2017年11月23日

教育実習生に説く人間観の歴史(5/13)

(5)人間の価値が社会的な条件によって定められた−中世社会

 前回は、古代社会の人間観とはどのようなものかを見てきました。古代社会では、人間ではあるけれども人間として認められていない奴隷という存在が正当化されていたのでした。このように(戦争に負けたという)社会的な条件によって、人間ではあるけれども人間として認めないという人間観が生まれてきたのが古代社会だということでした。古代社会において大きく発展したローマ帝国は、異民族の侵入によって滅ぼされてしまいます。こうしてヨーロッパでは民族同士の戦乱が繰り広げられる舞台となり、やがて各地に王国ができて落ち着きを取り戻していきます。こうした時代が中世です。今回はこの中世社会の人間観はどのようなものであったのかを見てみましょう。

 中世ヨーロッパの社会の特徴は、階層的な身分秩序が成立していたという点にあります。つまり、王の下に諸侯がいて、その諸侯の下には臣下がいて、さらにその下にはその臣下がいるというような状態だったのです。こうした王や諸侯たちはそれぞれ自分の土地(荘園)を保有していました。領主としてその土地を治め、その土地の農民を働かせて、収穫したものを納めさせていたのです。荘園同士の交流はほとんどなく、各地の荘園が自給自足的な生活を送っているという社会だったのでした。

 こうした仕組みが成立した背景には、先に述べたように、ローマ帝国が崩壊した後の民族大移動によって、ヨーロッパ各地が戦乱の舞台になってしまったということが挙げられます。土地の所有者たちは、こうした戦乱の中にあって、自分の生活のために自分の土地を何とかして守らなければなりませんでした。そこで彼らが考えた方法は、力の強い者に土地を譲りわたす(寄進する)代わりに、自分たちの生活の保障をしてもらうことだったのです。こうして力の強い者に自分の生産物を譲り渡す代わりに、その力の強い者に守ってもらうという仕組みがつくられたのです。さらにその力の強い者は、より力の強い者に自分の土地を譲り渡すようになります。これが積み重ねられる中で、階層的な身分秩序が成立したのでした。

 こうした社会では、身分の間の行き来ということは行われませんでした。つまり、農民の子どもとして生まれれば、農民として生きていくことになるし、貴族の子として生まれれば、貴族として生きていくことになるということです。このように、社会的な階級は変わらないものだと考えられていたのです。

 このような制度を正当化していたのが、キリスト教を担うカトリック教会でした。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教が絶対的なものだと信じられていたのです。戦乱が絶えず、生活が不安定になるなかで、人々の心のよりどころになったのがキリスト教だったのです。コトワザでいう「苦しいときの神頼み」ということです。「自分たちの力ではどうしようもないから、神様に何とかしてもらおう」というような思いから、キリスト教が大きく広まっていたのです。中世ヨーロッパにおいてキリスト教の担い手となったカトリック教会では、階層的な身分秩序が正当化されていました。こうした身分秩序は神によって定められたものであり、その神に定められた仕事に取り組むことが、(神に従う)よい生き方だとされたのです。

 この階級は決して平等と言えるようなものではありませんでした。最も大きな力を持っていたのは、キリスト教を司るカトリック教会の僧侶たちです。僧侶たちは、神の言葉を地上の人々に伝えてくれる存在として絶対視され、その指示に従うことが神の望むことだと考えられていました。また、彼らも領地をもっており、そこから得られる富によって、経済的にも大きな力をもっていました。カトリック教会は国王をもしのぐ絶対的な権力を握っていたのです。

 したがって、教育においても優秀な僧侶をいかにして育成するかという観点が重視されていました。修道院に付属して僧院学校や本山学校と呼ばれる学校がつくられ、僧侶の養成のために、七自由科(文学・修辞学・弁証法・算術・幾何・天文・音楽)という当時の学術の基礎的な内容が教えられていたのでした。また、中世の半ばにつくられるようになった大学では、神学が中心的な学問として教えられていました。

 このように、社会的に大きな価値を認められ、優遇されていた人々がいる一方で、農民たちはその価値をほとんど認められていませんでした。古代の奴隷ほどではないにせよ、土地の一部という程度の認識でしか捉えられていませんでした。当然、農民たちに対して公的な制度として教育が行われるということもありませんでした。

 つまり、中世社会においては、同じ人間であっても社会的な階級が違えば全く違う存在だと考えられていたのです。「王であろうと、僧侶であろうと、農奴であろうと同じ人間だ」というような考え方は全くなかったのです。確かに古代社会に比べれば、社会的な階級の在り方がより複雑化しているものの、社会的な条件によって人間として認められる存在と人間として認められない存在がいるという点では同じであり、中世社会の人間観は古代社会の人間観の延長線上にあると言えるでしょう。
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2017年11月22日

教育実習生に説く人間観の歴史(4/13)

(4)人間の中での区別がなされるようになった−古代社会

 前回は、「自分たちは人間だ」という自覚がどのようにして芽生えてきたのかということをお話しました。本能の薄れていったサルの割合が増える中で、集団の質もこれまでと大きく異なってきたのでした。そうしたサルの集団が純粋なサルの集団と対峙したときに、「あいつらとは違う自分たち」という自覚が芽生えてきたのだということでした。そして、ヒト的サルの集団はサルの集団との戦いに勝利するようになり、主導権を握っていくようになったのだということでした。また、この過程でサルはヒト(人間)へと発展していくこととなります。今回は、原始社会から古代社会(ポリスを基礎とした古代ギリシャや、大帝国を築いた古代ローマ帝国を思い浮かべてください)への過程において人間観がどのように変化したのかを見ていきたいと思います。

 サルの集団との戦いに勝った人間の集団は、周囲から食料を獲得し、比較的安定的に生活していました。次第に人口も多くなり、その生活範囲が次第次第に広くなっていきます。生活範囲が広くなると、他の集団との接触が行われるようになります。こうして食料をめぐって、人間の集団と人間の集団との争いが行われるようになったのです。もし争いに負けてしまえば、その集団は全滅させられてしまいます。このように集団の存亡をかけたものであったために、人々は戦争に勝つために必死の努力をさせられることとなりました。より指導能力の高い人間が指導者になり、戦力となる兵士が育成され、という形で、集団の中で組織化が進められていったのです。
 原始社会では一人前の大人として認められるための儀式として入社式というものが存在していました。若者が集められ、断食させられたり、生き埋めにされたり、歯を抜かれたり、背中を切り裂かれたりといった苦行を命じられるのです。そして、苦行のあとでは集団の指導者から集団の掟が教えられ、その掟を破ったものがどうなるかを伝えられ、また、戦闘や労働の技能の訓練がなされました。これも集団の力を高めて、他の集団との争いに負けないようにするために行われた教育の1つだと考えられます。

 争いは当初は偶然に行われていました。つまり、たまたま他の集団と遭遇したから争いになっていたのでした。しかし、相手の集団を全滅させれば、相手がもっていた大量の食料をすべて獲得することができるという体験を積む中で、人々はやがて意図的に争いをしかけるようになりました。こうして戦争があちこちで行われていたのが原始社会の時代です。

 争いに勝った人々は、当初は負けた人々を皆殺しにしていました。しかし次第に、殺してしまうのではなく、生かしておいて奴隷として働かせた方が自分たちにとって得だということがわかってくると、滅ぼした集団の人間を生け捕りにするようになります。古代ギリシャや古代ローマの奴隷は、このようにして誕生したのです。

 こうした奴隷たちがどのような扱いを受けていたか、みなさんはご存知でしょうか。古代ギリシャやローマでは、奴隷は自分で労働するモノという見方をされていました。したがって、死ぬまで働かせ続けられますし、死んでしまったりして新しい奴隷が必要になれば、金を払って購入する、そんな存在でしかありませんでした。何か事件があったときに、真実を奴隷に述べさせるために拷問することも認められていました。椅子に縛りつけ、鞭で打ったり、皮をはいだり、引き伸ばしたり、レンガを体の上に積み上げるなどの拷問がなされていました。また古代ローマでは、剣闘士を務める奴隷もいました。お互いに剣をとって殺し合いをさせられ、それをローマ市民たちが見世物として楽しむのです。

 古代ギリシャで代表的な哲学者であるアリストテレスは、奴隷について次のように述べています。

「他の人々にくらべて、身体が霊魂に、また動物が人間に劣るのと同じほどに劣る人々は誰でもみな自然によって奴隷であって、その人々にとっては、もし先に挙げた劣れるものにも支配されることの方が善いことなら、そのような支配を受けることの方が善いことなのである。」(山本光雄『アリストテレス』岩波書店、1977年、p.201より孫引き)


 つまり、動物と同じ程度に劣っている人間は、奴隷として支配を受けた方がよいのだということです。このように古代の人々は奴隷を正当化していたのです。

 恐らく奴隷であっても生物としては自分たちと同じ人間であることは否定していないでしょう。しかし、人間としての価値はもっていないと考えているわけです。戦争で負けてしまったという社会的な条件によって、人間ではあるけれども人間ではないという見方をされてしまっているわけです。このように同じ人間であっても人間としての価値を認めないという見方(人間観)が生まれてきたのが、古代社会の特徴だということができるでしょう。
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2017年11月21日

教育実習生に説く人間観の歴史(3/13)

(3)動物と区別された存在という自覚が芽生えた−原始社会

 本稿は教育実習生に向けて、人間観(人間に対する見方・考え方)が歴史的にどのように変化していったのかを説こうとするものです。人間観の出発点は、そもそも自分たちが人間である(他の動物とは違う存在である)という自覚が芽生えてきたことです。人間はサルから進化してきたわけですが、その過程でこのような自覚が生まれてきました。今回はその過程を詳しく見ていきたいと思います。

 まず人間とサルなどの他の動物はどのように異なるのかを押さえておきましょう。一般的には様々なことが言われています。考える力があるかないか、二足歩行ができるかどうか、道具を作ることができるかどうか、などです。

 しかし、根本的な違いを言えば、変化性に富んでいるかどうかという点が挙げられるでしょう。動物は本能によって支配されています。本能というのは生きていくためのいわばプログラムのようなものであり、これによって支配されている動物は、そのプログラムによって決められたことしかすることができません。例えば、犬は犬としてどう成長していくかが決められており、それに沿って成長していきます。生活の仕方も定められており、例えば食べるものも犬のエサのみであり、牛のエサを食べたりすることはありません(もしあるとすれば、それは人間がペットとして飼うことによって本能を歪められたということができます)。このように本能によって支配されており、変化性に乏しいのが人間以外の動物だと言えます。

 これに対して、人間は変化性に富んでいます。単純な話、1000年前のサルと今のサルは同じであるのに対して、1000年前の人間と今の人間は大きく異なっています。これはなぜかと言えば、人間の場合、本能という定められたプログラムによって動くのではなく、自分で「あれをしよう」「これをしよう」と新たな目的(像)を描いて行動するからです。このように、次々と新たな目的をアタマの中に描いて、それを実現していこうとするという点に人間の特徴があります。

 人間と他の動物の違いをこのように押さえた上で、どのようにしてサルの集団が人間の社会へと発展していったのか、また、その過程で人間という自覚はどのようにして生まれていったのかを見てみましょう。

 サルの集団というのは単にたくさんのサルが集まっているだけではなく、ボスザルによってそのサルたちが束ねられています。餌を見つけたときや危険が迫ったときにはボスザルが吠えるなどの形で合図をし、他のサルはその合図に従って行動をします。このようにしてサルの集団は生存が維持されているのです。

 ここで押さえておかないといけないことは、サルがボスザルに従うのは本能に基づいているということです。つまり自分よりも強いもの(ボスザル)には従うということはあらかじめプログラムとして組み込まれているし、またそのボスザルの出す合図がどういう意味であり、どういう行動をすべきなのかということももともとわかっているということです。だからこそ、自分の命を守ることができるのです。

 ところが、こうしたサルの集団の中で、徐々に徐々に本能が薄らいでいくサル(子ザル)が出てきます。本能が薄らいでいるわけですから、ボスザルが合図を出しても、他のサルのようにすぐさま行動するということができにくくなります。そうすると、外敵に襲われたときに一人逃げ遅れて死んでしまったり、あるいは自分の指示に従わない者ということで、ボスザルに殺されてしまったりします。

 こうなると最も苦しいのはその子ザルの母ザルです。そこで、自分の子どもが殺されてしまわないように、「ボスザルがこう合図したらこう動く」ということを教えるようになります。もちろん言葉などはありませんから、実際にボスザルが合図を出したときに、身振り手振りをしたり、無理やり行動させたりして教えたものと思われます。これが教育の出発点です。

 本能の薄らいだサルが徐々に徐々に増えていくと、やがてボスザルもそうしたサルが務めるようになり、集団自体が純粋なサルの集団とは質的に異なったものとなります。行動の仕方や見た目なども含めて、大きく変わっていったものと思われます(もちろんその過程には何百年、何千年という長い年月がかけられています)。

 こうしたサルの集団が、純粋なサルの集団と出くわした場合、どんなことを感じると思いますか。「自分たちとは違う」という感覚になるのです。これは逆に言えば、「自分たちはあのサルたちとは違う」ということを感じるようになるということです。

 たとえ話で言えば、小学校を卒業した中学生が、小学校を訪れて小学生を見たときに「あぁ、小さいなぁ。自分とは違うなぁ」と感じるようなものです。このとき同時に、「自分は中学生になって大きくなった」ということが自覚されることになります。

 このように純粋なサルの集団と出会う中で、「自分たちはあいつらとは違う」という自覚が生まれてきたのです。これこそが人間観の出発点(「自分たちは人間だ」という自覚)だと言えるでしょう。また、ここにおいて、サルの集団とは区別された人間の社会が誕生したとも言えるでしょう。

 やがてヒト的サルの集団と純粋なサルの集団は、エサをめぐって縄張り争いを行うようになります。当初は本能によって完璧に統括されたサルの集団が勝っていたでしょうが、ヒト的サルの集団が戦い方を工夫し、次第に勝利を収めるようになります。このようにして、サルの集団から人間の社会へと主導権が移っていったのです。
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2017年11月20日

教育実習生に説く人間観の歴史(2/13)

(2)教育実習で学ぶべきものとは何か

 前回は、教育実習の目的について確認しました。2週間から1か月という短い期間の教育実習でしっかりとした学びを得るためには、教育実習の目的をしっかりと押さえておく必要があります。現在、文科省は教員として求められる資質能力として、「教職に対する強い情熱」「教育の専門家としての確かな力量」「総合的な人間力」という3つを挙げていますから、教育実習もこの3つを目的とするものだと言えますが、中でも「教職に対する強い情熱」こそが教育の出発点という意味で最も重要だということを書きました。実際に子どもを教育するなかで、教育することの楽しさを実感し、教職に対する強い情熱をもてるようにすることこそ、教育実習の最も大きな目的だと言えるだろうということでした。

 では、教育することの楽しさとはいったい何なのでしょうか。

 教育実習を経験した人の中には、「子どもたちといろいろな話をしたり、休み時間に遊んだりして楽しかった。やっぱり教師は楽しい」という感想をもつ人がいます。つまり、子どもたちと仲良くなって、話したり遊んだりすることが教育の楽しさだということになります。これはこれで教職に対する強い情熱につながっており、よい経験になったのだと思います。

 ただし、子どもたちと楽しい時間を過ごせたというだけでは、果たして正規の教員となったときに続けていくことができるか、疑問符がつくところです。なぜならば、教育実習はかなり優遇されている期間だからです。まず教育実習生という存在がクラスの子どもにとっては新鮮であるため、子どもの方から寄ってくる状況にあります。またクラス自体は担任の教師によってある程度創られているため、授業の実力が未熟であっても、子どもは真面目に授業を受けようとします。さらに基本的な責任は担任にあるため、仮に勉強ができない子がいたり、友達関係でトラブルを抱えた子どもがいたりしても、そうした子どもにはあまり向き合う必要がありません。保護者に対応しなければならないことも普通はありません。このように、かなり恵まれた条件の中で子どもたちと関わっているのです。

 正規の教員となり、こうした条件が失われたときに、子どもたちと同じように楽しい時間を過ごすことができるかは不明です。場合によっては子どもたちから大きく反発されることもあります。教育実習の経験から抱いていた自らのイメージとの間に、大きなズレを感じることになるのです。そうしたときにも教職に対する強い情熱を維持することができるかということが大きな問題になるわけです。

 では、このようなときにも教職に対する強い情熱を支える、教育の本質的な楽しさとはいったい何なのでしょうか。

 一言で言えば、目の前の子どもが成長する姿を見ることにほかなりません。全然勉強ができなかった子どもが、個別に教えたりすることによって、徐々にできるようになっていく。学校へ来られなかった子どもが、数か月間のかかわりの中で登校できるようになる。こうした子どもの成長の姿を見ること、すべての子どもが可能性をもっていることを体験すること、これこそ教育の醍醐味だと言えるでしょう。

 以前、私の知り合いの先生が、教職に就こうと思ったきっかけを次のように話しておられました。その先生は就職活動もせず、大学卒業後はとりあえず中学校の講師を務めたそうですが、あまり意欲はなく、授業は適当でメチャメチャなものだったそうです。そんなとき、生徒指導の担当となり、問題行動を起こす生徒たちと関わっていくことになります。その中には、常に目を光らせておかないと、何かしらの問題を起こす生徒がいました。ずっとその生徒と関わり続けていたそうですが、ある日、その生徒と一緒にいるときに、別の生徒が暴れている姿が見られました。そこでこんなやりとりをしたそうです。

生徒「先生、あいつら止めてきいや。先生が行かなやめよらへんで。」
先生「でも、俺が行ったら、お前、どっかいくやろ。」
生徒「せえへん、せえへん。行ってきい。」


 生徒がこういうので、その先生は別の生徒の方へ行ったそうです。そしてそちらの方を解決してから、あまり期待せず戻ってみると、その生徒はちゃんとその場にいたそうです。その体験が教職に就こうと思ったきっかけだということでした。

 それまでは常に目を光らせておかなければならなかった生徒。そんな生徒が教師とのかかわりの中でよい方向へと変化している。そこに教師としての楽しさを感じたのだろうと思います。

 このように、どんな子どもであっても可能性があり、教師とのかかわりの中で変化していくということ、これこそが教師がもつべき人間についての見方・考え方(人間観)です。これがあるからこそ、教職に対する強い情熱が生まれてくるのです。

 したがって、教育実習においても、「確かに子どもには可能性がある」と感じるような体験をしてほしいと思います。その体験があれば、仮に正規の教員となって苦しい状況に陥っても、自らの支えになるはずです。

 このような人間観は、昔から存在していたわけではありません。近代になってから生まれてきた見方・考え方であり、歴史的に創られてきたものです。「目の前の子どもたちを何とかしたい」、そういう強い情熱を抱いた先人たちの努力によって創り上げられた文化遺産なのです。こうした歴史的な過程を知ることは、自らの人間観を鍛え、これからの教育実習をより充実したものにすることにつながると考えられます。

 そこで本稿では、人類がどのような過程を経て子どもの可能性を見出していったのかという人間観の歴史を説いていきたいと思います。教育実習生にも読みやすいように、やさしく、わかりやすいものにしたいと思います。
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2017年11月19日

教育実習生に説く人間観の歴史(1/13)

(1)教育実習の目的とは何か

 教職を志す学生は、大学3回生か4回生のときに教育実習に行くことになっています。2週間から1か月ほどの間、実際に学校現場に入って、教師としての仕事を体験するのです。教育実習はこれまで教職課程で学んできた知識や技能を実際の現場で生かしてみる場であり、教職課程の締めくくりとも言えるでしょう。

 教育実習に向かうときは大きな不安を抱くものです。授業はしっかりできるだろうか。子どもとちゃんと教師として接することができるだろうか。学校の先生とはいい関係が築けるだろうか。こうした不安をもちながらも実習に臨みます。そして実習に行くと、朝早くから出勤して仕事をすることになり、ようやく子どもが帰ったと思ったら、今日の授業についての指導を受けたり、実習簿を書いたり、明日の授業の準備をしたりして、夜遅くまで残ることにもなります。とりわけ教育実習の終盤に行われる研究授業が近づいてくると、睡眠時間を大きく削られることにもなります。

 このように肉体的にも精神的にも非常に苦しい時間を過ごすのですから、できる限り教師として充実した学びを得られる時間にしてほしいと思います。そして、これからの大学での学びの意欲づけになり、正規の教員として現場に立つのが待ち遠しくなるような時間になってほしいと思います。

 そのためには、教育実習でいったいどんな学びを得るべきなのか、教育実習の目的は何なのかということを予めしっかりと押さえておく必要があります。教育実習はわずか2週間から1か月という短い期間でしかないのですから、なおさらです。例えば、近畿大学のホームページには、教育実習の趣旨として次のように書かれています。

http://www.kindai.ac.jp/academics/teacher-training/strength-training/teaching-practice/detail.html

1.教育実習の趣旨

教育実習は、教育職員免許法第6条に規定されている必須科目です。それは一定期間、教育の場での実地体験をとおして、教師として必要な知識、技能、態度、心構えなどを修得するために行われるものです。

教育実習は、教育現場における教育の実際を観察し、また体験し、さらに経験や体験を積むことにより、教育の意義についての体験的認識と理解を深め、教師としてのあり方を学ぶことを目標にしています。すなわち、大学での学問研究の成果(理論と技術)を、教育の実践的体験を通じて主体的に再構成し、教育現場に適用させることにその目的があります。大学における学問研究では修得することのできない教育の実際を、生徒との全身的接触のなかで啓発的経験活動を通じて修得するとともに、プロの教師である教育実習指導教員による指導を通じて実践的指導力の初歩を修得することが期待されています。また、これらの活動をとおして、教育実践への限りない意欲や情熱をわきたたせる機会でもあります。

 つまり「教師として必要な知識、技能、態度、心構えなど」を修得するために行われるものであり、「教師としてのあり方」を学ぶとともに教育実践への限りない意欲や情熱をわきたたせる機会だということです。

 では、一体「教師として必要な知識、技能、態度、心構え」「教師としてのあり方」とは何なのでしょうか。平成17年中央教育審議会答申「新しい時代の義務教育を創造する」では、「教員に求められる資質能力」として次のものが挙げられています。

@ 教職に対する強い情熱
教師の仕事に対する使命感や誇り、子どもに対する愛情や責任感など
A 教育の専門家としての確かな力量
子ども理解力、児童・生徒指導力、集団指導の力、学級づくりの力、学習指導
・授業づくりの力、教材解釈の力など
B 総合的な人間力
豊かな人間性や社会性、常識と教養、礼儀作法をはじめ対人関係能力、コミュニケーション能力などの人格的資質、教職員全体と同僚として協力していくこと


 @に関しては言うまでもないことです。「目の前の子どもを何とか成長させたい、成長させなければ!」という強い思いがなければ教育は成り立ちません。その意味で教育の出発点と言えるものであり、この答申で最初の項目として掲げられているのも正当だと言えるでしょう。

 しかし、いくら情熱があったところで、その情熱を現実化するだけの能力がなければ意味がありません。いかに真心をこめて作った料理であっても、料理の腕がなければおいしい料理にはなりません。そういう教育の専門家としての力量が必要になるというのがAです。

 また、こうした教育活動は決して一人だけで行うものでありません。学年の教師、学校の教師、また保護者や地域住民などと協力をしながら行うものです。したがって、そうした人たちと関係を結んでいく力が必要になるということで書かれているのがBということになるでしょう。

 こうした3つのものが「教師として必要な知識、技能、態度、心構え」であり、それを兼ね備えているのが「教師としてのあり方」ということになるでしょう。とりわけ重要なのが「@教職に対する強い情熱」です。先に述べたように、@こそが教育の出発点だからです。実際に子どもを教育するなかで、教育することの楽しさを実感し、教職に対する強い情熱をもてるようにすること、ここが教育実習の最も大きな目的だと言えるでしょう。
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2017年11月18日

掲載予告:教育実習生に説く人間観の歴史

教員免許をとって、現場の教員として働くためには、2週間から4週間の教育実習を行う必要があります。10月から1か月間、勤務校にも教育実習生が来ており、私が指導を担当していました。

教育実習とは、現場の教員として必要な資質・能力を身につけるために行われるものです。その資質能力とは、例えば「教職に対する強い情熱」「教育の専門家としての確かな力量」「総合的な人間力」などが挙げられています。

このうち最も中心になるのは「教職に対する強い情熱」です。なぜなら、そのような情熱こそが教育実践の原動力になるからです。

さらに、その情熱を生み出しているものは何かと突っ込んで考えてみるならば、「この子は必ず成長する」という信頼に他なりません。そのような子どもに対する見方、人間に対する見方、一言で言えば、人間観を養うこと、これが最も教員として求められることであり、教育実習生にも身につけさせたいもんどえす。

「すべての子どもに可能性がある」というような人間観は、決して昔から存在したわけではなく、歴史的に形成されてきたものです。その過程を推し進めてきた先人たちの努力を知ることは、自らの人間観を養う上で大きな意味のあることだと思います。

そこで、本稿では教育実習生に対して、人間観の歴史を説いていきたいと思います。以下、目次(予定)です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
序論
(1)教育実習の目的とは何か
(2)教育実習で学ぶべきものとは何か

本論
1.人間であるということについての自覚の芽生え
(3)動物と区別された存在という自覚が芽生えた−原始社会
(4)人間の中での区別がなされるようになった−古代社会
(5)人間の価値が社会的な条件によって定められた−中世社会
2.すべての人間がもつ可能性についての自覚の芽生え
(6)人間は平等であるという人間観の誕生−コメニウス
(7)人間とは何かという問いかけの誕生−ルソー
(8)すべての人間が可能性をもつことの実証−ペスタロッチ
3.人間の可能性の自覚に基づく教育対象の拡大
(9)近代公教育制度の確立
(10)障害児(障害者)と優生思想
(11)障害児教育の生成・発展−糸賀一雄

結論
(12)人間観の歴史とは人間としての価値を認められる存在が拡大する過程である
(13)教師の歴史的な使命は目の前の子どもの可能性を事実として示すことである
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2017年11月17日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(5/5)

(5)現在とこれから

 大学院修了後、私は幸運にも、とある精神科病院の常勤職員として採用された。臨床心理士を目指す者、あるいは臨床心理士資格を有している者でも、なかなか常勤の口がないため、非常勤で生活していくのがこの世界の常識である。ところが私は、ゼミの先生(精神科医)のつながりで、この病院に紹介してもらえたのであった。私のゼミの先生は、大学院入学前の、素人であった私が調べてもひっかかるくらいの著名人で、認知行動療法の第一人者であったから、その先生のゼミ生となると、ほとんど顔パスのようなものであった。またこれと関連するが、私が認知行動療法を勉強していたこともよかった。認知行動療法はうつ病や不安障害などに対して、比較的短期に顕著な効果がある心理療法として知られていて、患者さんからのニーズも高くなってきていたころだから、その認知行動療法の専門家であれば採用しようということになったのである。

 このような形で、いわば偶然入職することになった病院であったが、この病院は非常に恵まれていた。最初の数年間は、かなりの数の研修に、出張という形で出してもらえた。当時は、京都周辺に認知行動療法の事例検討会が3種類ほどあり、毎月、3つの事例検討会全てに参加していた。事例検討会だけではなく、認知行動療法の研修会も、希望したものはほとんど出ることができた。中には東京で行なわれる研修会や学会もあり、それらにも毎年のように参加して、認知行動療法の研鑽に励んだ。

 入職したころの出来事で覚えているものがある。とある事例検討会に参加した後、近くのラーメン屋でその事例検討会を主催されている先生と2人でラーメンを食べていた。その先生は、「認知行動療法をやっている人はあまりいないから、○○さん(私のこと)もすぐにベテランになれるよ」とおっしゃったのである。またこの先生は、認知行動療法の研修の講師をたくさんされていたので、「私もそういうことを将来的にやっていきたい」というと、「やりはじめると、あの人は研修の講師をする人だと認知されるようになるので、すぐに講師としての仕事が増えていく」とおっしゃった。この先生の予言は、数年ならずして現実のものとなる。

 私が研修の講師を初めて担当したのは、1年目の冬であった。まだまだカウンセリングのケースなど数えるほどしかもっていなかったにも関わらず、私の上司であり、大学院のゼミの先生と知り合いだった精神科医が、とある研究会で認知行動療法の研修講師をするように命じてきたのである。しかし私は、全然嫌ではなかった。むしろ、そういう機会を与えていいただいて感謝の気持ちでいっぱいであった。南郷継正も空手を始めてからすぐに弟子をとり、明日弟子に教えることがないという恐怖を常に感じながら指導していったという。これを確かファーブルから学んだと、どこかに書いてあった。私も、自分のカウンセリング・心理療法の実力を向上させていくためには、教えながら学び、学びながら教えるというようなファーブル式のやり方が一番確実だと思っていたので、研修の講師のような仕事をやりたいと思っていたのである。それに私は、人に教えることが単純に好きであった。これにはもちろん、南郷継正の影響があったことは否定できないが、それに加えて、高校や予備校、それに大学院で教えてくださった先生方の影響もあったと思う。これらの先生のように、本当に教え子の心を動かすような教育がしたいと憧れていたのである。

 初めての研修講師は、それなりに好評だった。ここから同じ研究会での講師を5回ほど行ったが、初回から3年弱が経過したあとの5回目のときには、精神科医である上司から、「本当に分かりやすかった! すばらしい!」と絶賛の言葉をいただいたほどであった。3年目には、大学院時代の指導教員であり、著名な認知行動療法の専門家である精神科医から、一緒に研修会をやろうというお誘いを受けた。これもそれ以来、毎年2〜3回ほどの研修会を、継続的に企画し、講師も担当している。そうこうしているうちに、外部からの研修講師の依頼も入るようになってきた。まさしく、ラーメン屋でいわれた通りの展開になってきたのである。実際、これまで担当した専門家向けの研修講師の回数は、約60回である。ある程度、認知行動療法の研修をする人ということで知られている存在にはなっているのかもしれない。

 研修講師の他にもやりたいと思っていた仕事で、案外早くできるようになったというものがいくつかある。一つは、スーパービジョンである。これはカウンセリングの個別指導のようなものであり、私も大学院のときには、担当したケースについてスーパービジョンを受けていた。今度は私がスーパービジョンを行う仕事がしたかったのである。これも先のファーブル式の勉強法の実践のためであった。3年目になった頃には、スーパービジョンをいずれ行いたいと周囲に公言していた。それから間もなく、実際にスーパービジョンを行うようになったのである。今では、ある大学院の外部スーパーバイザーとして、院生の指導も行っている。

 もう一つ、大学で教えるということも、私のやりたかった仕事である。私は博士号をもっていないので、なかなか難しいと感じていたが、大学の非常勤講師になるという形で、これも意外に早く実現することができた。詳細はここには書かないが、実現できたポイントは、人のつながりである。研修会講師の仕事は、私の上司からの命令が始まりであったし、大学院の外部スーパーバイザーも、直接は私の大学院の先輩に来た依頼であったが、諸々の事情でその先輩は引き受けることができず、私を紹介してくださったのである。そもそも病院に就職できたのも、ゼミの指導教員のつながりがあったからである。このように、仕事においては人と人とのつながりが非常に重要なのだということを最近痛感している。大学の非常勤講師の仕事も、仕事上で付き合いがあった知人からの紹介であった。そして今年、これまた諸々のつながりがあって、他に3つの大学から非常勤講師の依頼があった。これは現在の私にとっては、望外の喜びであった。

 大学の非常勤講師といえば、今年、大学で教えてから電車で帰宅している途中で、懐かしい人2名に立て続けに出会った。一人は、高校時代、一緒に朝練をしていた後輩である。彼とは私の結婚式の時以来、会っていなかったと思う。それが、たまたま帰りの電車で遭遇したのである。もう一人は、塾講師時代の上司(校長)である。これは結婚式どころか、10年以上は会っていなかった。これもたまたま帰りの電車で見かけたので、声をかけたのである。彼の姿は当時と全く変わっていなかった。

 仕事については以上のように、病院で臨床心理士として患者さんに接するだけではなく、研修会講師やスーパーバイザーの仕事、さらに大学での非常勤講師の仕事もするようになったのである。他にも、教育や産業、司法の領域でも臨床活動を行うになっており、また、英書の翻訳や本の執筆の仕事もいただいている。端的にいえば、仕事上は順調そのものであり、最近は特に、これ以上はないくらいに順調である。こういう時こそ、大きな落とし穴が待っているものであるから、気を引き締めているところである。

 病院で働くようになってからも、当然のことながら大学以来の研究会や師が主催するゼミには継続的に参加して、弁証法・認識論の研鑽を続けている。そして、私が病院に入職するのと前後して、京都弁証法認識論研究会のブログも開設し、毎日更新するようになった。ここで私は主に、現在行っているカウンセリングや心理療法など、心理臨床に関わる事実を弁証法・認識論的に捉え返す修練を行っている。これは特に「認識論」のカテゴリーにある論考を読んでいただけば分かるであろう。

 ところで、このように毎日更新しているブログに関しては、どうしても一人の人物を挙げておかねばならない。それは、「心に青雲」というブログを主催されていた玄和会のある支部長である。「心に青雲」は2006年7月ごろに見つけ、それ以来愛読していた。われわれは複数名でブログ記事を書いており、それでも、毎日更新するというのは非常に大変なのであるが、彼は何と、たった一人で毎日ブログ記事を更新し続けていたのである。この事実は、少なくとも私にとっては大きな刺激となった。われわれのブログを毎日更新するための、一つの原動力になったのではないかと思っている。

 彼とはそれなりの回数、メールでやり取りした。これは冗談ではないのだが、私はその素直さと勉強熱心な態度のために、上の方に目をかけていただくことが多いのだが、彼も玄和会の外部にいた私に目をかけてくださった。こっそりと、いろいろな情報を教えてもらった。そのような個人的なやり取りがあったからか、彼のブログの記事についても、それほどひどいことが書いてあるとは思えなかった。京都に来られた時には、確か2回ほどお会いしたこともある。その時彼は、「場を支配するのだ!」ということを強調されていた。その時以来、「場を支配する」というのは、いつも私の頭の片隅にあって、私を動かす言葉になっているような気がする。彼は今年亡くなったそうである。ご冥福をお祈りしたい。

 プライベートでは、2015年2月に母が亡くなった。乳がんだった。定年退職して間がなく、私たち息子を含めて、人のために尽くしてきた母が、ようやく自分の時間が持てると思ったその時にがんが発覚して、もはや手の施しようがなかった。大した親孝行も恩返しもできなかった。唯一、亡くなる前に私の娘が誕生して、孫の姿を見せられたのはよかったと思っている。そして、私自身は、今後の私の生き様自体が、恩返しになる、そのような生き方をしていかなければならない。

 以上、40歳を迎えて、自身の半生を振り返ってみた。いろいろな思いが去来しているが、まず私の原点を確認することができたと思う。私の原点は、ずばり「無上の知性」である。抽象的な言い方かもしれないが、確か、南郷継正もそういっていたはずだから、これでいいだろう。万能人、学中の学たる哲学を極めた人、世界を掌に乗せる人、場を支配する人、これが私の理想の原点なのである。

 現在の私にまで至る発展の必然性のようなものも見えてきた気がする。端的には、素直な性格であったために、これだと決めたものとの相互浸透によって、私が創られてきたということである。一番強く感じたのは、高校時代の伊藤和夫『英文解釈教室』で英語の力を比較的に伸ばした経験があったからこそ、南郷継正が弁証法の教科書は三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』だけだ、これだけをやればよいと指摘しても、それほど違和感がなく、すんなりと信じることができたのだという点である。本当に優れた人物、そして同じことだが、優れた著作に出会い、その人物や著作と、素直に相互浸透を図ることによって、必然的に今の私が存在するのである。

 優れた教師に出会ったことによって、私自身も優れた教師に憧れ、教えるのが好きになったということも一つの発見であった。そして、教えるからこそ自分の認識の発展も促されるのだということは、近年、強く実感しているところである。ただ、現在までの指導対象としては、塾の生徒や研修会参加者、大学で一年限り教える学生などが主である。本当に自分の実力を発展させるための教育・指導をなすためには、本格的な弟子をとる必要あがる。40歳になったのであるから、20歳以下の鈍才大学生くらいを弟子にとる計画を立てて、実践していかなければならない。

 私の半生を振り返ってみると、それなりに挫折体験もあるものの、それを上回るほどの成功体験も積み重ねていることが分かる。負けず嫌いな性格も相まって、一生懸命努力してきて、それなりの成功体験につながってきたのだから、やればできるという自己効力感のようなものが私の中に育っているのを感じる。そして、これは認識論の基本であるが、われわれ人間は思い描いたことは実現するし、逆に思い描かないと実現しない。私も、英語の実力を向上させる、○○大学に合格する、一流の臨床心理士になる、研修講師をする、大学の講義を担当する、などなど、それらを思い描いてきたからこそ実現できてきたのである。

 では今後、私は何を思い描き、何を実現していくのか。それはやはり、唯物論的な認識論の構築(再措定)である。今行っていることも、全てこの認識論の構築という一大目的に収斂していくことになるはずである。具体的には、先に触れたように若い鈍才的な弟子をとる。これももう思い描いているので、近々実現するはずである。そして、謙虚に文化遺産に学んでいく。たとえば、心理臨床の世界で名人・達人などと呼ばれている臨床家の技は、私が認識論の体系化を試みる際に素材として活用するべきものである。書物として遺されているものも、批判するのは簡単であろうが、その成果を正しく受け継ぎ、アウフヘーベンして自己の体系の中に位置づけていく必要がある。そのためには謙虚に学んでいかなければならない。この点、「心に青雲」の主催者は私の反面教師でもある。

 この謙虚な姿勢にも通じるが、周囲の人間に感謝の気持ちを忘れないようにしたいとも思う。これまでの半生を振り返って、自分は本当にたくさんの方々に支えられて生きてこれたのだ、成長してこれたのだということがしみじみと感じられた。感謝の気持ちが自然と湧いてきた。身近なところでは家族や兄弟、そして研究会仲間や師に対して、職場の上司や部下、患者さんや仕事の関連で付き合いがある人物に対して、大きなところでは私の生活を支えてくれている労働者や私の理想となり私を導いてくださっている三浦つとむ・南郷継正両先生に対して、さらにいえば、これまでの人類の文化遺産を創造してくれた全ての人間に対して、私は感謝の気持ちを忘れないような人間になっていきたい。

 40歳から新たな自分を創り上げる、その覚悟と決意を述べて、私の徒然草を閉じたいと思う。

(了)
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2017年11月16日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(4/5)

(4)本史2

 大学を卒業した私は、塾の講師になった。仕事をしながら一般教養的な内容を学んでいけると思ったからである。それに、教育にも強い関心があった。また、浪人時代の予備校の先生に憧れて、ああいう先生になりたいと思ったことも大きく影響している。ただ、この塾講師になっても、私は挫折してしまう。当初は、中学生や小学生に国語や英語を教える仕事が中心であった。ところが、これまでに触れてきたように、私自身は小学校や中学校では特別に勉強しなくてもテストで100点が取れるような子どもであったため、何が分からないのか、どう教えていいのか、まったくといっていいほど分からずに、授業アンケートでも最低な結果になったのである。これにはショックであった。授業に行くのが恐かった。それでも、先輩の先生方に何とか支えていただき、2年間でそれなりの授業ができるようにはなっていった。

 この頃教えていた小学生で、今思うと明らかに発達障害のある天才児がいた。彼は自分のことを○○マン(○○には苗字が入る)と呼んでいた。○○マンは、本当に勉強がよくできた。彼は進学コースに入っていたのだが、中学生に教える内容よりも難しい内容をすらすら理解しているようであった。というか、彼のような人間にしか理解できないような、小学生には難しすぎる内容を教えるのが進学コースであった(小学生に国文法の助詞や助動詞の意味の識別をさせたりするのである)。発達障害があるからといってからかわれたりいじめられたりすることもなく、逆に、周りの子どもからも非常に個性的な天才児と見なされている様子であった。彼については、その天才ぶりで記憶に残っているだけではない。衝撃的な事実が発覚したことでも鮮明に記憶に残っている。ふつう、苗字に付けた「マン」で「○○マン」といえば、「キン肉マン」とか「スーパーマン」とか、その類のことを連想するのではないだろうか。周囲の人間もだれ一人疑わず、彼がそういうつもりで自分でニックネームをつけているのだと理解していた。ところがある日、彼が一つの絵を描いていたのである。そこには、肉マンやアンマンに並べて、自分の顔の「マン」が描いてあったのである。この時初めて、「マン」の意味が分かったのである。

 さて、3年目からは高校生に英語を教えるようになった。これは非常に楽で、楽しい仕事であった。というのは、私自身、高校時代に英語には散々苦労したし、偏差値30台から70オーバーを実現するほど熱心に勉強したので、どういうところから勉強していけばいいのか、英語が読めるとはどのようなことなのか、どうすれば読めるようになるのか、英文法の基本とは何か、どのように筋を通せば理解しやすいのか、などということが、手にとるように分かっていたからである。高校生に英語を教えたのは3年間ほどであったが、この間、自分自身も英語を勉強して、自分の頭の中もさらに整理されていったと思う。

 さて、私は働き始めてからも、弁証法・認識論の勉強はもちろん続けていた。大学時代に立ち上げた研究会は、働き始めてからも月一で開催していた。師が主催するゼミ合宿にも継続的に参加していた。このゼミ合宿の中で、師は「学問を志すなら、若い頃に最低でも修士号を取っておいた方がよい。私は取らずに後悔しているところもあるから」とおっしゃった。私はその頃ぼんやりと、何年か働いてお金を貯めたら、大学院に行こうと思っていたが、その思いが師の言葉で強くなっていった。

 初めは教育に関心があったので、出身大学の教育学研究科に進学することを考えた。これなら、私の真の専門と定めている認識論の研鑽になるだろうという見込みがあった。しかしある時、とある本を読んでいると、法律の専門家が弁護士であるように、心理の専門家である臨床心理士という資格があることを知った。いや、存在自体は知っていたかもしれないが、それほど意識していなかったのは確かである。弁護士と並べられる資格であれば、それ相応の専門性があるだろう。カウンセリングや心理検査を通じて、心の悩みを抱える方々に関わっていくのは、認識論の研鑽としての十分に意義があることに違いない。そう考えて、私は臨床心理士を目指すことにした。

 ただ、臨床心理士になるには、指定されている特定の大学院を修了する必要がある。大学では、哲学系が専門だったので、臨床心理学となると畑違いであり、いきなり大学院を目指すのは無謀なのではないか。それなら、学部の3回生に編入して、2年間、学部で臨床心理学を学び、それから大学院に進むことも考えられる。そちらの方が無難だろう。そのような思いに傾きつつ、そのころ小論文の書き方でお世話になっていた予備校の先生に相談した(この先生は確か当時、大学の非常勤講師をされていたはずである)。するとその先生は、「絶対に直接大学院にチャレンジするべきだ。学部ではほとんど何も学べない。時間がもったいない」と教えてくださった。そこで私は、直接大学院入試にチャレンジすることにしたのである。すぐ後に判明することであるが、この先生の助言はまさしくその通りであった。本当に学部編入などという妙な回り道をとらずによかったと思う。

 次に問題になったのは、どこの大学院を受けるか、ということであった。いろいろ調べていくうちに、最近は認知行動療法というのが流行っており、これは、ものごとの受け止め方によって気分が変わってくるので、受け止め方(認知)を変えることによって、気分をコントロールすることができる、というようなものだと知った。三浦つとむ・南郷継正系列の認識論でいうところの「問いかけ的反映」という論理の一形態であると私には思えたので興味が持てた。そこで、認知行動療法を学べる大学院を探したところ、当時の私の情報収集力では、北海道の私立大学と四国の国立大学しか見つけられなかった。北海道は遠いし私立はお金もかかるので、四国の国立大学の大学院を受験することにした。

 臨床心理士になろうと志してからは、ぽつぽつ、臨床心理学の勉強を始めていたが、本格的に始めたのは大学院入試の3か月ほど前からである。この頃に購入したのが、臨床心理士指定大学院の学生は必携とされていた『心理臨床大事典』(培風館)である。これこそ、学部時代に大学生協の書店で、女性の知人が購入しようとしていた書籍だったのである。彼女もまた臨床心理士を目指していたのであり、私が臨床心理士を目指していたこの頃は、すでに臨床心理士の資格を取って、大学の博士課程に在籍していた。この頃、一度だけあって、大学受験のアドバイスをいただいた。あれこれ思案して、結局私が採用した勉強方法は以下である。すなわち、まず、『試験にでる心理学』シリーズ(北大路書房)などを参考にして、コンパクトな基本書を設定し、その内容をマインドマップにまとめたりしながら、目次を見てその中身を自分で自分に講義する「自己講義法」を実践する。すぐ後で触れるが、そのころ弟と一緒にジョギングをする機会が多かったので、走りながら弟に実際に講義したりもした。そういえば、弟とは、南郷継正が推奨していた灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動も一緒に行っていた。この時も歩きながら、臨床心理学の全体像などを講義していたものである。灼熱のアスファルトの上を裸足で歩くという運動が、頭脳活動を活性化したために、いつも以上に効率の良い学習になったのかもしれない。もちろん、基本書で創り上げた臨床心理学の全体像に、その他の参考書や用語集を使って肉付けすることも行った。こうして大学院受験を迎えたのである。

 前日は四国入りしていたが、ホテルで一睡もできなかった。緊張していたということはないと思っているのだが、どういうわけか、本当に一睡もできなかったのである。ちなみに、この時泊まったホテルは、学部時代に運転免許をとるために2週間ほど合宿していた場所のすぐ近くで、何か因縁めいたものを感じたものだった。一睡もできなかったが、大学院入試は思ったより簡単で、特に英語などは、辞書を持ち込んでもよかったこともあり、ほぼ満点だったと思う。私の英語読解力で唯一の弱点は英単語力のなさであったが、辞書があったので、その点は全く問題にならなかったのである。結果は合格。3か月に満たない受験勉強で大学院に合格できたことは、私の小さな成功体験の一つであった。

 当時、もう一つの成功体験があった。それはダイエットである。当時私は、塾講師の不規則な勤務形態と暴飲暴食のために、体重がかつてないほど増加していた。具体的には、マックスで75sもあった。見た目もふっくらしている感じである。大学院に入学するにあたり、これでは格好悪い、何とか痩せなくては、と思い、ダイエットを決意したのであった。やったことは単純で、食事量を減らし、ジョギングを始めたのである。ジョギングは、高校時代に朝練を一緒に行っていた後輩にマラソン大会への出場を誘われたのがきっかけで始めた。初めは2q走るのもしんどかったが、徐々に伸ばしていき、5q、10qと走れるようになっていった。一時は、週に3回、10qずつくらい走っていた。みるみる体が軽くなり、ますます走りやすくなっていったのを覚えている。弟が一緒に走ってくれたのもよかった。こうして結局、半年間で12sほどの減量に成功したのであった。

 大学院の入学の直前には、学部時代に熱心に学んだ河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)を久々に読み返して、来るべき学生生活に備えた。そしていよいよ、私の2回目の学生生活が始まったのである。1回目の学生生活が充実しすぎており、思わず通常より1年長く在籍したくらいだから、今回の学生生活に対しても大きな期待があった。初めての一人暮らしも経験した。というのは、学部時代は、双子の兄と一緒に暮らしていたからである。

 大学院に入って特に印象的だったのは、学部時代の学生とは全く種類の違う人々が大半であったということである。すなわち、秀才タイプの人間は、院生にはほとんどおらず(教員にはいたが)、みんな、感性豊かなタイプの人間だったということである。その分、あまり勉強しない人が大半であったともいえる。失礼ながら、このくらいで大学院に合格できるのであれば、生真面目に学部からやり直すなどということをしなくて本当によかったと感じた。しかし、今まで接してきた人間と全く種類の違う院生の中で生活できたのは、両者の比較でそれぞれの特徴が浮き彫りになってきたということもあるし、単純に、それはそれで楽しく有意義であった。

 教員も、学部のころの教員とはかなり違ったタイプの方がおられた。中でも印象的なのが、今はその大学の学長になられている先生である。ふつう、大学の教員というと研究者タイプで、自分の研究していることのごく基本的なことを学生相手にしゃべるのが講義であり、講義(教育)は研究の片手間の仕事、という感じであろう。少なくとも、私が学部でお世話になった○○大学は、そのような感じの教員ばかりであった。ところが、私が行った大学院の教員、中でも現在の学長先生は、まったく逆だった。研究などその頃はほとんどされておらず、講義(教育)に非常に力を入れておられたのである。一流の臨床心理士を育てようと、熱心に取り組まれていた。その熱意に、私は非常に感動した。この先生は実は出身大学が私と同じであり、そのこともあって目をかけてくださったのだと思う。そもそも私は、認知行動療法の先生を求めてこの大学院を選んだのであり、その認知行動療法の先生も予想通り非常に魅力的であったが、この現在の学長先生に出会えたことも非常なる幸運であったといってよい。

 大学院の2年間、私は南郷継正の著作に出てきた弟子のエピソードを見習って、講義内容を全てレポートにまとめ、われわれの師や仲間に送っていた。臨床心理士の指定大学院は、かなりの数の単位を取得する必要がある。同時に大学院に進学した弟などは、週に1回か2回くらい、大学院に行っていただけだったと思うし、それが一般的な大学院生のあり方であろう。ところが、臨床心理士の指定大学院の場合は、必修の講義だけでもかなりの数にのぼり、毎日2〜3コマほどは講義やゼミがあったと思う。これに加えて、学外の学校や福祉施設などでの実習があり、実際のクライエントも担当してカウンセリングを行うようになっていく(さらに、カウンセリング後は、カウンセリングの内容を逐語録におこし、スーパーバイザーの先生に指導を受けることになっていた)ので、なかなかに忙しかった。さらに、私は、近くの大学で行われていた認知行動療法の勉強会にも毎週参加していたし、同じゼミの3人で、認知行動療法の原典を英語で講読する勉強会も行っていた。したがって、学部時代のように自由を謳歌した、という感じではなかった。

 それでも、院生がみんな近くに下宿していたこともあり、よく遊んだものだった。現役の中学校の教員なども多数おられて、年齢の幅がけっこうあった。私はストレートマスター(学部卒業後、そのまま大学院に進学した者)よりは若干年を取っていたが、年齢不詳で通した。ダイエットに成功していたからか、はたまた、この頃とみにかわいさが増してきていたからか、私の人生の中では割とモテた時期だった。現在の妻(といっても、かつての妻がいたわけではないが)は大学院の同期で、大学院時代に付き合いはじめ、修了直前に結婚した。年齢だけではなく、諸々の事情で彼女と付き合っていることも周囲に隠していたため、修了後しばらくしてから結婚式の案内を出した時、みんなは何かのいたずらだと思ったらしい。なぜ年齢等を隠していたのか、今となっては当時の心境を思い出せないが、おそらく、そちらの方が「面白い」と思ったからであろう。何が面白いのか、現在ではよく分からないが。

 修士論文では、認知行動療法に関する研究を行い、それなりのものをまとめた。また、カウンセリングを担当したケースを事例論文としてまとめ、紀要に投稿した。その他、認知行動療法が専門のゼミの先生について、学会の手伝いもしたことがあった。これらの業績が認められ、確か奨学金の半分が返済免除になった。これは当初から狙っていたものであり、うまくいったことが経済的には大きかった。ただし妻は、海外での学会発表や査読付き論文もあったので、確か全額返済免除になっていたはずだ。この領域では、私は妻の業績に及んでいない。ちなみに彼女は、中学高校時代にバスケットボール部でエースだったそうだ。この点でも、私は妻の実力に及んでいない。もう一ついっておくと、彼女は空手(もちろん、スポーツ空手であるが)の黒帯を所持している。白帯でやめてしまった私は、この点でも妻の実力に及んでいない。

 こうして、楽しく充実した2年間の院生生活が終わった。

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2017年11月15日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(3/5)

(3)本史1

 私は大学時代、自由を謳歌した。これは旧制高校の学生に匹敵するのではないかというくらいである。予備校時代にがんばって勉強した甲斐があったというものである。工業高校卒の父親と、商業高校卒の母親の息子が、それも双子そろって、一流国立大学に進学したのであるから、ある意味では奇跡であった。ただ、なぜだか理由はよく分からないのであるが、兄の方は私から遅れること1年、ようやく同じ大学の同じ学部に入学してきたのであったが。ちなみに我々には6年年下の弟もいるのであるが、その弟も5年ほど後に同じ大学に入学することになる。

 さて、私の大学時代については、6年半ほど前に、本ブログに「三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出」として説いたことがある。あれからすでに6年以上たっているとは、驚きであり、まさに光陰矢のごとしである。ここでは、多少重複するかもしれないが、大学時代の思い出を振り返ってみたい。

 私にとって大学時代は、私というものの骨格の原基形態ができあがった時期である。「生命の歴史」でいうところの魚類段階だといっていいだろう。今の私にあるものは、全て大学時代にその直接の起源がある。それに比べれば、浪人時代までは、いってみれば私の前史であり、もちろん、前史あってこその本史なのであるが、そこには断絶があり、飛躍がある。

 一番大きかったのは、何といっても弁証法との出会いである。より正確性を期するならば、三浦つとむの弁証法との出会いである。私はとある組織に属していた関係で、もともと弁証法なるものに非常に強い関心を持っていた。浪人時代から『フォイエルバッハ論』なる著作があることは知っていた。大学に入ってからも、弁証法関係のお勧めの著作を、先輩などに尋ねていた記憶がある。そんな中、その頃普及しだしたインターネット上で、とある掲示板を見つけた。確か、「哲学投稿ボード」なる名前であったと思う。そこには、「永遠の思考」や「なし」などというペンネームで投稿している方が大勢いたが、本名で投稿されているおじさんがいた。そのおじさんが、熱心に勧めていたのが、三浦つとむや南郷継正の著作だったのである。そのおじさんの紹介の仕方がよかったのであろう、私は三浦つとむや南郷継正の著作を買って、読んでみることにした。ここから、私の三浦つとむ・南郷継正三昧の学生生活がスタートする。1回生の夏であった。

 一番衝撃を受けたのは、最初の頃に読んだ南郷継正『弁証法・認識論への道』(三一書房)である。まさに私のために書かれた書であるとの思いがして、何度も背筋が凍りついたような感覚に襲われたものである。○○大学の秀才たちに囲まれて勉強している中で、自分の鈍才ぶりを痛感していた私は、南郷継正が指し示す道しか、私が挽回できる道はないと思った。南郷継正が弁証法の基本書であるとくり返し説いてた三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)には、弁証法は哲学の生まれ変わりであると説いてあった。この言を、南郷継正がそうであったのと全く同様に、私は素直に受け取り、大学に入学した目的である哲学の学びというのは、すなわち弁証法の学びなのであるとして、弁証法の学びにのめり込んでいくこととなった。

 当時のインターネットの普及によって、それまでは考えられなかったような精神的な交通が可能となった。先の掲示板で知り合った私と同い年の若者が、「弁証法メーリングリスト」を立ち上げ、そこに、全国各地の、三浦つとむや南郷継正のファンのような人々が集い始めたのである。それらの先輩にいろいろと教えてもらいながら、大学でも三浦つとむを学ぶサークルを創った。そこで当初から一緒に活動をしていたのが、今もわれわれの研究会の中心メンバーであるS・K君である。彼との出会いや関わりについては、前稿「三浦つとむとの出会いにまつわる個人的思い出」で詳しく説いたが、彼なしには今の私も、今のわれわれの組織もありえないことだけは間違いない。もし私が一年間の浪人だけで合格できていれば、インターネットの普及具合からして、三浦つとむや南郷継正に出会うのが遅れたかもしれないし、S・K君との出会いも違ったものになっていただろう。そうなれば、私が彼に三浦つとむや南郷継正を熱心に勧め、彼もまた弁証法の学びにのめり込んでいく、というようなことにはならなかったかもしれない。
 
 学生時代、私は南郷継正の指示することは、だいたいやったと思う。南郷継正お勧めの小説や教養書は、入手が困難なものも含めてほぼ読んだ。特に入手が困難だったのは、ポレヴォーイ『真実の人間の物語 上・下』(青銅選書)と中岡孝『社会科学読本 自然・人間・社会』(牧書房)である。こういうものを含めて、南郷継正が触れているものはだいたい読んだはずである。告白すると、私は大学に入るまで、本という本をほとんど読んだことがなかった。学校の宿題で出ていた読書感想文も、本文を読まずに「あとがき」だけを参考に書いたこともあるほどである。そんな私が、南郷継正に出会って、全く変わっていったのである。

 他にも、南郷継正の指示に従って、中学の教科書、特に理科と社会を勉強したりもした。いくら尊敬している先生から言われたからといって、○○大学の学生で、真面目に中学校の教科書を勉強したのは、おそらく、日本論理学研究会の会員とわれわれくらいなものであろう。もちろん、三浦つとむや滝村隆一の著作も、南郷継正の指示通りの順番で学んでいった。南郷継正の弟子である瀬江千史の著作も読んだ。これにはみんな驚いたものだった。こんなに滑らかな論理展開の文章が書けるとは! おそろしいほどの分かりやすさを把持する文章であった。瀬江千史を育てただけでも、南郷継正の実力の本物さ具合は知れようというものである。

 こんな私は、当然のように、大学1回生の冬に、南郷継正が主催する空手団体である玄和会への入門を試みた。ここまで南郷継正に心酔しきって、玄和会に入らないほうがおかしい。私は当時、大阪大学におられた南郷継正の一番弟子の一人といっていいであろう本田克也氏の支部に入門しようとした。一度は入門したといってよい。スキー合宿にも参加したくらいである。このスキー合宿では、本田氏の見事なスキーの技術に感嘆したが、何でも、スキーを始めてわずか数年だということであった。しかも、あらゆるゲレンデのあらゆるコースを全て把握しているということであった。「そっちは易しいから、こっちに来い」といわれてついていくと、上から眺めたら真っ逆さまな絶壁と思えるような、こぶだらけの斜面であった。「これくらい行けなければ、空手なんてできないぞ」といって、何のためらいもなく滑っていかれた。私はヒーヒーいいながら、ゆっくりと降りていくのがやっとであった。このように最初は順調であったが、そのうち、私がとある組織に属していることが判明して、本田氏の怒りを買ってしまうことになる。「お前はスパイか!」と罵倒され、破門同然で私は玄和会を去ることになったのである。

 これは私にとって、大きな挫折だった。お先真っ暗になったといっていい。学問への道などすっぱりあきらめてしまって、面白おかしい人生を送ろうと決心したほどであった。しかし、弁証法メーリングリストの先輩方や大学の同志の励ましによって、私は立ち直り、玄和会とは別の道で(といっても、論理的には同じになるはずであるが)、学問への道を志すことに決めたのである。

 大学ではその後も、三浦つとむ・南郷継正三昧の学習生活だった。S・K君とは相変わらず研究会などで頻繁に議論を重ねていた。3回生になると、三浦つとむを正面から研究できそうだということで、倫理学専修を選択した。どうやら倫理学では、「規範」が扱われているようであるし、三浦つとむは『認識と言語の理論』で規範を唯物論的・弁証法的に解明しているのであるから、これをちょこちょこっと、適当なリサーチクエスチョンを設定した上で説いていけば、卒論が書けるだろうと踏んだのである。実際、その通りになった。

 そのころの記憶としてよみがえる場面が一つある。予備校時代から一緒に勉強して、教育学部に入学していた女性がいたのであるが、彼女が大学生協の書店で、非常に大きな書物を抱えてレジに向かっていたのである。軽くあいさつを交わした後、、彼女は「これ、丸まる一冊覚えなあかんねん」というような意味のことをいった。「それは大変やね」とその時は何気なく答えていたが、まさかその後、自分もその書物を買う羽目になるとは、この時点では予想だにしていなかった。

 2001年の冬にはまた、私の人生上非常に意義のある大きな出会いが待っていた。現在のわれわれの師との出会いである。この師とは、弁証法メーリングリスト上ではすでにやり取りをしていた。この師がメーリングリストに現れたとき、他の方には失礼ながら、何か異次元なものを感じた。率直にいってしまうと、「南郷継正、現る!」と思ったのである。他の方はどちらかといえば、三浦つとむや南郷継正がいっていることをそのままくり返しているだけという印象であった(それはそれで大事である)が、われわれの師となる人物は、まさしく、自分で論理化した内容を説いておられたのであり、それは三浦つとむや南郷継正が、直接にはどこにも説いていない内容ながら、非常に論理的で筋が通っており、いかにも南郷継正が説いていてもおかしくはない、というものに思われたのである。

 そんな人物が主催するゼミ合宿があると、これまた弁証法メーリングリストに参加されていたある方が教えてくださった。彼は若い私を非常に買ってくださり、ぜひとも一緒に勉強しようと誘ってくださったのであった。玄和会での失敗体験がトラウマになっていた私だったが、思い切って参加することにした。合宿会場の最寄り駅まで迎えに来てくださった彼の姿は、予想に反して大柄であった。メールでのやり取りのみの印象では、非常に小柄で大人しく、ひょろっとした感じの男性というイメージだったのである。彼に会場まで車で送っていただいている途中、何と、後続の車に追突されるという事故にあった。後ろの車はものすごい勢いでバックしたかと思うと、またものすごい勢いで前進に転じというのをくり返し、タイヤをキュルキュルいわせていた。運転手は完全にパニック状態に陥っているようであった。私は、彼が朝入れてきたというドリップ・コーヒーをいただいている最中であったが、それをぶちまけ、また追突されるのではないかという恐怖に慄いていた。すると彼は一言、「認識論ですね」と落ち着いた口調でいった。この「認識論ですね」という一言は、非常に新鮮に響いた。もちろん、われわれは大学で喧々諤々の議論を行っており、その中で「弁証法」や「認識論」などという言葉は、それこそ常識のように何度も使っていたし、耳にもしていた。しかし、メールでのやり取りしかしていなかった彼が、このような状況で発した言葉であったせいか、何か、心が躍るというか、目を見開かせてくれるというか、新奇な体験に感じたのである。

 肝心の合宿では、誘ってくれた彼と師の他に、3名の参加者があった。私が体験した玄和会とは違って、非常に受容的で、若い私を受け入れてくださった。ゼミの会員で、映画論を専門にされている方が私に何か問いかけられた時、師は「違う。彼は初めての参加なのだから」と指導された。すると指導された会員は「そうか。なるほど」とつぶやいて、何かを思惟されている様子であった。この合宿では夕食後、日本酒を味わう時間があった。玄和会のスキー合宿でもビールを飲む機会があり、「酒飲むんかい!」と心の中で突っ込んだものであったが、こちらのゼミ合宿では、この時間がいわば本番の一つであったといってよい。このようにいうとただの酒飲み集団だと誤解されるかもしれないが、そうではない。日本文化の一つとして、日本酒を味わうのである。ここで師からは、日本酒の生成発展の講義があったのはいうまでもない。

 このゼミ合宿へは、その後も継続的に参加することとなる。当初は、静岡あたりの会場で2泊3日が多かったと記憶している。私は京都から一人、高速道路を飛ばして駆け付けた。その後、少しずつ、S・K君など、大学の仲間も参加するようになっていった。ある時からは、関西のメンバーが増えてきたということで、師がわざわざ関西に出向いてくださることが多くなってきた。現在では年3回、この種の「ゼミ合宿」を行っている。

 残念ながら、私をこのゼミ合宿に誘い、われわれの師となる人物と出合わせてくれた彼は、それから4年もたたないうちに亡くなってしまわれた。車で3時間半ほどかけて伺った長野市にあるお宅で、奥様からうかがった話は感動ものだった。彼は30歳を超えてから、アトピーで体の弱い娘さんのために脱サラし、鍼灸師養成の学校を経て鍼灸師となり、その後に弁証法の学びを開始されたというのである。奥様が何度も何度も、「主人は、娘を一生分かわいがってくれました」とおっしゃっていたのが印象的だった。

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2017年11月14日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(2/5)

(2)前史

 今の私の土台が創られたのは、高校時代から浪人時代にかけてである。

 私は、中学校では1、2を争う学力を把持していたので、当然ながら、私の住んでいた学区から行ける一番偏差値の高い高校に進学した。さすがの私も、高校に入ってからは授業の予習・復習をそれなりに行うようになった。特に英語である。英語は、予習をしていかなければ授業についていけなかった。中学校の3年間、同じ先生に英語を教わったが、その先生が新任の先生だったからか、英語の実力がいまいちだったようである。おそらく、私と同じ中学校出身の同級生は、全体的に英語ができなかったのではないか。それはともかく、予習で英単語を調べて訳しておき、授業で先生の解説を聞いて、試験一週間前に詰め込む、という形の学習で、定期試験はそこそこの点数がとれていた。これに対して数学は、本当に得意だった。授業を聞いているだけでほぼ完全に理解でき、試験勉強も英語ほどはやらなかったと思うが、常に高得点だった。

 兄は、十分に私と同じ高校に行けるだけの学力があったが、バスケットボール部が強いということで、2番目に偏差値の高い高校へ進学していった(高校に進学してみると、実際にバスケットボール部が強かったのは、むしろ私が進学した高校であったのだが)。その際、大学は同じところに行こうと約束したが、この約束は反故にされることなく、数年後、果たされることになる。私が帰宅して勉強している横で、兄は高校の友達と遊んでいるということがよくあった。高校時代の兄が家で勉強しいている記憶が、私にはほとんどない。

 高校に入っても私はバスケットボールを続けたが、これが大きな挫折体験になった。同級生には、身長が180pを超える者が4〜5名ほどいた。その中には、高校からバスケットボールを始めたため、全く素人同然であり、しかも運動能力もそれほど優れていない者もいた。しかし、バスケットボールでは身長がものをいう。そんな素人であっても、背が高いというだけで重用され、1年生の内から試合に出させてもらっていた。私はというと、背は170pとそれほど高くなく、中学校で顧問の先生からの指導を受けられなくなったことが響いて、技術的にも全然大したことはなかった。同級生には、背はそれほど高くなくても、非常にうまい者がいたので、私は全くレギュラーになれなかった。それどころか、2年生になると、中学時代に県の大会で優勝したチームのレギュラーメンバーが4人ほど入部してきて、他にも非常にうまい後輩が3人ほど入ってきた。彼らは背はそれほど高くなかったが、技術的に非常に優れていたので、ますます私の出番などなくなっていった。

 そうはいっても、負けず嫌いの私は簡単にあきらめたわけではない。自主的に朝練を行ったのである。確か、2年生になったくらいから始めたはずである。朝練を行っていたのは、私と一人の後輩だけであった。この後輩は、同じ学年内で7番手くらいの実力であった。バスケットボールは5人で行うスポーツであるから、彼はスターティングメンバーに入れていない。そこで、スタメンよりも努力して、何とかスタメンを勝ち取ろうと思っていたのである。目つきの鋭い、どちらかというと不良少年のような風体であったが、どういうわけか、かわいらしく、真面目そのものの私と気が合った。2人とも負けず嫌いで、努力を厭わなかった(彼はそれほど勉強ができる方ではなかったが、持ち前の負けず嫌いと努力で、後に筑波大学に合格している)。二人で、来る日も来る日も朝練に励んだ。私の記憶では、ちょうど、阪神淡路大震災が起こった日も、朝練をしていた時期である。ところが、震災の影響で電車が止まってしまい、いとことともに私の母親に車で高校まで送ってもらったのはいいが、もちろん休校。それは予想していたので、バスケットの練習だけしようと体育館に向かうと、顧問の先生から「今日は部活禁止だ」といわれて、あえなくとんぼ返りした記憶がある。この顧問の先生のことを、私は好きではなかった。私と同じくらいか、私より下手だと思われる同級生を試合で使うのに、私はあまり出してもらえなかったからである。しかし、毎日朝練に励んでいる姿を見て、少しは出してくれるようになった。ただ、私が不貞腐れて、反抗的な態度に出たり、乱暴なプレイをしたりしたために、評価はダダ落ちになり、全く試合に出してもらえなくなってしまった。こうした反抗的な態度のために、件の後輩は逆に私を評価して、高校卒業後、唯一といっていいほど付き合いが続いていくのであるが。ともかく、このような事情で、私にとって高校生時代の部活動は大きな挫折体験になり、高校を卒業してからも、それどころかつい最近まで、試合に出してもらえなかった場面を悪夢として何度も何度も見たものだった。

 ただ、こういった朝練の影響もあったのだろうか、身体能力は高校時代に大きく発展していった。特に、走るのが驚くほど速くなった。私の記憶では、小学校の4〜5年生までは、どちらかといえば走るのが遅い方で、クラス代表のリレー選手に選ばれるなどということは全くなかった。ところが、中学校くらいから徐々に早くなっていき、特に長距離では、根性を出して、学年で3番くらいになったこともあった。それが高校に入ってからは、短距離走も早くなり、裸足で走った50メートル走では6.3秒くらいだった。また、3年生の部活の最後の大会のまさにその日にあった1500m走では4分40秒くらいで、サッカー部の一人に最後に抜かされただけで2位であった。ウォーミングアップのやり方などを教えてくれた陸上部の友人には、ダントツで勝ってしまった。おそらく、高校時代の私のイメージは、頭がいいが運動(バスケットボール)は苦手な秀才君という感じだったので、こんなに走りが速いというイメージはなかったと思う。

 高校時代の思い出の授業は二つある。一つは世界史である。2年生と3年生で同じ先生に教わったが、この先生のおかげで哲学に興味を持つようになった。あまりどういう内容だったかは覚えていないが、非常に面白かったということと、古代ギリシャの文化のところで、ゼノンの詭弁について触れられたことは覚えている。アキレスと亀の話である。これで哲学に関心をいだき、この先生の所に話を伺いに行くと、「哲学といってもいろいろあるが、哲学を学ぶなら○○大学文学部だ」と教えてくださったように記憶している。あとから記憶の改変が起こっているかもしれないが、何となく、この先生の授業で、哲学というのは学問中の学問であり、哲学者というのはその時代の最も頭のよい人間だ、というようなことを刷り込まれたような気がする。

 もう一つの思い出の授業は、3年生の時の英作文である。これは思い出の授業というより、思い出の先生である。強烈な個性の持ち主であった。どういう仕組みになっているのか分からないが、この先生は、公立の進学校であったその高校に20年ほど連続して勤務されていた。確か初回の授業で、「1回目の校内模試で200点満点中120点を取れたら、この参考書をやれ! 10回やれ!」と、独特の口調で強調されたのである。その参考書とは、伊藤和夫『英文解釈教室』(研究社)である。先生は、これを10回やればどんな英文でも読めるようになること、伊藤和夫というのは教えるプロである予備校講師のなかでトップであること、だからこれは難解だが素晴らしい参考書であること、を非常に熱く語っておられた。進学校であったが、高校の先生が参考書を勧めている場面に出会ったのは、これが最初で最後であったと思う。ここでいわれている校内模試というのは、3年生の内に5回ほど行われるもので、大学入試を意識した本格的な試験である。200点満点中120点というのは、この模試のレベルからすれば、かなりハードルが高い。素直な私は、そんなにすばらしい参考書であれば、ぜひとも購入して取り組みたいと思ったのであった。ところが、その模試を受けてみると、英語の結果は散々であった。200点満点で49点、偏差値は30台であった。定期テストでは英語でもそれなりの点数がとれていたものの、大学入試には全く通用しないことが明らかとなった。

 しかし、あきらめの悪い私は、この先生に直訴しに行った。「先生、120点をこえたら『英文解釈教室』をやれということでしたが、私は49点でした。それでもやっていいですか?」と尋ねたところ、「おう! やれ! やったらいいんや!」と力強く即答されたのである。冷静に考えてみると、それなら120点という基準は何だったんだと突っ込みたくもなるが、当時の私の心情は全く違った。「よし! 許可を得たぞ! これで『英文解釈教室』に取り組める。そして英語もできるようになるぞ!」と心の底から喜んだものである。その後の私は、大げさにいうならば『英文解釈教室』一筋であった。3年生になってからは、バスケットボールの朝練に代えて、朝勉(朝の勉強)を行っていた。授業開始の1時間ほど前に学校に着いて、そこからひたすら勉強するのである。同じくらいの時間に来ている女子生徒が1人いた。おそらく、お互い意識はしていたが、一言も話さずに、もくもくと勉強していた。授業と授業の間の休み時間も、誰とも話さずに勉強した。もちろん、行き帰りの電車の中でも、である。もっと恐ろしいことに、18時に帰宅すると、すぐに2時間の仮眠をとり、20時から翌日の3時まで勉強する。そして3時からまた2時間寝て、5時に起きて準備をして、学校に行く、という生活だったのである。この間、自主的な勉強の時間は、ほとんど『英文解釈教室』に充てることができた。というのは、たとえば数学などは、学校の授業だけで偏差値80くらいを叩き出していたので、安心して英語に集中できたのである。さすがに10回やることはできずに一通り終わらせただけであったが、その結果、最後の校内模試では、英語に関しては、帰国子女のバスケットボール部女子生徒に負けただけで、学年2位の点数を叩き出したのである。

 英語に関しては驚くほど成績が上がったものの、英作文はほとんど手つかずであり、他の教科にしても、哲学を学ぶべく志望していた○○大学文学部(国立の超一流大学である)に合格するほどの実力はついていなかった。現役時代、その大学しか受けなかったが、予想通り、不合格となった。そこで私は、京都のとあるマイナー予備校に通うことにしたのである。この予備校を選んだ一番の理由は、学費が安かったからである。模試でいい成績をとっている者には、授業料の免除規定があり、私は確か、年間6万円しか払わなくてよかったと思う。また、この予備校は、京都にある○○大学専用のコースもあり、合格実績もよかった。それも、この予備校を選んだ理由である。

 この予備校もすばらしかった。すばらしすぎて、2年間も通ったほどである。特に印象に残っている先生が2人いる。一人は英語の名物先生で、私はこの先生に習ったおかげで、英語の構造が分かったというか、英文法や英作文もかなりできるようになった。英語の理屈を、これ以上になくクリアーに教えてくれた先生である。後に私は、塾の講師をすることになるが、それもこの先生の影響である。この先生のように英語を論理的に教えたいというのが、塾の講師になった一番の理由である。また、現在、翻訳の仕事もいただいているが、そこまで英語ができるようになったのは、完全にこの先生のおかげである。この件は、また後ほど触れたいと思う。

 もう一つは、後期試験の小論文対策を担当してくださった先生である。この先生は、普段は予備校にいなかった。おそらく、どこかの大学の先生で、小論文対策に特化して教えていたのだと思う。この先生は非常に教養豊かで、あらゆる問題に的確にコメントされていた。ごく少人数で指導を受けていたのだが、ある学生がとある課題に対して、日本人は明確な目標を定めると、集団的にそれに取り組み、すばらしい力を発揮する、というようなことを書いていたが、それに対して、丸山真男か誰かを引き合いに出して、解説されておられた。一番印象に残っているのは、ルネサンス期の万能人についての話である。「万能人」という言葉も、この先生から初めて聞いたのである。この先生によると、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは「最後の晩餐」や「モナ・リザ」で有名な画家・芸術家であるが、科学にも非常に精通しており、当時の最先端の知識を身につけていたという。このように、あらゆる分野に関心を持ち、それぞれの分野で一流の業績を残している人間を「万能人」と呼ぶ、ルネサンス期にはこのような万能人が何人も活躍したのだ、というような話だった。この話を聞いて私は、私が漠然と抱いていた哲学者というイメージと万能人のイメージが重なったような気がした。ありとあらゆる領域に関心を持ち、ありとあらゆる問題を解く実力を備えた人間こそ、哲学者であり万能人である、ということである。私はそのような哲学者・万能人に何としてでもなりたいと強く決意したことであった。

 熱心に勉強したこともあって、私の学力はみるみる向上していき、無事、志望の大学に合格することができた。本当は1年で合格することができたのであるが、2つの要因で2年間、予備校に通うことになった。一つは、ひょんなきっかけで入手した1万円を、その当時兄がはまっていたパチンコに費やして勝ってしまったために、パチンコに時間を割いて勉強時間が減ってしまったことである。もう一つは、センター試験の数学でのケアレスミスである。今でも覚えている。ある問題の途中の計算で、ルート4をなぜか4と計算してしまい(もちろん、正解は2である)、その後の問題が全滅してしまったのである。大問を丸々一つ、落したので、マイナス25点である。面白いことに、兄もまったく同じミスをしていた。途中の計算で、ルート4を4だとしてしまうと、その後の枠が合わないのである。センター試験はマークシート方式なので、たとえば2桁の答えの場合は、2つ枠があるのであるが、われわれの計算だと3桁になってしまう。こんな感じで、どう考えてもわれわれの出した答えが枠に合わないので、しかも、二人そろって同じ計算ミス(ルート4=4)をし、後はすべて正確に計算していたため、最終的に出てきた答えも同じであった。数学の試験が終わった後、お互いに「これは絶対に枠が間違っている。出題ミスだ」などと話し合っていたことを今でも鮮明に覚えている。

 予備校生活の最後も思い出深い。2年間、同じコースで勉強してきたが、お互い、全く口をきかなかったクラスメイトが、話しかけてくれたのである。「○○君、合格おめでとう。俺は落ちてしまったけど、この2年間、一緒にがんばってこれてよかったわ。これからもがんばって!」。彼はこういって握手を求めてきたのである。私は何ともいえず、感動して涙が出てきたのであった。彼は確か、第2志望の大阪大学に行ったはずである。

 このようなすばらしい予備校であったればこそ、2年間も通ったのであった。

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2017年11月13日

続・徒然なるままに――40歳を迎えて(1/5)

目次

(1)原点
(2)前史
(3)本史1
(4)本史2
(5)現在と未来

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(1)原点

 光陰矢のごとしとはよくいったもので、私もはや40歳である。本格的に学問への道を志したのが20歳の頃であったから、爾来、20年もの歳月が過ぎ去ったことになる。学問への道を志すまでが20年であり、学問への道を志してからが20年である。本エッセイでは、私のこれまでの人生を振り返り、私自身の原点を確認するとともに、原点を踏まえて、今後を展望したいと思っている。1ヶ月ほど前に本ブログに掲載された「徒然なるままに――40歳を迎えて」に触発されてのものである。

 私の記憶にある一番古い光景は、保育園時代のものである。おそらく、3歳か4歳ごろのものであろう。私はスプーンだったか、お箸だったかで、昼食を食べていた。私の前には、ちょっとした悪がき風の男の子が座って、同じく昼食を食べていた。その悪がきは、左手でスプーンだか箸だかを持っており、そのことを先生に注意されていた。「左手で持つのではありません。右手で持ちなさい」と。するとこの悪がきは私を指さし、「こいつもこっち(左手)で持ってるやん!」と反発したのである。この時の私の率直な感想は、「アホだな〜、こいつは」というものであった。向かい合わせに座っており、私が右手で持っていると、彼にとっては左側である。向かい合わせに座っている人間を自分に置き換えるときには反転させる必要がある。自分から見たら左であっても、反転させれば右である。そのことが彼には分らなかったのである。そこで私は「アホだな〜」と感じたわけである。しかし、今になって思えば、彼がアホだったというよりは、私が賢すぎたのである。3歳やそこらで、現象に引きずられることなく、相手の立場に立てば左は右になるということをしっかり理解していたのであるから。彼には悪いことをしてしまった。年齢不相応なレベルを求めて、それに達していないからといって「アホ」呼ばわりしたのであるから。

 そんな賢すぎた私も、アホなことをしていた。私は当時、シイタケを海の幸だと勘違いしていた。クジラのような魚の肉だと思っていたのである。この時点で少しアホである。さらに、海の幸全般が当時苦手だったため、シイタケを海の幸だと思い込んでいた私は、シイタケを食べることができなかったのである。そこで、給食でシイタケが出たときには、いったん口の中に入れて食べたふりをして、先生が見ていない隙に口から取り出し、さっと机の下に投げ捨てていたのである。これでばれないと思っていたのだから、愚の極みである。当時の予想に反して、あっという間に先生に見つかり、こっぴどく叱られた記憶がある。後年、シイタケがキノコの一種だということを知って非常に驚いた。と同時に、「それならそうと、いってくれたらよかったのに。それなら食べられたのに」などと、周囲の大人を不当に批判したものである。まったく、頭がいいのか悪いのか分からない、ただし、非常にかわいげのある子どもであった。

 このような勘違いは他にも覚えている。これも小学校に入る前のことだった思うが、布団のなかで母親から「兄弟」や「双子」なる概念を教えてもらっていた。当時の私にはよく理解できなかったようで、私は「兄弟」や「双子」は、今でいう(?)「行事」の一種だと理解した。そういう行事=イベントがあると思ったのだ。当時の私は、関係概念が理解できなかったものと見える。そこで私は母親に、「キョウダイは手をつながないといけないの?」と尋ねた。この記憶ははっきりしている。この記憶から推測すると、おそらく母親は、しばしばケンカしていた兄と仲良くしろというようなことをいっていたのではないか。「キョウダイは仲良くしないといけない」と。そこを私は、キョウダイという名のイベントでは、兄と仲良くしないといけないのかと理解して、仲がいい即ち手をつなぐと短絡的に思考して、「キョウダイ(という行事で)は(兄と)手をつながないといけないの?」と聞いたのだろう。これに対して母親は、「いや、別に手はつながなくていい」という至極まっとうな返答をしたが、それにしても、なかなかかわいらしい勘違いである。

 小学生時代の私は、もっぱら近所の友達と近くの公園で野球をして遊んでいた。今考えると理由がよく分からないのだが、当時、この公園をみんな「遊園地」と呼んでいた。ここにもちょっとした概念の混同がある。それはともかく、私のポジションはピッチャーで、それもエースであった。「自分はピッチャーだから、相手ピッチャーがどこに投げるかもだいたい分かる」などというかわいらしい嘘もついていた。しかし、試合になると、どこに投げるか分かっているはずのボールなのに、全く打てなかった。野球の思い出といえば、アニメ「タッチ」がある。ご存じの方も多いと思うが、「タッチ」というのは、双子の兄弟が主人公で、野球をやっていた弟が交通事故で亡くなり、その後、本当は才能があった兄が野球を始めて、甲子園に出場して優勝する(?)というようなストーリーである。私もたまたま双子の兄がいたため、夕方、「タッチ」を見終わってから、兄と「遊園地」に行って、キャッチボールをしたものである。日が暮れて、暗くなって、ボールがはっきり見えなくなるまで兄とキャッチボールをしていた。

 そういえば、この兄はひどい男で、小学校4年生くらいのときに、スポーツ少年団のなかに野球とサッカーがあったのだが、「タッチ」の影響を受けて二人で野球に入る約束をしていた。ところが、どういうわけか、勝手に一人、サッカーに入ってしまったのである。まったくひどい奴だ。

 他に小学校時代で覚えていることといえば、テストでは満点しかとったことがなかったということである。国語のテストなど、一字一句、模範解答と同じなので、先生もびっくりしていたくらいだった。もちろん、塾などに行っていたわけでもないし、特別に勉強していたわけでもない。それでも、自然と勉強のできる(かわいい)子どもに育っていったのである。今振り返ってみると、これには、家庭環境、特に母親と祖父の影響が強いと思う。母親は、子どもとかなり頻繁にコミュニケーションをとってくれたし、商業高校卒とはいえ、語彙力もそれなりにあり、難しいことでも子どもに教えてくれていた。どういう経緯でそうなったのか、全く覚えていないが、小学生の私に「ミゼン・レンヨウ・シュウシ・レンタイ・カテイ・メイレイ」と唱えさせ、さらに「ナイ・マス・マル・トキ・バ」と唱えさせていた。当時は全く意味が分からずに覚えただけであったが、その意味が中学校に入って国文法を習う中で分かるようになった。

 祖父は、地域では頭のいい人ということで有名な人物だった。将棋を教えてもらったのは祖父からだったと記憶している。最初は、私は通常の駒の配置で、祖父は王将と手持ちの歩3枚だけという条件で戦っても、コテンパにやられた。しかし、当時、父親が所有していたNECのPC88とか98とかで、将棋のソフトを買ってもらい、そのソフトでコンピューターと対戦したり、兄弟で対戦したりしているうちに、実力をつけていって、いつしか、祖父にも勝てるようになった。母親もそうだったが、祖父も、つまらないことをいって笑いをとるのが好きだった。小さい頃、祖父から出されたなぞなぞに次のようなものがあった。

「電線にスズメが5羽とまっている。銃で1羽を撃ち落とした。残りは何匹か?」

 普通の算数の問題だと思って、「4羽!」と私がかわいらしく答えると、「残念。銃の音に驚いて、他の4羽も飛び立ったので、正解は0羽」とかいってくるのである。後日、また全く同じ問題を出してくる。学習能力に秀でていた私は、すかさず「0羽」と答える。すると祖父はしたり顔で、「残念。4羽は銃の音に驚いて飛び立ったが、撃たれた1羽が下に落ちて残っているので、正解は1羽」などと屁理屈をいうのである。このような祖父との交流によって、考える力がついていったということはいえそうである。

 ついでに父親にも触れておこう。小学生だったある日、父親にある漢字の書き順を尋ねたところ、「書き順なんかは何でもいい。書いてしまえば同じだから」というようなことをいってきたのである。それ以来、素直な私は、本当に書き順なんてないんだと思い込み、あまり書き順を覚えなくなってしまったのである。これは痛い思い出である。しかし、これを補ってあまりある父親の言葉も存在する。それは、「テストでは習ったことが出るのだから、満点がとれて当たり前だ」というものである。これまた素直な私はそのまま受け取り、満点を取るのが常態となっていくのであった。

 中学生になると、さすがに全てのテストで満点を取ることは難しくなったが、テストの1週間前から集中的に勉強するだけで、学年の1位か2位の点数をとっていた。5教科500点満点で、480点は取っていたと思う。今、「テストの1週間前から集中的に勉強するだけで」と書いたが、これは本当にそうで、中学校になっても塾などには行っていないし、試験前までは部活に明け暮れていたので、最低限の宿題をするくらいで、家で勉強など、ほとんどしていなかった。私にとって学校の試験は、ちょっとした楽しいイベントであり、試験自体のも楽しみだったし、結果が返ってくるのがもっと楽しみだった。バツや三角になっていて納得できない場合は、すぐさま先生に抗議しに行き、場合によっては先生を説き伏せて丸にしてもらえることもあった。私の兄も、私ほどでは当然ないが、そこそこ点数がとれていたので、私たち兄弟は頭がいいと周囲からは認知されていた。

 もう一つ、われわれ兄弟は、バスケットボールがうまい兄弟としても認知されていた。小学生の時にスポーツ少年団で兄に裏切りにあっていた私であったが、そのことは水に流して、仲よくバスケットボール部に入部したのであった。小学生の時は、それほど運動ができるというわけでもなかったが、なぜか中学校に入ったころには、運動神経がよくなっていたようだ。何という名前だったか、準備運動で行う、斜め前に前進しながら内側の足で飛び上がり、飛んでいる間にその内側の膝を体まで引き付け、そして同じ足で着地し、今度は反対側の斜め前に前進して、逆の足で同じことを行うという特殊な運動(兄に聞いて、「ワンエンドワン」という名前であったことが判明した)は、1年生では私と兄しかできなかったように記憶している。見よう見まねですぐにできるようになったのである。長身なのに、旧型の小さなミニクーパーに乗っていた顧問の先生には重用され、1年生の内から3年生の練習に参加させてもらえた。ただ、バスケットのことなど何も分からなかったのに、ボールをキャッチした私に対して、いきなり「どっちを向いてボールをとってるんだ!」と怒鳴り散らし、ボールを投げつけられたことも覚えている。ゴールと逆の方を向いてキャッチしたのがいけなかったらしい。理不尽極まりなかった。そんな練習が嫌で、兄と示し合わせて、家のシャッターが開かなくなったというようなとってつけたようなウソの理由で、日曜日の練習を休んだこともあった。ただこの先生は、「メンタルタフネス」とかいって、精神面の重要性も強調しており、指導者としてはなかなかよかったと思う。残念ながら、3年生が引退した後、2年生男子がこの先生を嫌ったため、それまで一緒に練習していた男女のチームが分かれて、その先生は女子バスケットボール部に専念することになった。男子バスケットボール部には、きちんとした指導者がいないままとなり、私の中学での部活動は実りないまま、たいして上達もせずに終わってしまった。

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2017年11月12日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の反省概念の二義性についての部分を扱った我が研究会の2017年10月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、諸々にたたかわされた議論について、大きく3つの論点に整理して報告してきました。

 10月例会報告の最終回となる今回は、参加していたメンバーの感想を紹介することにしましょう。なお、次回11月例会からは、いよいよ先験的論理学の第二部、先験的弁証論へと入っていくことになります。

 それでは、以下、参加者の感想です。

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 今回の例会では、主としてカントのいう先験的反省について扱った。反省というのは、唯物論的にいうと、自分の認識=像を見つめることといえるのではないかと提起したが、会員の中から反対意見は出なかった。およそ、そのような理解でよいのだろう。しかし、後から気づいたが、「反省」というのは、ロックが2種類の経験のうちの1つとして、感覚とともにあげていたものであった。ロックによると、感覚と反省とが、悟性というそれ自身は暗い部屋に観念という光が入る唯一の窓であるということであった。このように、「反省」というのは哲学史的にも重要なタームであって、「反省」という概念の生成発展のプロセスをも考慮に入れて、カントのいう「反省」を考えていくべきであろう。

 さて、今回の例会では、議論を通して、いくつか認識の発展・深化があった。まず、反省と4組の反省概念の関係である。たとえば、2滴の水という表象を反省するとき、これを感性に属すると捉えれば相違となり、純粋悟性に属すると考えれば同一となる。同じ表象であっても、どちらの認識能力・認識源泉に属すると考えるかによって、同一か相違か、変わってくるのである。このようなペアが、4組あるということである。この4組は、ある表象を反省する際の4つの観点ということもできるだろう。

 ライプニッツは、その表象がいずれの認識能力に属するかを考慮せずに、換言すれば、全て純粋悟性に属すると無意識的に考えてしまったために、2滴の水を同じものだと捉えるしかなかった。4組の反省概念に沿っていうならば、同一、一致、内的なもの、質料(先行)がライプニッツの立場である。このようなライプニッツ的な反省の仕方を、論理的反省というのであろう。

 今回は、反省概念のうち、内的なものと外的なものに関する部分を取り上げて音読し、逐語的に検討していった結果、カントのいわんとしていることが徐々に明確になっていった。これは研究会にとって非常に重要な経験だったと思う。分からないところを分からないままにしておくのではなく、その部分を集中的・集団的に検討することによって、分かるようになってくるのである。今後も、必要に応じて大切な部分については、このような取り組みが必要だろう。

 もう一つ、無の区分を検討する中で、先の4つの反省概念も、実はカテゴリー表に沿ったものなのではないかということが見えてきた。これも大きな収穫であったと思う。ただ、本来であれば、カテゴリー表はしっかりと頭に入っている状態で、この部分を読み進めていくべきなのだ。カテゴリー表が頭に入っていれば、例会当日の議論になって初めて、4組の反省概念がカテゴリー表と関連しているのではないか、などということが分かってくるということにはならない。これでは遅すぎるのであり、自分で一読している段階で気づいたはずである。カントのいわんとしていることは一つなのであり、前の部分をふまえておかないと後の部分が分からないということになるので、先験的分析論を読み終えて、次から先験的弁証論に入っていくというこの段階で、きちんと再読して、これまでの内容を頭に入れるようにしたいと思った。

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 今回は、論点の提示はできたものの、その論点に対する見解を執筆することができなかったことがまずは大きな反省点である。カント『純粋理性批判』への学びをしっかりと自分の学問への道に位置づけて、真剣に取り組んでいかなければならない。

 とはいえ、例会当日の議論では、カントのいわんとしていることの理解がかなり深まったと思う。特に、カントがライプニッツの単子論をどのように捉えているかという部分については、カントの文章を逐次読んでいって、研究会全体で理解を深めていけたことは大きな収穫だったと思う。どうしてライプニッツは単子論に行きついたのか、カントは説明しているのであるが、ここで先験的場所論を絡め、さらに実体がもつ表象力というものを想定したからこそ、ライプニッツの単子という概念が成立したことを、批判的に説いていることがよく分かったのである。

 これはひとえに、チュータによる議論のまわし方なり、根本的な理解なりが優れていたからこその討論過程であったと思う。分からない部分をどのように考えていけばよいのかということについても、たとえ自分だけで読み進めている場合でも参考になるようなアタマの働かせ方が学べたと思う。自分がチュータをやるときにも、こうしたことが実践できる実力をつけていきたいと思った次第である。

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 今回の例会で何よりも反省すべきは、子どもを寝かしつけた際に自分も寝てしまって、無断で欠席することになったことだ。その週は仕事の関係で、連日8時9時の退勤になっていて疲れていたというのはあるが、生活リズムをしっかりと整えて、疲れをためないように工夫すべきだった。

 幸い翌日も議論の続きを行い、論点3についての議論は参加することができた。無のそれぞれの内容についても理解を深めることができたと感じている。また、なぜここで無が取り上げられているのかということが論点として挙げられていたが、これについては、次から始まる弁証論へつなげる意味があるのではないかということで一応の結論を得ることができたのはよかったと思う。

 また、今回、カントの文章を1つ1つ細かく、丁寧に読み解いていく作業を行ったようだが、やはり重要な部分、理解ができない部分は、こうやってしっかりと向き合って、具体的なイメージを描いていく作業が必要なのだと思った。

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 今回の例会ではチューターにあたっていたので、該当範囲をそれなりに丁寧に読み込み、例会当日までに要約作業を終えてから、当日の議論に臨んだ。とはいえ、十分に理解しきったという自信をもって臨んだわけではなく、かなり漠然とした理解で臨んだのであった。

 各メンバーから事前に提示された見解は、自分自身のものも含めて、カントの表現(篠田英雄氏の訳文の表現)をそのまま利用してそれなりにまとめた、という部分が多かったので、核心的に重要だと思われる個所については、カント自身の文章(篠田英雄氏の訳文)を直接に読んでみることも含めて、きちんと共通の理解をつくっていく、という方針でもって進めてみた。結果としては、このような方針で進めてみたことが、非常によかったのではないかと思われる。カントがライプニッツの哲学をどのようなものとして捉えていたのか、その成立の必然的な過程をどう考えていたのか、非常に鮮明になった。今回の範囲には、ロックに対する批判的な言及もあったが、カントの『純粋理性批判』を哲学史の大きな流れのなかで位置付けて理解していく上で、重要な個所なのではないかと思った。

 また、論点3についての議論においてカテゴリー表を参照していくなかで、論点1および論点2において登場してきた4組の反省概念というものも、実はカテゴリー表に沿ったものだったのではないか、ということが指摘されることになったのも、非常に印象的な出来事であった。カントは自分の提示したカテゴリー表に大きな自信をもっていたのであり、これは先験的分析論の全体をつらぬく重要な柱であるはずなのだから、反省概念の4つの組がこのカテゴリー表と無関係であるわけがないだろう、ということになったのである。先験的分析論の全体を、このカテゴリー表を軸として読み込んで理解していくという作業が充分に出来ていないからこそ、議論が錯綜して充分に深まらないということになってしまうのではないか、という反省が語られたのも、『純粋理性批判』の学びをこれからどう進めていけばよいか考える上で、示唆に富むものだと思う。これまでの部分の再読ということをしっかりとやっていかなければ、と思わされた。
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2017年11月11日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(9/10)

(9)論点3:カントによる無の概念の区分はどのようなものか

 前回は、第二の論点、すなわち、カントはライプニッツをどのように批判しているか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。端的には、ライプニッツは、先験的反省をなさず論理的反省のみを行ったために、あらゆる表象が感性の制約にも服すことを見逃し、純粋悟性にのみ属すと考えてしまった(本来なら感性という場所に属するはずの概念も、純粋悟性という場に属するものとして考えてしまった)のだ、ということでした。

 さて、今回は第三の論点、すなわち、カントによる無の概念の区分はどのようなものか、という問題を巡ってなされた議論の内容をまとめて紹介することにしましょう。ここで改めて論点を紹介しておくことにします。

【論点再掲】
 カントは先験的分析論を完結するにあたり、無を4つに区分しているが、これらはそれぞれどのようなことを意味しているのか。また、そもそもなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか。


 4つに区分された無については、各自がカントの文言を踏まえつつ見解をまとめていましたので、具体的な例も念頭に置きつつ、それぞれがどういうことなのかよく確認しておこうということになり、以下のように確認しました。

 カントは、対象一般が何かあるものなのかそれとも無なのかという区別はカテゴリーの順序と指示とにしたがって行われる、として、以下の4つに区分しています。ちなみに、カテゴリーというのは、@分量(単一性、数多性、総体性)、A性質(実在性、否定性、制限性)、B関係(実体と付随性、原因と結果、相互性)、C様態(可能――不可能、現実的存在――非存在、必然性――偶然性)の4つです(pp.152-153)。

 @分量のカテゴリーに対立する無は、一切を滅却する概念、すなわち皆無である。直観が全く対応しないような概念の対象は無、すなわち対象をもたぬ概念、可想的存在のようなものがこれに当たる。「対象をもたない空虚な概念としての無」である。概念はあってもそれに対応する対象(現実的な存在)があり得ないようなもの。

 A性質のカテゴリーに対立する無は、何かあるものとしての実在を否定する無である。対象が欠けているという概念であり、例えば光が欠けている無としての影、暖かさが欠けている無としての寒さである。「概念に対する空虚な対象としての無」である。光という概念に対する光という対象(現実的な存在)が欠けているようなもの。

 B関係のカテゴリーに対立する無は、実体をもたない直観の単なる形式のことである。純粋空間や純粋時間などは直観の形式としては確かに何かあるものではあるが、それ自身としては直観されるような対象ではない。「対象をもたない空虚な直観としての無」である。

 C様態のカテゴリーに対立する無は、自己矛盾するような概念の対象としての無である。二直線で囲まれた図形のように自己のうちに矛盾を含んでいるものは概念として存在することは不可能であり、無なのである。「概念をもたない空虚な対象としての無」とされている。

 カントはなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか、という問題については、次のように議論しました。

 カントは、このような無の区分を説いたのは先験的分析論の体系を完全にするためだと説いていました。先験的哲学の出発点とされる最高概念は、普通には可能なものと不可能なものとの区分であるとされるわけですが、区分は区分が施されたもともとの概念を前提とするものです。したがって、区分を遡るごとに、いっそう高い概念が示されることになるはずです。そのような観点からして、最も一般的な概念は、対象一般(何かあるものか「無」かは未決定)という概念であり、この一般的概念に関係するのはカテゴリーだけであるから、カテゴリーの順序と指示にしたがって、何かあるものなのか無なのかという区別が施されるのだ、というわけです。

 このような議論を進めていくために、カテゴリー表を参照していくなかで、論点1および論点2において登場してきた4組の反省概念というものも、実はカテゴリー表に沿ったものだったのではないか、ということが指摘されることになりました。カントは自分の提示したカテゴリー表に大きな自信をもっていたのであり、これは先験的分析論の全体をつらぬく重要な柱であるはずなのだから、反省概念の4つの組がこのカテゴリー表と無関係であるわけがないだろう、ということになりました。先験的分析論の全体を、このカテゴリー表を軸として読み込んで理解していくという作業が充分に出来ていないからこそ、議論が錯綜して充分に深まらないということになってしまうのではないか、という反省も語られました。

 先験的分析論を読み終えていよいよ先験的弁証論に入っていくというこの段階において、きちんとこれまでの部分を再読してその内容を頭に入れておく必要がある、ということを確認して、論点3についての議論を終えました。

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2017年11月10日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(8/10)

(8)論点2:カントはライプニッツをどのように批判しているか

 前回は、第一の論点、すなわち、先験的反省とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介しました。カントのいわゆる反省とは、対象そのものを考察するのではなく、対象についての概念を得るための主観的な条件を発見しようとする心の状態のことであり、先験的反省というのは、与えられた概念が感性と悟性という認識能力のうち、どちらに属するかという判別をなすものだ、ということでした。

 さて、今回は、第二の論点、すなわち、カントはライプニッツをどのように批判しているか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントのいわゆる「先験的場所論」とはどういうものか。カントは、ライプニッツが先験的場所論を欠いたために、反省概念の二義性に欺かれた(p.347)、「ライプニッツが現象を知性化した」(p.348)と批判しているが、これはどういうことか。「反省概念の二義性を生ぜしめ、……誤れる原則の設定を誘起せしめた原因」(p.356)とはどういうものか。


 カントのいわゆる先験的場所論については、事前に提出された各メンバー見解の間に大きな相違はありませんでした。あらゆる概念にそれぞれ使用の相違に応じて与えられる場所を判定すること、またかかる場所をあらゆる概念に規則に従って指示することであり、もっと具体的にいうならば、ある概念について、論点1で挙げられた4つの関係(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質量と形式)によって、純粋悟性に属するものか感性に属するものか、その場所を判定することだ、ということでした。

 「ライプニッツが先験的場所論を欠いたために反省概念の二義性に欺かれた」「ライプニッツが現象を知性化した」という問題については、ライプニッツは先験的反省をなさずに、論理的反省のみを行ったために、あらゆる表象を一様に取り扱ってしまった、すなわち、あらゆる表象が感性の制約にも服すことを見逃し、純粋悟性にのみ属すと考えてしまった(本来なら感性という場所に属するはずの概念も、純粋悟性という場に属するものとして考えてしまった)のであり、これが現象を知性化したという意味であろう、ということになりました。論点1で確認した通り、カントは、対象を純粋悟性の対象と見た場合と、現象として見た場合とでは異なることを説いているのでしたが、ライプニッツはこのような区別(反省概念の二義性)を考えずに、純粋悟性の対象としてしか考えなかったのだ、というわけです。さらにいえば、感性と悟性は互いに異なる表象源泉であるにもかかわらず、ライプニッツは両者を同一視し、曖昧なものと明晰なものという程度の区分としてしか捉えなかったのだ、ということもできます。ライプニッツは、感性というものが悟性と並んで不可欠の認識源泉である(悟性のみでは認識は成立せず、感性と悟性の両者が働いてはじめて認識が成立する)とは考えずに、感性というものは単に悟性の劣化したものにすぎず、むしろ正しい認識を妨げてしまうものだ、という程度の把握にとどまってしまったのでした。

 このことに関連しては、チューターから、論点1で挙げられた4つの関係(@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C質量と形式)に沿って、カントがどのようにライプニッツを批判しているのか、丁寧に確認しておく必要があるだろうと提起され、以下のような内容を確認しました。

 @ライプニッツは、対象を物一般として悟性においてのみ比較した(概念だけを念頭において直観〔空間〕において占める場所を考慮しなかった)ために「概念的に区別されないものは同一である」という物自体の概念にしか適用できない原理を、現象界に適用することで自然認識を拡張しうると誤解してしまった。

 Aライプニッツ学派は、矛盾という反対(矛盾があれば物の概念そのものが成立しなくなる)を知るだけで、ひとつの実在的原因が他の実在的原因の結果を無効にするという反対のあることを知らない(これは、我々が後者の反対を考えてみるための条件〔空間的な方向性という性質〕は、感性にしか見出され得ないからである)。

 Bライプニッツは、内的なものと外的なものとの区別を悟性との関係においてのみ考えたために、実体一般は一切の外的関係に関わりない内的なものでなければならなくなった(これは、論点1において詳しく確認した通りである)。こうした実体に帰すことのできる内的状態は、我々の感覚を内的に規定する状態、すなわち表象の状態でしかない。こうして全宇宙の根源的要素としての単子が出来上がった。

 C物の外的状態を悟性だけで表象しようとすれば、物と物との相互作用という概念によるほかない。そこでライプニッツは、空間は実体の相互作用におけるある種の秩序であり、また時間は実体の状態の力学的系列であると考えた。時間および空間がそれ自体として物には関わりないという特性を具えていることについては、ライプニッツは時間および空間の概念が混雑しているために力学的関係の単なる形式(時間・空間)が物そのものよりも前にある独自の直観と考えられるようになった、と解釈した。

 このうち、Cについては、物自体から離れて時間・空間はないというのがライプニッツの立場で、カントはこれを物自体とは別個に時間・空間があるという立場から批判しているということになるが、唯物論の立場からすればライプニッツの立場のほうが正しいということになるのではないか、という意見も出されました。物(物自体)と時間・空間との関係という問題に限って言えばその通りだろう、ということになりました。

 「反省概念の二義性を生ぜしめ、……誤れる原則の設定を誘起せしめた原因」については、端的にいえば、我々人間の悟性は、感性的直観の形式である空間と時間を通して成立させられた現象にしか適用できない(感性において与えられたものがなければ、カテゴリーは悟性による統一の単なる主観的形式でしかなく何らの対象ももち得ない)にもかかわらず、悟性があたかも物自体に適用できるかのように考えられてしまったということであり、要するに、物自体と現象との区別が明確でなかったということもできるだろう、ということになりました。
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2017年11月09日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(7/10)

(7)論点1:先験的反省とはどういうものか

 前回まで、カント『純粋理性批判』の反省概念の二義性について論じられている部分の要約を提示し、その内容を踏まえて出された論点を紹介しました。今回からは、それらの論点に関わってどのような議論がなされたかを紹介していくことにします。

 今回は、第一の論点、すなわち、先験的反省とはどういうものか、という問題をめぐってなされた議論の内容をまとめて紹介することにします。ここで論点を改めて紹介しておくことにしましょう。

【論点再掲】
 カントは、反省という概念についてどのようなものだと述べているか。また、反省概念の二義性――先験的反省と論理的反省についてはどのように説明しているか。「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」(p.340)が4種類挙げられているが、これらはどのようなものであり、反省とどのように関わっているのか。


 カントのいわゆる反省の概念については、事前に提出された各メンバー見解の間に大きな相違はありませんでした。要するに、対象そのものを考察するのではなく、対象についての概念を得るための主観的な条件を発見しようとする心の状態のことである、ということでした。また、反省概念の二義性――先験的反省と論理的反省についても大きな見解の相違はありませんでした。先験的反省というのは、与えられた概念が感性と悟性という認識能力のうち、どちらに属するかという判別をなすものであり、論理的反省というのは、与えられた表象が感性と悟性のいずれの認識能力に属するかを全く度外視して、諸表象を単に比較することにとどまるものです。これに関連しては、先験的反省が表象相互の客観的比較を可能とする根拠を含むものであるのに対して、論理的反省ではあらゆる表象を一様に取り扱うことしかできない、とカントが論じていることについて指摘する見解もありました。物が同一なのかそれとも相異するものなのかは、空間的に占める場所が同一なのか相違しているのかという感性的な把握を踏まえなければ決定できるものではないので、与えられた表象が感性に属するのか悟性に属するのかを全く度外視して一様に扱ってしまう論理的反省では、表象相互の客観的な比較ということが不可能になってしまうのだ、ということでした。例えば、2つの水滴について、質と量が全く同じなのであれば、論理的反省においては両者は区別できなくなってしまいますが、先験的反省によって両者の空間的な位置が異なることが確認できれば、両者を区別することができるのです。

 「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」の4つ――@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)――については、各メンバーの見解はカントの文言を踏まえつつまとめられていましたが、チューターは、具体的な例を押さえながらしっかりと共通の理解をつくっておく必要がある、と提起しました。

 @「同一と相違」については、先ほどの水滴の例の通りです。ある対象がたびたび同一の内的規定(質と量)で現われると、この対象は純粋悟性の対象と見なされる限り(すなわち、論理的反省においては)常に同一です。しかし、その対象が現象だとすると(すなわち、先験的反省を踏まえると)、空間において占める場所の相違が対象そのものの数的相違を成立させることとなります。

 A「一致と反対」について。実在が純粋悟性の対象であれば、(空間における方向性という性質を欠いてしまうことになるので)実在と実在の間に反対しあうことは考えられません。しかし、現象における実在的なものについては、(空間における方向性という性質をもつことになるので)同一直線上の2つの運動力が反対方向であるとか、満足と苦痛の平衡などのように、一方が他方の結果を無効にするという場合があり得ます。

 B「内的なものと外的なもの」については、チューターから、もっとも難解であるものの、ライプニッツの単子論をカントがどのように理解したのかという問題に関わる非常に重要なものではないか、との指摘がなされました。その上で、カントの文章そのものを丁寧に読み込んで理解する必要があるだろう、と提起されました。問題となる文章は以下です。

「我々が空間における実体を知るのは、空間において作用している力、即ち他の物を自分のほうへ引き寄せる力(引力)によるか、さもなければ他の物が自分のうちへ入り込むのを防ぐ力(斥力と不加入性)によるか、二つのうちのいずれかである。……ところが純粋悟性の対象ということになると、実体はいずれも内的規定と、内的実在に帰せられる力とをもっているに違いない。しかし私は、私の内感が私に示すところの付随性のほかに、どんな内的付随性を考えてみることができるだろうか。そして私の内感が私に示す付随性と言えば、それ自体思惟であるか、さもなければ思惟に類似するものか、この二つしかないわけである。」(pp.343-344)


 空間における実体は、他の物を自分の方に引っ張るか押し返すか、ともかく自分の外部との関係によってしか知られる(自分が自分であることを示す)ことはありません。しかし、純粋悟性の対象としての実体は、(空間における存在という性質を欠いてしまっているために)他の物との関係云々ではなく、あくまでも自分自身によって(内的な規定として)自分が自分であることを示すしかありません。このようなことのできる力といえば、思惟のような力しかないのではないか……ということから、ライプニッツはそれぞれ表象力を具えた単一の実体――単子なるものを考え出すにいたったのだ、ということでした。

 C「規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)」について。純粋悟性の概念にあっては(すなわち、論理的反省においては)、質料は形式よりも前にあることになります。しかし、本来は、空間および時間は、一切の現象と経験において与えられた一切のものよりも前にあり、むしろ経験を初めて可能にするものにほかなりません。(したがって、先験的反省を踏まえると)空間および時間は感性的直観の形式として、一切の質料(感覚)に先行することになるのです。

 カントはこれらの4種の関係について、感性と純粋悟性のいずれにも属し得るという二義性をもっている、と指摘しているのですが、結局のところ、同じ表象であってもどちらの認識能力・認識源泉に属すると考えるかによって、同一か相違か、一致か反対か、内的なものか外的なものか、質料が先行か形式が先行か、変わってくるのではないか、という指摘もなされました。例えば、2滴の水という表象を反省するとき、これを感性に属すると捉えれば相違となり、純粋悟性に属すると考えれば同一となる、という具合にです。このことを確認して、論点1についての議論に一応の区切りをつけました。
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2017年11月08日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 前回までの4回にわたって、カント『純粋理性批判』の反省概念の二義性という問題について論じられている部分の要約を紹介してきました。ここで改めて、そのポイントとなるところをふり返っておくことにしましょう。

 カントのいわゆる反省とは、対象に関する概念を得ようとして対象そのものを考察することではなく、対象に関する概念を得るための主観的な条件を発見しようと心構えをする状態のことでした。カントは、この反省について、与えられた表象(概念)が感性・悟性のいずれに属するかを判別する先験的反省と、与えられた表象(概念)が感性に属するか悟性に属するかは度外視して単に比較するだけの論理的反省とに分けられると指摘していました。その上でカントは、物が同一なのか相違するのか、一致するのか反対なのかは、概念そのものの単なる比較(=論理的反省)からただちに決定できるものではなく、これら概念が感性に属するか悟性に属するかを判別すること(=先験的反省)によって初めて決定できるのだ、と主張していたのでした。さらにカントは、「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」として、@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)の4種類を挙げて、それぞれについて説明を加えていました。

 カントは、我々がひとつの概念に感性あるいは純粋悟性のいずれかにおいて与える場所を先験的場所と名づけ、ある概念について、先に挙げられた4つの関係(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質量と形式)によって、純粋悟性に属するものか感性に属するものか、その場所を判定することを先験的場所論と呼んでいました。カントは、ライプニッツについて、このような先験的場所論を欠いたために、一切の対象の内的性質を、感性の参加をまたず、ただ悟性のみによって認識し得るという体系を建設することになってしまったのだ、と批判していたのでした。

 カントは、ライプニッツが知性哲学体系(感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系)の構成という誤った方向に誘惑されてしまったのはなぜなのか、という問題についても検討を加えていました。カントによれば、ライプニッツの知性哲学体系は、概念的に区別されないものは互いに同一であるという原理に基づいていました。これについてカントは、ある物の単なる概念からはその物の直観を成立させる多くの条件が除かれているのであるから、こうして除かれたものを初めから全く存在しなかったものと考えて、この物の概念に含まれている物しかこの物に認めないというのは、いかにも早計である、と批判していたのでした。要するに、我々人間の悟性は、感性的直観の形式である空間と時間を通して成立させられた現象にしか適用できない(感性において与えられたものがなければ、カテゴリーは悟性による統一の単なる主観的形式でしかなく何らの対象ももち得ない)にもかかわらず、悟性があたかも物自体に適用できるかのように考えられてしまったところから、ライプニッツの知性哲学体系が成立してきたのだ、ということになるのでした。

 先験的分析論を完結するにあたって、カントは無の概念の区分について論じていました。カントは、対象一般という最も一般的な概念が何かあるものであるか無であるかは、カテゴリーの順序と指示とに従って行われることになるとして、無の概念を、@対象をもたない空虚な概念としての無、A概念に対する空虚な対象としての無、B対象をもたない空虚な直観としての無、C概念をもたない空虚な対象としての無に区分したのでした。

 2017年10月例会の場では、おおよそ以上のような内容に関わっての報告を受けて、参加したメンバーから諸々の意見・論点が提起され、議論がたたかわされました。これから、その内容を、大きく3つの論点に沿って整理した上で、紹介していくことにします。今回はその3つの論点を紹介し、次回以降、討論の具体的な内容を紹介していくことにします。

1、先験的反省とはどういうものか
 カントは、反省という概念についてどのようなものだと述べているか。また、反省概念の二義性――先験的反省と論理的反省についてはどのように説明しているか。「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」(p.340)が4種類挙げられているが、これらはどのようなものであり、反省とどのように関わっているのか。

2、カントはライプニッツをどのように批判しているか

 カントのいわゆる「先験的場所論」とはどういうものか。カントは、ライプニッツが先験的場所論を欠いたために、反省概念の二義性に欺かれた(p.347)、「ライプニッツが現象を知性化した」(p.348)と批判しているが、これはどういうことか。「反省概念の二義性を生ぜしめ、……誤れる原則の設定を誘起せしめた原因」(p.356)とはどういうものか。

3、カントによる無の概念の区分はどのようなものか
 カントは先験的分析論を完結するにあたり、無を4つに区分しているが、これらはそれぞれどのようなことを意味しているのか。また、そもそもなぜこのような話題を最後の部分にもってきたのか。
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2017年11月07日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約C

 前回は、ライプニッツが知性哲学体系(感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系)の構成という誤った方向に誘惑されてしまったのはなぜなのか、という問題について検討されている部分の要約を紹介しました。ライプニッツの知性哲学体系は、概念的に区別されないものは互いに同一であるという原理に基づいているのですが、ある物の単なる概念からは、その物の直観を成立させる多くの条件が除かれているのであるから、こうして除かれたものを初めから全く存在しなかったものと考えて、この物の概念に含まれている物しかこの物に認めないというのは、いかにも早計である、とカントは批判していたのでした。我々人間の悟性は、感性的直観の形式である空間と時間を通して成立させられた現象にしか適用できない(感性において与えられたものがなければ、カテゴリーは悟性による統一の単なる主観的形式でしかなく何らの対象ももち得ない)にもかかわらず、悟性があたかも物自体に適用できるかのように考えられてしまったところから、ライプニッツの知性哲学体系が成立してきたのだ、ということでした。

 さて、今回は、先験的分析論の完結にあたって、無の概念の区分について論じられている部分についての要約を紹介することにしましょう。

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 こうして悟性は、感性に制限を加えるものの、しかしそのために悟性自身の領域を拡張するのではない。つまり悟性は、感性が物自体に関係するような僭越な真似をしないで現象だけに関係することを、感性に警告するのである。また悟性は、物自体を思惟するが、これを先験的対象としてのみ思惟するにすぎず、我々のいかなる悟性概念をもこのような対象に適用することはできない。先験的対象の表象は、我々にとって全く無内容である。

 それだからこの純粋悟性批判は、悟性が自分のために、現象として自分に現われる対象以外の対象を含むような新しい領域を創設して、可想界へ――それどころか可想界という概念へすら、さ迷い入ることを許さない。

 *  *  *

 先験的分析論を完結するにあたり、なお付言しておかなければならない一事がある。このこと自体は特に重要というわけではないが、しかしこの体系を完全にするためにはやはり必要だといってよい。我々が先験的哲学の出発点とする最高概念といえば、普通には可能なものと不可能なものとに区分することとされている。しかしおよそ区分は、区分が施された当の概念を前提する。したがって、区分を遡るごとにいっそう高い概念が示されねばならないわけである。そして我々の場合にこの最も一般的な概念は、対象一般(これは蓋然的なものと解された対象であり、それが何かあるものなのか、それとも「無」であるのかは、決定されていない)という概念である。ところで対象一般に関係するのはカテゴリーだけであるから、我々はこの対象が何かあるものなのか、それとも無なのかという区別は、カテゴリーの順序と指示とに従って行われることになるだろう。

 一 総体、数多および単一という概念〔カテゴリー〕に対立するものは、一切を滅却する概念、すなわち皆無である。それだから直観が全く対応しないような概念の対象は無、すなわち対象をもたぬ概念であり、可想的存在のようなものがこれである。可想的存在は、可能的なものの群には入らないが、しかしそれだからといって不可能であるというわけにはいかない。また何か新しい根源力というようなものは、我々がこうした物を考えてみることができるというだけで、なるほど矛盾は含んでいないが、しかし経験から得られた実例がないままに考えられねばならぬものであるから、可能なもののなかへ加えることはできない。

 二 実在はないかあるものであり、その否定は無である。すなわち実在の否定は、対象が欠けているという概念であり、影とか寒さとかいうようなものがこれである(欠けている無)。

 三 実体をもたない直観の単なる形式は、それ自体対象ではなくて、対象(現象)の単なる形式的条件である。例えば純粋空間や純粋時間などがこれである。空間および時間は、直観の形式としては確かに何かあるものであるが、しかしそれ自身は、直観される対象ではない(想像物)。

 四 自己矛盾するような概念の対象は無である。こうした概念は無であり不可能なものだからである。すなわち二直線で囲まれた図形のようなものがこれである(否定的な無)。

 それだから無の概念のこうした区分を示す表は(これと並行して「何かあるもの」の区分もあるわけだが、この方の区分はひとりでにできるから)次のように排列されなければならないだろう。

    無

 1 対象をもたない空虚な概念としての無
 2 概念に対する空虚な対象としての無
 3 対象をもたない空虚な直観としての無
 4 概念をもたない空虚な対象としての無

 思惟されたもの(1)は、不合理なもの(4)から区別される。その理由は、前者が単なる想像上の仮構物(自己矛盾を含まぬにもせよ)であって、そのために可能なもののなかへ加えられることができないのに対して、後者はその概念自身が自己否定してみずからの可能を滅却するところにある。しかし両社はいずれも空虚な概念である。これに反して「欠けている無」(2)と、「想像された物」(3)とは、それぞれ概念に対するいわば空虚な所与である。光が感官に与えられなければ、暗黒も表象され得ない。また延長を有する存在が知覚されなければ、空間も表象され得ない。否定も直観の単なる形式も、実在的なものを欠くと、対象になり得ないのである。
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2017年11月06日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約B

 前回は、先験的場所論(概念を感性に属するか純粋悟性に属するかを判定すること)を踏まえつつ、ライプニッツの哲学が批判的に検討されている部分の要約を紹介しました。カントのいわゆる先験的場所論とは、ある概念について、4つの関係(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質量と形式)によって、純粋悟性に属するものか感性に属するものか、その場所を判定することでした。カントは、ライプニッツについて、このような先験的場所論を欠いたために、一切の対象の内的性質を、感性の参加をまたず、ただ悟性のみによって認識し得るという体系を建設することになってしまった、と批判していました。

 さて、今回は、ライプニッツが知性哲学体系(感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系)の構成という誤った方向に誘惑されてしまったのはなぜなのか、という問題について検討されている部分の要約を紹介することにしましょう。

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 反省概念はある誤解によって悟性使用に著しい影響を及ぼし、その結果およそ哲学者のうちで最も明敏な一人であるライプニッツを誘惑して、いわゆる知性的認識の体系――感覚の参加をまたずに対象を規定しようと企てる認識体系を構成するに至らしめた。してみると、反省概念の二義性を生じさせ、ひいては誤った原則の設定を誘起させた原因を究明することは、悟性の限界を確実に規定し、かつこれを保全するに甚だ有益だということになるだろう。

 「ある概念について一般的に肯定され、もしくは否定されるものは、この概念に含まれている一切の特殊なものについてもそれぞれ肯定され、もしくは否定される」というのは確かに正しい。しかしこの論理的原則を否定して、「ある一般的概念に含まれていないものは、この概念のもとに包摂される全ての特殊的概念にも含まれていない」というなら不合理である。ところが、ライプニッツの知性哲学体系は、まさにこの第二の原則の上に建てられている。だから、この命題が維持されなくなれば、彼の体系は悟性使用に関してこの命題から生じた一切の曖昧な原理もろとも崩壊するのである。

 概念的に区別されないものは互いに同一であるという原理は、あるもの一般の概念においてある区別が全く見出されなければ、その区別は物そのものにおいても見出されない、という前提に基づいている。しかしある物の単なる概念からは、その物の直観を成立させる多くの条件が除かれているのであるから、こうして除かれたものを初めから全く存在しなかったものと考え、この物の概念に含まれている物しかこの物に認めないというのは、いかにも早計である。

 1立方フィートの空間という概念は、どこで何べん考えてみようと、それ自体完全に同一であるが、2つの1立方フィートは空間においてそれぞれ占める場所によって区別される。これらの場所は感性的直観の条件である。同様にある物の概念においても、否定的なものが肯定的なものと結合されていない限り、この物の概念は全く反対を含まない。しかし実在(例えば運動)は感性的直観においてのみ与えられ、この直観には運動一般の概念から除かれていたような条件(2つの力の相反する運動方向という)が含まれ、これらの条件が反対を可能にするのである。概念だけからいうと、内的なものは一切の関係ないし外的規定の基体をなしている。したがって私が、直観の条件を一切度外視して物一般の概念以外に出ないとすると、私は一切の外的関係をも除き去ることができる。それにもかかわらず、全く関係を意味しないで単なる内的規定だけを意味するようなものの概念は残るに違いない。そこから次のような結果が生じるように思われる。すなわち、およそ物(実体)には絶対に内的であって一切の外的規定よりも前にあるような何かあるものが存し、これによって外的規定が初めて可能になる。したがってまたこうした実体はもはや外的関係を一切含まない何かあるもの、つまり単純なものである(物体的な物は結局関係――少なくとも別々に存在する部分相互の外的関係にほかならないからである)。さらに我々は、我々の内感規定以外には、絶対に内的規定なるものを知らないから、こうした基体は単純であるばかりでなく、また我々の内感との類比にしたがって表象によって規定されている。換言すれば、一切の物は本来単子、すなわち表象を具えた単純な存在者である、ということになる。ところが、空間における常住不変な現象(不可入的延長)は全く関係にすぎないのであって、絶対的-内的なものをひとつも含まないにもかかわらず、一切の外的な知覚の第一の〔根本的な〕基体たり得ることは明白である。直観には物一般の単なる概念には全く存しないような何かあるものが含まれている。そしてこの何かあるものは、単なる概念によっては決して認識できないような基体を我々に与える。それはすなわち空間である。空間は、その含む一切の物とともに、全く形式的な、とはいえまた実在的でもあるような関係からなっている。我々が直観の条件を全て除き去ってしまうなら、単なる概念において我々に残されているのは、内的なもの一般と内的なもの相互の関係しかない。そして外的なものはこれによって可能になるのである。しかし直観の条件を除き去ることによって成立する必然性は、物が内的なものをその根底にもたずに単なる関係だけを表わすような規定とともに直観において与えられる限り、物そのものにはあり得ない。こうした物は物自体ではなくて、全く現象にほかならないからである。我々が物質について知るのは関係だけである。関係を除き去ってしまえば、単なる概念のみによって規定されるような可想的存在は全く不可能になってしまう。物は物自体と感官との関係においてのみ成立するのである。もし我々が単なる概念だけを事とするなら、抽象的なもの相互の関係を原因・結果のカテゴリーでしか考えることができない。しかしそうなると我々は、一切の直観を除去することになるから、したがってまた多様なものが互いに各自の場所を規定し合うことのできる唯一の仕方である感性の形式(空間)も失われてしまう。

 我々のいう可想的存在〔物自体〕が、感性の図式を全く用いずに純粋カテゴリーだけで考えられるものだとすれば、こうした物は全く不可能である。しかし、我々が可想的対象を、我々のカテゴリーが当然通用し得ないような、したがってまた我々が全く認識し得ない(直観によっても概念によっても)ような対象としてのみ解するならば、こういう全く消極的な意味での可想的存在は当然認められねばならない。こうした可想的存在は、我々の直観の仕方は一切の物に関係するのではなく、我々の感官の対象だけに関係すること、それだからこの直観の仕方の客観的妥当性は制限されていること、したがってまた我々の直観とは異なる種類の直観に対しては、したがってまたこうした直観の対象としての物に対しても、別に場所が残されていることを意味する。しかし、我々は、我々の感性的直観と異なる種類の直観を知らないし、我々のカテゴリーとは異なる種類の概念も知らないから、我々の感性の条件を越えて思惟の対象を拡張したり、現象のほかになお純粋思惟の対象、すなわち可想的存在を想定することはできない。こうした対象は何ら積極的な意味をもたないのである。可想的存在という概念は、ある客観の概念ではなくて、むしろ我々の感性に対する制限と分離しがたく結びついている課題である。
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2017年11月05日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約A

 前回は、そもそも反省とはどういうことか、そのなかでも先験的反省とはどういうものであるのか、また先験的反省が行われるための4種の関係とはどういうものか、ということについて説明されている部分の要約を紹介しました。カントのいわゆる反省とは、対象に関する概念を得ようとして対象そのものを考察することではなく、対象に関する概念を得るための主観的な条件を発見しようと心構えをする状態のことでした。カントは、この反省について、与えられた表象(概念)が感性・悟性のいずれに属するかを判別する先験的反省と、与えられた表象(概念)が感性に属するか悟性に属するかは度外視して単に比較するだけの論理的反省とに分けられるとしつつ、物が同一なのか相違するのか、一致するのか反対なのかは、概念そのものの単なる比較(=論理的反省)からただちに決定できるものではなく、これら概念が感性に属するか悟性に属するかを判別すること(=先験的反省)によって初めて決定できる、と主張していました。さらにカントは、「概念が心意識の状態において互に対となりうる関係」として、@同一と相違、A一致と反対、B内的なものと外的なもの、C規定され得るもの(質料)と規定するもの(形式)の4種類を挙げて、それぞれについて説明を加えていたのでした。

 さて、今回は、先験的場所論(概念を感性に属するか純粋悟性に属するかを判定すること)を踏まえつつ、ライプニッツの哲学が批判的に検討されている部分の要約を紹介することにしましょう。

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反省概念の二義性に対する注

 我々がひとつの概念に感性あるいは純粋悟性のいずれかにおいて与える場所を、先験的場所と名づけたい。すると、あらゆる概念に、それぞれ使用の相違に応じて与えられる場所を判定すること、またこうした場所をあらゆる概念に規則に従って指示することは、先験的場所論と呼ばれてよい。この理論は、概念が本来いずれの認識能力に属するかを判定するから、純粋悟性のひそかなたばかりと、それから生じるまやかしとを根本的に防止できる。

 アリストテレスの論理的場所論(トピカ)は、多くの認識をひとつの概念(論理的場所)のもとに集めたものであり、教授連や演説家らはこれを利用して、思考に関する銘々の手持ちの材料を処理するのに適当なものを探し出しては懸河の弁をふるうのだが、先験的場所論は、あらゆる比較と判別について、先に挙げた4種の名目(同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、質料と形式)だけしか含んでいない。これら名目がカテゴリーと異なるのは、対象を、その対象を構成しているところのもの(量、実在性)によって示すのではなく、物の概念よりも前にまず物の表象の比較を、物の一切の多様な表象について行うにすぎない、という点にある。しかし、こうした比較は反省(表象が純粋悟性によって思惟されるのか、感性によって減少において与えられるかの決定)を必要とする。

 概念は悟性に属するか感性に属するかにはお構いなしに、論理的に比較され得る。しかし、我々が概念を対象に適用するためには、その概念が純粋悟性の対象になるのか感性の対象になるのか判定する必要がある。こうした先験的反省を欠くと、概念の使用が非常に不安定になり、批判的理性が承認できないような総合的原則なるものが生じてくる。

 ライプニッツは、こうした先験的場所論を欠いたために、反省概念の二義性に欺かれて、一切の対象を悟性と悟性による思惟の抽象的、形式的概念を比較するだけで、物の内的性質を認識し得ると信じ、世界の知性的体系を建設してしまった。先に示した反省概念の表は、ライプニッツの学説独自の考え方の根本思想を解明する。

 第一に、ライプニッツは、感覚の対象を物一般として悟性においてのみ比較したから、概念だけを念頭において直観〔空間〕において占める場所を考慮しなかった。そのために、「概念的に区別されないものは同一である」という物自体の概念にしか適用できない原理を、現象界に適用することで自然認識を拡張しうると信じることになってしまった。

 第二に、単なる現象としての実在は論理的には互いに反対し合わないという原則は、概念の関係については確かに真実な命題である。しかし、2つの実在のうちの一方が他方の作用を無効にするというような実在的反対が至るところに生じるのだから、この命題は、自然に関しても物自体に関しても、全く意味をもたない。一般力学は、2つの力の方向における反対に着目する。しかし実在性という先験的概念は、こうした条件については全く知るところがないのである。ライプニッツは、この命題を新原則などという仰々しい名前で発表したわけではないが、彼の後継者たちは、この命題をライプニッツ‐ヴォルフ哲学の体系に公然と取り入れた。ライプニッツ学派は、矛盾という反対(矛盾があれば物の概念そのものが成立しなくなる)を知るだけで、ひとつの実在的原因が他の実在的原因の結果を無効にするという反対のあることを知らない。しかし、我々が後者の反対を考えてみるための条件は感性にしか見出され得ない。

 第三に、ライプニッツの単子論は、この哲学者が内的なものと外的なものとの区別を悟性との関係においてのみ考えた、という以外に何ら根拠をもつものではない。つまり実体一般は、ある内的なもの――換言すれば、一切の外的関係に関わりなく、合成にすら関わりのない何かあるものをもたねばならない。それだから部分をもたぬ単純なものが、物自体の内的なものの基礎になるわけである。しかし実体の状態の内的なものは場所、形態、接触あるいは運動(こうした規定は全て外的関係である)ではあり得ない。すると我々がこうした実体に帰する内的状態としては、我々の感覚そのものを内的に規定する状態、すなわち表象の状態しかない。全宇宙の根源的要素、すなわち原素と称されるところの単子は、こうして出来上がったのである。一切の実体は、内的にのみはたらく(表象する)のだから、ひとつの実体と他の実体の状態の間に互いに働きかけるという結びつきは全く成立し得ない。このようなわけで、実体間の可能的な相互性に関するライプニッツの原理は、物理的影響ではなくて、前もって規定された予定調和にならざるを得なかった。

 第四に、ライプニッツは、彼の有名な時間および空間論で、これらの感性的形式を知性化しているが、この論も同じく先験的反省を全く思い違いしたところから生じたものである。もし私が、物の外的状態を悟性だけで表象しようとすれば、物と物との相互作用という概念によるほかない。そこでライプニッツは、空間は実態の相互作用におけるある種の秩序であり、また時間は実体の状態の力学的系列であると考えた。時間および空間がそれ自体として物には関わりないという特性を具えていることについては、ライプニッツは時間および空間の概念が混雑しているために力学的関係の単なる形式(時間・空間)が物そのものよりも前にある独自の直観と考えられるようになった、と解釈した。

 我々は単なる反省作用から生じた結論に批判を加えてきたが、この批判の極めて大きな効用は、悟性においてのみ互いに比較されるような対象についていくら論証を重ねたとしても、結局は無益であるということを明らかにすると同時に、我々がこれまでもっぱら力説してきたことを確証したところにある。すなわち、現象は物自体として純粋悟性の対象のなかに入るものではないが、しかしそれにもかかわらず、やはり我々の認識の対象であり、しかも我々の認識がそれによって客観的実在性を得るところの、すなわちそこにおいて概念に直観が対応するところの唯一の対象である、ということである。

 我々が単に論理的に反省するだけなら、我々は我々の概念を悟性において互いに比較するにとどまる。しかし、対象が感性的直観の対象であるか知性的直観の対象であるかをまず決定しないで、これらの概念を対象一般(先験的意味での)へ適用すると、ただちに制限(これらの概念から外で出てはならないという)が生じる。そしてこれらの制限は、こうした概念の経験的使用がすべて誤りであることを示すと同時に、これによってまた次のことも証示する。すなわち、第一に、物一般としての対象の表象は不十分であるばかりか表象の感性的規定を欠き経験的条件から離れ去ると自己矛盾を生じる。第二に、それだから我々は(論理学において)一切の対象を度外視するか、それとも対象を想定してこれを感性的条件のもとで考えるか、いずれかである。第三に、そうすると可想的なものは、我々に具わっていなければならない特殊な直観〔知性的直観〕を必要とするわけだが、こうした直観を欠く我々にとっては可想的なものはひっきょう無である。
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2017年11月04日

2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』反省概念の二義性について 要約@

 前回は、京都弁証法認識論研究会の10月例会の場において、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介しました。今回から4回にわたって、カント『純粋理性批判』における反省概念の二義性についての議論を紹介していくことにします。

 今回は、そもそも反省とはどういうことか、そのなかでも先験的反省とはどういうものであるのか、また先験的反省が行われるための4種の関係とはどういうものか、ということについて説明されている部分の要約を紹介しましょう。

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付録

経験的な悟性使用と先験的な悟性使用との混同によって生じる反省概念の二義性について

 反省は、対象に関する概念を直接に得るために対象そのものを考察するのではなくて、心意識の状態である。換言すれば、我々が概念を得るための主観的条件を発見しようとして、まずその心構えをする状態である。反省は、与えられた表象が我々の2つの相異なる認識源泉〔感性と悟性〕に対するそれぞれの関係の意識である。そして表象相互の関係は、こうした意識によってのみ正しく規定されるのである。我々が表象について論じる前にまず問題になるのは、我々の表象は2つの認識能力のいずれに属するのか、表象が結合され比較されるのは悟性においてなのか感性においてなのか、ということである。判断のなかには、習慣から生じたものや情意的傾向によって出来たものがあるのに、このような判断に先立って、あるいは判断の後で反省が行われないものだから、判断は全て悟性から発生したものだと見なされてしまう。しかし判断は全て、それどころか表象の比較にしてからが、全て反省を必要とする。換言すれば、与えられた概念がいずれの認識能力に属するかの判別が必要である。表象の比較は認識能力によって行われる。そして私はこの比較と認識能力を見比べて、これらの表象は純粋悟性に属するものとして比較されるのか、それとも感性的直観に属するものとして比較されるのかを判別する作用を、私は先験的反省と名づけるのである。ところで、概念が心意識の状態において互いに対になり得る関係は4通りある。すなわち、同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、規定され得るもの〔質料〕と規定するもの〔形式〕である。感性においてか悟性においてかという区別は、我々がこの4通りの関係をどう考えたらよいか、という仕方に大きな相違を生じる。
 客観的判断のための概念を比較してみると、全称判断のために同一、特殊判断を構成するには相違、肯定的判断を成立させるには一致、否定的判断を成立させるには反対がある。これらの概念は比較概念と名づけられる。しかし問題が論理的形式でなく概念の内容にあるとすると、換言すれば、物そのものが互いに同一なのかそれとも相違しているのか、互いに一致しているのかそれとも反対なのか、などということが問題になると、これらの物は我々の認識能力に対して、感性に対するか悟性に対するか2通りの関係をもち得る。物が相互に対をなして結びつく仕方は、それらの物が感性と悟性とのいずれに属するかによって決定される。すると先験的反省のみが同時に表象相互の関係を規定し得るということになる。物が互いに同一なのか相違しているのか、一致しているのか反対なのかは、概念そのものから単なる比較によってただちに決定できるものではなく、これらの物の属する認識の仕方を判別することによって、すなわち先験的反省を用いて初めて決定され得るのである。

 一 同一と相違。ある対象がたびたび、しかもその都度ごとに同一の内的規定をもって現れると、この対象は、純粋悟性の対象と見なされる限り常に同一であり、「多」物ではなく「一」物である。しかしこの対象が現象だとすると、この物の概念を他のものの概念と比較することは全く問題にならない。たとえ概念に関してはこれらの物が完全に同一であるにしても、同一時においてこうした現象の占める場所の相違は、感官の対象そのものの数的相違を成立させるのに十分な根拠になる。2滴の水は、それぞれの内的相違を一切度外視することができても、それぞれが別の場所において同時に見られるということで、数的に相違するものと考えるに十分である。ライプニッツは現象を全て物自体と考え、可想的存在すなわち純粋悟性の対象と見なしたが、こういう考え方をすれば、彼の「概念的に区別されぬものは同一という原理」は確かに反駁されない。しかし現象は感性の対象であり、また悟性は現象に関しては経験的にしか使用されない。したがって悟性の純粋な使用は不可能であるから、数多性や数的相違は、外的現象を成立させる条件であるところの空間によってすでに表示されているわけである。空間の一部分は、他の一部分と完全に相等しくても別の部分である。空間の諸処に同時に存在する物についても、たとえこれらの物がそれぞれの占めている場所以外の点では全く相等しいにせよ、当てはまらなければならない。

 二 一致と反対。実在が純粋悟性によってのみ表象される場合、実在と実在の間には反対は全く考えられない。これに反して現象における実在的なものは、互に反対し合い、またこれらの実在的なものが同一の主語に結び付けられると、一方は他方の結果を、全面的にあるいは部分的に無効にすることがあり得る。例えば、同一直線上の2つの運動力が、その直線上の一点を互いに反対に引くなり押すなりするような場合、あるいはまた苦痛と満足が平衡を保っているような場合である。

 三 内的なものと外的なもの。純粋悟性の対象にあっては、この対象と異なるものと(その現実的存在に関して)全く関係をもたないものだけが「内的なもの」である。これに反して空間における現象的実体の内的規定は、全て関係にほかならない。それにまた現象的実体そのものが、純然たる関係だけの総括なのである。我々が空間における実体を知るのは、空間において作用している力、すなわち他の物を自分の方へ引き寄せる力(引力)によるか、さもなければ他の物が自分のうちに入り込むのを防ぐ力(斥力と不加入性)によるか、2つのうちいずれかである。ところが純粋悟性の対象となると、実体はいずれも内的規定と内的実在に帰することのできると空をもっているに違いない。しかし私は、私の内感が私に示すところの付随性のほかに、どんな内的付随性も考えることはできない。そして私の内感が私に示す付随性としては、それ自体思惟であるか思惟に類似するものか、2つしかない。ライプニッツは、実体を可想的存在と考えたので、一切の実体を、それどころか物質の構成部分をすら、それぞれ表象力を具えた単一の実体――単子であるとした。

 四 質料と形式。質料という概念は規定されるもの一般を、形式という概念は規定するものを意味する。論理学者は普遍的なものを質料と名づけ、普遍的なもののある部分と他の部分との種別的な差異を形式と称してきた。悟性はまず何かあるものが(少なくとも概念において)与えられていることを要求する。それは悟性がこのあるものをある仕方で規定するためである。すると純粋悟性の概念にあっては、質料は形式よりも前にあることになる。ライプニッツがまず物(単子)と物における内的表象力とを想定し、こうした基礎の上に単子相互の外的関係と単子の状態(すなわち表象)の相互作用を捉えたのはこのためである。こうして空間は実体間の関係によってのみ、また時間は実体の規定を原因および結果として互いに結びつけることによって可能となるとされた。しかし本当のところは、空間および時間は一切の現象と経験において与えられた一切のものよりも前にあり、むしろ経験を初めて可能にするものなのである。それにしても形式が物そのものよりも前にあって、物の可能を規定するなど、主知的哲学者たるライプニッツの我慢できるところではなかった。
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 ・2013年3月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(前半)を読む
 ・3年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・2013年4月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』序論(後半)を読む
 ・新自由主義における「自由」を問う
 ・2013年5月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第一部 東洋の世界(前半)を読む
 ・三浦つとむ「マルクス・レーニン主義に関する本質的な質問」から学ぶ
 ・言語は歴史的にどのように創出されたのか
 ・一会員による『綜合看護』2013年2号の感想
 ・ヒュームの提起した問題にカント、スミスはどのように答えたか
 ・2013年6月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』東洋の世界(後半)を読む
 ・一会員による2013年上半期の振り返り
 ・認知療法における問いの意義を問う
 ・カント歴史哲学へのアダム・スミスの影響を考える
 ・2013年7月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』ギリシアの世界を読む
 ・2013年8月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第三部 ローマの世界を読む
 ・アダム・スミスの哲学体系の全体像を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年3号の感想
 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
 ・2013年9月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第四部 ゲルマンの世界を読む
 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
 ・世界歴史の流れを概観する
 ・現代の言語道具説批判――言語規範とは何か
 ・2014年2月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第3〜11章
 ・ヘルバルト『一般教育学』を読む
 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
 ・2014年4月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第15〜19章
 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
 ・道徳教育の観点から見る古代ギリシャの教育と教育思想
 ・古代ギリシャの経済思想を問う
 ・半年間の育児を振り返る
 ・2014年6月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第27〜33章
 ・現代の言語道具説批判・補論――「言語道具説批判」に欠けたるものとは
 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
 ・アダム・スミス「天文学史」を読む
 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
 ・2014年7月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第34〜38章
 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
 ・アダム・スミス「外部感覚論」を読む
 ・文法家列伝:ジョン・ロック編
 ・一会員による『学城』第11号の感想
 ・夏目漱石を読む@――坊っちゃん、吾輩は猫である、草枕
 ・2014年9月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第41〜43章
 ・ルソーとカントの道徳教育思想を概観する
 ・アダム・スミスは『修辞学・文学講義』で何を論じたか
 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
 ・2014年10月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第44〜45章
 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
 ・2014年11月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第46章
 ・一年間の育児を振り返る
 ・近代ドイツにおける教育学の流れを概観する
 ・2014年12月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』のまとめ
 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
 ・夏目漱石を読むA――二百十日、野分、虞美人草、坑夫
 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
 ・道徳思想の歴史を概観する
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部の要約
 ・弁証法的に学ぶとはいかなることか――一会員による『医学教育 概論(3)』の感想
 ・一会員による『学城』第1号の感想
 ・新大学生への訴え
 ・2015年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論A
 ・心理職の国家資格化を問う
 ・5年目教師としての1年間を実践記録で振り返る
 ・文法家列伝:時枝誠記編
 ・2015年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』哲学史の序論B、C、東洋哲学
 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
 ・高木彬光『邪馬台国の秘密』を認識論から読み解く
 ・一会員による『学城』第12号の感想
 ・2015年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エレア派〜ヘラクレイトス
 ・何故言語学の創出が必要か―一会員による2015年上半期の振り返り
 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
 ・夏目漱石を読むC――彼岸過迄、行人、こころ
 ・2015年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』エムペドクレス〜アナクサゴラス
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
 ・2015年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソフィスト派・ソクラテス
 ・アダム・スミス『法学講義』を読む
 ・学問上達論とは何か――一会員による『哲学・論理学研究(1)』の感想
 ・2015年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ソクラテス派、プラトン
 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
 ・一会員による『学城』第2号の感想
 ・フロイト『精神分析入門』を読む(下)
 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
 ・2015年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』プラトン 弁証法、自然哲学、精神の哲学
 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う
 ・経済学の原点を問う――哲学者としてのアダム・スミス
 ・2017年9月例会報告:カント『純粋理性批判』経験的思惟一般の公準その他
 ・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・過程的構造とは何か――一会員による『“夢”講義(5)』の感想
 ・〔改訂版〕新自由主義における「自由」を問う
 ・2017年10月例会報告:カント『純粋理性批判』反省概念の二義性
 ・続・徒然なるままに――40歳を迎えて
 ・教育実習生に説く人間観の歴史