝村隆一について,その書物に説いてある事柄の中身を学ぶ努力をしたのではなく,森羅万象の出来事を,二重に構造化して,かつ過程として捉えることを学んだのだ,何かを論じる場合は実体の二重性と機能の二重性の,四重性においてなすべしということを学んだのだ,と説かれていた。要するに,全てを二重化して捉える頭脳の働きをなすべしということであるとして,筆者の専門の心理臨床で具体的に考えてみた。たとえば,心理臨床は,見立てと介入というように二つに分けることができるし,それぞれも,言語による見立てと非言語による見立て,言語による介入と非言語による介入というように,二重化して捉えることができるのであった。このように,専門分野の森羅万象を,とにかく二つに分けて,二重性として捉えていくことが,弁証法性を有する対象をより正確に認識するということになるのであり,滝村の教えを専門分野への指針(コンパス)として学びとっていったということなのであろうと説いておいた。同じような内容が本書の後の部分でも説かれていた。それが説かれている弟子のレポートは難解であったが,南郷継正の解説も踏まえると,全ての言葉には二重の意義が含まれており,言葉は,他のものと区別(対比)するためにまずは誕生させられているが,それが対比だけではなくなっていくのが言葉の宿命だという内容であった。これを踏まえれば,弟子の感想にあった「存在するものと存在していないものとの大きく二重性の構造が見えてくること」というのは,言葉がまずは何か他のものと区別(対比)するために誕生させられたという原点のところを説いているのではないかと思えてきたのであった。もう一点,全てを対立物の統一とする,ということについても確認した。対立物の統一とは,相対的独立したAとBを対立物として捉えて統一し,発展させることであるが,これは,先に触れた全てを二重性として捉える,対象を二つに分けて考えるということとつながってきそうに思われた。すなわち,全ての対象は二重性を有しているのであるが,その二重性の一方だけを見ていた場合は,対立物の統一として,他方もしっかり統一して考えないといけないが,逆に,対象の二重性が見えていないのであれば,2つに分けて考えて,その二重構造を明確にするように努力していかなければならない,ということではないかと考察した。

 最後に,本書で説かれている南郷継正の人生を3期に分けて,その軌跡を辿った。第一期は大学生くらいまでである。南郷継正は自身のことを,生来の怠け続け人であったと述べていた。ただ,学校は休まずに授業もしっかり受けていたこと,小説の類は小学校の時からむさぶるように読んでいたことも述べられていた。大学に入ってからは,思い切っての方向転換を図っての人生やり直しをなそうとし,大いなる野望を実現するために,弁証法・認識論の学びに加えるに,武道空手の実践を行うようになって大成功を収めることになっていったということだった。弁証法に関しては,世界一になるのだということ以外に考えをゆるめたことがないと説かれていたことも紹介した。この流れの中で,「全集読者への挨拶」が引用され,百人一首の中の和歌が紹介されて自身の心情が説かれていた。ここを読んで,現代の大学生は新聞をまともに読んでおらず,俳句や和歌といった文芸的教養があまりないのに驚いていると少し前に説かれていたことと重ねて,南郷継正は俳句や和歌といった文芸的教養や格言・金言といった言葉の技に習熟していたのであり,このような土台があってこそ,見事な指導者になれたのだろうと考察し,われわれの課題も明確にしておいた。南郷継正の人生の第二期は,恩師・恩人との交流の時期であった。吉本隆明への追悼文の中で,1969年,抱えていた難問を解決するために初めて三浦つとむ宅を訪れた際に,武道論の執筆を依頼され,2回目の訪問で出会った滝村隆一の絶賛もあって結局書くことにしたこと,書いた原稿を三浦つとむとともに吉本隆明の旧宅に持っていき,『試行』誌への連載が認められたことが紹介されていた。その後,三浦つとむが『試行』誌への連載に反対するようになったこと,滝村隆一による論文指導についても,南郷継正は理論化になれないのだからやめるべきだと本人の面前で叱責したことが説かれており,口惜しさを感じるとともに「今に見ていろ! 十年経ったら,三浦さんの言葉を嘘にしてみせるから!」と奮起したことが紹介されていた。このように一方の恩師に見捨てられ,他方の恩師たる滝村隆一からは「毎回毎回同じ欠陥を指摘され,かつ叱られながら,徹底的に論文体なるものを叩きこまれていく」という論文指導を受けていったのであった。最後の第三期は,著作執筆による発展が見られた時期である。弁証法を駆使して武道論が科学にまで高められた,初めての単行本である『武道の理論』が発刊されて以来,学問志望の弟子を多数抱えるようになった南郷継正は,生涯指導者であり続けたいと決意し,弟子の専門分野も指導できる実力をつけていったという。その過程で,武道論の構造論的展開が可能となり,認識論の大発展などもあったと説かれていた。また,論理能力発展の限界を感じた際には,脳の実体的発展をなすために20代の若者との大修行を始めたのであった。そして人生最後の仕上げとして,女性武道家の育成を開始したことにも触れられていた。

 以上,本書で説かれている内容について学んできたことを振り返ってみた。全体として見ると,南郷継正自身の歴史性を語ることによって,弁証法とは何か,弁証法を弁証法的に学ぶとはどういうことか,ということを浮かび上がらせている内容だといえるのではないか。南郷継正の人生自体,大きな変化・発展の連続であったし,まったく勉強がダメだった高校生が,大学入学とともにこれまでの学びをすべて捨てて,弁証法に賭けていくのは,まさに弁証法のドアを閉めたということを意味しているだろう。また,『試行』誌への連載にしても,その後の月刊誌への連載にしても,それをもとにして,平均すれば3年に1作品以上のペースで本を執筆してきているのである。連載の雑誌を次々に変更しているのも,正規分布のくり返し的なあり方といえるだろう。全てを二重化して捉えるとか,対立物の統一とかいうことでも,南郷継正は見事に実践している。弁証法を学ぶに武道空手を,武道空手を学ぶに弁証法をという形で,見事に対立物を統一しえたからこそ,ここまでの見事な発展があったのであろう。恩師が二人いるというのも,いかにも対立物の統一である。自らの組織を,武道空手を専門とする飛翔隊や桜花武道局と,学問を専門とする日本弁証法論理学研究会とに二重化して,さらにその対立物をきちんと統一したからこそ発展していったということもできるだろう。

 さて,以上のような内容を,今後のわれわれがどのように活かしていくのか。最後にその点について考えておきたい。

 まず,われわれのブログもはやり区切りをつけて,新しい形で始めるべきだということである。もちろん,このようなことは少し前からわれわれの組織の中で話し合ってきたのであるが,それについて,より明確な意義を確認できたと思う。本ブログを終了して,別のところで別の形で始めるというのは,いってみれば,小学校を卒業して,新しい場所で,新しい教師や同級生・先輩とともに中学校での生活を始める,というような区切りの意義があるだろう。気持ちも新たに,また新しい場所ではゼロ(原点)からスタートし直すのである。これが正規分布のくり返し的学びということになるだろう。

 次に二重化ということについてである。われわれは来年中に,自分たちの機関誌の発刊を予定している。これは,『試行』から『学城』へと発展してきた学的認識の流れを受け継ぐものであると同時に,『学城』を二重化するものでもあると考えている。これはどういうことか。『学城』は,南郷継正が統括して,まさに学的認識の最先端を切り拓いている学問誌である。われわれとしては,このことに疑いはない。しかし,そのような学的認識は社会化してこそ,充分なる意義が発揮されたといえるだろう。そこを担うのがわれわれの機関誌であると位置づけている。すなわち,『学城』で説かれている最先端の学的論理をわれわれ自身がしっかりと学び続け,それをわれわれ自身の専門分野に適用して成果を上げるとともに実力化していき,その成果を発表していくことによって,現代日本の社会的認識のレベルアップに貢献していく,これがわれわれの機関誌の大きな目的なのである。いわば『学城』は一点突破型であり,それを社会に広めていくのがわれわれだということである。これは二重化しないとなかなか実現できないことなのではないか。もちろん,われわれが社会化していってこそ,『学城』の方もより深く一点突破的に学的認識の深化が図れるということもあるだろうし,そうなればわれわれもまた,『学城』の成果に学び,より実力をつけてそれを社会化していくことも可能となるというような,相互浸透的な発展も図っていけるのではないかと考えている。

 最後に,われわれも機関誌を発刊したり,単行本を発刊したりすることによって,大きく社会に訴えていき,そのことに共鳴した若い学生の弟子をとっていくべきであろう。南郷継正の発展は,まさに学的な弟子をとったことによって,飛躍的な展開を見せることになったと思う。もちろん,弟子をとればいいだけではなくて,生涯指導者であり続けるとの決意や指導者としての誇りを把持し続けることが必須の条件であるが,そのうえで,弟子をとって,しっかりと責任をもって,主体的に弟子を育てていく。そういった師と弟子との相互浸透がなければ,組織の飛躍的な発展は見込めないだろう。しかし,南郷継正の『武道の理論』ほどのインパクトがなければ,そう簡単に若人が集ってくれることなどないであろう。その意味でも,来年発刊予定のわれわれの機関誌は,高みを目指して十分な討論・検討をした上で発刊していくことになるだろう。

 本稿で,1年間にわたって組織的に『“夢”講義』シリーズを読み込み,学んだことを筆者の責任でブログに認めていくという企画は終了である。しかし,『“夢”講義』への学びはこれで終わりではないし,終わりにしてはいけない。それこそ,正規分布のくり返し的学びが要求されるだろう。とりあえずは,全巻の目次をきちんとくり返し読み返すことを実践してみたいと思っている。また,この一年にわたる論考でも少しは試みてきたのであるが,自身の専門との対立物の統一において,この『“夢”講義』シリーズに学んでいくということも大切であろう。単に本を読み進めるだけではなく,しっかりと本で学んだ論理を,自分の専門分野の事実とつなげて考えていくことが,本当に学んだことを理解していくためのプロセスだといえる。

 南郷継正はこの10月に,新たに『哲学・論理学原論 〔新世紀編〕― ヘーゲル哲学 学形成の認識論的論理学』(現代社)を発刊して,また新しいステージに上ったといえるだろう。われわれも飛躍の時である。われわれがこの1年だけではなく,20年近くにわたって南郷継正から学んできた学恩に感謝し,その恩返しができるような機関誌を目指すことを宣言して,本稿を閉じたいと思う。

(了)
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2017年12月15日

南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想(4/5)

(4)南郷継正の歴史性

 前回は,『“夢”講義(6)』で説かれている,全てを二重化して乃至対立物の統一として捉えるということについて見た。そして,全てを二重化して捉えることと,全てを対立物の統一として捉えることの2つを,それこそ対立物の統一として捉えていかなければならないと説いておいた。

 今回は,本書でしばしば触れられている南郷継正の人生について見ていきたい。ここでは,南郷継正の人生を大きく3期に分けて見ていく。第一期は大学生くらいまでの時期であり,第二期は恩師・恩人との出会い・交流のあった時期であり,第三期は著作執筆以後の時期である。

 まず第一期である。本書の第二編「弁証法を学問的に深化させる過程を説く」の第一章「私の辿った学問への道を後から来る人に」の冒頭で,南郷継正は自身のことを「生来の怠け続け人であった」(p.64)と述べている。中学・高校時代には,机に座っての学びが全く駄目で,10分くらいは座っていられたものの,30分と続けられなかったという。体育も駄目で,鉄棒にぶら下がることも,縄跳び一つもできなかったそうである。ただし,自分自身で努力することを怠けていただけであって,授業の欠席,サボリ,居眠りは一度もなかったということである。また,小説の類は小学校時代からむさぼるように読んでいたとも述べられている。大学に入ってからは,思い切っての方向転換を図っての人生やり直しをなそうとし,弁証法・認識論の学びに加えるに,武道空手の実践で大成功を収めることになっていったという。

 ここまで説いてきた後,『全集』の「読者への挨拶」の引用がある。ここでは,同じ桜でも,吉野桜はあまり好きではなく,八重桜の中でも,本当に色濃く咲いており,かつ地面の方へ下向きに咲き誇っている,俗称「提灯桜」が大好きであること,「諸共に哀れと思へ 山桜 花より外に知人もなし」(行尊)という『百人一首』(島津忠夫訳注,角川文庫)の中の66番目の和歌が中学・高校時代から大変気に入っており,それは,この歌のとおり,「自分の心」以外には誰にもその「自分」の存在意義が認められていないような人生だったからであること,八重桜のような素晴らしく見事な未来に憧れてもそんな人生は望むすべもないだろうとの心境であったこと,などが述べられている。

 ここまでを読んで,本題からは少し外れるかもしれないが,筆者は本書の少し前の部分を思い出したことであった。それは,第一編第二章の第三節「指導者は時代の流れを読み,人生を深めるための学びが必要である」で説かれていた以下の内容である。

「大体,現在の大学生はうっかりすると(うっかりしないでも)毎日の新聞すらまともには読んでいないといってよいほどです。これは私の弟子である東京大学の学生や大学院生ですら,「あまり読んでいない,というより読む暇がないのです」との返答が常にあるくらいですから。

 特に毎年のように驚いていることは,大学の新入生が,俳句や和歌,といった文芸的教養があまりないことですし,まして格言・金言といった人生にとってとても大切な言葉の技(ことわざ)に習熟していないことです。これでは大学を出ても社会人としての指導者に到底なれるわけはない,といってよいでしょう。通常ならば,少なくとも中学校の先生であれば,毎朝の挨拶で,格言の一つ,四字熟語の一つや,俳句の一つくらいは理科の先生であってもなすべきであろうと,私は思います。」(pp.50-51)


 ここでは,現代の大学生は新聞をまともに読んでおらず,俳句や和歌といった文芸的教養があまりないのに驚いている,中学校の教師もそのようなことをしっかりと教えるべきだ,と説かれている。その少し前のところでは,「大和魂(ヤマトゴコロ)」という言葉の日本最古の原典は『源氏物語』であることも指摘されている。

 何がいいたいのかというと,南郷継正は怠け続け人ではあったが,中学・高校の(優れた)授業はきちんと受けており,あるいは小説をむさぶるように読んだこともあって,俳句や和歌といった文芸的教養や格言・金言といった言葉の技に習熟していたのだろう,ということである。こういう土台があってこそ,見事な指導者になれたのだと感じたのである。

 ここでわが身を反省してみると,確かにそういう教養に大きく欠けているところがある。われわれの組織としても,そういう自覚があったので,数年前から吉本隆明『日本近代文学の名作』などを頼りにして文芸作品を読み続けているのである。しかし,もっと積極的な自学自習が必要だと痛感した。そこで取り急ぎ,南郷継正が触れている『百人一首』(島津忠夫訳注,角川文庫)を購入した。また,NHKの高校講座に「古典」や「現代文」などというものがあるので,とりあえず「古典」を聞き始めている。これは非常にいい。古典の朗読もあるし,一字一句の解釈などという細かいことよりも,当時の時代背景や社会的認識,作者や作品についての概要やそれに関連する知識,その作品の概要や大意などが,うまくまとめられていると感じている。聞き進めるのが楽しみである。そういえば,以前読んだ森信三『幻の講話』にも,西行の和歌などが多数紹介されていた。齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』シリーズや『理想の教科書』シリーズも,文芸的教養を身につけるためのスタートとしてはよいかもしれない。こういう著作も読み返していきたい。

 さて南郷継正の人生に戻ると,怠け続けていたものの,大いなる野望があり,その実現のために,大学入学後は,弁証法への学びだけは大きく「まじめに励む人」となっていったという。「弁証法に関しては,「世界一」になるのだ! 以外に考えをゆるめたことはな」(p.70)いというほどの強烈さである。こうして,弁証法と武道空手との学びが始まり,深まっていったのである。

 次に,南郷継正の人生の第二期を見ていこう。恩師・恩人との交流の時期である。『綜合看護』に「“夢”講義」を連載中に,吉本隆明さんが亡くなった。2012年3月16日である。われわれは本ブログに「吉本隆明さん逝去に寄せて」という文章を掲載したが,南郷継正もすぐさま連載でこれを取り上げ,追悼文を書かれたのであった。それが本書にも収められている。そこでは,自分の恩師は三浦つとむと滝村隆一の二人であるが,吉本隆明は「人生上の恩人ともいってよい」(p.89)と評されている。そのうえで,恩師三浦つとむ・滝村隆一と,恩人吉本隆明との出会いの個人的なエピソードが語られていく。ここではその経緯を簡単に辿ってみる。

 1969年,南郷継正らの組織は「教育とは何か」「学問とは何か」という難問に突き当たり,三浦つとむに聞こうとして電話をし,自宅に伺うことになったという。そこで,三浦つとむに問われるままに弁証法の武道への応用について話をすると,それを文章にしてみないかと提案されたらしい。2日ほど悩んだ末に,断ろうと思って再度三浦つとむの自宅を訪問すると,そこに滝村隆一がいたのだという。もう一度滝村隆一に武道論を説くことになったが,そこで滝村隆一が絶賛したため,武道論を書くことを承諾したと述べられている。1ヶ月半ほどかけて75枚ほどになった原稿をもって三浦宅を訪問すると,「これはヨコ書きになっている。原稿はタテ書きにするものだ。それに60枚が限度だ」といわれて,その場で書き直し,その後,吉本隆明の旧宅にまで連れ出されたそうである。そこで吉本隆明と2時間ほど問答をして合格となり,『試行』誌への掲載が決まったということである。その後の10数年間は,恩義というものを感じるほどの交際期間を持てたと説かれている。そのなかで,南郷継正が武道論を語り,そのお返しであるかのようにヘーゲルの諸々の文言について講義をしてもらったという。そこで「ヘーゲルは,学問の世界と実体の世界とを二つ描いて,両方の図式の対がいわば重なり合うレベルで一致した時に,本当の学問の成立であるとしたのだ」(p.98)という話も聞いたということである。このように吉本隆明はヘーゲルに深く学んでいたのに,新聞などで追悼文を書いている人の誰一人としてここは語っていないと指摘されている。また,残念に思うこととして,自分が著書を出す時に吉本隆明の推薦文の申し出を断ったことが挙げられている。

 ここまでで,恩人吉本隆明にまつわるエピソードは終わり,恩師についてのエピソードが少し触れられる。吉本隆明への追悼文の中でも,三浦つとむが『試行』誌に連載することについて大きく反対するようになっていたと語られていたが,ここでは,滝村隆一が南郷継正に対して行った論文指導に対して,三浦つとむが大きく叱責したというエピソードが紹介されている。「南郷継正君は単なる武道家にすぎないのであって,文筆家でもなければ,また当然ながら理論家になれるわけでもない」などと,南郷継正の面前で滝村隆一を叱責したというのである。その後,三浦つとむは口を利いてくれることがなくなり,想像を絶するほどの口惜しい想いをしたと説かれている。その時のことが,次のように述べられている。

「たしかに恩師三浦つとむの私への評価は,間違っていないとの思いは当時はあったのですが,でも二回にもわたっての悪評価は私をして,当然のように奮発させるものでした。「今に見ていろ! 十年経ったら,三浦さんの言葉を嘘にしてみせるから!」と。」(pp.103-104)


 ここの部分は非常に感動的であった。南郷継正の伝記を書くならば,前半の大きな山場になるだろう。このような口惜しさや怒りを自身の原動力として,精神分析的にいうならば昇華して,見事に三浦つとむの言葉を嘘にしてみせた南郷継正の人生は,まさに弁証法的発展そのものだと痛感させられるエピソードであった。

 それから6年後に,『武道修行の道』の原稿を『試行』に連載し始めた頃に,ある駅の改札口で滝村隆一は南郷継正に対して,「もう君はマルクスの学問レベルになっているよ」ときっぱり述べたそうである。それで南郷継正は『それを断言する自分の実力は,マルクス以上ということなのか」と思わず問い返したら,滝村隆一は笑って去っていったという。

 この滝村隆一からの論文指導については,本書のだいぶ後の方で再び触れられている。そもそも一回り若い滝村隆一に弟子入りしたのは,『試行』に初めて載った「武道の理論(1)」がほんとうの意味での拙い文だったからで,それを恥じてのことだったという。また,滝村隆一の『革命とコンミューン』と『マルクス主義国家論』を読んで,アリストテレスのいう「驚駭」といえるベレルの衝撃を受けたからでもあるという。筆者も南郷継正の『弁証法・認識論への道』を読んで,主観的には同じくらいの衝撃を受けたと思っている。滝村隆一に忠実に学んでいった結果,三一書房から出された『武道の理論』には,悪文が大きく消えていったらしい。その指導の中身については,次のように説かれている。

「とにかく,恩師滝村隆一による本物の指導という中身(構造)を端的に説くならば,毎回毎回同じ欠陥を指摘され,かつ叱られながら,徹底的に論文体なるものを叩きこまれていく何年かだった,ということです。もっとも,それをなすにあたっての予備的学習も当然ながらあったことです。それは,端的には文章の中身を一言で読みとる訓練,すなわち,ある長い(何十頁もの)文章に適切な題名をつけることから,始まったものでした。」(p.179)


 自分の欠点を素直に恥じて,教えに対しては忠実に学んでいく,何度叱られてもそれに耐えて学び続けていく,これが上達の大きなポイントであることを示しているエピソードだと感じた。筆者自身の日々の職場や家庭でのストレスなど,一方の恩師には見捨てられ,他方の恩師からはしごきのような指導を受けていた南郷継正に比すれば,本当になんでもないことであると思わされたことである。

 さて最後に,南郷継正の人生の第三期を見ていきたい。ここは著作執筆による発展が見られた時期であるが,第二期と時期的に少し重複する。この時期については,本書第四編「学問的世界・理論的世界を志す人へ」の第三章「学問力を向上させ続けた私の道程とは」で説かれている。本書の最終章である。

 ここでは,『武道の理論』『武道の復権』『武道への道』『武道修行の道』のそれぞれに付されていた「推薦文」が引用されながら,その発展が説かれている。ちなみにこの推薦文は,おそらく滝村隆一の手になるものであろうと思われる。そしてこの推薦文は,先の引用に説かれていた論文を執筆するための「予備的学習」,すなわち,文章の中身を一言で読みとる訓練の理想的なお手本としても紹介されている。

 『武道の理論』は,武道論が初めて科学にまで高められた著作であり,弁証法が自在に駆使されている点が特徴であった。この『武道の理論』が多数売れていったために,南郷継正の道場は大賑わいとなり,中には,学問や弁証法を求めて訪れる学生もおり,そのうちに学的研究会が発足し,「生涯指導者であり続けたいと決意した」(p.209)南郷継正は,弟子の専門分野での指導者とならざるをえず,彼らの専門分野すら指導できる実力を把持していくこととなる。このような指導をとおして構造論が発展していったという。著作でいうと『武道の復権』から武道としての構造論的展開が始まっていったというのである。『武道への道』では,入門から極意に至る道程が分りやすく説かれ,世界歴史レベルでの認識論の大発展があったと説かれている。続く『武道修行の道』では,副題にある「武道教育と上達・指導の理論」が説かれるのであった。

 しかし,『武道修行の道』で論理能力がこれ以上発展できないことになり,その壁を突破するべく,一大決心をしたと説かれている。それは,50歳を少し越えていた段階であったにも関わらず,「学的能力の発展には脳(細胞)の実体的発展をなす以外にはないと深く決意して,ここから二十代の若者(学生)との大修行へと出立することにした」(pp.214-215)というのである。この修練が60代まで続き,その成果がとある月刊誌に連載し,後に単行本化された『武道講義』シリーズへと結実していくことになる。

 その後,南郷継正は人生最後の仕上げとして,女性武道家の育成を開始し,本「“夢”講義」の執筆を始めることとなったという。ここでは触れられていないが,同じ頃に『学城』の発刊がなったのであった。

 以上今回は,南郷継正の人生を3つに区分して,その道程を追体験した。
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2017年12月14日

南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想(3/5)

(3)全てを二重化して乃至対立物の統一として捉える

 前回は,『“夢”講義(6)』で説かれている弁証法の弁証法的な学び方を取り上げた。具体的には,弁証法のドアを閉めるということの意味について,正規分布に従ってのくり返しの重要性・必然性について,3年にして1作品という構造についての3点であった。

 今回は,全てを二重化して捉えるということ,さらに,全てを対立物の統一として捉えるということについて,学びを深めていきたい。

 本書では,三浦つとむに関して,エンゲルスの説く科学的弁証法をまともな体系性を把持したものとして学ぶことが可能となった方(p.86)と紹介されている。他方,滝村隆一については,弁証法が単層から重層構造を把持するものとして構造化していく端緒となった恩師,学問体系の根幹ともいうべき構造論を構築する出発点となった二重構造を,間接的に学び取ることになった方(p.87)であるとされている。そのうえで,恩師滝村隆一に何を学んだのかについて,次のように説かれている。

「たしかに深く深く学んだのは本当です。でも少し,かつ大きく違います。私が恩師滝村隆一に大きく学んだのは,対象を二つに分けて考える,つまり「すべてを二重化して捉えるという頭脳の働きをなすべし」ということであって,書物に説いてある事柄の中身に深く深く学ぶ努力をしたのではなく,自分の専門たる武道の世界に関わる森羅万象の出来事を,二重に構造化して,かつ過程として捉える努力をなすきっかけとなったのだ,ということです。

 分りやすく説くならば,恩師滝村隆一に学んだのは,「何事かを捉えようとするならば,必ず二つに分けて考えてみるべし」であり,「何事かを論じるならば,実体の二重性と機能の二重性,すなわち簡単には四重性においてなすべし」という見事な教訓として捉えることを学びとったことだったのです。この二重性・二重化を,私は自分の専門分野への指針(コンパス)として学びとっていったのです。」(p.88)


 ここでは,滝村隆一について,その書物に説いてある事柄の中身を学ぶ努力をしたのではなく,森羅万象の出来事を,二重に構造化して,かつ過程として捉えることを学んだのだ,何かを論じる場合は実体の二重性と機能の二重性の,四重性においてなすべしということを学んだのだ,と説かれている。この後の部分では,滝村隆一から学んだ内容を,「二重化を構造化として,かつ過程化として把捉すべし」という格言=金言であると言い換えている。要するに,全てを二重化して捉える頭脳の働きをなすべしであるということである。

 滝村隆一の専門とした国家論であれば,国家を,政治的国家と経済的国家というように二つに分けて考えていたし,あるいは,広義の国家と狭義の国家,〈共同体―即―国家〉と〈共同体―内―国家〉というように二つに分けて考えていた。このように,全てを二重化して捉えられるように努力していくべきだということであろう。

 筆者の専門である心理臨床であればどうなるであろうか。大きくは,働きかけられるクライエントと,働きかけるセラピストというように,二つに分けることができるであろう。これは,教育を二つに分ける際に,先生と生徒の二つに分けるようなものであろう。あるいは別の観点からすると,心理臨床は,見立てと介入というように,二つに分けることもできる。これは医療における診断と治療に対応するものであって,クライエントにはこのような困りごとがありこのような悪循環で維持されているのだと把握して,だから,このような技法を使ってこのように働きかけていくというようなものである。対象たるクライエントを認識する段階と,その認識に基づいて専門的な表現をなしていく段階の二つといってもいいかもしれない。この見立てと介入のそれぞれにも二重性がある。それは言語と非言語の二重性である。クライエントが発した言語表現による見立てとクライエントの非言語表現による見立て,言語による介入と非言語による介入である。このように,専門分野の森羅万象を,とにかく二つに分けて,二重性として捉えていくことが,弁証法性を有する対象をより正確に認識するということになるのだろう。これが「専門分野への指針(コンパス)として学びとっていった」ということなのであろう。

 同じような内容が,本書のかなり後の方で,より深められた形で説かれている。そこでは,恩師滝村隆一の著作への学びの実態をはっきりと説いておくべきだとして,一応学問レベルの実力を持っているとされる弟子の一人の感想が紹介されている。その弟子の感想の中で,次のように説かれている。少し長いが,非常に重要なことが説かれている気がするので,引用する。

「なぜならその一般論なしには,自己の専門領域の中の何事をも,どうにも概念規定なるものが創出できないと分かったからです。そして,その把持できた一般論の中身を論理レベルで説いていくために,それを幾分かの典型的な事実を基にしつつ思考かつ思惟していくことが大切だと思いますが,その中でも特に大事なことは,それらの事実的レベルにすら,構造に分け入ることが大切であり,そしてそこでは,「存在するものと存在していないものとの大きく二重性の構造が見えてくること」に大きく注意を払うことが必要であると思います。

 それが,つまりその二重性なるものは,たしかに最初はぼんやりしたものでしかないものですが,しかしきちんとした一般論をふまえてそこを視てとる努力をして,それをふまえてなんとか二重性を規定しなければと努力することになります。そうして苦しんで考えて思惟レベルに認識を昇らせるために,しっかりと書いていく,そしてまた書き直して思惟し直していくその中で,その二重性の構造なるものが,次第次第に明確になってくるのであろうと思われます。

(中略)

 ……すなわち,なにより国家の一般性をしっかりとふまえての,その国家の中の構造に分け入ること,その二重性としての,政治とは,経済とはを論理的に把握していかなければならず,そのためには政治・経済の実態性を把持する実体的社会の二重性からその政治の二重性,経済の二重性かつ文化・教育の二重性をふまえて,そこから二重性の二重性なる構造すなわち,政治の二重性の中の二重性のそれぞれに含まれている二重性,つまり,四重性の構造へと思弁を深めて概念化までもっていくべきであり,そうでなければ国家や社会や,政治,経済,文化・教育などのまともなる概念規定など,到底不可能なのだ,ということであろうと思います。」(pp.188-189)


 ここは非常に難解である。先の引用文も踏まえて,自分なりの理解を認めていきたいと思う。

 まず,前半部分はそれこそ一般論が説かれており,後半部分はそれを国家の場合でいうとどうなるかという具体が説かれていると思う。前半のはじめに,まず,一般論なしには概念規定ができないのであり,一般論の中身を論理レベルで説いていくためには,事実の構造に分け入ること,事実の二重性の構造なるものを浮かび上がらせることが必要であると説かれている。国家でいうと,国家とは何かの一般論を踏まえて,その中身を論理レベルで説いていくためには,国家の中の構造に分け入ることが必要であるが,それは,国家の二重性としての政治とは,経済とはを規定していく努力をすることである。さらにそのためには,政治・経済の実体たる社会の二重性と,その実体たる社会の機能であるところの政治・経済(さらに文化・教育?)のそれぞれの二重性をもしっかりと捉えられるように努力してく必要がある,ここまできてようやくにして,政治や経済の概念規定が可能となっていくのだということであろうか。

 南郷継正は,この弟子の感想で説かれている「すべての出来事を二重性として捉え返す」ということを,初心者にも分りやすく説くとして,次のように説明している。

「「すべての言葉には二重性が存在する,つまり,二重性の意義が含まれている」ということです。もっと説くならば,ある言葉というものは,それを何か他のものと区別するためにまずは誕生させられているということです。人間とは動物に対比して,動物とは植物に対比して,とかいったようなことです。それが対比だけではなくなっていくのが,言葉そのものの宿命になります。」(pp.191-192)


 ここでは,全ての言葉には二重の意義が含まれており,言葉は,他のものと区別(対比)するためにまずは誕生させられているが,それが対比だけではなくなっていくのが言葉の宿命だと説かれている。

 具体例で考えてみよう。たとえば経済とは,まずは政治に対比して誕生させられた言葉だが,それが対比だけではなくなって,経済という言葉自体に二重の意義が含まれるようになる,ということであろうか。診断(見立て)とは,治療(介入)に対比して誕生させられた言葉であるが,それが対比だけではなくなって,診断(見立て)という言葉自体に二重の意義が含まれるようになる。セラピストとは,まずはクライエントに対比して誕生させられた言葉だが,それが対比だけではなくなって,セラピストという言葉自体に二重の意義が含まれるようになる。

 このように考えると,先の弟子の感想にあった「存在するものと存在していないものとの大きく二重性の構造が見えてくること」というのは,言葉がまずは何か他のものと区別(対比)するために誕生させられたという原点のところを説いているのではないかと思えてくる。すなわち,たとえば診断であれば,これは診断は存在しているが治療は存在していないということになるし,セラピストといえば,これはセラピストは存在しているがクライエントは存在していないということになる。診断という言葉には,診断であると同時に治療ではないという二重性の意義があり,セラピストという言葉には,セラピストであると同時にクライエントではないという二重性の意義がある,ということであろうか。それが,言葉というのはそういう対比的な二重性だけではなく,その他の二重性の意義をも含むようになっていく,ということであろうか。

 現時点ではこのくらいしか理解が深まっていないが,今後もこの点については考え続けていきたいと思う。

 さて最後にもう一点指摘しておきたい。それは,全てを対立物の統一とする,ということについてである。対立物の統一について,本書では弟子の修練日誌の中で次のように説かれている。

「これは「対立物の統一とは,相対的独立したAとBを対立物として捉えて統一し,発展させなければならない。階段の上り下りで喩えるなら,上る時と下りる時にそれぞれ使う筋肉が違ってくるのは当然だし,前向きと後ろ向きの上り下りでもまた違ってくるものだ。それをどう統一させるかはその人によるのだ」という指導だったと思う。」(p.115)


 ここでは,対立物の統一とは,相対的独立したAとBを対立物として捉えて統一し,発展させることであると説かれている。そのうえで,階段を上るときと下るとき,前向きと後ろ向き,という例が挙げられている。この弟子の日誌には他にも,右向きと左向き,客観的事実と主観的事実,身体が正常な状態と異常な状態などが,対立物の統一の例として挙げられている。要するに,全てを対立物の統一として捉えなければならないということであろう。

 これは,先に触れた全てを二重性として捉える,対象を二つに分けて考えるということとつながってきそうに思われる。どういうことかというと,全ての対象は二重性を有しているのであるが,その二重性の一方だけを見ていた場合は,対立物の統一として,他方もしっかり統一して考えないといけない,逆に,対象の二重性が見えていないのであれば,2つに分けて考えて,その二重構造を明確にするように努力していかなければならない,ということではないか。これこそ対立物の統一であって,一つのものを二つに分けて考えることも大切であるし,逆に二つのものを一つとして考えることも大切である,ということであろう。

 筆者の専門でいえば,見立てを,言語による見立てと非言語による見立てと2つに分けて,その二重性を捉えていくことも大切であるし,逆に,言語による見立てをしている場合は,それとセットで,非言語による見立ても行っていかなければならない,相手の言語表現と非言語表現をしっかり統一して把握していかなければならない,ということになるだろう。

 以上今回は,全てを二重化して乃至対立物の統一として捉えるということについて検討した。

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2017年12月13日

南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想(2/5)

(2)弁証法の弁証法的な学び方

 本稿は,『“夢”講義(6)』を組織的・集団的に学び,学んだ内容を認めていくことによって,さらなる認識の発展を図ろうとする論考である。

 今回は,本書で説かれている弁証法の弁証法的学び方について,3つに分けて検討する。第一に,弁証法のドアを閉めるということの意味について,第二に,正規分布に従ってのくり返しの重要性・必然性について,第三に,3年にして1作品という構造についてである。順に説いてく。

 まずは,弁証法のドアを閉めるということの意味についてである。以前の巻で,弁証法の学びを自動車の運転の例で説かれたことがあった。そこでは,弁証法という自動車に乗るにはドアを開ける練習が必要となるが,それは本を開いて目次を見ることであると説かれていた。そして,『“夢”講義(6)』では,以上を振り返った後に,弁証法の扉たる目次も,国語のしっかりとした実力がなければ分かりようがなく,目次全体をしっかりと眺めきり,その順番に読んでいく必要があると説かれている。そのうえで,ドアを閉めるということの意味について,次のように説かれていくのである。

「まして,他人にドアを開けてもらって助手席に座ってばかりでいては,これはもう運転など論外です。と同様に弁証法の学びも,他人の力を借りてばかり,話を聞いてばかり,本を読んでばかり,ではどうにも,ただの一歩の前進すらないのです。だから,必ず運転席に座って,自分の手でドアを内側から閉める動作が次に大切なことです。すなわち,目次のすべての行をしっかりと自分の能力でどれほど分かるかの試しが必要となります。(中略)

 ……簡単に説明すれば,弁証法のドアを閉じるとは,それまでに学んできた数学や物理や生物や化学はもちろんのこと,世界歴史ですら,弁証法という自動車の中には,そのままでは持ちこんではいけないからです。すなわち,弁証法という自動車の中で学んだことだけを用いてすべての出来事を考える努力をしなければならないということです。(中略)

 ……つまり,自らが知った,そしてそこから学んでいく弁証法の目次と少しずつ学んでいく本文の中身から自分としての正解を求めていくことになるのです。これは恐ろしいことです。(中略)

 私はそのようにして,弁証法の本の中身からすべての書物の中身を検討していったことでした。」(pp.133-135)


 すなわち,弁証法のドアを閉めるとは,他人の力を借りるのではなく,自分の能力で目次の全ての行をしっかりと分かっていく努力をなすことであり,これまで学んできたものは持ち込まず,弁証法の基本書の目次と本文の中身だけに基づいて,自分としての正解を求めていくこと,弁証法の本の中身から全ての書物の中身を検討していくことである,ということである。

 これは,あえて弁証法の三法則で説くならば,否定の否定的な学び方であるといえるだろう。すなわち,これまで学んできたものをいったんすべて否定して,弁証法の基本書の学びに専念し,弁証法の基本書の中身から,自分で他の文化遺産を捉え返していく練習を行っていく,そうすることによって,それらの文化遺産も真に自分の実力と化す,論理的に整序された使える一般教養として身につく,ということであろう。

 弁証法は弁証法的に学んでいくしか身につける方法はなく,従来の形而上学的・受験勉強的な学び方や,そのような学び方で学んできた内容は,いったんドアを閉めて締め出す必要がある,そうしてこそ,本来の弁証法の学びがスタートできるのである,ということであろう。

 これまで学んできた文化遺産から弁証法を学んでいく,というのではなくて,その逆,すなわち,これから学んでいく弁証法から文化遺産を学んでいく,ということが大切だと感じた。通常は,「恐ろしいこと」であるために,後者の学びができず,前者の学びしかできないからこそ,弁証法の学びに失敗していくのだと思う。

 さて,弁証法の弁証法的な学び方について二つ目に触れておきたいのは,正規分布に従ってのくり返しの重要性・必然性についてである。本書では,正規分布を弁証法的に理解することが重要であるとし,正規分布という概念は弁証法の学びにとってとても大事なものであるとされている。そして,弟子のレポートが紹介されている。その中で,人間は認識的実在であるから,生成,発展,衰退という過程を辿らないことも可能であり,南郷継正は十年単位で自らの武術を白帯から練習しているし,P江千史氏は十年ごとに医学の新しい教科書を一から勉強していることが,幾重にも続く正規分布の曲線のイメージとして紹介されている。

 この正規分布に従ってのくり返しが一番よく分かるのは,先に触れた自動車の運転の例で説かれている箇所である。以下に引用する。

「すなわち,自動車のドアを開けるにしても(弁証法のドアたる書物の目次を見るにしても),何回か繰り返すことが大事なのですが,むやみに繰り返しても,繰り返すことの意義がなくなってしまうからです。つまり,正規分布の図式にあるように,まず上昇してそこから頂上に至るとその高さがそのまま続き,しばらくすると下降していくことになります。これはすべての学びに共通していることです。それで,当初の正規分布の修練は少し上昇したら,元(原点)へ戻り,また少し上昇したら元へ戻りの繰り返しすらも,正規分布として行うことが大切なのです。

 その初歩(原点)の立場への戻りを繰り返しながら徐々に頂点へと昇りつめ,その頂点の続行すらも初歩(原点)からの,つまり,元の位置への戻りを繰り返しながら修練を重ねることが大切なのです。この正規分布の図の形式に従った繰り返しなるものは,当然に弁証法の学び方そのものでもあるのです。すなわち,目次を何回か見るわけですが,当初は,せいぜい第一章の項目くらいの繰り返し,あるいは,第一章,第二章,第三章といった章のみの繰り返しを行うことが求められます。」(pp.143-144)


 ここでは,正規分布に従ってのくり返しとは,生成,発展,衰退という過程において,発展しつくす前に,完熟してしまう前に,少し上昇したら元(原点)=初歩に戻り,またそこから過程を辿り返して,また少し上昇したら元へ戻るということをくり返しながら徐々に頂点へと昇りつめるというくり返しのことであると説かれている。そして,弁証法の学び方としては,基本書の「せいぜい第一章の項目くらいの繰り返し,あるいは,第一章,第二章,第三章といった章のみの繰り返しを行うことが求められ」ると説かれている。

 ここでの正規分布は,横軸が時間の流れ,縦軸が勢いとか上達度合いとか実力とかいったものだとイメージされているのではないかと思われる。少し上達して実力がついたら,また初歩からやり直す,そうすることによって,あらゆる事物が辿るはずの生成・発展・衰退の過程を辿ることなく,正規分布の曲線を次々に上に積み上げていくような形で,実力を養成していけるのだ,ということではないか。

 このように説くと,「正規分布というのは,たとえば日本人男性の身長のデータを無数に集めたら,170cmが平均であり,そこを頂点として平均から離れるほどにゆるやかになる左右対称の山形の分布ができあがる,というようなものであり,生成・発展・衰退とは違うのではないか。この例でいうと横軸は身長であり,横軸が時間というのはおかしいのではないか」という疑問が生じるかもしれない。確かに,通常いわれている正規分布はそのようなものである。これは,ある時点で切り取った場合の分布の仕方ということができる。しかし,正規分布の山は実は立体的なイメージになっており,今正面から見ていた山を横から眺めても,同じような山形をしており,横から眺めると歴史的な変遷が分布として見てとれるとイメージするとどうであろうか。変な例であるが,今の身長の例をそのまま使えば,縄文時代からの日本人男性の身長の平均値を時間にそって並べていけば,初めは緩やかに上昇していって,徐々に上昇率が高くなって頂点を迎え,その後同じような形で下降していくというような正規分布の曲線が描かれる,というようなイメージである。横から見れば通時的な日本人男性の身長の歴史的な変化が正規分布として描かれるのであり,それをある時点で切り取った断面を正面から見ると,ある時点での共時的な身長が,これまた平均値を頂点とした正規分布として描かれる,ということである。

 もともと「生命の歴史」的な正規分布の曲線があり,その一断面として,統計学で普通いわれるところの正規分布がある。ただ,人間が発見した順でいうと,後者が先であり,この発見はガウスによってなされた。この正規分布に歴史性を読み取り,生成・発展・衰退の過程として再措定したのが南郷学派であるといえるのではないだろうか。

 さて,弁証法の弁証法的学び方ということで取り上げたい3点目は,3年にして1作品という構造である。これは,絶えざる頭脳の向上のためには,時期を得ての区切りをつけることが大事であると説かれていく流れの中で,推理作家の原ォさんが「3年にして1作品」という信念を貫いているのは見事だと紹介されていることに関わる。頭脳の変革を促す執筆活動について,次のように説かれている。

「以上のことが理解できていけば,長い連続的執筆の欠陥(?)というものの中身はなんとなく分かってきたはずです。端的に説けば,内容は深まっていっても,理論性,体系性は,すなわちその構造の立体性が深まることは「ほとんどない!」といってもよいからです。……ではどうすべきなのか,は原ォさんの執筆活動の実態そのものです。連載レベルでというような創作活動を行わずに,三年に一度といった,頭脳活動の変化過程を持ち続けていく,しっかりとした頭脳の実力向上を図っていくことです。

 前の作品と同レベルのものというような安易な頭脳活動的執筆を続けないで,三年に一度くらいの頭脳の変革を促す作品をモノしていくことです。」(p.160)


「少し付け加えておくなら,自分のある作品が単行本として出版された場合に,その作品を他人のものとして読んでみると,穴だらけというか,ザルといったらよいのか,随分と物足りなさを感じてしまうものです。……

 それだけに私は,それらの自らの過去の単行本を反省して,次の論文にとりかかるのですが,その欠陥を直すにはある程度の期間がどうしても必要です。それだけにその執筆が長編となると,その欠けたる箇所を分かることがなかなかできなくなる……といったことにもなるものです。」(pp.174-175)


 すなわち,長い連載的執筆は,理論性,体系性が深まることがなく,自分の作品の欠陥を分かることがなかなかできなくなるのでやめた方がよく,3年に1作品くらいのペースで,前の作品を反省し,その欠陥を克服しながら,頭脳活動の変化過程を持ち続けていくことが頭脳活動の向上には必要不可欠だ,ということである。

 これは,先に説いた正規分布に従ってのくり返し,すなわち,生成,発展,衰退という過程において,発展しつくす前に(完熟してしまう前に),少し上昇したら原点=初歩に戻り,またそこから過程を辿り返して,また少し上昇したら元へ戻るということをくり返しながら徐々に頂点へと昇りつめるというくり返しと,論理的には同じことが説いてあるのだと思う。正規分布に従ってのくり返しの論理を,執筆活動へと具体化したものである,といえそうである。

 現在筆者は,単行本を執筆している。これも3年くらいで区切りをつけるつもりで書き上げてしまい,これを反省して,その欠陥を直したうえで,また次の3年で一冊の本を仕上げる,ということをぜひともやっていきたい。40歳から3年に1作品というペースを保って書き続ければ,60歳前後で6〜7つ,単行本を書くことになる。このくらいの見通しをもって,頭脳の変革を促す執筆活動を続けていきたいと感じた次第である。

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 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
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 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
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 ・マインドフルネスを認識論的に説く
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 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
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 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
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 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
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 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
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 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
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 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
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 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
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 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
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 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
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 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史
 ・2017年11月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的弁証論 緒言・第一篇
 ・南郷継正の人生は弁証法の弁証法的発展である――一会員による『“夢”講義(6)』の感想
 ・改訂版・初学者に説く経済学の歴史
 ・2017年12月例会報告:カント『純粋理性批判』序文と緒言