2017年09月21日

新しい国家資格・公認心理師を問う(2/5)

(2)公認心理師の概要

 本稿は、新しく誕生する国家資格である公認心理師について、その歴史的な意義や限界を問うことを目的としている。

 今回は、公認心理師法や公認心理師のカリキュラム等検討会の報告書をもとに、公認心理師というのはどのような資格であるのか、その概要を紹介する。

 公認心理師法では、その目的として、「公認心理師の資格を定めて、その業務の適正を図り、もって国民の心の健康の保持増進に寄与することを目的とする」と書かれている。すなわち、国民の心の健康の保持増進に寄与することが、法の目的であると同時に、公認心理師の活動の目的であると考えてよいだろう。この目的の達成のために、「保健医療、福祉、教育その他の分野において、心理学に関する専門的知識及び技術をもって」、次の4つの行為を行うものが公認心理師であるとされている。

@ 心理に関する支援を要する者の心理状態の観察、その結果の分析
A 心理に関する支援を要する者に対する、その心理に関する相談及び助言、指導その他の援助
B 心理に関する支援を要する者の関係者に対する相談及び助言、指導その他の援助
C 心の健康に関する知識の普及を図るための教育及び情報の提供


 順に、もう少し詳しく説明したい。

 @はいわゆる心理査定とか心理アセスメントとか呼ばれるものであり、典型的には、心理テストを実施して、その結果を解釈するような作業のことである。たとえば、知能検査を実施して、対象者の知的な能力の偏り(得意なところと不得意なところ)を分析したり、パーソナリティ検査を行って、対象者の性格傾向を把握したりすることである。精神疾患のある方が対象である場合は、その疾患の重症度を測ったりもする。もちろん、心理テストを用いずに、あるいは心理検査と合わせて、対象者の行動を観察したり、本人から話を伺ったりすることによって、その心理状態を分析することもある。いずれにせよ、@では、対象者の心の状態がどのようなものかを専門的に調べて、分析・評価する仕事だといえるだろう。

 Aはカウンセリングや心理療法のことである。広く、心理的介入ということもある。たとえば、うつ病の方に認知行動療法を実施して、症状の緩和や回復を図っていくことや、不登校の中学生にカウンセリングを行い、登校できるように援助していくことなどである。もちろん個別に、1対1でカウンセリングや心理療法を行なうだけではなく、集団に対して心理的介入を行うこともある。うつ病の入院患者さんに対して、病棟のプログラムとして集団認知行動療法を行なうことや、刑務所で、出所後、きちんと就職できるように、就労に関するスキルを訓練するためにSSTを実施することも、ここに含まれるだろう。また、Cとの区別が微妙になるが、企業の新入職員を対象に、メンタルヘルスの研修を行うようなことも、広く解釈すれば、Aに入れてもいいだろう。

 Bは本人ではなく、その関係者に対する働きかけである。たとえば、うつ病患者さんのご家族に接し方のアドバイスをしたり、発達障害のあるの会社員の上司に、その特性をお伝えしたりする活動である。また、コンサルテーションといって、異なる専門家同士の相談もここに含まれる。企業の産業保健スタッフ(産業医や保健師など)と、休職中の方の復職時期やその後のサポートについて相談したり、教育の専門家である学校の先生と、対象の生徒について支援のあり方を相談したりする活動などである。コンサルテーションにおいては、心理の専門家として、その他の専門家と連携していくことが求められる。

 Cは、メンタルヘルスに関わる市民講座や各種メディアを通した情報提供などが想定されていると考えられる。@〜Bが、特定の対象者やその関係者に限られた活動であるのに対して、このCは、不特定多数を対象とした活動といえるだろう。公認心理師の「国民の心の健康の保持増進に寄与する」ためには、@〜Bにあるような「心理に関する支援を要する者」に対して、事後的に介入するだけではなく、現在は心理的な支援を必要としない不特定多数に対しても、事前に、予防的に関わっていく必要がある。そこで、講演会や雑誌、テレビなどのメディアを通じて、心の健康に関する知識を普及していくという活動も、公認心理師の仕事の一つだとされているのだと考えられる。

 このような4つの仕事を行うのが公認心理師であるとされているのである。そして、大学や大学院での公認心理師養成は、この4つの仕事が行えるように教育していく、ということになる。そこで次に、公認心理師養成の中身について、具体的に見ていきたい。

 今年の6月に公表された「公認心理師カリキュラム等検討会 報告書」では、公認心理師の養成について、以下の24の到達目標が挙げられている。

1. 公認心理師としての職責の自覚
2. 問題解決能力と生涯学習
3. 多職種連携・地域連携
4. 心理学・臨床心理学の全体像
5. 心理学における研究
6. 心理学に関する実験
7. 知覚及び認知
8. 学習及び言語
9. 感情及び人格
10. 脳・神経の働き
11. 社会及び集団に関する心理学
12. 発達
13. 障害者(児)の心理学
14. 心理状態の観察及び結果の分析
15. 心理に関する支援(相談、助言、指導その他の援助)
16. 健康・医療に関する心理学
17. 福祉に関する心理学
18. 教育に関する心理学
19. 司法・犯罪に関する心理学
20. 産業・組織に関する心理学
21. 人体の構造と機能及び疾病
22. 精神疾患とその治療
23. 各分野の関係法規
24. その他


 そして、これらの到達目標を達成するために、大学および大学院で必要な科目として、それぞれ次のような科目が指定されている。

大学における必要な科目
1. 公認心理師の職責
2. 心理学概論
3. 臨床心理学概論
4. 心理学研究法
5. 心理学統計法
6. 心理学実験
7. 知覚・認知心理学
8. 学習・言語心理学
9. 感情・人格心理学
10. 神経・生理心理学
11. 社会・集団・家族心理学
12. 発達心理学
13. 障害者(児)心理学
14. 心理的アセスメント
15. 心理学的支援法
16. 健康・医療心理学
17. 福祉心理学
18. 教育・学校心理学
19. 司法・犯罪心理学
20. 産業・組織心理学
21. 人体の構造と機能及び疾病
22. 精神疾患とその治療
23. 関係行政論
24. 心理演習
25. 心理実習(80時間以上)


大学院における必要な科目
1. 保健医療分野に関する理論と支援の展開
2. 福祉分野に関する理論と支援の展開
3. 教育分野に関する理論と支援の展開
4. 司法・犯罪分野に関する理論と支援の展開
5. 産業・労働分野に関する理論と支援の展開
6. 心理的アセスメントに関する理論と実践
7. 心理支援に関する理論と実践
8. 家族関係・集団・地域社会おける心理支援に関する理論と実践
9. 心の健康教育に関する理論と実践
10. 心理実践実習(450時間以上)

 見ていただければ分かるように、認知心理学や社会心理学、発達心理学など、主だった心理学の領域は全て学ばなければならないし、研究法や統計法、実験に関しての科目も必須となっている。また、医療、福祉、教育、司法、産業という、公認心理師が活躍するであろう5領域に関わる科目も、学部、大学院、共に全て修める必要がある。さらに、実習も、特に大学院では長時間、課されている。

 大学と大学院で、上記の科目を履修した者が、公認心理師試験の受験資格を得る。実は、大学院まで修了しなくても、受験資格を得られるルートは存在するのであるが、大学と大学院でこのような科目を修めることがメインルートとされている。

 では、公認心理師試験はどのようなものであるのか。実施方法等と合格基準について、先の報告書では次のように記されている。

「2.試験の実施方法等
 全問マークシート方式とし、1日間で実施可能な範囲(実施時間として合計300分程度を上限)で150〜200問程度を出題する。また、試験問題のうち、ケース問題を可能な限り多く出題する。なお、試験の実施時間は、1問当たり1分(ケース問題については同3分)を目安とする。公認心理師としての基本的姿勢を含めた基本的能力を主題とする問題と、それ以外の問題を設ける。
 障害のある受験者については、回答方法等、受験上の配慮をする。

3.合格基準
 全体の正答率は60%程度以上を基準とする。基本的能力を主題とする問題の正答率は、試験の実施状況を踏まえ、将来的に基準となる正答率を定める。」


 すなわち、事例問題の多い150〜200問ほどのマークシート方式であり、合格基準としては正答率が60%程度以上ということである。「公認心理師としての基本的姿勢を含めた基本的能力を主題とする問題」というのは、これを間違うと、公認心理師としての基本的能力に欠けていると判断されるような問題であり、たとえば、3問以上間違うと無条件に不合格となる、というような、全体の正答率の基準とは別の、より高い基準が設定されるものと考えられる。

 このような試験に合格すれば、晴れて公認心理師となれるのである。なお、第一回の資格試験は、2018年12月までに実施されることになっている。

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2017年09月20日

新しい国家資格・公認心理師を問う(1/5)

目次

(1)公認心理師法が施行された
(2)公認心理師の概要
(3)臨床心理士との比較
(4)公認心理師の意義と限界
(5)基盤となる認識論の構築を目指して

――――――――――――――――――――

(1)公認心理師法が施行された

 2015年12月に改正労働安全衛生法が施行された。この法律に基づき、従業員の心の健康状態を調べる検査を企業などに義務づけたストレスチェック制度が始まった。このストレスチェック制度の背景には、うつ病など精神疾患の発症による労災申請の増加がある。このストレスチェック制度に関して、最近、以下のような新聞記事があった。

「ストレスチェック実施82%、厚労省調べ、義務化後も徹底されず、医師の指導は32%。

 厚生労働省は26日、企業などに従業員の心の健康状態の点検を義務づけた「ストレスチェック制度」の実施状況を初めて公表した。実施率は82・9%にとどまり、実施したうえで部署による違いなどの分析までしたのは64・9%だった。同省は未実施の事業所を指導するほか、従業員が受け終わっている事業所には職場環境の改善につなげるよう促す。

 同制度は従業員のメンタルの不調を防ぐことを目的に2015年12月に開始。従業員50人以上の事業所は年1回、ストレスチェックを実施し、結果を受けて従業員から申し出があれば医師による面接指導などを行わなければならない。

 厚労省は今年6月末時点での状況をまとめた。全体の実施率は82・9%で、業種別では金融・広告業が93・2%で最も高かった。全事業所の従業員のうち、78・0%が同時点までにストレスチェックを受けた。

 医師による面接指導は32・7%の事業所が行っていた。高ストレスの従業員がいなかったことで面接をしなかった事業所もあるとみられるが、厚労省は面接指導が必要なのに受けていない従業員も多いとみている。

 ストレスチェック制度では、結果を踏まえて部署による多い・少ないなどストレスの現状を分析し、仕事の割り振りなども含む職場環境の改善に取り組むことを事業所の努力義務としている。しかし、チェックを実施した事業所のうち分析までしたのは78・3%で、同省によると、2割超は従業員にチェックを受けさせるだけで終わっている可能性が高い。

 一方、厚労省の研究班は15年度の同制度開始後最初の1年間の状況を分析した。それによると、チェック実施後に何らかの職場環境の改善をしていたのは37・0%にとどまった。

 研究班の代表を務める東京大大学院の川上憲人教授は「従業員への調査結果を見ると、ストレスチェックを受け、さらに職場環境の改善を経験した場合にストレスがやや軽減されている」と指摘。「制度の実効性を高めるためにも企業に対策を促していくことが重要だ」と強調する。研究班は今年度、職場環境の改善方法や医師の面接指導に関するマニュアルをつくる計画だ。」(2017年07月27日 日本経済新聞)


 この記事によると、ストレスチェックを実施した事業所は全体の82.9%であり、高ストレス者に対する医師による面接指導を行ったのはわずかに32.7%にすぎず、何らかの職場環境の改善を行ったのも37.0%にとどまっているという。労働者の心の健康を守るために施行された法律が、形式的なものにとどまっている現状がうかがえる。

 筆者も企業においてカウンセリングを行っているが、労働者の心の健康は、さまざまな形で害されているといってよい。長時間労働が当たり前の職場もあれば、質の高い業務を課される部署もある。パワハラや、そこまでいかなくても、上司との関係に悩んでいる方も多い。このような要因によってストレスを感じ、ついにはうつ病を発症して休職に追い込まれるような方も増えているのである。

 メンタルヘルス上の問題は、何も労働者に限定されたものではない。学校現場では、子どもの自殺が問題化している。内閣府が2015年に公表した自殺対策白書によると、1972〜2013年の42年間で18歳以下の自殺者数を日別に調べたところ、9月1日が突出して多かったという。9月1日前後の数日も自殺者数が多く、ゴールデンウィークや春休みの前後も多い傾向があると報告されている。このような中で、次のような取り組みが報道されていた。

「夏休み明け 悩み相談を 「応援委」カード 全小中生に配布へ

 【愛知県】名古屋市教委は新学期に入る九月一日、子どもの悩みに応じる「なごや子ども応援委員会」をPRするカードを全小中学生らに配布する。夏休み明け直後の悩みの顕在化が懸念される中、未然に問題を防ぎたい考えだ。

 応援委は中学校に常駐するスクールカウンセラー(SC)らが、不登校やいじめなどに対応する市独自の制度。二〇一四年に発足した。

 カードは名刺サイズの両面カラー刷りで、小中学生と教職員用の計十七万五千枚を作製した。「こころのこと、からだのこと、おうちのこと、なんでも相談してね!」などと呼び掛け、地域ごとの専用電話番号も記載している。

 全国的には夏休み明けの子どもの自殺が問題になっており、市教委の担当者は「二学期は学校行事が多く、気の重い状態となっている子もいる。不登校などになる前に気軽に相談してほしい」と話している。(安田功)」(2017年8月31日 中日新聞)


 ここでは、夏休み明けに不登校や自殺などの問題が生じないように、中学校のスクールカウンセラーが相談に応じることを周知するカードを配布しているということが紹介されている。

 筆者はスクールカウンセラーとして、週に1回、活動している。その中で、不登校に関する問題は非常に多い。中には、うつ病や統合失調症などの精神疾患を発症しているケースもある。また、思春期特有の発達上の課題で悩んでいる生徒も多い。

 このように、現代日本においては、メンタルヘルス(心の健康)に関わる問題が、さまざまな領域で、多様な形で噴出しているのである。そして、国家レベルでメンタルヘルス対策がなされており、その一環として新しい国家資格が誕生することになった。それが、本稿で取り上げる公認心理師である。

 公認心理師の資格を法定する公認心理師法は、2015年9月に成立し、公布された。そして、公布の日から2年を超えない範囲内において施行されることとされていたのであり、実際、この9月15日に施行された。この法案には、法律案を提出する理由として、次のように記されている。

「近時の国民が抱える心の健康の問題等をめぐる状況に鑑み、心理に関する支援を要する者等の心理に関する相談、援助等の業務に従事する者の資質の向上及びその業務の適正を図るため、公認心理師の資格を定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。」


 ここに記されているとおり、国民が抱える心の健康に関する問題が多様化し深刻化する中で、心理職に対する社会的ニーズが高まり、その質の担保が求められるようになったために、心理職の国家資格化が実現したといってよい。

 そこで本稿では、この新しい国家資格である公認心理師について、その意義と限界を問うことを目的としている。そのために、まずは公認心理師とはどのような資格であるかを紹介したい。そして、現在最も知名度があり、最も取得が難しいとされている心理系の資格である臨床心理士と比較して、その特徴を浮上させたい。これを踏まえた上で、公認心理師の意義と限界を考察していく予定である。
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2017年09月19日

障害児の子育ての1年間を振り返る(5/5)

(5)教育学の構築は歴史的な願いを現実化するものである

 本稿は、ダウン症と診断されたわが子の1年間の育児を振り返るものである。ここでこれまでの内容を振り返っておこう。

 まず、抱っこしながらの散歩とその意味について確認した。これを始めたきっかけは、松田道雄『育児の百科』で勧められていたからであるが、それは実体面と認識面の両面で大きな意義があるものだということだった。実体面に関しては、さらに生理的な側面と運動的な側面の2つがあり、生理的な側面で言えば、外界の自然的な変化に対応する実力をつけるという意味があるということだった。一方、運動的な側面で言えば、首から背中・腰にかけての骨や筋肉を鍛えるという意味があり、とりわけ縦抱きにされることによって、そういう姿勢の状態に慣れていくということ、このことが首すわりやお座りにつながっていくのだということだった。一方、認識面でいえば、抱っこをすることによって、これまでとは違った形で外界を反映させることになり、赤ちゃんの認識の発展を促していくことになるということであった。さらに散歩の場合、その反映する外界そのものが家の中に比べれば多種多様であるから、赤ちゃんの興味・関心を促し、外界に対して積極的な姿勢を創ることになるということだった。このような意味のある抱っこしながらの散歩を毎日続けたからこそ、それが量質転化したのではないかということだった。

 続いて、「ハイハイを促すために行った働きかけ」について紹介した。最初にハイハイの意味について確認した。ハイハイをすることによって上肢を鍛えることができるのであり、またハイハイができるようになる過程(=自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程)が人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるのだということであった。そこで、成長の頃合いを見計らって、ハイハイができるように意図的に働きかけたのだった。そもそも人間は像を描いて行動するのであり、ハイハイにしても「あのおもちゃをとりたい」などの像を描いて行うわけだから、その像をしっかり描けるようにしないといけないということだった。そこで、移動できなくても、取るために頑張っているようだったら、ちょっとおもちゃを近づけてとれるようにしてやったのだった。こうやって「がんばったらとれた」という体験を積ませることで、「何とかがんばって動こう」という意志が強烈になるのではないかと考えたのだった。一方、ハイハイがしやすいように、つるつるの板を買ってきて滑りやすくするとともに、傾斜をつけて移動しやすくなる工夫をしたのだった。その結果、あっという間に自分でずりばいができるようになったのだった。

 最後に、障害をもつ子どもの親として、自分の認識がどのように変化していったのかを紹介した。自分の子どもがダウン症であることがわかったとき、大きなショックを受けたが、『障害児教育の方法論を問う』を読んで、自分の子どもも健常児と同じように可能性をもっているのであり、育て方次第でしっかりと育っていくのだと思うことができたのだった。しかし、最初の頃はかなり気負いこんでおり、あまり気持ちに余裕がなかった。しかし、1つ、また1つと子どもの成長を感じるたびに、その気持ちが少しずつ和らいでいき、「しっかり成長するんだな」と少し安心することができた。しかし、このような成長はいわば自然成長的なものとしか見られなかった。自分が意図的にやっている取り組みが、どのように影響を与えているのかはよくわからなかった。そのため、「本当にこれでいいのだろうか」という不安を覚えることもあった。しかし、理論的な実践として「ハイハイを促すための働きかけ」を行ったところ、子どもがハイハイをできるようになったことをきっかけに、子育てに関して自信をもつことができたのだった。10か月検診の際、もう普通のハイハイやつかまり立ちをしたり、手を離して歩くこともできている子どもがいたが、そういう姿を見て、「すごいな」とは思ったけれども、まだずりばいがちょっとできるぐらいでしかない自分の子どもについて卑屈に考えることは一切なかったのだった。そこには自分の子どももあるべき発達の過程をしっかり辿っているし、辿らせているという自信があったからだということだった。

 この1年間を振り返ったとき、もっとも大きな学びになったことは「すべての人間は可能性をもっている」ということである。このような内容は南郷学派の著作には書かれているし、これまでにも学んでいたけれども、これがいかに重要な論理なのかということがまったくわかっていなかった。本の上での知識でしかなかったのである。しかし、障害のあるわが子を育てなければならないという切実な問題にぶつかったとき、この論理のすばらしさに気づいたのである。

 もっとも子育てを始めた当初は、まだまだ信じるしかないというレベルだった。しかし、自らの取り組みによって子どもが大きく成長する姿を見せてくれる中で、この論理が自らの体験をともなったものとして、五感情像として発展していった。

 こうした認識でもって過去の偉大な教育学者の著作を読んでみると、やはりみな人間のもつ力・教育のもつ力を信じて実践に取り組んでいたのだということがわかった。「この子は育たないだろう」と思われる子どもたちに対して、信念をもって実践に取り組んでいったのである。教育学の歴史というのは、人間の力・教育の力のすさまじさが明らかにされていった歴史なのだということも読みとることができた(詳細は昨年掲載した「近代教育学の成立過程を概観する」を参照していただきたい)。その延長線上に、今の自分の子育てがあるのだということがわかった。

 しかし、いかに「人間には可能性がある」といったところで、それを現実化させるものが存在しなければ、結局は徒労に終わってしまうし、仮に成果が出たとしても一過性・偶然性にすぎないものとなってしまう。そこで求められるのが対象から導き出した論理であり、理論なのである。これをしっかりと自分のものにすれば、対象についての見え方が大きく変わってくるし、どうすればよいかの方向性が見えてくるということが自らの体験として非常によくわかった。

 この理論を体系的にまとめあげたものこそ教育学である。教育学の構築こそ私が掲げている人生の目標であるが、これを実現することは、「すべての子がその可能性を実現していってほしい」という先達たちの理想を具体化しようとするものなのである。人類が抱き続けてきた願いの実現につながる歴史的な大事業なのである。

 このようなことがわかったのは、障害をもって生まれてきたわが子のおかげである。本当に感謝している。家庭での子育てや教室での授業など、自分の実践の場で一人一人の可能性を最大限現実化させようと努力するとともに、そうした事実をもとに教育学を構築できるよう、研鑽に励んでいきたいと思う。
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2017年09月18日

障害児の子育ての1年間を振り返る(4/5)

(4)子育ての過程での親の認識の変化

 前回は、ハイハイを促すために行った働きかけについて紹介した。端的にまとめるならば、赤ちゃんがハイハイしやすい環境を作りだすとともに、ハイハイしようという意志が形成されるように、成功体験を積ませるように配慮したということであった。その結果、ずりばいをするようになり、現在では4mぐらいは移動できるようになったということだった。

 今回は、こうした取り組みの中で、親である私自身の認識がどのように変化していったのかについて紹介したい。

 冒頭で紹介したように、自分の子どもがダウン症であることがわかったとき、大きなショックを受けた。自分の子どもに障害があるとわかったとき、おそらく多くの親が同じような感覚をもつことだろうと思う。場合によっては、育児放棄や自暴自棄につながったりすることもあるだろう。

 私は幸いにも『障害児教育の方法論を問う』を読んで、自分の子どもも健常児と同じように可能性をもっているのであり、育て方次第でしっかりと育っていくのだと思うことができた。自分の子どもとしっかりと向き合っていこうという覚悟をもつことができた。

 今、「覚悟」という言葉を使ったけれども、最初の頃はかなり気負いこんでいたところがあった。「自分がしっかりしなければ、この子は育たないのだ」という思いが強かった。だからこそ散歩も毎日行うことになったのだが、あまり気持ちに余裕がなかった。

 しかし、1つ、また1つと子どもの成長を感じるたびに、その気持ちが少しずつ和らいでいった。例えば、2か月のときには、次のような記録を書いている。

(2か月と1週)
 最近、足の力や手を握る力がだいぶんついてきた。だっこをしているとき、足で蹴られたりするが、これが結構痛い。また、手で腕の肉などをつかまれたりすると、つねられたように痛い。首の力も少しずつついてきている。うつむせをさせていると、自分の首をだいぶん持ち上げられるようになってきた。地面から顔を浮かせて、顔の向きを変えることもできる。 

(2か月と2週)
 だいぶん体力がついてきた。そのことを感じるのは、授乳後の様子である。1か月の頃はおっぱいを飲んだ後はとてもぐったりして、そのまま寝てしまっていた。ところが、今は、確かにぐったりもするものの、そのまま寝ないことが多い。おっぱいを飲むというのは赤ちゃんにとって重労働のようだが、それに耐えうるだけの体力が身についてきたということであろう。飲んだ後のげっぷもよく出るようになってきた。また、最近だっこしていると、体を前に起こしてくる(腹筋してくるような感じ)ようになった。


 こうした小さな変化を見るたびに、「あぁ、ちゃんと成長しているんだな」と嬉しくなったし、安心することができた。

 しかし、このような成長はいわば自然成長的なものとしか見られなかった。自分が意図的にやっている取り組みが、どのように影響を与えているのかはよくわからなかった。そのため、「本当にこれでいいのだろうか」という不安を覚えることもあった。

 こうした不安が一挙に解消されたのが、前回紹介した「ハイハイを促すための働きかけ」である。人間は目的像を描いて行動する。ハイハイでいえば、おもちゃをとるという像を描くからこそ、それを実現しようとしてハイハイという行動をとるのである。しかし、ハイハイはすぐにはできない。ハイハイしようとがんばり続ける中で、一歩が出るようになるのである。そのがんばりを維持させるものは、「がんばったらおもちゃが取れた」という過去の成功体験であり、錯覚でよいからそれを与えることが必要になる。こうした論理に基づいて実践をしたわけだが、それによって見事にハイハイができるようになったわけである。

 この体験は、私にとってとてつもなく大きな自信となった。「あぁ、このようにして論理を使っていけばいいのか」ということがわかった。ここから普段の育児記録の量が一気に増えた。現実の目の前の子どもの姿と南郷学派の著作に書かれていることとが自分の中で次々とつながっていったのである。その内容をどんどん書き留めていった結果、約3か月で9万字にもなった。

 その時の自分の思いを次のように書いている。

 離乳食をなかなか食べなくて大変だなと思うこともあるけれども、子育て全般に関してはあまり不安がない。親の愛情を注ぐこと、自然に触れさせること、系統発生を辿らせること、食事をちゃんとすること、生活リズムを整えること、この5つぐらいがわかっていれば大丈夫だろうという感覚がある。何か問題が起こったとしても、この観点からその問題を説くことができるという自信もあるし、むしろ起こってくれた方がいろいろわかっていいなという思いすらある。


 この5つの観点の妥当性はともかく、これだけの自信をもつことができたということである。

 10か月検診の際、いろいろな親子と一緒の部屋で測定や診察を待つことになった。健常児の場合、10か月というと、もう普通のハイハイやつかまり立ちができている。子どもによってはもう手を離して歩くこともできている。そういう姿を見て、「すごいな」とは思ったけれども、まだずりばいがちょっとできるぐらいでしかない自分の子どもについて卑屈に考えることは一切なかった。自分の子どももあるべき発達の過程をしっかり辿っているし、辿らせているという自信があったからである。

 このように、当初は自分の子どもの可能性を信じるものの、気持ちに余裕がなかった状態であったが、理論的な実践によって結果を出すことができると、大きく自信をつけることができ、子育てに関して大きな不安を抱かないようになり、気持ちとしても余裕をもつことができるようになったのである。
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2017年09月17日

障害児の子育ての1年間を振り返る(3/5)

(3)ハイハイを促すための働きかけとその意味

 前回は、抱っこしながらの散歩について取り上げた。それを毎日行う意味について、実体面と認識面の2つに分けて確認した。今回は、ハイハイ(ずりばい)を促すために行った働きかけについて紹介したいと思う。

 そもそもハイハイをする意義について確認しておこう。ハイハイについては、世間では様々な見解がある。ハイハイをしないままつかまり立ちをするようになってもよいという見解もある。そうした見解に対して、瀬江先生は次のように批判しておられる。

「『なぜそこまでハイハイにこだわるのですか。人間の基本的運動形態は、二足で立って、歩き、両手を自由に使うことなのですから、ハイハイしなくても、立てるようになればいいのではないですか』と思うかもしれません。
 しかし、残念ながらそれは誤りです。なぜならば、ハイハイという過程を経ないで歩くようになると、人間としては、大きな欠陥をはらんだままの発達をしてしまうからです。それは、いったい何でしょうか。これには大きく二つあります。
 一つは、一番大事な時期に、前腕から上腕そして肩にかけての上肢の力がつかないままに、歩いてしまうことになるということです。(中略)唯一、上肢を力強く鍛える過程であるハイハイを経ないで歩行へと進んでしまうことは、人間としての運動形態に、大きな欠陥をはらんでしまうことになるのです。
 次に、ハイハイを経ないままに歩いてしまうことの欠陥の二つ目は、一つ目よりもさらに重大なことです。それは何かといえば、ハイハイによる赤ん坊の脳の発達の可能性を、欠落させてしまうということです。
 なぜならば、自らの力で動くことがまったくできずに生まれてきた赤ん坊が、地球の重力に逆らって、自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程は、人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるからです。」(瀬江千史「看護の生理学(45)−運動器官第10回−」『綜合看護』(2013年1号)所収)


 つまり、ハイハイをすることによって上肢を鍛えることができるのであり、またハイハイができるようになる過程(=自らの体を移動させようとするけれど移動できない、移動させようとするけれど移動できない、を繰り返し、ようやく移動できるようになる過程)が人間としての脳の実力をすさまじくつけることになるのだということである。

 こうしたことを学んでいたので、とにかくハイハイはしっかりとさせたいと考えていた。およそ7か月の頃には、うつぶせになって、目の前にあるおもちゃに手を伸ばす姿が見られるようになったので、ハイハイを促すための働きかけを行うことにした。

 上の瀬江先生の論文では10か月検診でまだハイハイができない子どもの事例が取り上げられており、母親に生活状況をたずねてみると「自らハイハイしなくてもよい環境があった」として、次のように書かれていた。

「例えば、母親が見えなくなって泣けば、すぐに同居の祖母がとんできて抱っこをする、近くにあるオモチャを取りたくて泣けば、すぐに母親や祖母が取ってくれる・・・ということで、自ら大変なハイハイをしなくても、泣くだけで自分の目的が達成されてしまう状況にあった、ということです。」


 これを読んで、「なるほど、近くにおもちゃを置いて、多少泣いても放っておくのが大事なんだな」と思い、実践することにした。やってみると、叫び声をあげたり、必死で手を伸ばしたり、足で床を蹴っておしりを上げたりするが、進むことはできず、泣きじゃくる姿が見られた。

 その様子を見ていて、何か取り組みとして間違っているのではないかという思いを抱くようになった。もう無理だなと思ったときに「よくがんばったね。次もがんばろうね」とか言いながら抱っこしてなぐさめるのだが、何となく「これではだめなのではないか」という思いがあった。泣いた状態で終わるというのが、あまりいいとは思えなかったのである。

 そこで、我々の研究会の指導者に相談することにした。すると、ずりばいができるためには、土台としての実力が必要だと説いていただいた。例えば、おもちゃがとれなくて叫び声を上げたりするのだが、これは要するに頭の中で思い描いている像(=おもちゃをとって遊んでいる像)と現実を一致させられないことに対する苛立ちの表現として見ることができる、そういう像を描けることがずりばいを行うための土台として必要になる、ということであった。そうやって像が先行して、その像を実現させようとする過程で実体の力がついていくのだと説いていただいた。

 さらに具体的な取り組みとして、最後にはおもちゃをとれるようにしてやることが大事だということであった。そうすることで(錯覚ではあるものの)「がんばったらおもちゃがとれた」という成功体験をさせることになり、「次もがんばろう」という認識を育てることになるのだ、ということであった。

 これを聞いたとき、とても納得することができた。とりわけ最後には取れるようにすることが大事だという話は、自分が感じていた疑問を見事に解消するものであった。それ以後、必死でとろうとがんばる姿を見せたら、頃合いを見計らっておもちゃを子どもの方に寄せて、取れるようにしてやった。そして、「おもちゃに届いたね〜、よくがんばったね〜」などと言いながら、抱っこしたりするようにした。

 これを2週間ほど続け、取ろうとする意欲が高まっていることは感じられた。例えば、おもちゃを触ろうと必死で手を伸ばすあまり、ごろんと体ごと回転してしまうこともあった。しかし、なかなかずりばいができるようにはならなかった。

 私の家では床にカーペットをひいているのだが、カーペットは摩擦が強いから進みにくいのだろうと思った。これがつるつるの板で、しかも傾斜がついていれば、ずりばいができるようになるのではないかと考えた。

 さっそくホームセンターで木材(パネコート)900mm×1800mmを購入し、700mm×1600mmにカットしてもらった。また、端材で700mm×100mmを6つ作ってもらい、傾斜をつけるための土台とした。こうすれば、土台の板を1つずつ外せば、少しずつ傾斜が緩やかになる。

image.jpeg

この上に乗せて、少し距離のあるところにオモチャをおいたところ、すぐさまずりばいができた。両手を広げて地面につき、腕の力で体を前に引き寄せたり、足で蹴って体を前に推し進めたりしながら、そのオモチャに向かって移動する姿が見られたのである。

 当初は近い距離におもちゃを置かないとずりばいをしなかった。そこで、近づいて少し遊んでは、また少し離れたところにおもちゃを置き、そこに近づいて少し遊んでは、また離れたところにおもちゃを置き・・・ということを繰り返して、板の端から端までずりばいをさせるようにした。これをやっているうちに、最初から板の端におもちゃをおいても、そこに向かってずりばいをするようになった。ずりばいを繰り返す中で、それだけの距離を移動できるだけの実体の実力と、「あそこまでならいける」という認識が形成されたのだと言えるだろう。

 その後は傾斜を緩やかにしていき、やがて普通のフローリングでもずりばいができるようになった。さらに、しばらくすると、最初はできなかった摩擦の強いカーペットの上でもずりばいができるようになった。

 この段階ではちょっと移動しては止まり、ちょっと移動しては止まり・・・という状態だったが、現在は休みなくあちこちに移動していくし、促せば4mぐらいずりばいができるようになっている。こちらの働きかけ次第で大きく成長するのだということを実感した出来事であった。
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2017年09月16日

障害児の子育ての1年間を振り返る(2/5)

(2)抱っこしながらの散歩とその意味

 本稿は、ダウン症と診断されたわが子の1年間の育児を振り返るものである。今回は、その育児の中で行っていた「抱っこしながらの散歩」について取り上げたいと思う。

 里帰り出産であったため、出産後の2か月ほどは一緒にいなかったのだが、家に戻ってきてからはほとんど欠かすことなく毎日行っていたことが抱っこしながらの散歩である。朝6時頃から子どもを抱っこして、近くを2、30分散歩した。さらに、仕事から戻った夕方にも同じように散歩をした。休日は昼間にも行うようにした。つまり多い時で合計3回、1時間半ほど散歩するようにした。

 直接的なきっかけは、松田道雄『育児の百科』の「赤ちゃんをきたえよう」の項目で、くどいほど「外気に当てろ」と書かれていたことである。例えば、以下のとおりである。

「3か月をすぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間くらい外気にあてたい。気候のいいときであれば、ベビーカーにねかせて、外気のなかにだしておいてもいいが、やはり、抱いて散歩する時間がほしい。3か月になると、赤ちゃんは、いろいろのものに関心をもつようになり、自分で頭をうごかして左右をながめる。抱かれていれば、胴体をしゃんと直立させようとする。よろこべば腕もうごかす。だから、赤ちゃんにとっては散歩はいい運動である。
 極寒でも、つよい風のない日は手足や耳を十分に保護して、あたたかい時刻をえらんで、せめて20〜30分でも外気にあてたい。冷たい空気を呼吸することが、気道の粘膜をきたえる。夏の暑いときは、日陰をえらんで外にだす。帽子を必ずかぶせる。春や秋でも、3か月では、まだあまり太陽で皮膚をやかないほうがいい。」(pp.197-199)

「4か月すぎると、赤ちゃんは首もしっかりし、支えればすわってもいられるから、抱っこしたり、ベビーカーに乗せたりして、家の外につれてでやすくなる。赤ちゃん自身も、周囲のものにたいする関心がふえるので、外へ出ることをよろこぶ。からだをきたえるチャンスがめぐってきたといえる。できれば1日に3時間以上、外気のなかで暮らすようにしたい。」(p.225)

「5か月から6か月までは(中略)鍛錬開始期とでもいいたいくらいだ。厳寒の季節をのぞいて、せいぜい外気のなかで生活させてほしい。」(pp.251-252)

「6か月すぎた赤ちゃんは、1日のうち3時間以上は外気のなかですごすようにしたい。ベビーカーにすわらせているだけでなく、安全なところでおろして、おすわりさせたり、はいはいさせたりできるといちばんいい。(中略)外で外気浴のできないときは、家のなかで空気浴をやる。室温を20度ぐらいにしておければ、赤ちゃんをはだかにできる。」(p.297)


 とりわけ抱っこしながらの散歩がよいということだったので、散歩をすることにした。最初は、ずっと斉藤公子が推奨しているやり方(赤ちゃんと向かい合わせになり、赤ちゃんの股を自分のおなかにくっつけて、片手でおへその裏側、もう片方の手で頭をもつという方法)で抱っこをしながら散歩をしていた(今振り返ると、かなりリスクの高い散歩の仕方だったと思う)。途中でとまって、じーっと目を見つめて、ほほえみかけたりした。生後2か月と1週のときの記録では「最近、だっこしているときに目が合うようになってきた。じーっと笑顔で見つめ続けると、ほほの筋肉が少し上がるようにもなった。先日ははっきりと笑う姿が見られた。」と書いている。12月からは、縦抱きにして抱っこするようにした。最近は、抱っこひもを使って縦抱きにするようにしている

 抱っこしながらの散歩にはどのような意味があるのか。『育児の認識学』では、「そもそも人間は実体と認識の統一体であり、それだけに、この両面をきちんととらえて教育していかなければならない」(p.26)と書かれている。したがって、散歩の意味についても、実体面と認識面の両面から見ていく必要があるだろう。

 第一に実体面に関してだが、これも生理的な側面と運動的な側面の2つがある。生理的な側面で言えば、外界に対応する実力をつけるということである。家の中はある程度過ごしやすい温度に保たれているが、外は暑かったり寒かったりする。また日差し・明るさに関しても、家の中ではほぼ一定であるが、外ではその時々によって変化する。このような外界の自然的な変化に対応できるようにするという意味がある。

 運動的な側面で言えば、首から背中・腰にかけての骨や筋肉を鍛えるという意味がある。ここに関わっては、『総合看護』に連載されていた「看護の生理学」で瀬江先生が次のように説いている。

「人間の赤ん坊は、首が座るということも、放っておいて自然にできるようになるわけではありません。ではどのような育て方をすると、赤ん坊の首が座ってくるのかというと、最も大事なことは『抱く』ということです。つまり人間の母親が赤ん坊を抱くということは、単なるスキンシップのためだけではなく、人間としての運動形態の基本をつくっていくことになるのであり、当然その抱き方が問題とされなければなりません。
 では、赤ん坊をどのように抱かなければならないのかと言うと、端的には、仰向けに寝ている状態から、少しずつ少しずつ背骨を立てていく抱き方、つまり”横抱き”から”たて抱き”に移行していく必要があるのです。
 そのように、少しずつ少しずつ大地に対して背骨を垂直に立てる姿勢をとらせていくことによって、赤ん坊の体は、背骨をはじめとして、首や手足の骨も筋肉も、内臓も、脳も感覚器官も、少しずつ少しずつその姿勢になれ、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるのです。」(瀬江千史「看護の生理学(43)−運動器官第8回−」『綜合看護』(2012年3号)所収)


 要するに、縦抱きとは背骨を立てていく抱き方であり、それによって、そのような重力関係に慣れ、そのような姿勢を保てる実力がついていくことになるということである。

 これは私自身の経験としてもよくわかる。縦抱きを始めた当初、赤ちゃんはぐにゃぐにゃで、親が手でしっかりと支えていないといけない。しかし、徐々に徐々にその支える力を緩めていっても大丈夫なようになり、最終的には自分で支えられるようになるのである。ここでは直接的には首すわりについて触れられているが、私自身はおすわりのために背筋を伸ばすということにも同様のことが言えると感じている。

 第二に認識面に関してだが、こちらについても「看護の生理学」で次のように説かれている。

「さらに、抱くということは赤ん坊を育てるうえで、とても重要な意味を持つのですが、それは赤ん坊が仰向けに寝かされていたのに対して、抱かれた時には、反映する外界が大きく違ってくるからです。つまり周囲のものを、下から見上げていたのに対して、上から見下ろすことになるのです。例えばベッドに寝ている時は、のぞきに来たお兄ちゃんの顔しか見えなかったのに対し、お母さんに抱かれて上から見てみると、お兄ちゃんが走り回ったり、食事をしたりしているのが見える・・・という具合にです。そしてこういう外界の違った反映の体験を繰り返していくことが、サルが木に登ったり、降りたりしてヒトになっていく過程で、脳の機能としての認識が新たな発展を遂げたと同様に、赤ん坊の認識の発展を促していくことになるのです。」(同上論文)


 つまり、抱っこをすることによって、これまでとは違った形で外界を反映させることになり、赤ちゃんの認識の発展を促していくことになるということである。当初は横抱きに近い形で抱っこしていたから、そういう形での外界の反映をしていたけれども、徐々に縦抱きにしたことにより、以前とは違った反映がなされるようになり、両者が合わさって、像が厚みのあるものになっていったということである。

 さらに散歩の場合、その反映する外界そのものが家の中に比べれば多種多様となる。小鳥が泣いていたり、ちょうちょが飛んでいたり、前から散歩している犬がやってきたり、その飼い主が「おはよう」と声をかけてくれたり・・・といった家では味わえない新鮮な反映がある。これは赤ちゃんの興味・関心を促し、外界に対して積極的な姿勢を創ることになると考えられる。

 こうした意味のある抱っこしながらの散歩なのだが、「毎日」行い続けたということがやはり重要だったのではないかと思う。さすがにどしゃ降りの雨の日などは中止したが、多少の雨や雪の日は、濡れないように気を使いながらも散歩した。当然、疲れているときもあったけれども、朝と夕方の散歩は欠かさなかった(頻度は減ってしまったが、現在も行っている)。このように毎日行い続けた結果として、様々なものに興味関心を示す現在の姿があるのではないかと考えている。
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2017年09月15日

障害児の子育ての1年間を振り返る(1/5)

目次
(1)ダウン症として生まれた子ども
(2)抱っこしながらの散歩とその意味
(3)ハイハイを促すための働きかけとその意味
(4)子育ての過程での親の認識の変化
(5)教育学の構築は歴史的な願いを現実化するものである

・・・・・・・・・・・・・・・

(1)ダウン症として生まれた子ども

 昨年の夏、待望の第一子が生まれた。遠方であったため、連絡を受けてからすぐに駆け付けるもその日のうちには到着できず、翌日の朝、子どもと対面することになった。2682gの男の子である。恐る恐るだっこしながら、生まれた子どもをかわいがっていた。

 妻の家族や親戚も来てくれて、しばらくみんなで話していたが、3時頃、看護師に呼ばれて、妻と子どもが部屋から出て行った。そのうち、私も呼ばれたので、部屋を出て行った。そして保育器などのある部屋の裏手のスペースに行くように指示された。そこには、妻が子どもを抱いてソファーに座っていて、医者がその前に立っていた。「いったい何の話だろう」と思いながら、私が妻の横に座ると、医者が話を始めた。

「赤ちゃんね、もしかしたらダウン症かもしれない。産まれたときはしっかり泣き声も上げていたし、あまり感じなかったんだけど、よく見ると、ちょっと独特な顔つきをしているしね。あと手に猿線もある。うちの看護師さんたちも、抱いた感じがフニャフニャしていると言っていてね。もちろん確定ではないけれど、うちの看護師もベテランだからね。」


 一瞬、何のことかわからなかった。少し冷静に考えて、要するに障害があるということだとはわかったが、ダウン症の具体的なイメージがわかなかった。

 ダウン症とは、端的には、先天的な染色体異常によるものである。人間は2本1組の染色体を23組(22組の常染色体と1組の性染色体)もっており、精子や卵子を形成する際には、2本1組の染色体が分離され、数が半分になる(減数分裂)。つまり、精子・卵子はそれぞれ23本の染色体をもっており、これが合わさることで23組の染色体となる。染色体は大きなものから1番、2番と番号がつけられているが、そのうち21番の染色体に異常が見られる場合、ダウン症となる。具体的に言うと、精子や卵子が形成される際に、21番の染色体がうまく分離せず、21番の染色体が2本のままの精子あるいは卵子が生まれ、それが受精することによって21番の染色体が1本多い受精卵が誕生することとなる。これがダウン症である。

 ダウン症の子どもは「おとなしくて反応が弱い」「おっぱいの飲みが悪い」「身体的な特徴がある」「抱くとやわらかい」といった特徴があり、出産後すぐに産科医や助産師が気づくケースがほとんどである。

 では、ダウン症の子どもにはどのような問題が生じてくるのだろうか。

 様々な合併症があるということが特徴である。まず心臓の病気である。例えば、閉じるべき血管が閉じていなかったり、心臓内の4つの部屋を隔てる壁に穴があいていたりする。こうした心臓疾患は「呼吸が速く荒い」「顔色が悪い(唇の色が紫色・チアノーゼ)」「オッパイの飲みが悪い」「元気がない」などの症状として現れる。次に消化器の病気である。胃から肛門へと至る過程に異常があり、食べ物がうまく排泄されないことがある。これは「よく吐く」「便が出ない」「おなかが異常に膨れている」「便秘」などの症状として現れる。また、成長の過程において体や骨がバランス良く発達せず、頸椎が不安定になることがある。白内障や内斜視といった視覚の障害、難聴などもある。知的障害も伴い、平均的なIQは50前後とされている。

 後日、血液検査の結果、ダウン症であることが確定した。幸い私の子どもには、大きな合併症はなかった。しかし、初めての子どもが障害をもって生まれてきたということで、ショックを感じずにはいられなかった。

 そんな私を大きく支えてくれたのは、志垣司・北島淳『障害児教育の方法論を問う(第一巻)』(現代社、2014年)に書かれている障害の一般論だった。

「障害を負うとは、実体及び機能上の不可逆的な変化によって、そのままでは環境との相互浸透ができにくくなることである」(p.42)


 ここで私の目に飛び込んできたのは、「そのままでは・・・できにくくなる」という部分である。「できない」ではないのである。どんなに障害をもっていても、環境との相互浸透をすることは可能なのだ。なぜなら、それこそが人間の一般性だからである。しかし、それが健常児に比べればできにくいということである。ということは、健常児の場合より意識的に環境との相互浸透を質・量ともに充実させれば、障害があっても十分に育つということである。

 この言葉に大いに励まされ、しっかりとわが子を育てていこうという決意を固めた。ダウン症の育児に関係する著作、松田道雄『育児の百科』、斉藤公子の著作、南郷学派の著作(『育児の認識学』『育児の生理学』『新・頭脳の科学』『看護の生理学』など)を何度も何度も読み返し、子育てに生かしていった。

 その甲斐あってか、1年を迎えた現在、子どもは元気に順調に育っている(ダウン症に関わって権威とされる医師からもそう言われている)。確かに発達上の遅れはあるものの、例えば、おすわりをしておもちゃで遊んだり、遠くにあるおもちゃに興味を示して、ずりばいで移動したりする。こちらが笑いかけると笑い返すし、手を振ると手を振り返す。パチパチ(拍手)をすると、同じようにパチパチ(拍手)をして、大きな笑い声をあげたりする姿が見られている。そんなわが子と一緒に過ごせる毎日がとても幸せである。

 本稿では、こうした過程に至るまでの1年間を振り返りたいと思う。具体的な取り組みとして、「抱っこしながら散歩」「ずりばいを促すための働きかけ」を取り上げるとともに、その過程で親としての認識がどのように変化したのかをまとめたいと思う。
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2017年09月14日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(10/10)

(10)参加者の感想の紹介

 これまで、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」を扱ったわが研究会の2017年8月例会について、報告レジュメおよび当該部分を要約した文章を紹介した上で、3つの論点について諸々に議論したプロセスを紹介してきました。

 8月例会報告の最終回となる今回は、参加していた会員の感想を紹介することにします。

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 今回の内容も何を言わんとしているのかがなかなかつかみにくいところであったが、ヒュームの因果律批判に対してどのように反論しているのかについて、かなり明確に把握できたのではないかと思う。端的に言えば、我々が見ている世界(現象)は、原因と結果というカテゴリーが備わった純粋悟性概念によって成立したものであるから、そこには必然性が存在しているのだということである。そもそもカントは、我々が見ている世界はカテゴリーによって成立した現象の世界であり、この世界を客観的な世界として、様々な経験(認識)を獲得するのだと主張している。こういうカントの主張の枠組みがかなり明確に把握できた。

 当日の議論においても、こういう枠組みを踏まえたときに違和感を覚える表現についてしっかりと指摘することができたし、その指摘の中身を説明する中で、自分自身の理解や研究会全体の理解も深めることができたと感じている。前回の例会の感想の中で、7月例会のチューターが「ちょっとした会員のちょっとした言語表現から、大きく誤解しているのではないか、根本的なところを理解していないのではないか、と思われる点については、やや厳しく突っ込みを入れることができたと思う」と書いていたので、私も今回そのことを意識してチューターに臨んだのだが、まずまずの働きができたのではないかと思う。

 また、唯物論の立場からヒュームにどう反論するかという議論も非常によかったと思う。ヒュームに反論するためには、世界に必然性があることを主張しないといけない。あるいは、世界の部分的な認識に基づいて世界全体のことがわかるのはなぜなのかということを説かなければならない。端的には、この世界全体には弁証法性が貫かれているから、我々が認識する特定の部分にも弁証法は貫かれているのであり、したがって、部分の認識によって全体の認識をすることができるのだということであった。

 このように、唯物論の立場ではこう説くということをカント自身も納得するような形で論を展開していかなければならないと感じた。

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 今回は、カント『純粋理性批判』の「経験の類推」という部分を扱った。報告レジュメの担当に当たっていたため、しっかり読み込んでレジュメを執筆しようと取り組んでいった。

 読み始めの数ページは、まるで自分のアタマがカントになり切ったかの如く、「うんうん、そうだよな」という感じで全く引っかかりなく読めていった。カントの立場であればこういう表現になるということが、これまでの学びで少しずつ分かってきた感じがあったのである。

 しかし、「現象の現実的存在」という部分で引っかかってしまった。この表現がどのような中身であるのか、ほとんど全くといっていいほど像が描けなかったのである。しかも、この表現は繰り返し登場してきて、文章全体がよく分からないものとなっていってしまったのである。この表現については、例会を通してもあまり突っ込んだ議論ができなかったが、何度も読み返して、「読み始めの数ページ」で味わったような感覚になっていけるように努力していきたい。

 例会の議論の中で特に印象的だったのが、カントが現象の成立と現象の認識とを分けて捉えているらしいということであった。私の理解では、認識の側にある純粋悟性概念(カテゴリー)を現象に適用することで、認識が成立し、それと直接に現象(客観)も成立する、とカントが考えているものと思っていた。しかし、議論を通じて、そうではなく、確かに純粋悟性概念(カテゴリー)を適用することで現象は成立するのであるが、その現象を認識することはまた別の段階の事象だということが理解できてきた。これは、そもそものカントの問題意識、つまり人間に見えるような世界(現象の世界=客観)をなぜ人間は正しく認識(主観)できるのか、そもそも現象の世界=客観はどのように成立しているのか、という問題意識をしっかりとふまえてカントの論を追っていく必要がある、ということでもある。こうした大局的な見方ができていなかったために、カント学説の一般的な理解(認識が対象を成立させている)で満足してしまったということである。

 次回の例会はチューターに当たっているため、議論をリードし有意義な例会にできるように、しっかりと準備をしていきたいと思う。

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 今回の範囲もなかなか難しいところであったが、あくまでも『純粋理性批判』の全体の論の流れのなかでどのような位置づけにある部分なのかを見失わないようにしながら読んでいくことの大切さを改めて感じた。なかなか実行できていないが、やはり最初の部分からの読み直していくことが必要であると感じている。

 今回の例会の議論で重要だと思ったのは、カントの議論に対して、唯物論の立場からはこう考える、と対置することを、あまり安易にやってしまってはならない、ということが、研究会としての共通認識になったことである。例えば、「唯物論の立場からは、原因と結果のつながりは客観的に存在していることになる」などと結論だけいっても、それはヒューム以前の常識的な見方を繰返しているだけで、カントが納得するわけがないのである。これではヒューム以下なのだ、ということを自覚しなければならない。カントを納得させうるような唯物論の立場からの論の展開はどうあるべきか、と常に考えていかなければならない。これに関連して、世界の部分についての経験から世界の全体を貫く性質を把握することができるのはなぜか、という問いが明確になったのは、大きな収穫だったといえるのではないだろうか。こうした問題は、簡単に解決したもの、分かったものとしてしまってはならないので、常に問いを深めるようにしていきたい。
 
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 今回の例会では、カント「純粋理性批判」の「原則の分析論」のなかの、「経験の類推」の部分を扱った。論点への見解は書くことができなかったが、当日の議論において、だいたいの内容を把握することができたと思う。要するに、われわれは、ある現象Aと別の現象Bを、因果関係で捉えたり、同時に存在していると捉えたりするが、そのためには、どのような原則が適用されているのかを説いている部分だと思う。原因・結果の関係にせよ、同時だという関係にせよ、そういう時間関係について論じる際には、その前提として常住不変なもの=実体が想定されている。そこで、まず実体について論じ、その後、因果関係と同時的関係についてカントは説いているのであろう。

 今回の例会で最も興味深かったのは、唯物論の立場からすれば、経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのか、について議論した点であった。私は端的には、認識における量質転化の問題だと答えたのであるが、当日指摘されたとおり、これでは不十分であった。なぜなら、ヒュームからは「それは単なる信念なのではないか」と反論されうるからであった。そこで、現実世界の持つ弁証法性に注目した。現実の世界全体を貫く弁証法的な性格は、もちろん、部分にも貫かれているから、部分の認識だけでもって、全体の認識、すなわち必然性の認識となる、ということであった。

 このように、現実世界の持つ弁証法性を考えに入れないと、必然性の認識が成立する根拠は説明できないというのは、間違いないと思う。しかし、当初私が指摘したような、認識の量質転化という問題も、他方でやはり、必然性の認識にとって不可欠な要素なのではないか。カントは、感性と理性を分けてしまって、そのつながりを解明できなかったが、われわれは、感性的認識と理性的認識を、同じ像の発展過程において捉えることができる。部分の認識というのはいわば感性的認識のことであり、全体の認識=必然性の認識とは理性的認識のことであるといえるだろう。そうすると、感性的認識の積み重ねによって、理性的認識に到達することができるのであるから、それはやはり量質転化といいうるのである。この認識の量質転化の具体的な過程的構造を解明していくことが、カントの二元論を克服するための、大きな道であると感じた次第である。
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2017年09月13日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(9/10)

(9)論点3:相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か。

 前回は、2つ目の論点に関する議論を紹介しました。そこでは、カント哲学の大きな枠組みを確認した上で、ヒュームの因果律批判にどう答えているのか、これに対して唯物論の立場からすれば、ヒュームの因果律批判にどう反論すべきなのかという点について検討しました。

 今回は、3つ目の論点についての議論と、その議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介したいと思います。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」とはどういうことかについて確認しました。これについては、「2つのものが同時に存在する(相互的に継起し得る)ということを知覚する根拠は客観に存在するというためには、相互性の関係、あるいは相互作用の関係というカテゴリーを必要とし、このカテゴリーを前提としてのみ、2つのものの同時的存在が認識され、また経験の対象としての物を可能ならしめる、ということである」「端的には2つのものが同時に存在しているということを人間はどうやって認識するのかということに答えたもの」「2つ以上の物が同時に存在しているということは、それら2つ以上の実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る、ということである」などの見解が出されていました。時間の関係上、詳しく検討することはできませんでしたが、要するに、2つ以上の物が同時に存在しているということは、そこに相互作用が働いているからこそ認識できるのだとカントが主張していることを確認しました。

 この証明についても、あらかじめメンバーから提出された見解のうち、もっともすっきりまとまっているもので確認しました。

「カントによれば、2つ以上の物の同時的な存在を客観的なものとして表象するためには、互いに別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するようなカテゴリー(純粋悟性概念)を必要とするが、そのカテゴリーとは影響の関係であり、相互作用の関係である(ある実体の含む規定の根拠がほかの実体に含まれているような関係)、と説明するのである。要するに、ある物が他の物に影響を与えている(両者が相互に依存しあっている)関係にあると把握されるからこそ、両者が同一の時間に存在するということが客観的に言いうるのだ、というわけである」

 しかし、このカントの見解に対して、チューターから疑問を提示しました。カントによれば、2つのものが同時に存在することを認識できるのは、その2つのものが相互作用の関係にある場合だということになります。しかし、例えば、喫茶店にいて、離れた場所にいる2人の客を見るとき、その2人は何の相互作用もないけれども、同時に存在していると言っていいのではないのか、ということでした。

 これに対してメンバーの一人は、カントが言っていることは、2つのものの間に相互作用していれば、確実に同時に存在しているということが言える、ということではないか、例えば、今、私と他の方たちは会話をとおして相互作用しているから同時に存在しているということが確実に言える、しかし、日本にいる我々と、アメリカにいる(例えば)マイク君とは相互作用していないから、必ずしも同時に存在しているとは言えないということではないか、ということでした。つまり、「同時に存在しているなら相互作用している」ということではなく、「相互作用しているなら同時だ」ということです。他のメンバーも一応納得しました。

 最後に、こうしたカントの主張を唯物論の立場から評価するとどういうことが言えるかを考えました。これについてチューターは「知覚の根拠を客観に求めている点は評価できる」と書いていたのですが、これについては他のメンバーから言葉足らずの表現ではないかという指摘がなされました。その客観というものもあくまでもカテゴリーによって成立したものだという点を触れないといけないのではないかということでした。これはチューターも納得しました。別のメンバーは「あくまで客観と主観の一致ということにこだわったこと自体は、唯物論の立場への接近として評価できるものの、客観とは物自体と区別された現象の世界であるとし、それが認識の能動性によって成立させられている(この場合は、相互作用という純粋悟性概念によって2つ以上の物の関係性が規定されている)としてしまったのは、唯物論の立場とは根本的に相いれないものである」と書いており、おおむねこのような評価で間違いないのではないかということになりました。また、このメンバーは「この世界全体をつながり合ったものとして、同時的な広がりをもったものとして、把握しきったことは、弁証法的な世界観の発展という点からすれば、大いに評価に値するのではないだろうか」という見解も提示していたのですが、これについても特に異論は出ませんでした。

 以上で例会での議論をすべて終了しました。
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2017年09月12日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(8/10)

(8)論点2:因果律に従う時間継起の原則とは何か。

 前回は、1つ目の論点についての議論について紹介しました。経験の類推とはどういうことか、それはカント哲学の中でどのような位置づけになるのかということや、その中の1つ目である実体の常住不変性とはどういうことかなどについて議論をしました。

 今回は2つ目の論点についての議論とその議論をとおしてどのような(一応の)結論に至ったのかを紹介します。まず論点を再掲します。

<論点再掲>
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?


 まず「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」とはどういうことかについて確認しました。これについては、チューターを含めたメンバーの3人からそれぞれ「原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである」「実体の規定が生起したり消滅したりする(中略)変化の前の状態が必ず前に置かれ、その後の状態が後に置かれなければならないということが必然的に規定されているということである」「変化、すなわち、ある現象に次いで別の現象が生じるということについて、これら2つの現象の間の関係が、ある現象が先行して別の現象が続かなければならないという必然性として、客観的に規定されていなければならない、という原則のことである」という見解が出されていました。

 このうち、2つ目と3つ目はほぼ同様のことを言っているものの、1つ目の見解については、少し力点の置き方が違うように感じられるとチューターが指摘しました。その見解を書いたメンバーから「力点の置き方が違うとはどういうことか」と問われたので、次のように説明しました。

 そもそもカント哲学では、人間のもっているカテゴリーによって、現象の世界が客観的なものとして人間の目の前に現れてくるとされています。そして、その客観的な世界の中で人間は様々な体験を積むわけです。図式化していうならば、@主観(カテゴリー)→A客観(現象)→B主観(経験)という流れになるわけです。これを踏まえると、2つ目と3つ目の見解は、Aあるいは@→Aについて解説したものとなります。ところが、1つ目の見解では「現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ」と書かれています。この表現の背後には、「現象の変化を認識することによって現象自体も変化する」という認識があるように感じられます。現象の変化を認識するというのはBの話であり、現象自体が変化するというのはAの話です。そうすると、この見解はB→Aという流れになっていることになります。そこに違和感を覚えたということでした。

 この説明に対して1つ目の見解を書いたメンバーは、あまり納得できないようでした。カントはコペルニクス的転回によって、「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」(p.33)と考えたのではないか、今の説明では、「現象の変化を認識する」とカントが考えていたことになり、これではコペルニクス的転回とはいえないのではないか、ということでした。

そこで別のメンバーが、チューターの説明を補う形で自分の見解を述べました。カントは、我々の目の前に客観的な世界が存在していて、その世界を通して様々な認識を獲得していく(様々な経験を積み重ねていく)ということ自体は認めているのではないか、しかしその目の前の客観的な世界というのは、物自体の世界ではなくて、我々のカテゴリーによって成立させられた現象の世界なのだ、だからこの現象の世界の成立という面では確かに「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」、つまり認識が対象を生み出しているといえるが、一方では客観的な世界(現象の世界)を認識することもカントは否定していないのではないか、ということでした。このメンバーは以上の内容をまとめて、人間に世界がどのように見えてしまうか(主観が客観を作り出す側面)ということと、その世界をより深く追究していく(客観が主観を作り出す側面)ということとは別問題であって、カントの『純粋理性批判』では、後者(科学を確立していくこと)の前提としての前者の問題を扱っているのではないか、と発言しました。こうした説明で、1つ目の見解を書いたメンバーもおおむね納得しました。

 続いて、因果律に従う時間継起の原則はどのように証明されているかについて扱いました。これは要するに原因と結果のカテゴリーによって現象が成立させられているからだと述べていることを確認しました。

 ここでメンバーの一人から疑問が出されました。カントは、生起するものの知覚においては原因と結果のカテゴリーが適用されるということを述べているものの、なぜ生起するものには適用されるのか、なぜ生起しないもの(例として出されている家など)には適用されないのかということでした。様々に議論をしましたが、カントの立場からすれば、物自体が持っている性質によると考えるしかないのではないかということになりました。つまり、生起するものには原因と結果のカテゴリーが適用されるような物自体としての性質を持っているけれども、生起しないものにはそういう性質がないということです。しかし、その物自体ということはわからないから、そうした点には触れないようにしたのではないかということでした。

 次に、カントはヒュームの因果律批判にどう反論したのかを確認しました。これまでの議論の中でほぼ答えは出されているのですが、端的には、「客観は悟性にア・プリオリに具わっている規則によってこそ成立させられている」のだということ、つまり、そもそも因果律が存在するものとして我々が見ている世界はつくられているのだと主張することで、ヒュームの因果律批判に反論したのだということでした。

 このようなカントの意見は「客観と主観の一致ということにこだわった」点では唯物論の立場からも評価できるものの、「経験を積み重ねることによっては必然性の認識には到達できない、と断定してしまっている」点は批判すべきだという見解が出されました。ただし、「経験の積み重ねによってなぜ必然性の認識が可能となるのかを説かなければ、唯物論の立場からの真っ当なカント批判にはならない」という問題提起がメンバーからなされたため、この点について議論をしました。

 メンバーの一人は、端的には量質転化だと発言しました。つまり、同じ経験を何度か積み重ねることによって、科学的認識というレベルへと認識が量質転化するのだということでした。これに対して別のメンバーは、「それではヒュームからは『単なる信念にすぎない』と反論されてしまうのではないか。そういうことではなくて、そういう部分的な認識を積み重ねれば、なぜ全体の認識に至るのかということを世界自体の仕組みから説明しなければならないのではないか」と指摘しました。そして、議論を重ねた中で、全世界は弁証法性という普遍的な性質が貫かれており、それは当然部分にも貫かれているからこそ、部分を認識すれば全体を認識することにつながるのではないかという意見が出されました。この見解については、メンバー全員が納得しました。

 以上で、論点2に関する議論を終えました。
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2017年09月11日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(7/10)

(7)論点1:経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か。

 前回は、カント『純粋理性批判』の経験の類推の部分のポイントを改めてまとめるとともに、それに対して出された論点を紹介しました。今回から、それぞれの論点についてどのような議論がなされたのかを紹介していきたいと思います。

 まず1つ目の論点です。

<論点再掲>
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。


 この論点については、まず経験の類推とはどういうことかについて確認しました。これについては、「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能となる」「意識における知覚の多様な内容の総合的統一によってこそ経験(知覚による客観の規定)が可能になるのだ」などの見解が出されていました。要するに、我々の知覚というものはそのままではバラバラな存在にすぎないけれども、それがしっかりと整えられることによって経験として成立するのだということを主張しているのだということを確認しました。そして、その知覚を整える際に使っているものが時間というア・プリオリな直観の形式なのだということでした。

 また、そもそもこの経験の類推というのは、純粋理性批判全体の中にどう位置づけられるのかも確認しました。経験の類推とは、人間が純粋悟性概念(カテゴリー)を対象に適用するその適用の仕方のうち、3つ目のカテゴリー、つまり「関係」というカテゴリーを適用するということに関わって説いているものなのだということを確認しました。

 では、前回扱った直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか。続いて、この点について確認しました。これについて、もっともすっきりとまとまった見解は次のようなものでした。

「『直観の公理』と『知覚の先取的認識』は、現象における現実的存在が数学的綜合によって産出されるという原則であった。すなわち、対象が何らかの量的な規定性をもったものとして認識の側から構成されていく、というのである。これに対して、『経験の類推』は現象における現実的存在どうしの関係をア・プリオリな規則に従わせるだけの原則である。そのため、『直観の公理』と『知覚の先取的認識』が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、『経験の類推』は力学的な統整的原理と名づけられているわけである。」


 つまり、「直観の公理」と「知覚の先取的認識」によって、ある1つの現象が量的な規定性をもったものとして構成されるということであり、「量的」「構成される」という点を捉えて「数学的な構成原理」と呼ばれているのだということです。一方、経験の類推においては、その現象と現象との関係性を問うています。互いに影響を与え合う2つの現象の関係を整えているものという意味で、「力学的な統整的原理」と呼ばれているということです。このような把握で全員が納得しました。

 次に、哲学でいう類推とはどういう意味であるかについて確認しました。数学でいう類推とは量的な関係性を示すため、比例式の3つの項が与えられればもう1つも示しうるのに対して、哲学でいう類推とは質的な関係性を示したものであり、比例式の3つの項が与えられても、第4項は示せないという見解が出されていました。

 具体的に言うと、例えば、砂糖と塩を1:2の割合で入れるといったとき、砂糖が100gであれば、塩は200gだということが定まります。これが数学でいう類推です。これに対して、ある男の子が泣いているという現象があったとき、原因と結果というカテゴリーに基づいて、その泣いているという結果には何らかの原因があったことは推測されますが、その原因が具体的に何であるかは定めることができません。これが哲学でいう類推ということです。このような説明でメンバー全員が納得しました。

 さらに、実体の常住不変性とは何かという点について議論しました。ここに関してもメンバーの間で大きな見解の相違はありませんでした。つまり、「時間における諸々の変化するものは、時間の根底に変化しないものがあるからこそ把握できる(変化するものは変化しないものとの関係でしか認識でいない)のだ」ということであり、この変化しないものこそが実体なのだということでした。

 ただ、メンバーの一人から「ここでカントが言っている実体とは、カテゴリー表の実体とは同じものなのか、違うものなのかがわからない」という疑問が提示されました。ここでのカントの説明では実体とは客観的に存在するものとして説かれているようだが、カテゴリー表の実体とは人間の認識の側に具わっているものであるから、違うもののように感じるということでした。これについては、チューターが次のように解説をしました。カントによれば、この客観的な世界というものはあくまでも人間のもつカテゴリーがつくりだしたものにすぎません。したがって、現実の世界に存在する実体も、我々がもっている実体というカテゴリーによって生まれたものであり、そういう意味で両者は同一の存在だと言える、ということです。この説明で疑問を提示したメンバーも納得しました。

 また、ここに関わって、メンバーの一人が「カントのいわゆる実体とは、時間の物質的表現であり、現象の世界を普遍的に(全体を隙間なく)満たしているものだといえるかもしれない。これは唯物論の立場からの時間の規定に接近したものとして興味深い」という唯物論の立場からの評価を書いていました。カントは実体というものを、この世界すべての根底に存在している普遍的な存在として捉えています。これは唯物論の立場から全世界が物質的に統一されていると主張するのと、考え方としては同一だと言えます。唯物論の立場ではその物質がもっている根源的な性質として空間と時間というものを捉えるので、カントの主張はそれに近いものがあるのではないか、ということでした。確たる結論は出ませんでしたが、そういうことも言えるかもしれないということになりました。

 以上で論点1に関わる議論を終了しました。
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2017年09月10日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(6/10)

(6)改めての要約と論点の提示

 これまで、4回にわたって『純粋理性批判』の8月例会の範囲の要約を掲載してきました。ここで、改めて、今回の範囲で大事な内容を簡単にふり返っておきたいと思います。

 そもそも我々の知覚は時間によって整序されることによって、我々の経験として成り立っているのでした。その時間は大きく三つの様態、つまり常住不変性、継起および同時的存在があるから、それに応じて経験の類推も3つがあるのだとして、それぞれが紹介されていったのでした。

 第一の類推は、実体の常住不変性の原則というものでした。これは、現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしないということです。そもそも時間というものが成り立つ背景には、その根底に変化しない何らかのものが存在しなければならないとして、それが実体だとカントは主張したのでした。そして、我々が見ている変化というものは、その実体の在り方の変化でしかなく、実体そのものが生起したり消滅したりしているわけではないということを説いていたのでした。

 第二の類推は、因果律に従う時間的継起の原則というものでした。これは、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するということです。つまり生起するものに関しては、必ず原因と結果のカテゴリーが適用されたものとして我々の目の前に現れてくるのだということです。そのことを家や船の例を出しながら説明するとともに、ヒュームの因果律批判に対して反論していたのでした。

 第三の類推は、相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則というものでした。これは、およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしているということです。ある2つのものが同時に存在し、それぞれが互いに何らかの作用を与え合っているときに、我々はその2つのものを同時に存在するものとして把握することができるのだということでした。

 以上のような内容に関わって、会員からはいくつかの論点が提示されました。それをチューターが以下のように3つにまとめました。

1.経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か?
 カントは、純粋悟性の原則の3つ目として経験の類推を挙げているが、これはどういうことか? 特にこれは時間といかなる関係があるのか?また、直観の公理と知覚の先取的認識が数学的な構成原理と呼ばれるのに対して、経験の類推が力学的な統整的原理と名づけられているのはなぜか?ここに関わって、哲学でいう類推とはどういう意味であるとカントは説明しているか?経験の類推の第一としてあげられている実体の常住不変性とは何か? それはどのように証明されているか?カントのいわゆる実体は時間とどのように関わっているのか。その他、「現象の現実的存在」「基体」「常住不変なもの」などのキーワードにも注意しながら議論したい。

2.因果律に従う時間的継起の原則とは何か?
 カントは経験の類推の2つ目として「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げているが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?特に、表象のみならず対象(客観)においても継起するかどうかという問題について、カントがどのように説明しているのか。またこれは結局、ヒュームの因果律批判にどのように反駁しているといえるのか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

3.相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か?
 カントは経験の類推の3つ目として相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。これは、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」というものであるが、これはどういうことか?それはどのように証明されているか?カントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、何によって認識すると説明しているか。唯物論の立場からこれを評価すると、どういうことがいえるであろうか?

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2017年09月09日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(5/10)

(5)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約C

 前回は、第二の類推の後半部分の要約を紹介しました。前半部分でカントは一般の見解(ヒュームの因果律批判)についての反論をしたわけですが、それについてのより詳しい照明をしていました。また、因果的結合の原則は、必ずしも時間の経過ではないということなどが説かれていました。

 今回は、第三の類推の部分についての要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
C 第三の類推

相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則
 およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている

 経験的直観において、あるものの知覚が他のものの知覚に次いで継起し、また逆に前者が後者に次いで継起するというふうに、これら2つの知覚が相互的に継起し得る場合には(こうしたことは第二原則で示したように、時間における現象の継起においては生じ得ない)、これらの物は同時的に存在する。我々は、まず月を知覚しその後で地球を知覚することもできるし、逆にまず地球を知覚してから月を知覚することもできる。これらの対象の知覚が相互的に相次いで生じるので、私はこれらの物が同時的に存在するというのである。同時的存在とは、同一の時間における多様なものの実際的存在である。しかし我々は時間そのものを知覚することはできないから、2つ以上の物が同時的に置かれているからといって、これらの物の知覚が相互的に継起し得ると推知するわけにはいかない。したがって統覚における構想力の総合は、主観においてこれらの知覚のどれかが存在すれば、他の知覚は存在しないし、またその逆の場合も成立することを告げはするが、しかし2つ以上の客観が同時的に存在すること――換言すれば、ひとつの客観が存在すれば他の対象もまた同一の時間に、すなわち同時的に存在するということ、そしてこのことは知覚が相互的に継起し得るための必然的条件であるということを告げるものではない。そうすると知覚の相互的継起の根拠は客観に存するというためには、またこれによって同時的存在を客観的なものとして表象するためには、互に別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するような悟性概念すなわちカテゴリーを必要とするわけである。ところで実体間の関係において、ひとつの実体の含む規程の根拠が他の実体に含まれているような関係は、影響の関係である。そしてひとつの実体が他の実体を規定する根拠を相互的に含む場合には、実体間のかかる関係は、相互性の関係あるいは相互作用の関係である。それだから空間における2つ以上の実体の同時的存在は、実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識され得る。したがって、この前提は、経験の対象としてのものを可能ならしめる条件である。

 2つ以上の物は、同一の時間において存在する限り、同時的に存在する。しかしこれらの物が同一の時間に存在することを、我々は何によって認識するのだろうか。

 1つの実体は他の実体に働きかけもしなければ、また他の実体からの影響も受けないと仮定するならば、実体の同時的存在は可能的知覚の対象になり得ないし、またひとつの実体の現実的存在は、決して経験的総合の道を通って他の実体に至ることもあり得ない。

 すると単なる現実的存在のほかに、なお何かあるもの――すなわち、それによってAがBにその位置を規定し、また逆にBがAにその位置を規定するようなあるものが存在しなければならない。こうした条件の下でのみ、これらの実体は同時的に存在するものとして経験的に表象され得るからである。ある物に時間におけるその位置を規定するところのものは、その物の原因、あるいはその物の規定の原因にほかならない。およそ実体は、(実体はその規定に関してのみ結果であり得るから)他の実体のある規定の原因性を含むと同時に、他の実体の原因性の結果をも含んでいなければならない。換言すれば、これらの実体は、もしその同時的存在がなんらか可能的な経験において認識されるとすれば、(直接もしくは間接に)力学的相互作用の関係をなさねばならないからである。ところで、あるものを欠いたなら、対象の経験そのものが不可能になるならば、そのようなものは全て経験の対象に関して欠くことのできないもの、すなわち必然的なものといえるだろう。ゆえに一切の実体が全て相互作用という完全な相互性の関係にあるということは、これらの実体が同時的に存在する限り、現象における一切の実体にとって必然的である。

 力学的相互作用がなければ、場所的〔空間的〕相互性すら、経験的に認識され得ない。ところで、次の諸件は、我々の経験について容易に認められる事柄である。すなわち、我々の感官をひとつの対象から他の対象へと向かわせうるものは、空間のあらゆる場所における連続的影響のみである。我々は空間に遍在する物質が我々の占めている場所の知覚を可能にするのでなければ、我々の場所を経験的に変じる(この変化を知覚する)ことはできない。また、こうした知覚は、場所間の相互的影響によってのみ、これらの場所の同時的存在を示し、これによって最も遠隔な対象に及ぶまでこれらの対象の共在を(間接的にもせよ)示し得る、ということである。こうした相互性を欠くと、およそ空間における現象の)知覚は、他の知覚からも断絶され、経験的表象の連鎖すなわち経験は、新しい対象にあってはそもそもの最初から始められることになり、前の経験はこれと全く結びつきえないだろう。つまり時間的関係をもつことができなくなるであろう。空虚な空間はたとえ存在するとしても、我々の知覚はとうていそこまで達し得ないから、同時的存在に関する経験的知識も成立しえない。空虚な空間は、我々の可能的経験にとっては全く対象でなくなるのである。

* * *

 これら経験の三類推は、時間の三様態にしたがって時間における現象の現実的存在を規定する原則にほかならない。時間の三様態とはすなわち量としての時間そのものに対する関係(現実的存在の量すなわち持続)、系列としての時間における関係(継時的)、および一切の現実的存在を総括するものとしての時間における関係(同時的)である。時間規定におけるこうした統一はあくまでも力学的統一である。というのは、時間は、経験がそこにおいて一切の現実的存在にそれぞれその位置を直接に指定するところのものと見なされない、ということである。絶対的時間は知覚の対象ではなく、現象は知覚によって互いに結合され得る。だから、現象の現実的存在は、悟性の規則によってのみ、時間関係に従う総合的統一をもち得ることになる。要するに悟性の規則が、全ての現象にそれぞれの位置を時間において、したがってまた何時でもいかなるときでもア・プリオリに妥当するように規定するのである。
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2017年09月08日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(4/10)

(4)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約B

 前回は、第二の類推の前半部分の要約について紹介しました。第二の類推とは、因果律に従う時間的継起の原則であり、一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起するというものでした。生起するものについては原因と結果のカテゴリーが適用されて我々の目の前に表れているということを説き、一般の見解(具体的にはヒュームの因果律批判)に対して反論していたのでした。

 今回は第二の類推の後半部分の要約を紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

B 第二の類推〔承前〕

 我々は次のことを実例によって示す必要がある。すなわち、我々は継起を客観に帰して、これを我々の覚知における主観的継起から区別するが、このことは知覚のこうした秩序を他のいかなる秩序にも勝るとみなすことを我々に強いるような規則が根底になければ不可能であるし、また、こうした規則による強制こそ、客観における継起の表象を初めて可能ならしめる、ということである。

 我々は自分のうちに種々な表象をもち、これを意識することもできるが、こうした表象に客観を対置し、また表象の主観的実在性は主観の変様であるにもかかわらず、こうした主観的実在性以上に、これらの表象に何らかの客観的実在性を帰するのはどうしてだろうか。

 現象の総合においては、多様な表象が終始継起している。しかし、こうした景気は一切の覚知に共通であって、このような継起によっては何ものも他から区別されないから、これによっては、およそ客観は全く表象され得ない。この継起が、それよりも前の状態に対する関係を含み、この状態から表象が規則に従って必然的に生じることを、私が認めもしくは想定するや否や、私は何かある物を出来事として、すなわち生起するものとして表象する。換言すれば、私は時間においてある一定の位置に置かねばならないような対象を認知する。そしてこの位置は全く先行の状態によってのみ、この対象に与えられるのである。この生起の現象がこうした時間関係において一定の位置を占め得るのは、この現象をいかなるときにも、つまりひとつの規則に従って、必然的に継起させるところのものが、先行の状態において前提されることによってのみ可能である。すると次のことが明らかになる。第一に、私はこの系列を逆にして、新たに生起するところのものをそれよりも前の状態に先立たせることはできない。第二に、先行の状態が設定されれば、この一定の出来事は必然的に継起せざるを得ない。これによって、我々のうちにある表象の間にひとつの秩序が成立する。この秩序においては現に存在するところのものは(それがすでに生じている限り)、これに対応するものとしてそれよりも前にある何らかの状態を指示する。また、この先行状態は、与えられた出来事の相関者として――まだ規定されていないにせよ――この状態から生じた結果としてのこの出来事に関係してこれを規定し、時間系列においてこの新たな出来事を必然的に自分に結びつけるのである。

 先行する時間は後続する時間を規定するというのが我々の感性の必然的法則であり、したがってまた一切の知覚の形式的条件であるとすれば、先行する時間における現象が後続する時間における一切の現実的存在を規定するということ、また先行する現象が後続する現象にその現実的存在を時間において規定するのでなければ――換言すれば、ひとつの規則に従って確定するのでなければ、この後続する現象は出来事として生起するわけにはいかないということもまた、時間系列の経験的表象にとって欠くことのできない法則である。我々は前後の時間の結合におけるこうした連続性を現象においてしか経験的に認識しえないからである。

 およそ経験を成立させ、また経験を可能なものとするためには、悟性を必要とする。そのために悟性のなすべき第一のことは、個々の対象の表象を判明にすることではなく、対象一般の表象を可能にすることである。このことは悟性が時間秩序を現象とその現実的存在とに適用することによってなされる。つまり悟性は、結果としての現象に、先行の現象に応じてア・プリオリに時間において規定された位置を与えるわけである。こうした一定の位置をもたなければ、現象は時間そのものと合致しないことになる。こうして生じた現象の系列は、内的直観の形式(時間)――換言すれば一切の知覚がそこにおいてそれぞれその位置を占めねばならぬところの時間においてア・プリオリに見出されるのと全く同じ秩序と一定不変の結合とを、悟性によって我々の可能的知覚の系列においても作り出し、これを必然的なものにするのである。

 それだから、何かあるものが生起するとは、ある可能的経験に属する知覚のことである。この可能的経験は、私がこの現象を時間におけるその位置に関して規定せられていると見なすときにのみ、したがってまたひとつの規則に従って知覚の系列的結合の位置にいかなるときでも見出され得るようなひとつの客観と見なすときのみ、現実的な経験となるのである。時間における継起を規定する規則は、出来事が生起するための条件は先行するところのもののうちに存しなければならない、ということである。だから、時間の系列的継起においては、因果律が可能的経験の根拠であり、したがってまた現象の客観的認識の根拠である。

 この基本的命題の証明根拠は、全く以下に述べる諸要件に基づく。およそ経験的認識には、構想力による多様なものの総合が必要である。この総合は、常に継時的である、換言すれば、表象はこの総合において継起する。この継起は、構想力においては(何が先行し、何がこれに継起しなければならないかという)秩序に関しては、全く規定されていないが、この総合が(与えられた現象における多様なものの)覚知の総合であれば、こうした秩序は客観において規定されているのである。もっと正確にいえば、継時的総合の秩序が客観のうちにあって、この秩序が客観を規定するのである。何かあるものは、この秩序に従って必然的に先行し、またこのものが設定されると、他のものが必然的にこれに次いで継起するのである。それだから私の知覚が、ある出来事の認識――つまり何かあるものが実際に生起するという認識を含むとすれば、こうした知覚は経験的判断でなければならない。そして我々は、この判断において、継起が規定されているということを考えるのである。これに反して、もし私が先行の現象を設定しても、出来事がこれに必然的に継起しないとなると、私はこの出来事を私の想像によって生じたものの営む主観的な戯れと見なさざるを得ないだろう。

 現象間の因果的結合の原則は、ひとつの現象が他の現象を同伴している場合にも当てはまる。例えば、炊かれている暖炉が原因となって、室内の温度という結果を同時に伴っているような場合である。この場合、原因と結果との間には時間における継起の関係は存せず、原因と結果は同時に存在するが、それでも員が結合の法則が妥当するのである。ここで我々がよく注意しなければならないのは、問題は時間の秩序であって時間の経過ではない、ということである。
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2017年09月07日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(3/10)

(3)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約A

 前回は、経験の類推の概説的な部分と、第一の類推についての要約を紹介しました。そもそも我々の経験は知覚が時間によって整序されることによって成り立っているものであり、その時間は常住不変性、継起および同時的存在という3つの様態があるから、経験の類推もそれに応じて3つになるということで、第一の類推に入っていったのでした。第一の類推は、実体の常住不変性の原則というもので、時間が成り立つ根底には何ら変化しないものが存在しており、それが実体なのだということを説いていました。

 今回は、第二の類推の部分の前半の要約について紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

B 第二の類推

因果律に従う時間的継起の原則
 一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する

証明

 時間において継起する一切の現象は全て変化にほかならない。換言すれば、実体の規定の継時的な存在と非存在とである。しかしこの場合も実体は常住不変であり、実体そのものに生起や消滅があるわけではない。第一の類推の原則はこのことを明らかにしたが、これは、現象の一切の変易(継起)は変化にほかならない、とも言い表し得る。

 私は、現象が時間において相次いで継起することを知覚する。私は時間における2つの知覚を結びつけるわけであるが、結合は単なる感官や直観のなし得るところではない。結合は構想力の総合能力の所産であり、構想力が内感を時間関係に関して規定するのである。ところが構想力は、ひとつの状態が時間的に他の状態よりも前にあるようにも結合できるし、またその後に来るように結合することもできる。時間自体は知覚されないし、時間に関して何が前にあり何がこれに続くかを客観についていわば経験的に規定することは不可能だからである。単なる知覚だけでは、相次ぐ現象の客観的関係は結局規定され得ない。この関係が規定されたものとして認識されるためには、両状態の間の関係は、これらの状態のうちのどれが前に置かれどれが後に置かれなければならず、逆であってはならないということが、この関係によって必然的に規定されている、と考えなければならない。この場合、総合的統一の必然性を有する概念は、原因と結果との関係の概念である。すなわち原因は、結果を原因に次いで継起するものとして、時間において規定する。我々は、現象の継起を、従ってまた一切の変化を、原因性の法則〔因果律〕に従わせることによってのみ経験、すなわち現象の経験的認識すらも可能ならしめるのである。従ってまた経験の対象としての現象自身も、この法則に従ってのみ可能となるのである。

 現象における多様なものの覚知は常に継時的であるが、こうした表象が対象〔客観〕においても継起するかどうか。我々は、どんな表象でも、我々がそれを意識している限りにおいて、客観と名づけてよい。しかし現象(表象としての)がそれぞれ客観であるというのではなくて、ただ1個の客観を表わすとしたら、客観という語が現象に関して何を意味するのか、もっと深い研究を必要とする。現象は物自体ではないにせよ、それにもかかわらず認識の素材として我々に与えられる唯一のものである。だから私は、覚知における多様なものの表象は常に継時的に現われるにしても、現象そのものにおける多様なものにはどのような時間的結合が与えられるかを証示せねばならない。例えば、私の眼前にある家屋の現象に含まれている多様なものの覚知は継時的である。しかしこの家屋そのものの含む多様なものもまたそれ自体継起的であるかといえばそうではない。そこで私が用いている対象という概念を先験的意味にまで高めると、この家屋はもはや物自体ではなくて単なる現象にすぎなくなる(家屋は表象であって、この表象の先験的対象は我々には知られていないことになる)。ならば私は、現象そのもの(物自体ではない)における多様なものはどのように結合されているか、という問題をどう解するのか。私に与えられている現象は、継時的な覚知に存する表象の総括であるにもかかわらず、表象の対象と見なされるのであり、私が覚知における表象から引き出した客観という概念は、この対象と一致せねばならない。するとすぐに、認識と客観の一致が真理だから、ここで経験的真理を成立させる形式的条件が問題になる。現象は現象における多様なものを結合する仕方を必然的にするような規則に従うことによってのみ、表象の対象すなわち客観と見なされ得るのである。要するに、現象において、覚知のこうした必然的規則の条件を含むところのものがすなわち客観なのである。

 何かあるものが生起するというのは、現在の状態を含んでいない現象がそれよりも前に存在するのでなければ、経験的に知覚され得ない。だから出来事の覚知は、ある知覚に続いて起きた別の知覚にほかならない。しかし、このことは覚知の一切の総合についても、先に家屋の現象で例示した通りであり、出来事の覚知はこれによってはまだ他の覚知から区別され得ない。先に知覚した状態をA、これに続く状態をBとすれば、覚知においてBはただAに続いて起きるだけであるが、しかし知覚ということになると、AがBについで継起するなどということは不可能で、AはBよりも前にしかあり得ない、ということである。例えば、川を下る船を見ていると、下流におけるこの船の位置の知覚は、上流におけるこの船の位置の知覚に次いで継起する。この現象の覚知において、船が最初下流にあり、その後で上流にあるものとして知覚されるということは不可能である。家屋の例ならば、覚知における知覚は、家屋の頂上からはじまり土台で終わることも、また下方からはじめて上方で終わることもできた。このような知覚の系列では、多様なものを経験的に結合するためにどこから始めるべきかという仕方を必然的にする一定の秩序は存在しない。ところが生起するところのものの知覚においては、我々はこの規則に出くわすのである。この規則が相次いで継起する知覚の秩序を必然的にするのである。

 この場合、覚知の主観的継起は現象の客観的継起から導かれなければならない。さもなければ、主観的継起は全く不定なものになり、ある現象と他の現象とが区別されなくなる。主観的継起だけでは、客観における多様なものの必然的結合を証示するわけにはいかないから、客観的継起は、現象における多様なものの秩序によって成立することになる。生起するあるものの知覚は、こうした秩序に準拠しひとつの規則に従って、他のものに次いで継起するのである。

 我々が、何かあるものの生起を経験的に知るというときには、何らかのあるものがこの生起よりも前にあり、生起するものは規則に従って、このものに次いで継起するということを前提しているのである。こういうことがなければ私は客観について、それが実際に継起するとはいえないだろう。私の主観的総合を客観的ならしめるというのは、このことがいつでも規則に従って行われるということなのである。

 このことは、我々の悟性使用の進み方についていわれてきた一般の見解と矛盾する。こうした見解では、我々は多くの出来事がそれぞれそれより前にある現象に次いで一様に継起するのを知覚し、比較することによってのみ、初めてある規則――すなわち、それに従ってある出来事が常にある現象に次いで継起する規則を発見する手がかりを得、原因の概念を構成する機会がようやく与えられるという段取りになる。しかしこういう見方では、原因の概念が全く経験的な概念にすぎなくなり、この概念が与えるところの規則、すなわち生起する一切のものは全て原因を有するという規則は、経験そのものと同じく偶然的なものになる。出来事の系列を規定する規則の表象、すなわち原因の概念の論理的明晰ということは、我々が経験においてこの規則を使用した場合に初めて可能になる。
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2017年09月06日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(2/10)

(2)カント『純粋理性批判』経験の類推 要約@

 今回から4回にわけて、8月例会で扱った範囲の要約を紹介していきます。今回は、経験の類推の概説的な部分と、3つの類推のうちの1つ目「実体の常住不変性の原則」について紹介します。

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3 経験の類推

その原理――経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である

 経験とは知覚によって客観を規定するような認識であるから、経験は知覚の総合であるが、この総合そのものは意識における知覚の多様な内容の総合的統一を含んでいる。この総合的統一が、感官の対象の認識の本質、従ってまた経験の本質をなす。覚知が空間および時間において一緒に並べ連ねた現象が結合されたものとして実際に存在しているという必然性の表象は、覚知のなかには全く見出されない。ところが、経験は知覚による客観の認識だから、多様なものの現実的な存在における関係は、時間において客観的に存在する物として表象されねばならない。しかし、時間そのものは知覚されないから、時間における客観の存在は時間一般における結合によってのみ(ア・プリオリに結合するところの概念によってのみ)規定され得る。

 時間の三様態は常住不変性、継起および同時的存在である。およそ現象の現実的存在をあらゆる時間統一に関して規定するこれら規則は、一切の経験より前にあり、また経験を初めて可能ならしめる。

 これら三類推の全てに通じる一般的原則は、いかなる時でも一切の可能的な経験的意識(知覚)に関する統覚の必然的統一に基づいている、従ってまた――こうした統一が常にア・プリオリに根底に存するところから、時間における現象相互の関係に従うところの一切の現象の総合的統一に基づいている。

 こうした原則が考慮に入れるのは、現象の現実的存在および現象の現実的存在に関する現象相互の関係にすぎない。

 先に述べた二原則――直観の公理と知覚の先取的認識は、数学を現象に適用する機能をもっているので、数学的原則と名づけられた。これら原則は、現象の可能という点だけから現象を問題にし、現象がその直観と現象の知覚における実在的なものに関して、数学的総合に従ってどのように産出され得るか、ということを教えた。これら二原則は構成的原則と名づけられる。

 ところが、現象の現実的存在をア・プリオリに規則に従わせる原則ということになると、事情は全く異なる。現象の現実的存在は構成され得るものではないから、後の原則は統整的原理にすぎない。この場合、次のような事情が考慮されるだけである。我々にある知覚が他の知覚に対する時間関係において与えられている場合に我々がア・プリオリに言い得ることは、どうしてこの知覚が現にあるところの存在に関して、こうした時間的様態においてはじめの知覚と必然的に結びついているか、ということである。経験の類推は、それに従って経験の統一が知覚から生じるような規則であり、現象の対象に関する原則として構成的に妥当するのではなくて、全く統整的にのみ妥当する。

A 第一の類推

実体の常住不変性の原則
 現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない

証明

 全て現象は時間において存在する。同時的存在も継起も、基体としての時間(内的直観の不変な形式としての)においてのみ、表象せられるのである。それだから時間は、現象の一切の変易がそのなかで考えられなければならないものであるが、時間そのものは常住であって変易しない。時間はそれ自体だけでは知覚され得ないから、知覚の対象すなわち現象において、時間一般を表わすところの基体が見出されねばならない。一切の変易や同時的存在は、こうした基体に即して、この基体に対する現象の関係によって覚知され得るのである。現象の一切の時間関係は、常住不変なものとの関係においてのみ規定され得る。してみるとこの常住不変なものがすなわち現象における実体である。換言すれば、現象の一切の変易の基体として、現象において常に同一不変であるところの実在的なものである。してみるとこの実体は、現象の現実的存在において変易することがあり得ない。ゆえに、自然における実体の量は増すこともあり得なければ減ることもあり得ないのである。

 現象における多様なものの覚知は継時的で絶えず変易しているから、我々は覚知によるだけでは多様なものが経験の対象として同時的に存在しているのか前後的に継起しているのか規定することはできない。そのためには、常住不変なあるものが経験の根底に存しなければならない。一切の変易や同時的存在は、こうした常住不変なものの実際的のそれぞれの仕方(時間の様態)にほかならない。換言すれば、常住不変なものが時間そのものの経験的表象の基体なのである。常住不変性は、一切の現実的存在の恒常的な相関者としての、従ってまた一切の変易と一切の同時的存在との相関者としての時間を表現する。常住不変なものがないと、およそ時間関係は全く成立しない。現象における常住不変なものは、一切の時間規定の基体であり、それ故にまた知覚の一切の総合的統一を可能ならしめる――換言すれば経験を可能ならしめる条件でもある。時間における一切の現実的存在と一切の変易とは、それぞれこの常住不変なものの実際的存在の一様態と見なされ得るにすぎない。それだからおよそ現象においては、この常住不変なものが対象そのものであり、実体(現象的実体)である。変易する(変易し得る)一切のものは、この実体の実際的な存在の仕方である。

 こうした常住不変性の概念に基づいて、変化の概念も訂正される。生起と消滅とは起滅する当体の変化ではなく、変化は対象の実際的存在のひとつの仕方であり、この仕方が同じ対象の別の存在の仕方に相次いで起きるのである。つまり変化するところの当体は全て常住不変であり、その状態だけが変易するのである。

 それだから変化は、実体に即してのみ知覚される。生起あるいは消滅そのものは、常住不変なものの規定に関する限りにおいてのみ、可能的な知覚になり得るのである。変化は常住不変なものの変易的規定としてのみ、経験的に認識され得るのである。

 現象における実体は、一切の時間規定の基体をなしている。もしある実体は生起し、他の実体は消滅するということになったら、時間を経験的に統一するための唯一の条件そのものが滅却されてしまうだろう。実際には唯一の時間があるだけで、この時間において相異なる一切の時間が、同時的にでなく相次いで配置されなければならないのである。
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2017年09月05日

2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推(1/10)

目次
(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント
(2)カント『純粋理性批判』経験の類推
(3)カント『純粋理性批判』経験の類推
(4)カント『純粋理性批判』経験の類推
(5)カント『純粋理性批判』経験の類推
(6)改めての要約と論点の提示
(7)論点1:経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か。
(8)論点2:因果律に従う時間継起の原則とは何か。
(9)論点3:相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か。
(10)参加者の感想の紹介

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(1)報告者レジュメおよびそれに対しての他メンバーからのコメント

 我々京都弁証法認識論研究会は、今年および来年の2年間を費やして、カント『純粋理性批判』に取り組んでいくことにしています。これは、哲学の発展の歴史を、絶対精神という一つの主体の発展として描いたヘーゲル『哲学史』の学び(2015-2016年)を踏まえつつ、客観(世界)と主観(自己)との関係という問題について徹底的に突き詰めて考え抜いたカント『純粋理性批判』の学び(2017-2018年)を媒介にすることによって、全世界の論理的体系的把握を試みたヘーゲル『エンチュクロペディー』の学び(2019-2020年)に進んでいこうという計画に基づいたものです。

 8月例会では、『純粋理性批判』の先験的論理学の内、その「第一部 先験的分析論」「第二篇 原則の分析論」の途中を扱いました。具体的には、「第三節 純粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示」の中の「3 経験の類推」です。

 今回の例会報告では、まず例会で報告されたレジュメを紹介します。その後、扱った範囲の要約を4回に分けて掲載し、次いで、参加者から提起された論点について、どのように議論をしてどのような(一応の)結論に到達したのかを紹介していきます。最後に、この例会を受けての参加者の感想を掲載します。

 今回はまず、報告担当者から提示されたレジュメ、およびそのレジュメに対してなされた他メンバーからのコメントを紹介することにします。

 なお、この研究会では、篠田英雄訳の岩波文庫版を基本にしつつ、他の翻訳やドイツ語原文を適宜参照するようにしています(引用文のページ数は、特に断りがない限り、岩波文庫版のものです)。

カント『純粋理性批判』経験の類推
【1】経験の類推・実体の常住不変性の原則とは何か?
 カントは、経験の類推の原理が、「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である」というものであると述べている。経験においては、多様なものの現実的存在における関係は、時間において客観的に存在するものとして表象されねばならないが、時間における客観の存在は、ア・プリオリに結合するところの概念(時間一般における)によってのみ必然的に規定されうる、故に経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である、というのである。

 またカントは、第一の類推として、実体の常住不変性の原則を挙げ、これは「現象がどんなに変易しようとも実体は常住不変であり自然における実体の量は増えもしなければ減りもしない」というものだと述べている。すべて現象は時間において存在するのであり、時間一般を表すところの基体によって知覚される(時間そのものは知覚され得ない)のであるが、その基体とは常住不変な実体のことであり、現実的存在に属する一切のものは、それぞれの実体の規定としてのみ考えられるから、実体は現象の現実的存在において変易することがなく、故に自然における実体の量は、増すことも減ることもあり得ないというのである。

<報告者コメント>
 カントは「時間における関係は、同時性と継時性の2つだけである」(p.259)と述べている。第1の類推である「実体の常住不変性の原則」においてカントは、時間を表現する基準である常住不変なものとしての実体を説明し、それを基にして、第2、第3の原則では、時間の「継時性」と「同時性」の原則に関して説いていくことになるということであろう。

 ここでは、カントのいう「実体」とはどのようなものか、よく検討してみる必要があろう。純粋悟性概念の1つとして、カントは「実体」というカテゴリーを挙げているが、ここでの「実体」はカテゴリーとしての「実体」を意味しているのか、別の内容を表しているのか。ここでの「実体」は物自体の範疇に入るものか、現象の範疇に入るものか。「現象の現実的存在」という表現も使われているが、これとここでの「実体」という表現とは同じことなのか違うのか、違うとするとどう違うのか。

【2】因果律に従う時間的継起の原則とは何か?
 続いてカントは、第二の類推として、「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」という因果律に従う時間継起の原則を挙げている。これは、原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである。

 ここでカントは、ヒュームの因果律批判に反駁している。つまり、原因や結果という概念は、確かに経験から導き出されるものではないが、かといって客観的な対象にこうした必然的な因果関係がないということにもならない、それは原因や結果という純粋悟性概念によって認識が成立すると同時に、客観的な対象の因果関係も成立するからだ、というのである。

<報告者コメント>
 カントはこの部分で、「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」(p.33)という、形而上学におけるコペルニクス的転換を実証している。我々の認識が対象によって規定されるのではなくて、その逆だという発想を展開することで、ヒュームが乗り越えられなかった問題、すなわち因果律の客観的な必然性はどこにあるのかという問題を解決した(つもりになっている)。

 しかし、こうした考え方の結果、現象と物自体とを完全に分けてしまい、物自体は捉えようのないものだとする「物自体論」に陥ってしまったのである。唯物論の立場からすれば、物自体には性質があり、それを認識できるかどうかは物の性質とは関係がない。カントは、客観と主観との一致という問題を、客観を現象に限定することで解決しようとしたが、では現象の背後にある物自体とはどのようなものかという新たな問題を残してしまったのである。

【3】相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則とは何か?
 最後にカントは、第三の類推として、「およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている」という相互作用あるいは相互性の法則に従う同時的存在の原則を挙げている。2つの物が同時的に存在する(相互的に継起し得る)ということを知覚する根拠は客観に存在するというためには、相互性の関係、あるいは相互作用の関係というカテゴリーを必要とし、このカテゴリーを前提としてのみ、2つの物の同時的存在が認識され、また経験の対象を可能ならしめる、ということである。

<報告者コメント>
 ここでもカントは、2つ以上の物が同一の時間に存在することを、相互性の関係というカテゴリーによって認識するのだと説明している。これも「対象が、我々の直観能力の性質に従って規定される」ということの1つの実例であろう。

 唯物論の立場からすれば、人間の認識の能動性を取り上げ、その性質を明らかにしたという意味では、一定の評価ができるものの、やはり考え方が転倒しているといわざるを得ない。2つ以上の物が同時に存在するかどうかは、認識(の能動性)如何に関わりなく、客観的に規定されている事実である。認識が成立して初めて対象が成立するのではなくて、対象の成立が認識の成立の条件である、と考えるのが唯物論的な認識論の土台である。


 このレジュメに対して、いくつかの指摘がありました。1つは、第三の内容の報告者コメントに関するものです。「唯物論の立場からすれば」ということで書かれているものの、これだけでは「唯物論ではこう考えます」というだけであり、カントは納得しないだろうということでした。これについてはレジュメ報告者も納得していました。

 もう1つは、第二の内容に関するものです。「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」ということが「原因と結果というカテゴリーを現象に適用することによって、現象の変化を認識できるし、現象自体も変化するのだ、ということである」と言い換えられているが、果てしてこれでよいのかということをチューターが指摘しました。もう少し具体的に言うと、前者は客観的な世界について述べていて、主観のことには何も触れていないのに、それを言い換えた後者では「現象の変化を認識できるし・・・」と主観のことを書いていることに違和感を覚えるということでした。しかし、これは今回の例会で議論したい点として挙げていたことでもあったので、詳しくは論点の議論の中で扱うことになりました。
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2017年09月04日

現代日本の政治家の“失言”を問う(3/3)

(3)現代日本の政治家の言語の問題は、日本社会全体の危機を表している

 前回は、国会議員や、ましてや大臣クラスの政治家が、品性の欠片も感じられない暴言を吐いたり、行政の初歩の初歩であるような知識も持ち合わせていなかったりしたことを、具体的な発言を取り上げて論じたところまでであった。今回は、こうした誰が見ても“失言”だと分かる(低)レベルのものではなくて、“失言”かどうか、評価が分かれるようなものを取り上げて論じたい。

 まずは「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」という今村発言である。前々回も触れたように、この発言に関しては、「もし首都圏の近くで同じ規模の震災が起きたら、もっと大きな影響が出ただろう、ということを述べたにすぎず、問題視するほどの発言ではない」という見解もあるかもしれない。しかし、「言語は認識の表現である」という規定をしっかりとふまえれば、これは大きな問題なのである。

 そもそもこの発言の前には、東日本大震災の被害について、「25兆円」という数字が語られている。この発言後の弁明会見でも同様の数字に触れていることは前々回にも見たとおりである。しかしこの捉え方が問題なのである。被災者やその遺族からすれば、東日本大震災の被害は、自分自身が負傷したり恐怖を感じたりしたことであり、家族や家屋、仕事などの生活の基盤を失ったことである。このことは、東北で震災しようが首都圏で震災しようが同じことであって、どちらが「良かった」という問題ではない。この発言の前になされた「自主避難は本人の責任だ」という発言もふまえれば、今村のアタマの中には、東日本大震災の被害がお金でしか描かれておらず、現実に苦しんだり悲しんだりしながら避難生活を余儀なくされている被災者の思いは全く描かれていないということが分かるのである。こんな人物に、震災復興の仕事ができるはずがないのは明らかである。

 もう1つ検討しておかなければならないのが、「文書の存在は確認できなかった」という松野発言である。この発言はある意味、自分の認識を正確に表現しているといえる。どういうことかというと、文書が「存在しなかった」ということと、文書を「確認できなかった」ということとは全く別のことであり、そのことを明確に示しているからである。松野にしても、さすがに“嘘の答弁”はできないわけで、かといって「総理のご意向」などという文書が存在したと認めれば、政権にとっては大きな痛手となる。そこで「文書の存在は確認できなかった」という表現になるのである。これなら、省内の「共有ファイル・共有フォルダ」だけを調べ、「個人のファイル・フォルダ」を意図的に調査対象外とすれば、文書の存在を認めることなく“嘘の答弁”もせずに済むのである。予め省内に調査範囲を伝えておけば、頭の回転の速い職員が“忖度”して、件の文書ファイルを個人フォルダに移すことも可能である。

 しかし松野が浅はかだったのは、「文書の存在は確認できなかった」という調査報告を行えば、それで全て問題が解消すると考えたことであった。どれだけ追及されても、再調査はしない、の一点張りで切り抜けられる、「一強」の首相もこれを支持してくれる、だから大丈夫だと考えたのであろう。事実は松野の思いに反して、文部科学省の現役職員までもが文書の存在を認めたこともあり、再調査をせざるを得ない情況になって、遂には文書の存在を認めるほかなくなってしまったのであった。そもそもをいえば、「文書の存在は確認できなかった」などという表現をした時点で、「文書は存在する」ことを松野は認識していたといえるだろう。徹底した調査を行っても文書が見つからなかったということであれば、「文書は存在しなかった」と表現していたはずだからである。曖昧な表現の背後には、文書の存在を認める認識があったのである。

 では、以上見てきたような現代日本の政治家の“失言”は、一体何が問題だといえるだろうか。単に政治家個人の(資質の)問題だと結論すれば足りるような問題であろうか。もちろん、こうした政治家は、政治家の資質に欠けるという意味で、その政治家個人に大きな問題があることはいうまでもない。しかし問題は、そうした個人的な問題にとどまらないのである。

 まずいえることは、国会議員は「全国民を代表する」のであるから、全国民の代表の問題は全国民の問題だと捉えなければならないだろう。「どうせ国会議員はそんな奴らばかりだ」などと突き放して、評論家ぶっていても事態は改善しない。全国民が自らの問題として主体的に考えていかなければならない。国会議員を選挙するのは我々国民なのである。

 次に、「言語は認識の表現である」という規定をふまえれば、こうした“失言”問題は認識の問題であるということである。言語が歪んでいるのは認識が歪んでいるからだといえる。そしてその認識というものは、人間が生れてから成長していく過程において、他人の認識を受け取ったり、他人の認識に影響を与えたりして、人間が相互に創り合っているものである。昨年の相模原障害者施設殺傷事件が示しているように、犯人のいわゆる「優生思想」は、その犯人が自分一人で創り上げたものではなくて、同様の思想が社会に蔓延していることの1つの現われなのである。同じように、政治家の認識の歪みは、社会全体の認識の歪みの現象形態であるから、社会全体の認識の歪みの問題として、この問題は把握する必要があるということである。

 最後の問題は、言語をどのように捉えるかという問題である。現在主流を占めている考え方は、本稿で示したような「言語は認識の表現である」というものではなくて、言語は頭の中にある「心的辞書」であるというものである。これは頭の中に持っている「心的辞書」から言葉を選び出して、それを並び替えることで表現がなされているという考え方であり、「言語道具説」といわれる考え方である。詳細は本ブログに掲載した「現代の言語道具説批判」シリーズをお読みいただくとして、端的にいえば、「言語道具説」の考え方では、今村のように現実の対象を生き生きとした認識として頭の中に描きそれを言語で表現することができないし、また言語から表現者の認識を正確に追体験することもできないのである。言語の意味を一般的な意味に解消してしまうことで、言語の基となる認識が固定化され豊かさを失うとともに、言語に表れている多様な認識が辞書的な意味に矮小化されてしまうからである。こうなってしまえば、本稿で取り上げたような問題を問題として把握し追及していくことが不可能になってしまうという情況も生じないとは言い切れないだろう。

 このように、現代日本の政治家の言語の問題は、日本社会全体の危機を表している非常に大きな問題なのである。極端にいえば、科学的な言語学がなければ、日本の主体性を取り戻すことはできないし、日本全体を覆う認識の歪みも正せない、さらにいえば、豊かな言語、豊かな認識が日本から失われてしまうということにもなってしまいかねないのである。

 そうならないように、つまり国民が主体性を持って国家の問題に取り組んでいくことで、全うな日本社会を実現できるように、今後も研鑽を重ねて学問の力で貢献していく覚悟を述べて、本稿を終えることとする。

(了)
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2017年09月03日

現代日本の政治家の“失言”を問う(2/3)

(2)政治家の発言を具体的に分析してみると・・・

 本稿は、言語とは何かという根本的な規定から、現代日本の政治家の問題発言を取り上げることで、これらの政治家の“失言”の何が問題なのかを問うことを目的とした小論である。

 前回は、現代日本の政治家の“失言”を具体的に紹介した。今回は、これらの発言の内容を具体的に分析してみたいと思う。

 その前にまず、言語とは何かを確認しておきたい。言語は、人間とは無関係に存在しているものでは決してなくて、その表現者の認識を背負ったものである。簡単には、言語は認識の表現である、ということになる。「お腹が空いたなー」と言えば、その表現はその発言者の空腹感(認識)を表しているし、「こらっ!」と言えば、その表現はその発言者の怒りや注意の意識(認識)を表している。仕事で遅くなって帰宅したとき、台所のテーブルの上に、「いつも遅くまで仕事してくれてありがとう。がんばってね。」という子供の手紙が置いてあれば、これは子供の感謝の気持ち(認識)が表れているといえる。

 同じ言語(表現)でも、その表現者が描いている認識が異なることもある。「その机の上にあるのは、私が愛用している万年筆です」と言ったとすれば、この発言の中にある「万年筆」は、特定の個別の万年筆を表しているが、「うちが扱っている商品に万年筆なんてないよ」という場合は、万年筆という種類の筆記用具全般を表している。個別的な対象を表したり、種類という一般的な対象のあり方を表したりするのは、それぞれの表現者のアタマの中に描かれている認識が異なるからである。さらにいえば、前者の場合の「万年筆」には、単なる個別的な対象の認識のみならず、愛着という思い(認識)も表れているのに対して、後者の場合の「万年筆」には、ある種類の筆記用具という対象一般の認識のみならず、軽い軽蔑感(認識)も表れているといえるだろう。

 このように、言語を具体的に分析する際には、その言語に込められた表現者の認識をきちんと辿っていく必要があるのである。「言語は認識の表現である」という根本的な規定には、こうした意味合いがあるのである。

 さて、言語とは何かを簡単に確認したところで、前回挙げた事例を具体的に見ていくことにする。

 簡単なものから順次取り上げると、まずは豊田による「この、ハゲー!」という表現である。「言語は認識の表現である」という規定を忘れて、一般的な・辞書的な意味でこの表現を分析してしまうと、「近くにある、毛のない頭を指している」などという解釈にもなってしまいかねない。もちろんこの表現はそんな一般的な意味ではなくて、対象たる人物を侮蔑感を持って叱りつけるという激しい怒り(認識)が表現されているのである。ただ、表れているのはそれだけではないのである。「最も劣悪なもの」として前回引用した、ミュージカル調の表現にも端的に表れているように、これらの表現には豊田の品性というか人間性というか、そうした人間の本質的なものが表れているのである。政策秘書は、自分が犯したミスについて、豊田の評判を下げるためにわざとやったのではないということを、「そんなつもりではなかった」と表現したのであろう。それに対して豊田は、「つもり」、つまり意図してやったかどうかに関わらず、やったことの結果が重大な事態になり得る場合があることを説明しようとして、件の「ミュージカル」を歌ったのだろう。しかし同じことを説明するにしても、引用したような表現を使うというのは、あまりにも「劣悪」だといわざるを得ない。品性の欠片も感じられない。こんな表現をするような認識の持ち主が国会議員とは、と驚きを禁じ得ない。

 では、大臣クラスの人物の発言はどうであろうか。稲田の「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」という演説を取り上げてみよう。この発言の中で問題になるのは、特に「防衛省、自衛隊〜としてもお願いしたい」という部分である。一般的にいえば、組織のトップはその組織や組織の構成員を代表している。だから、例えばA社の社長が、「A社としてもお願いしたい」とか、「社員全員が一丸となって後押しします」などといっても、特段の問題はない。「それは社長の個人的な見解で、A社全体としてお願いしたわけではない」とか、「社長は後押しすると言っているが、個々の社員にそんなつもりはない」とかいった非難や反論は、通常の場合はないだろう。それが組織のトップということだからである。しかし稲田発言の場合はこの一般論が当てはまらない。それは日本国憲法第15条第2項で「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定められ、自衛隊法第61条で「隊員は、〜選挙権の行使を除くほか、〜政治的行為をしてはならない」とされているからである。つまり稲田発言は、豊田発言のように発言それ自体が直接問題なのではなくて、憲法や法律の規定を媒介とすることで問題となってくるものである、ということである。日本の憲法や法律は、そもそも国家機関が選挙運動をすることを想定していない。それをあたかも防衛省が組織ぐるみで特定候補者を支援しているかの表現をしている。これは憲法や法律も想定外の「お願い」としかいいようがない。個々の自衛隊員に関しても、「地方公共団体の議会の議員〜の選挙において、特定の候補者を支持し、又はこれに反対すること」(施行令第86条第1号)を目的とした選挙応援は禁止されている。これが「行政の中立性」であるが、こんな基本的な事柄も知らない(認識にない)人物が大臣である。

 基本的な事柄を知らないといえば、義家発言も同様である。義家は「副大臣が確認していない文書がどうして行政文書になるのか」と述べたのであるが、公文書等の管理に関する法律第2条第4項においては、「行政文書」の定義として、「行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書〜であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」をいう。職務として職員が作成した打ち合わせ記録(議事録)は、作成された段階で「行政文書」の性格を受け取るのであって、副大臣が確認したかどうかなど関係がない。義家は文部科学省が保有する「行政文書」は全て確認しているとでもいうのだろうか。義家は文部科学省行政文書管理規則第27条に定められている、「行政文書の管理を適正かつ効果的に行うために必要な知識及び技能を習得させ、又は向上させるために必要な研修」を受けておくべきだった。そうすれば、同規則第10条にも(というのは、こんなことは行政に関わる人間ならば常識なのだが)ご丁寧に掲げられている「文書主義の原則」(*)がどのようなものか、しっかりと分かった(認識できた)であろう。

(*)「文書主義の原則」とは、端的にいえば、事務処理は必ず文書を介して行うという原則のことである。意思決定の過程を明らかにし、責任の所在を明確にするために、行政機関では特に「文書主義の原則」が徹底されている。全ての事務処理が文書を介して行われるのが原則であるから、副大臣のような要職にある者が「確認していない」「行政文書」など、無数に存在することは明らかである。
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2017年09月02日

現代日本の政治家の“失言”を問う(1/3)

《目 次》(予定)

(1)現代日本の政治家の言語が崩壊している
(2)政治家の発言を具体的に分析してみると・・・
(3)現代日本の政治家の言語の問題は、日本社会全体の危機を表している


−−−−−−−−−−−−−−−

(1)現代日本の政治家の言語が崩壊している

 現代日本の政治情況を見るとき、法案や政策の内容以上に注目を集めているのは、政治家のいわゆる“失言”であるといえる。もちろん、共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法が言論の自由を脅かし監視社会を招く恐れがあることや、その成立過程における政府与党の強硬姿勢(強行採決)に多くの問題があること、また、いわゆる「残業代ゼロ」法案(労働基準法改定案)が過労死を助長し給料が削減される可能性を秘めていることなど、政治の中身自体が大きく問われていることは論を俟たない。しかし、それにも増して批判の的となっているのは、「全国民を代表する」(日本国憲法第43条)はずの国会議員の(それも多くの場合は閣僚の)問題発言である。

 今年に入ってからだけでも、様々な“失言”が飛び出している。これで日本は本当に大丈夫かと思いたくなるような情況である。それらを具体的に見てみよう。

 まずは東日本大震災についての発言である。今村雅弘復興大臣(当時)は、自民党の派閥のパーティーで、東日本大震災の被害に関し「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」と発言し、その後、記者団に対して「すみません、これはですね、東北でもあんなにひどい25兆円も毀損するような災害があったと。ましてやこれが首都圏に近い方だったら、もっととんでもない災害になっているだろうという意味で言いました」などと語った。

 次に、公務員の政治的中立性に関わる問題である。稲田朋美防衛大臣(当時)は、東京都議選の応援演説の中で「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」という趣旨の発言をし、その後、記者団から発言の真意を問われ、「(陸上自衛隊)練馬駐屯地も近いし、防衛省・自衛隊の活動にあたっては地元に理解、支援をいただいていることに感謝しているということを言った」と述べた。

 第3に、行政文書のあり方に関わってである。松野博一文部科学大臣(当時)は、「加計学園」の獣医学部新設をめぐり、「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと内閣府が文部科学省に早期開学を促したとされる文書の存在に関する問題について、「文書の存在は確認できなかった」とする調査結果を発表した。その後、「文部科学省と内閣府との打ち合わせは確認できない」とする答弁書を閣議決定し、義家弘介文部科学副大臣(当時)は、当初の調査では共有ファイル・共有フォルダしか調べていないが、個人のファイル・フォルダにも行政文書が含まれる可能性はあると指摘されたことに対して、「副大臣が確認していない文書がどうして行政文書になるのか」と発言した(この問題に関しては結局、世論に押されての再調査の結果、同じ内容か極めて似た文書が見つかったと文部科学省から発表された)。

 まだある。以上の発言は、公の場でなされたもので、発言者は勿論そのことを理解しながら発言している。だから、我を忘れたかの如く剥き出しの感情が現われている、というようなことはない。しかし、プライベートの空間では、そうとも言い切れないのである。具体的には、豊田真由子代議士による政策秘書(当時)への暴言(及び暴力)である。これは、政策秘書が運転中の車の中での豊田の発言を、秘かに録音しておいたものなどで、耳を覆いたくなるレベルである。「この、ハゲー!」、「あたしが違うって言ったら違うんだよ!」、「豊田真由子様に向かって、お前のやってることは違うと、言うわけ? あたしに?」、「これ以上私の評判を下げるな!」と言いたい放題である。最も劣悪なものは、引用するのも憚られるが、論の展開上、お示しするほかない。

そんなつもりじゃなくても~~~♫
お前の~~~♫
娘を轢き殺してそんなつもりはなかったんです~~~♫
って言われているのと同じ~~~♫
あーそうじゃしょがありません
そんなつもりなかったんじゃしょうがありませんね?~~~♫
(元政策秘書)の娘が顔がグシャグシャになって
頭がグシャグシャ 脳みそ飛び出て車に轢き殺されても
そんなつもりはなかったんです~~~♫
で済むと思っているなら同じ事を言い続けろ~~~♫
(♫という記号はミュージカル調に歌っていることを示している)

 どうだろうか。皆さんはこれらの発言についてどう考えるだろうか。稲田発言や豊田発言は論外としても、例えば、今村発言についてはどうだろう。この発言は、「もし首都圏の近くで同じ規模の震災が起きたら、もっと大きな影響が出ただろう、ということを述べたにすぎず、問題視するほどの発言ではない」という見解もあるだろう。松野の調査結果報告についても、「調査範囲には当該文書が見当たらなかったという事実を述べているもので、これのどこが問題なのか」と思われるかもしれない。しかしこれらも大きな問題を含んでいるのである。

 詳細は次回以降に譲るが、端的にいえば、これらの発言が問題だというのは、言語とは何かという根本的な規定から導き出される結論なのである。簡単に説けば、言語は認識の表現であるから、こうした発言は言語としてのみ考えてはならず、その言語の基となった認識をも合わせて考えていくべき問題なのである。

 そこで本稿では、こうした政治家の発言を言語とは何かを媒介とすることを通じて具体的に分析し、こうした政治家の発言は何が問題なのか、丁寧に説いていくこととしたい。
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 ・初任者に説く学級経営の基本
 ・カウンセリング上達過程における事例検討の意義
 ・文法家列伝:古代ギリシャ編
 ・ヒューム『政治論集』抄訳
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 ・言語過程説から言語学史を問う
 ・2013年10月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』「第4部 ゲルマンの世界」第2篇を読む
 ・戦後日本の学力論の流れを概観する
 ・一会員による『育児の生理学』の感想
 ・文法家列伝:古代ローマ・中世編
 ・2013年11月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』第4部 ゲルマンの世界 第3篇を読む
 ・古代ギリシャ経済の歴史を概観する
 ・2013年12月例会報告:ヘーゲル『歴史哲学』のまとめ
 ・ヘルバルト教育学の全体像を概観する
 ・年頭言:歴史を切り拓く学問の創出を目指して
 ・歴史的な岐路に立つ世界と日本を問う
 ・一会員による『綜合看護』2013年4号の感想
 ・一会員による2013年の振り返りと2014年の展望
 ・ヘーゲル『歴史哲学』を読む
 ・2014年1月例会報告:学問(哲学)の歴史の全体像について
 ・一会員による『学城』第10号の感想
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 ・新大学生へ説く「大学で何をどのように学んでいくべきか」
 ・2014年3月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第12〜14章
 ・三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』学習会を振り返る
 ・『育児の認識学』は三浦認識論をいかに発展させたか――一会員による『育児の認識学』の感想
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 ・4年目教師としての1年間を実践記録で振りかえる
 ・文法家列伝:『ポール・ロワイヤル文法』編
 ・2014年5月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第20〜26章
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 ・古代ギリシャの経済思想を問う
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 ・心理士が医学から学ぶこと――一会員による『医学教育 概論(1)』の感想
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 ・現代の言語道具説批判2――言語道具説とは何か
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 ・道徳教育の観点から見る中世の教育と教育思想
 ・もう一人の自分を育てる心理療法
 ・2014年8月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』第39〜40章
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 ・全てを強烈な目的意識に収斂させる――一会員による『医学教育概論の実践』の感想
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 ・精神障害の弁証法的分類へ向けた試み
 ・シュリーマン『古代への情熱』から何を学ぶか
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 ・年頭言:弁証法・認識論を武器に学問の新たな段階を切り開く
 ・「戦後70年」を迎える日本をどうみるか
 ・哲学の歴史の流れを概観する
 ・『ビリギャル』から何を学ぶべきか
 ・必要な事実を取り出すとは――一会員による『医学教育 概論(2)』の感想
 ・2015年1月例会報告:南郷継正「武道哲学講義X」
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 ・アダム・スミスは古代ギリシャ哲学史から何を学んだのか
 ・マインドフルネスを認識論的に説く
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 ・心理職の国家資格化を問う
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 ・文法家列伝:時枝誠記編
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 ・夏目漱石を読むB――三四郎、それから、門
 ・臨床心理学のあるべき姿を考える――一会員による『医学教育 概論(4)』の感想
 ・アダム・スミス「模倣芸術論」を読む
 ・デューイの教育論の歴史的な意義を問う―『学校と社会』を通して
 ・2015年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ギリシア哲学史の序論、イオニア派の哲学、ピュタゴラスとピュタゴラス派
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 ・一会員による『学城』第12号の感想
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 ・事実と論理ののぼりおり――一会員による『医学教育 概論(5)』の感想
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 ・フロイト『精神分析入門』を読む(上)
 ・デューイ教育論の歴史的意義を問う―『民主主義と教育』をとおして
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 ・庄司和晃追悼論文―庄司和晃の歩みはいかなるもので、何を成し遂げたか
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』第1部第4章の要約
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 ・夏目漱石を読むD――道草、明暗
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 ・ナイチンゲール看護論を心理臨床に活かす――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(1)』の感想
 ・文法家列伝:時枝誠記編(補論)
 ・英語教育改革を問う―『英語化は愚民化』書評―
 ・2015年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレスの形而上学,自然哲学
 ・2年間の育児を振り返る
 ・2015年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』アリストテレス(精神の哲学・論理学)
 ・年頭言:歴史的岐路における道標としての学問の創出を目指して
 ・安保法制をめぐる議論から日本の課題を問う
 ・図式化にはどのような効用があるのか
 ・看護師と臨床心理士に共通した学び方――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(2)』の感想
 ・2016年1月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ストア派の哲学、エピクロスの哲学
 ・ケネー『経済表』を読む
 ・SSTを技化の論理で説く
 ・一会員による『学城』第13号の感想
 ・2016年2月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新アカデメイア派、スケプシス派
 ・心理士教育はいかにあるべきか――一会員による『医学教育 概論(6)』の感想
 ・仮説実験授業を問う―アクティブ・ラーニングの観点から―
 ・一会員による『学城』第3号の感想
 ・新大学生に与える
 ・2016年3月例会報告:ヘーゲル『哲学史』新プラトン派
 ・6年目教師としての1年間を実践記録で振り返る―学級崩壊への過程を説く
 ・2016年4月例会報告:ヘーゲル『哲学史』中世哲学序論〜スコラ哲学
 ・専門家のあり方を問う――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(3)』の感想
 ・比較言語学誕生の歴史的必然性を問う
 ・『吉本隆明の経済学』を読む
 ・2016年5月例会報告:ヘーゲル『哲学史』学問の復興
 ・ブリーフセラピーを認識論的に説く
 ・夏目漱石の思想を問う
 ・コメニウスの歴史的意義を問う―『大教授学』をとおして
 ・オバマ米大統領の「広島演説」を問う
 ・2016年6月例会報告:ヘーゲル『哲学史』近代哲学の黎明
 ・心理士の上達に必須の条件――一会員による『初学者のための『看護覚え書』(4)』の感想
 ・夏目漱石の中・長編小説を読む
 ・2016年7月例会報告:ヘーゲル『哲学史』デカルト・スピノザ
 ・改訂版・観念的二重化への道
 ・ロックの教育論から何を学ぶべきか
 ・文法家列伝:ソシュール編
 ・2016年8月例会報告:ヘーゲル『哲学史』「悟性形而上学」第二部・第三部
 ・どうすれば科学的な実践が可能となるか――一会員による『科学的な看護実践とは何か(上)』の感想
 ・夏目漱石『明暗』の構造と結末を問う
 ・ルソーの教育論の歴史的意義を問う
 ・2016年9月例会報告:ヘーゲル『哲学史』バークリー〜ドイツの啓蒙思潮
 ・高校生に説く立憲主義の歴史
 ・三浦つとむ『認識と言語の理論』を読む
 ・2016年10月例会報告:ヘーゲル『哲学史』ヤコービ、カント
 ・専門家教育には何が必要か――一会員による『科学的な看護実践とは何か(下)』の感想
 ・アダム・スミス『国富論』を読む
 ・2016年11月例会報告:ヘーゲル『哲学史』フィヒテ,シェリング,結語
 ・3年間の育児を振り返る
 ・近代教育学の成立過程を概観する
 ・2016年12月例会報告:ヘーゲル『哲学史』のまとめ
 ・年頭言:機関誌の発刊を目指して
 ・激動する世界情勢を問う
 ・『障害児教育の方法論を問う』から何を学ぶべきか―一会員による感想
 ・一会員による『学城』第4号の感想
 ・2017年1月例会報告:シュヴェーグラー『西洋哲学史』、ヘーゲル『哲学史』におけるカント『純粋理性批判』
 ・斎藤公子の保育実践とその背景を問う
 ・認識の形成がうまくいくための条件とは何か?――一会員による『“夢”講義(1)』の感想
 ・本来の科学的な教育とは何か
 ・2017年2月例会報告:カント『純粋理性批判』序文
 ・システムズアプローチを弁証法から説く
 ・一会員による『学城』第14号の感想
 ・ルソー『学問芸術論』を読む
 ・新大学生に説く「大学では何を如何に学ぶべきか」
 ・2017年3月例会報告:カント『純粋理性批判』緒言
 ・斉藤喜博から何を学ぶべきか
 ・重層弁証法を学ぶ――一会員による『“夢”講義(2)』の感想
 ・小中一貫教育を問う
 ・ヘーゲル『哲学史』を読む
 ・2017年4月例会報告: カント『純粋理性批判』先験的感性論
 ・文法家列伝:宮下眞二編
 ・改訂版 心理療法における外在化の意義を問う
 ・マルクス思想の原点を問う
 ・2017年5月例会報告:カント『純粋理性批判』先験的論理学の構想その他
 ・弁証法が技化した頭脳活動を味わう――一会員による『“夢”講義(3)』の感想
 ・教育の政治的中立性を問う
 ・日本経済の歴史を概観する
 ・2017年6月例会報告:カント『純粋理性批判』純粋悟性概念の演繹
 ・一会員による『学城』第15号の感想
 ・改訂版 続・心理療法における外在化の意義を問う
 ・2017年7月例会報告:カント『純粋理性批判』原則の分析論 緒言〜第2章第3節2
 ・ルソー『人間不平等起原論』の歴史的意義を問う
 ・夢の解明に必須の学問を学ぶ――一会員による『“夢”講義(4)』の感想
 ・ヒュームの経済思想――『政治論集』を読む
 ・現代日本の政治家の“失言”を問う
 ・2017年8月例会報告:カント『純粋理性批判』経験の類推
 ・障害児の子育ての1年間を振り返る
 ・新しい国家資格・公認心理師を問う